はやし浩司

最前線の育児論(701〜800)
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はやし浩司
最前線の育児論(700〜750)

最前線の子育て論byはやし浩司(700)

●マラソン選手

 マラソン選手のTN子と、監督のX氏が、今度、別離宣言をした。TN子は、「今後は、(監督か
ら)独立して、イバラの道を歩きます」(テレビ報道)と言った。

 何があったのだろうか? だいたいにおいて、こうした別離宣言そのものが、おかしい。別れ
るなら、だまって別れればよい。監督のほうが、だ。

 こうした経験は、教育の場でも、よく経験する。いくら私の生徒が、私の指導によって、すばら
しい子どもに成長したとしても、それでもって、教師は、生徒に恩を売るようなことはない。ほと
んどのケースでは、「よかったね」で終わる。それで別れる。

 しかしTN子と監督の関係は、どこか特別な感じがした。スターは、TN子だったはずなのに、
何かにつけて、監督のX氏が表に出てきた。私はその場面を見るたびに、「?」と思った。

 「マラソンの世界では、そういうものかなあ?」と思ったり、「監督にすれば、TN子がすべてな
のかなあ?」と思ったりした。

 内情はよくわからない。テレビ画面で見るかぎり、2人ともニコニコと笑っていた。しかし考え
てみれば、それもおかしい。不自然(?)。最初から、そういうふうにしようと、まるで話しあわれ
ていたみたい(?)。

 オリンピックなどで活躍したあと、TN子は、不調がつづいたりした。それについても、監督と
の不仲説も流れたことがある。で、今回の、別離宣言。

 私には、どうでもよい話だが、どうも、しっくりこない。いろいろ勘ぐりたくもなるが、この話は、
ここまで。

TN子さん、応援するよ! 監督のX氏ではなく、あなたを、ね。


●中国の反日運動

 やはり、ウラがあった。

 中国で起きた反日運動は、「反日」にかこつけた、民主化闘争だった。そんな疑いが、ますま
す濃厚になってきた。(私の予想どおりだったぞ!)

 中国のK首席は、そうした反日運動に参加した運動家らを、処分し始めた。新聞に載った月
刊誌(月刊・B誌)の見出しでは、すでに130人近くが、処刑されているという。(まだ記事その
ものは、読んでいないので、これからその雑誌を購入して、内容を確かめるつもり。)

 ただ単なる反日運動なら、運動家を処分する必要はないはず。やはり中国政府は、今回の
一連の反日運動の中に、国家の転覆(てんぷく)にもつながりかねない、何かを感じ取ったの
だろう。

 この話をワイフにすると、ワイフも、「中国って、恐ろしい国ね」と。

 だからこそ、あれだけの巨大な国をまとめることができるという説もある。もし中国政府が、
国内の民主化運動を認めたら、中国という国は、バラバラになってしまう。

で、私たち日本人は、そういうことが平気でできる巨大な国が、すぐそばにあることを忘れては
ならない。もっとも、日本も似たようなもの。中国共産党というのは、日本では、官僚主義体制
をいう。その官僚たちが、自分たちのいいように、この日本や日本人を操っている。

 それについて、ワイフが、こう言った。

「どうして、日本では、民主化運動が起きないのかしら?」と。

 そこが日本人の特質というか、民族性。

 お上の不正を見せつけられても、「おかしいから正そう」と考える前に、「あわよくば、自分も
その恩恵にあやかりたい」と思う。「せめて、自分の息子や娘だけは、官僚に」と考える。親戚
や家族の中には、そうした恩恵を受けている人が、1人や2人は、必ず、いる。だからどうして
も、口が重くなってしまう。

 中国政府のような露骨な弾圧こそしないが、現に今、官僚にたてついたら、この日本では、
仕事そのものが、できない。そういうしくみが、すでにできあがってしまっている。だからあの社
会H庁の例を見るまでもなく、官僚たちは、まさにやりたい放題。

 つぎからつぎへと新手を考えて、ズルイことをしているから、不正を追及する手がおよばな
い。

+++++++++++++++

 あのね、民主主義というのはね、何か問題が起きる前に、(あとではない! 前に!)、民衆
が声をあげるようなシステムをいうのですよ。何か、問題が起きてから、お上に責任を追及す
るのは、民主主義ではありませんよ。

 今度の脱線事故だってそうです。乗客たちはみな、「恐ろしい運転だった」「いつもよりスピー
ドが速かった」「列車が横に揺れた」と言った。だったら、なぜ、その場で、みなで、声をあげな
かったのか。あげられなかったのか。

 つまり、そこに意識のちがいがあるわけです。何か、事故が起きるまでは、すべてお上任せ。
事故が起きると、「お上が悪い」「お上が悪い」と、いっせいに声をあげる。そしてそれを受け
て、お上は、ますます規制や管理を強化する。

 今度も、お上は、「運転手資格については、国家試験とする」「全国のレールには、ATSをす
べて設置する」などと言い出した。

 それが悪いわけではないが、こうしてますます私たちの世界は、息苦しくなっていく。

 大切なのは、私たち1人ひとりが、もっと自分で考える人間になって、私たち自身が声をあげ
ること。今回も、事故が起きてから、JR西日本の内部規定が問題になった。そこには、「利益
が、安全より優先」とあった。

ではなぜ、その前から、みなが、「おかしい」と、声をあげることができなかったのかということに
なる。さらに事故が起きたあとも、JR西日本の職員たちは、ビールを飲んで、宴会までしてい
たという。

 まさにノーブレインの連中ばかり。ほんの少しでも、自分で静かに考えることができる人間だ
ったら、とても、そんなことはできなかったはず。

 私の印象では、日本人ほど、自ら考える習慣のない民族は、いないのではないかと思う。上
から下まで、ゼーンブ! まったく、考えない。考えることそのものから、逃げてしまう。中には、
考えることを、悪と決めてかかる人もいる。

 ついでだから言っておきますが、バラエティ番組でするような、「知能サプリ」などのようなもの
は、考えることとは、無縁ですよ。パズルのような問題を解くのを考えるから、「考える」というこ
とにはならないのですよ。

 考えるということは、論理に論理を積み重ねて、自分なりの結論を、導くことを言いますよ。そ
れには、たいへんな苦痛がともなう。

 民主主義の大前提。それはそこに自ら考える人間がいること。お上の言いなりに動くようで
は、民主主義は、いつまでたっても達成できない。

 そういう意味では、中国の民衆のほうが、よっぽどよく、ものを考えている。ホント!

【追記】

 さっそく書店で、「文藝S誌(月刊誌)」を買ってくる。

 読む。

 ところで最近、このS誌、あまりおもしろくない。権威主義的というか、権威者ばかりをそろえ
て、雑誌を構成している。ますます庶民性が、消えてきた。編集長にせよ、編集部員にせよ、
ただの社員なのだろうに……。

 「B誌の編集部です」と電話すれば、その電話一本で、こうしたエラーイ権威者たちを、電話
口に呼び出すことができる。原稿の依頼ができる。

 しかしそれは「文藝S誌」という看板を背負っているから、できるだけ。それがわかるのは、自
分たちが定年か何かで、退職したとき。退職したとたん、だれにも相手にされなくなる。

 「しかし今は、わからないだろうな……。若い編集部員ほど、有頂天になりやすい」と思いつ
つ、目的のページを読む。

 記事によれば、中国の浙江省の東洋市というところで、工場閉鎖であぶれた労働者たちが、
工場を占拠したという。

 その占拠が1か月以上つづいた。そこで中国政府は、治安に乗り出したが、そのとき公安の
車が、労働者1人をひき殺してしまった。それが発端となり、労働者が暴動を起こし、中国当局
と衝突。

 労働者たちは、町にくり出した。そのとき、「工場外の不満分子」(同誌)を吸収し、その数は、
5万3000人近くにまで、ふくれあがったという。

 そこで中国当局の治安部隊と衝突。結果、137人の中国人労働者たちが、殺されたという
(以上、「反政府暴動、137人が殺された」・富坂聡)。今年の4月8日のことだったという。

 そのとき、暴動を起こした労働者たちは、「起義(革命)」という言葉を口にしたという。つまり
中国政府は、一連の反日運動が、中国の民衆化運動、しいては、中国政府の打倒に結びつく
ことを恐れた。

 5月に入って、中国政府は、反日運動を、きびしく取り締まっている。当初は、政府と暴徒と
は、どこか馴れあっていた。日本の大使館が攻撃されたときも、それを取り締まる警官も、ニ
ヤニヤと笑っていた。が、それが一転。取り締まりが強化されたのは、反日に名を借りた反政
府暴動を、中国政府当局が、警戒したためである。

 しかし中国の民衆化運動は、猛烈な拝金主義とともに、もうだれにも止めることはできない。
それが世界の流れであり、うねりなのだ。

++++++++++++++++++++++

【石原S氏の「北京5輪をボイコットせよー緊急提言」を読んで】

 文藝S誌には、東京都知事の石原S氏の緊急提言を、掲載している。いわく、「北京5輪をボ
イコットせよ」と。

 冒頭から、先般の反日デモをとりあげ、「あの抗議行動は、"官製デモ"と言って間違いない
だろう」(94P)と断言している。

 つぎに気になったのは、例によって、例のごとく、「日本軍は、南京では、30万人も殺してい
ない」という説。

 そのまま引用する。

 「かつて私は、南京陥落直後に報道班員として、現地入りをした大宅荘一と石川達三氏に当
時の様子を聞いたことがある。二人の話は、『たしかに死体はあったが、数からいっても大虐
殺といわれるほどのことはなかった』という点では一致していました。……当時現地にいた、ニ
ューヨークタイムズのダーディン記者に、在ワシントンの古森記者が、長いインタビューをしてい
たが、ダーディンも当時の南京の人口は、蒋介石軍の乱暴を怖れた市民が逃げだして、20万
人もいなかった。それが30万人も殺したというのは、おかしな話です、と言っている」(同誌、9
7P)。

 さらに「首相のY神社参拝は、当然。私がK首相なら、当然ながら今年も参拝します」(98
P)。「お国のために戦った死者に、哀悼の意を表するのは(当然)」とか、「尖閣諸島に自衛隊
を常駐させろ」とつづき、最後は、「北京5輪を、ボイコットせよ」と。

 南京虐殺事件については、私も調べてみた。

●南京虐殺事件

 日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12〜15日。当時のK内閣は、南京攻略に
対して、三光作戦を展開していた。

 三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。

 その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・スノー
「アジアの戦争」)。その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人以上、また南京
への進撃途中で、30万人以上が、日本軍に殺されたという。

 うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。

 どうやら、このあたりが、最大公約数的な事実のようである。

 で、ここで注意しなければならないのは、日本側は「南京では、30万人も殺していない」と主
張しているのに対して、スノーは、「日本軍は南京に向って、南京を攻略する過程で、30万人
殺している」「南京では、4万2000人」と書いている点である。

 ここに時間的錯誤がある。また、「三光作戦」というのは、現存したし、それに基づいて、日本
軍は、中国人(中国軍ではなく、中国人)を、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくした)というのは、
動かしがたい事実である。

 これに対して、こんな記事(04年11月)を書いたことがある。改めて、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

10年ほど前のことだが、こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。

 「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日本軍が
南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。

 そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。どうしてそ
のとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。

 あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。「あんたは、それでも、日本人
か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。

 もちろん南京虐殺事件だけではない。中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、シンガ
ポール)でも、日本軍は同じようなことをしている。しかし日本は、一度だって、アジアの人たち
に向って、その戦争責任を認めたことはない。ナーナーですませてしまった。

 戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。天皇を最高権威として、
つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これは、まことに、まずい。

 が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。

 あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大な軍事
力をもつ、K国である。

 そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日本人
を、容赦なく処罰した。三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺された。(3万人
でもよい。)そのほとんどが、婦人や子どもたちである。

 ……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。「日本
人が、どうして日本を悪く言うのか」と。

 しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。わかりや
すく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなことを繰りかえしなが
ら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは! そんな詭弁(きべん)が、はたして、世界で通る
のだろうか。(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)

 だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社に、A級戦犯として、祭られている。に
もかかわらず、一度も、Y神社を参詣していない。むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、
うらんでいる! それを「不戦の誓い」とは……!? むしろ、K首相の行為は、中国人や韓国
人の逆鱗に触れ、戦争の火種にすら、なりかねない。

 日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。「日本が、道路や鉄道を敷い
てやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、中国や韓国は発展したではな
いか」と。

 しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のことをされて
も、文句を言わないことだ。あの中国にしても、5500年の歴史がある。韓国にしても、2000
年以上の歴史がある。

 私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。そ
の漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。文化の優位性ということを言うなら、日
本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのである。

 ……私は、今、かなり過激な意見を書いている。自分でも、それがよくわかっている。

 しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。

 もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、日中
関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうということ。
いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦争の火種」にす
ら、なりかねない。K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。

韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気になる
な」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。

つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。

 日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。「私には関係ない」
ではすまされない。

 最後に一言。K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。だっ
たら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。たしかに3
00万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。

 それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。しかも、日
本の外で!

 先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教
科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。が、日本で
は、それを知る人すら、少ない。

 それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。私は、もう知らな
い! 知ったことではない! 

 ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧H派
への1億円の小切手が渡された。だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記憶にな
いが、事実なんだろう」(041130)と逃げてしまった。

 そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。いざ、戦争ともなれ
ば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃げてしまう。H元首
相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。

そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかしい。本当
に、おかしい。
(04年12月1日記)

(補記)

 しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか? 「もう、考えるのも、いやになっ
た」という思いすら、ある。

 何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。だいたいにおいて、「不戦
の誓い」とは、何か? 相手を怒らせ、敵意をかきたてるようなことをしながら、「不戦の誓い」
とは? 私には、K首相が、まったく、理解できない。

(補記)

 日本S医師会(日歯)側から自民党旧H派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反
(不記載)の罪に問われた同派政治団体「HS研究会」(平成研)の元会計責任者・TT被告(5
5)の判決が12月3日、東京地裁であった(04年)。OD裁判長は禁固10月、執行猶予4年
(求刑・禁固10月)を言い渡した。

++++++++++++++++++++

 話を石原S氏にもどす。

 石原氏は、「なぜ中国の教科書に、文革の記述がないのか」と、中国を批判している。「(文
革で)2000万人の同胞を殺した記述がないのは、おかしい」(97P)と。

 しかしそれこそ、いらぬお節介。つまり石原氏は、中国だって、国内でひどいことをしているで
はないか。だったら、日本軍がしたことなど、問題にするなと言いたいのだろう。あるいは、日
本人が、日本の教科書に何を書こうが、日本人の自由だ、と。

 そして結論的に、「日本には経済力がある。中国など、問題ではない」という趣旨の文章がつ
づく。

 また「尖閣諸島に自衛隊を常駐させろ」と説き、もし中国軍が攻撃してきたら、日米安保条約
が発動されて、アメリカ軍が応戦してくれるなどと、説く。「尖閣諸島は、日米同盟の試金石にな
る」とも。

 きわめて自己中心的な国家論である。平和論である。忘れてならないのは、古今東西、「戦
争」というのは、こうした政治家によって始められているということ。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である。

●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利他」を
比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかに
すれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平
和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終
わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植
民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの
無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露
戦争を特集していた。その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシ
ア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話
は、いっさい、出てこなかった。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災
難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろう
か」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十
万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに
「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いったい、どこからく
るのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと
思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そう
いう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日
本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わない
ことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点という
ことになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもな
い。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そし
て何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をす
べきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和と
いうか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがって
いる。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私
たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つ
ぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。

++++++++++++++++++

【母親のみなさんへ……】

 勇ましい好戦論にだまされてはいけない。振り回されてはいけない。それがわからなければ、
あなたの子どもが、戦場に行く姿を想像してみればよい。あなたは子どもの安否が心配で、夜
も眠られなくなるだろう。

 で、石原氏は、「日本の尖閣諸島が中国に攻撃されたら、日米安保条約は発動されるべき。
アメリカは、当然、中国に反撃すべき」という論法で記事を書いたのち、こうつづけている。

 「ニューヨークタイムズの記者が、当時のモンデール駐日米国大使に、『尖閣諸島で、扮装が
さらにエスカレートしたら、日米安保条約は発動するのか』と質問したところ、大使は、言下に、
『NO』と答えた。

 国会議員を辞職したばかりの私は、(この言葉に)、驚きと同時に怒りを感じましたが、なぜ
か日本政府も、国会も、それを問題としなかった」(99P)と。

 ならばあえて言おう。

 私の息子の嫁は、アメリカ人。孫もアメリカ人。今度生まれてくる二人目の孫も、アメリカ人。

 その孫たちが、日本の尖閣諸島を守るために、極東のアジアへやってきて、中国軍と一戦を
交えると言ったら、私は、こう言うだろう。

 「来なくていい。来るな。こんなところで、命を落すことはない。ぼくたちで、何とかするから」
と。

 石原氏の論文には、そういう原点的なものの視点が、欠けている。記事の中には、「お国の
ために……」という表現すら、ある。私たち1人ひとりの命を、まるで、モノのように考えている
感じすら覚える。

 ……と書いても、私のような意見は、この日本では、少数派。たいていの人は、石原S氏のよ
うな人の意見に耳を傾け、それに同調する。しかし念のために申し添えるが、私は、だからと
いって、左翼ではない。もちろん社会主義者でも、共産主義者でもない。ただおかしいものは、
「おかしい」と言っているにすぎない。

 あとの判断は、読者のみなさんに任せる。みなが、それでよいというのなら、それでよい。私
も、それに従う。
 
(追記)

【国家としての威信】

●国って、何?

 あのK国を見ていると、「国って、何んだろう?」と、よく考えさせられる。
 国家経済は、崩壊し、食料も燃料もない。しかし国の為政者たちは、ことあるごとに愛国を訴
え、国としての威信(プライド)を訴える。

 核兵器をもつのも、その理由の一つだという。

 もしK国に、その威信とやらがあるなら、その威信は、もう、ズタズタ。ボロボロ。つい先日
は、中国に肥料の支援を求めて、その中国に断られている※。いったい、彼らは、彼らの何を
守ろうとしているのか。

 同じように、東京都のI知事は、「尖閣諸島に自衛隊を常駐させろ」(「文藝S誌・6月号」と訴
える。そのI氏も、同じような言葉を使う。「国家として、き然とした態度を示すべき」(95P)と。

 しかしここは、冷静に考えてみようではないか。

 もし尖閣諸島に自衛隊を常駐させれば、そのまま中国との間に、戦争が起こるかもしれな
い。が、I氏は、こう説く。「日米安保条約がある」「日米関係を試す試金石になる」(同誌)と。

 それがわかっているなら、なおさら、自衛隊など、常駐させてはいけない。たかが無人の島で
はないか。そんな島を取りあって戦争をすることの愚かさ。人の命を奪いあうことの愚かさ。も
うそろそろ日本人も、(そして中国人も)、それに気づくべきときにきているのではないだろう
か。

 日本側に言い分があるなら、ただひたすら事務的に、ただひたすら紳士的に、国際社会に訴
えていけばよい。あまり力はないが、国際裁判所という制度も、あるには、ある。

 韓国との間にある、竹島についても、同じ。

 もともと無人島。昔から、いろいろな国の人が、自由に使っていた。日本のものでもないし、
韓国のものでもない。どうしてそういう視点から、もっとおおらかに話しあいができないのだろう
か。

 都会ではそうはいかないかもしれないが、私の山荘のある農村の人たちは、実にのどか。そ
のつど、境界が1、2メートル移動するなどということは、日常茶飯事。大雨が降って、ガケ(ボ
タ山)が崩れるたびに、境界が移動する。

 しかしだれも文句を言わない。けんかもしない。とくに山については、今でも「入会権」が生き
ている。入会権というのは、だれでも自由に、山に入って、焚き木を取ったり、山草を取ったり
することができるという権利である。

 尖閣諸島や竹島についても、同じように考えることはできないのだろうか。

 I氏は、「それでは国家の威信は守れない」というようなことを書いている。しかし「威信」のこと
を言うなら、戦時中、朝鮮や中国へ出兵し、彼らの威信をズタズタにしたのは、ほかならぬ、こ
の日本である。小さな島どころではない。朝鮮半島や、中国大陸でさえ、「日本のもの」と、日
本は主張した。

 そのことを思うなら、今ごろ、とても恥ずかしくて、「尖閣諸島は日本のもの」「竹島は日本のも
の」とは、言えない。(言うべきことは、言わなければならないが……。またこう書くからといっ
て、尖閣諸島や竹島を、中国や韓国に渡せということではない。誤解のないように!)

 さらにI氏は、Y神社参拝について、「お国のために……」という言葉を使っている。しかし本当
にそうだろうか。戦争で死んでいった人たちは、本当に、国のために、死んでいったのだろう
か。

 私は、そうではないと思う。「上」からの命令に逆らうこともできず、むしろI氏が言うところの
「お国」のために、犠牲になって死んでいったのではないのだろうか。

 当時、日本という国が、民主主義国家であったとするなら、戦争も、また国民総意のもとで行
われたということになる。しかし戦前の日本に、はたしてその民主主義があったのだろうか。も
し、それがわからなければ、今のK国を見れば、わかる。

 今のK国は、皮肉なことに、戦前の日本以上に、日本的な国である。

 当時の日本でも、政府を批判することすら、許されなかった。戦争に異義を唱えただけで、投
獄。ばあいによっては、処刑された。そういう中での戦争である。

 が、むしろ当時の政府(わかりやすく言えば軍部独裁の官僚国家)は、自分たちの責任を逃
れるために、「一億総懺悔(ざんげ)」という言葉を生み出した。国民に戦争責任を押しつけ、自
分たちは、逃げてしまった。

 こうした見解の相違は、結局は、「国があるから、国民がいる」と考えるのか、反対に、「国民
がいるから、国がある」と考えるかのちがいによる。

 当然のことながら、この日本では、奈良時代の昔から、「国があるから、国民がいる」と考え
る。つまり「民」というのは、そのときどきの為政者の「財産(モノ)」でしかなかった。しかしそう
いう意識が残っているかぎり、いつまでたっても、日本に民主主義など、根づかない。

 私の個人的な印象では、I氏は、ますます右傾化してきたと思う。そうしたI氏を批判して、数年
前、アメリカのCNNは、「日本人にワレワレ意識がある間は、日本は世界のリーダーにはなれ
ない」と報道した。「ワレワレ意識」というのは、いわゆる島国根性をいう。排他的な民族主義を
いう。

 悲しいかな、今のままでは、日本という国は、世界からみて、いつまでも、「異質な国」のまま
で終わってしまう。

※注…… 北朝鮮が最近(05年5月)、中国側に肥料40万トンの支援を要請したが、中国が
日増しにこじれる北朝鮮核問題などを考慮、事実上拒否したと伝えられた(朝鮮N報)。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(701)

●ラジコン

 ラジコン(飛行機)の思いでは、多い。若いころから、定期的に買ってきては、飛ばした。しか
し満足に飛んだためしがない。

 たいてい、1、2度飛ばしただけで、墜落。私にとっては、ラジコンというのは、そういうもの。
それで満足していた。

 で、今も、年に1、2回は、新しい飛行機を買ってきて、飛ばす。もっとも最近は、息子たちに
操縦してもらうことが多い。腕前は、そこそこ。私より、ヘタかもしれない。しかしそれでも、満
足。

 飛行機が飛びあがった、その瞬間にすべてをかける。それでよい。それで満足。

 しかし、だ。どういうわけか、今度のヘリコプターだけは、ほどほどによく飛ぶ。プロペラは、も
う何度も破損したが、そのたびに新品と交換する。で、そのあとも、一応、ちゃんと飛ぶ。

 こんなことは、生まれてはじめてだ。ワイフに、「おい、ちゃんと飛んでいるよ」と声をかける
と、「あなたにしてみれば、はじめてね」と。

 そんなわけで、このところ、ヘリコプターにこっている。今日も、これから模型屋へ行って、部
品を買い集めてくるつもり。

 (ピニオンギアが、摩滅(まめつ)して、うまくかみあわない。モーターが、調子が悪い。コクピ
ットが、すぐはずれる。)


●依存性の強い子ども

 依存性の強い子どもというのは、いる。独特の話し方をする。たとえば、何かの勉強を指示し
たとする。

子「どこをやるのですか?」
私「この問題をしてみたら……?」
子「ノートにやるのですか?」
私「直接、プリントに考え方を書いてもいいよ」

子「式も書くのですか?」
私「式を書いてもいいし、計算を書いていいよ」
子「ていねいに書くのですか?」
私「ていねいに書いてもいいし、君のしたいように書けばいいよ」

子「どこまでやるのですか?」
私「まず、その1問をすればいい」
子「これが終わったら、つぎは、どうするのですか?」
私「また、そのとき、考えればいい」と。

 こういう会話が、繰りかえし、いつまでもつづく。そしてこうしたクセ(?)が、一度、小学校の低
学年児までについてしまうと、以後、そのクセ(?)がなおるということはない。ずっと、つづく。
中学生になってからも、つづく。

 このタイプの子どもは、勉強が苦手な子どもが多い。しかし中には、それでいて、勉強がよく
できる子どもも、いる。依存性があるから、勉強ができないということもないようだ。

 原因の多くは、母親にある。しかもこうしたクセは、その子どもが、乳幼児期のころに身につ
いてしまう。母親の過干渉と過関心。手のかけすぎなど。それが日常化すると、子どもは、自分
で考えて行動することができなくなる。

 学習面においては、無理な学習、強制的な学習などが、それに拍車をかける。

 当然、現実検証能力も、弱くなる。自分が、今、何をすべきかが、的確に判断できなくなる。
そのため、意味のない質問が、いつまでもつづく。そしてだれかに、何をすべきかを指示しても
らわないと、自分では何もできない。

 ひとりで座らせておくと、指示があるまで、ぼんやりと座っている。ただ高学年になればなるほ
ど、フリ勉、ダラ勉がうまくなる。いかにも勉強していますというような様子だけを、してみせる。
しかし実際には、何もしていない。

 このタイプの子どもは、少なくない。15〜20人に1人はいる。程度の問題もある。

 そこで重要なことは、こうした傾向が、幼児期に見られたら、その時点で、親が、子どもの環
境を猛省しなければならない。しかし実際には、不可能。

 たいていの親は、子どもに問題があるとみる。そして子どもをなおそうとする。しかし問題の
原因は、親自身にある。まず、それに気づかねばならない。が、親は、こう言う。「あの子は、
生まれつき、ああです」と。

 そしてあとは、お決まりの悪循環。気がついたときには、ここに書いたような子どもになってし
まう。

 子どもの姿を、正確に知ることは、むずかしい。こんな問題もある。

 いわゆるガミガミ、キリキリママというのが、いる。家の中では、いつも子どもをガミガミ、キリ
キリと叱ってばかりいる。

 こういうケースのばあい、子どもは、親の前では、仮面をかぶるようになる。いい子ぶるように
なる。しかし仮面は仮面。しかもその仮面を見て、親は、「うちの子は、いい子」と思いこむ。

 で、そういう子どもが外の世界で問題を起こしたりすると、親は、「そんなはずはない」と、猛
烈に反発する。そして子どもの言い分だけを一方的に聞いて、相手の親や、先生、さらには、
学校を責める。

 子どもを信ずるということと、子どもの姿を正確に知るということは、別問題である。子どもを
信ずる、その前提として、親は、まず自分の子どもを正確に知らねばならない。正確に知らな
いまま、子どもを信ずることを、妄信という。

 はっきり言おう。子どもも、小学3、4年生をすぎるころから、急速にズル賢くなる。たとえば子
どもが塾などをやめたくなったときでも、「やめたい」とは言わない。

 まずそういうときは、塾の悪口を言い始める。「先生が、まじめに教えない」「ぼくに乱暴をす
る」「えおこひいきをする」など。あるいは反対に、「もっと、勉強がしっかりできる塾へ行きたい」
などと言ったりする。

 つまり親をして、「それならやめなさい」と、しむける。

 こういう例は、多い。こんな話を聞いたこともある。

 A学校のB先生は、C君(小5)の乱暴に、手を焼いていた。そこである日、B先生は、C君を
おどした。「来週、君の母親に電話をして、学校へ来てもらうかもしれない」と。

 が、その日から、家に帰って、C君は、母親に先生の悪口を並べるようになった。「B先生は、
何も悪くないのに、生徒を殴っている」「乱暴だ」「質問しても、教えてくれない」「授業中に、女の
子とふざけて遊んでいる」「エッチだ」と。

 C君は、先手を打ったわけである。

 で、とうとうある日、B先生が、C君の母親を呼びつけることになった。が、母親は、これに猛
反発。最終的には、校長室まで怒鳴りこんできて、「担任を変えろ」と息巻いたという。

 ここでいうC君も、母親の前では、借りてきたネコの子のようにおとなしかった。

 では、あなたは、どうか?

 あなたは、自分の子どもの姿を、正確にとらえているだろうか。

 それには、コツがある。自分の子どもでも、自分の子どもと思わず、一歩退いて、他人の子ど
もとして見るとよい。これを繰りかえしていると、子どもの輪郭(りんかく)が、少しずつ見えてく
る。

 あなたの前で、どこか不自然に、おとなしく静かな子どもほど、要注意。
(はやし浩司 依存性の強い子ども 子供 依存心 依存性 子どもの仮面 子供の仮面)

++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++※

最前線の子育て論byはやし浩司(702)

●子どもたちのBAD・MANNER

 子どもたちのする、バッド・、マナーには、いくつかある。

 立小便、鼻くそほり、ツバ吐きなど。国によっては、きびしく罰せられるところも多い。しかし私
は、これらに、もう一つ、「咳」を加えたい。

 子どもというのは、あたりかまわず、咳やくしゃみをする。しかしとくに咳について言えば、そ
れをかけられた人は、そのままその病気に感染する。

 だから私はいつも、しつこいほどに、子どもたちに、こう言う。

 「人に向って、咳をしてはだめ」と。

 しかしその深刻さを理解する子どもはいない。親もまた、「子どものする咳だから、感染力は
ない」と考えがちである。しかし咳に、おとなも子どもも、ない。むしろ子どもの咳のほうが、感
染力が強いのではないか。(少なくとも、バイ菌は、同じ。)

 中に、手でこぶしをつくって咳をする子どもがいる。「それではだめだよ」と私が言うと、「こう
すれば、人にかからない」などと反発する。しかしそんな程度では、咳から発散するバイ菌を防
ぐことはできない。

 くしゃみにせよ、咳にせよ、口から出た瞬間には、時速100〜200キロにもなるそうだ。仮に
こぶしで押さえたとしても、そのバイ菌は、こぶしを通りこして、相手に降りかかる。距離的に
は、3〜4メートルくらいは、軽く飛ぶ。

 子どもが咳をしそうになったら、顔を、反対側に向けさせる。あるいはタオルで口をふさがせ
る。その程度のマナーは、当たり前ではないのか。

 先日も、電車に乗ったら、隣の席の女性(60歳くらい)が、ゴホンゴホンと、つづけて咳をして
いた。そこで私は、指定席だったが、前のほうのあいている席に、移動した。その女性の席か
ら、2、3つ、前の席だった。

 そこへ車掌が、切符を調べにやって来た。「切符を拝見します」と。そのときの会話。

車掌「ここは、あなたのセキではありません」
私「わかっています。しかし隣の人のセキがひどいので……」
車掌「どこがひどいのですか?」
私「だから、セキがひどいので、ここへ移ってきました」
車掌「だから、あなたのセキは、エート、あそこです」
私「だからア……」と。

 私としては、その女性に会話を聞かれたくなかったから、小声で話した。それを車掌は、これ
また大きな声で、「セキがどうしましたか?」「ここはあなたのセキではありません」と。

 口で、咳をするマネをして、やっとわかってもらえたが、しかしそれにしても、頭の血のめぐり
の悪い車掌だった。ホント!

 子どものする咳。決して、軽くみてはいけない。

余談だが、どこかの大病院に勤務する父親をもつ子どものする咳は、とくに感染力が強いので
はないか。彼らは、ありとあらゆる予防注射を受けている。その上での咳である。

 そういう子どもにすれば、私など、まったくの無防備。丸裸。しかも一度、うつされると、症状
は、ふつう以上に重くなる。大病院経由のバイ菌はこわいぞ! (失礼!)


●親に命令する子ども(2)

 少し前、親に、命令する子どもについて書いた。その原稿について、あちこちから、反響がと
どいた。掲示板への書きこみもあった。中に、「自分の子どもなら、虐待と言われてもかまわな
いから、ぶん殴ってやる」というのもあった。

 しかし、今、このタイプの子どもは、少なくない。

 数か月前も、ある中学校で講演をしたとき、その学校の教頭がこんな話をしてくれた。何で
も、ある母親が、その教頭のところにやってきて、こう言ったという。

 「どの高校(進学校)にするかについてですが、私では言えませんので、先生のほうから、言
ってください」と。

 つまり子どもの進学問題について、その親は、「進学校の話になると、とたんに大げんかにな
ってしまいます」「親の私では何も言えないので、先生のほうから言ってほしい」と。

 その教頭は、こう言った。「今、大切な会話でさえできない親子がふえていますね」と。

 子どもに遠慮する。まるで腫れ物に触れるように、気をつかう。「子ども(中学生)が勉強を始
めたら、廊下を、すり足で歩きます。物音をたてようものなら、何が飛んでくるか、わかったもの
ではありません」と言った母親もいた。

 しかし、それでも、親子は親子。たいていの親は、こう言う。「今だけですから……」と。

 が、これで驚いてはいけない。このタイプの子どもは、むしろ、女子に多いということ。昔は、
日本女性を、『大和なでしこ』などと言ったものだが、今では、そういう子どもは、さがさなけれ
ばならないほど、少ない。

 で、話は変わるが、私は、自転車通勤をしている。その通勤をしているとき、こんなことがあ
る。

 たとえば私が横断歩道にさしかかったとする。そのとき、左右からやってくる車は、私を見て、
車を止めてくれたり、スピードを落としてくれたりする。

 しかし、あえて言うなら、そういうとき、女性ドライバーは、まず、車を止めてくれない。スピード
も落さない。まるで何かに憎しみをぶつけるかのように、猛スピードで、通りすぎていく。「あぶ
ない!」と思っても、視線を、こちらに向けることもない。若い女性ドライバーほど、そうではない
か。

 このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。これはあくまでも、ワイフの説。

 「女性というのは、きっと、会社なんかでも、冷遇されているでしょう。だからそういうときこそ、
自分の優越感を、だれかにぶつけたいのではないかしら」と。

 ナルホド!

 いくら友だち親子といっても、その限界を越えてはいけない。友だちは、友だち。しかしその
限界を超えて、親子の立場が逆転すると、家庭教育そのものが成りたたなくなる。

子「テメエ、何だ、こんな料理! まずくて食えねえだろオ!」
母「ごめんなさい。今、作りなおしますから」
子「早くしろって言ってるんだよ。これじゃ、学校に間にあわねえヨ」
母「ごめん、ごめん」と。

 問題は、なぜ、そうなるかということ。またそれを防ぐためには、どうしたらよいかということ。

 こうした本末転倒の親子関係は、実は、子どもが幼児のときから始まる。

 子どもが生まれると、それこそ、「蝶よ、花よ!」と、親は子どもを育てる。子どもを楽しませ、
子どもによい思いをさせ、そして子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)と誤解する。

 こうしてごくふつうの家庭でも、(ときには貧しい家庭においてでさえ)、ドラ息子、ドラ娘が生ま
れる。

 こうした(甘い家庭)の背景にあるのが、親自身の精神的な未熟性と、情緒的な欠陥。さらに
は日本古来の、日本人独特の依存性(=甘え)がある。子どもを、1人の人間としてみるので
はなく、モノとみる。あるいはペットとしてみる。

 つまりベタベタの親子関係をつくりながら、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
どもイコール、いい子としてしまう。

 ここでいう本末転倒のドラ息子、ドラ娘は、あくまでも、その結果でしかない。

 子どもを愛するということと、子どもをかわいがるということは、まったく、別の問題。

 子どもを愛することには、いつも、何らかのきびしさがともなう。一方、子どもをかわいがると
いうことについては、それがない。親は、そのつど、かわいがりながら、子どもに何らかの見か
えりを求める。

 少し前だが、私にこんなことを言った女性(70歳くらい)がいた。

 「あれほど、かわいがってやった息子なんですがね、今では親の恩も忘れて、京都へ行って
しまいましたよ。親なんて、さみしいものですね」と。

 そう言えば、日本語の(かわいがる)(かわいい)(かわいい子ども)という言葉は、1本の糸で
つながっているのがわかる。

 ここにも書いたように、日本では、子どもに楽をさせることを、「かわいがる」という。そしてそ
の結果、依存心が強く、親にベタベタと甘える子どもを、「かわいい」という。そしてかわいい子
どもほど、いい子とする。

 が、子どもが、幼児期のうちなら、まだよい。しかしやがて手に負えなくなる。先日書いた、
「親に命令する子ども」は、あくまでも、その結果ということになる。

 で、こういうケースで、子どもに命令される一方の親が、それだけそうした状態を、「異常」と
思っているかといえば、そうではない。親自身が、そういう状態を、受け入れてしまっている。あ
るいは、それが「ふつう」と思いこんでしまっている。

 長い時間をかけて、そうなる。

 しかし、異常は、異常。

 「テメエ、文句を言わないで、サッサと、宿題を届けろって、言っているんだよオ。下駄箱の中
に、○時までに、ちゃんと、入れておけよ!」と。

 まだどこかにあどけなさの残る女子(中学生)が、携帯電話で、親に向かって、そう叫ぶ。

 私は、親子は平等と言っても、そこまでは、許していない。つまりそういう親子関係を認める
ほど、寛大ではない。もし私の教え子にそういう子どもがいたら、即刻その場で、退塾させる。

 今まで、そういうことは、一度もなかったが……。

【若いお母さん方へ】

 子どもがかわいいのは、わかります。しかし決して、そのかわいさに負けてはいけませんよ。

 親は親として、き然と生きる。その生きザマが、子どもの心を、まっすぐ伸ばします。決してや
りすぎない、(ほどよい親)に、どうか、心がけてください。いらぬお節介かもしれませんが…
…。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【シャドウ論】(追記)

●仮面は、ゆがみをつくる

 自分をごまかして生きていると、その反射的効果として、その人の背後には、もう1人の(自
分)ができる。

 これを「シャドウ」という。ユングの考えていた「シャドウ論」とは、少しニュアンスがちがうかも
しれないが、そこは許してほしい。

 たとえば、教師や牧師、さらには政治家。それなりに選ばれてなった人だから、それなりの人
物と、私たちは思いがち。しかし中には、人間的にそれほど完成していない人が、こうした職業
につくことがある。で、そういう人たちは、自分の職業をとおして、いわゆる、(完成された人間
であるかのようなフリ)をする。いわゆる演技をする。が、その(フリ)が積もりにつもってくると、
心のどこかに、(ゆがみ)が生じてくる。

 その(ゆがみ)が、まったく別の自分を、心のどこかにつくる。それがシャドウである。私は、こ
のことを、生徒を教えていて、発見した。

 が、私のことについて書くことについては、何かと問題もあるので、書けない。そこで、ここで
は、たとえば教会の牧師を例にあげて考えてみる。(私のまわりには、牧師はいない。知人や
友人の中にも、牧師はいない。)

●邪悪な部分

 が、中には、インチキ牧師というのがいる。マスコミに顔を出し、派手なパフォーマンスで、神
理とか、神の道などといって、自分を売りだしているのは、たいていその種の牧師と考えてよ
い。

 つまりそういう人にとっては、牧師という職業は、人をだますための道具。信者は、金集めの
道具にすぎない。が、そういう人が、教会などで、さも牧師様といった顔をして、聖書を開き、そ
の一節を読んで聞かせたりする。

 そんな生活を毎日つづけていると、気がヘンになる。ヘンにならないまでも、精神的に、たい
へん疲れる。まともな人なら、そうなる。そこでこういうフリをつづける人は、自分の中の邪悪な
部分を、自分から切り離すことで、心を軽くする。心を守る。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●シャドウを受けつぐ子ども

 一組の夫婦がいる。妻は、夫を愛していない。愛しているフリをしているだけ。本当は、夫を
軽蔑し、忌み嫌っている。

 が、人前では、献身的で、慈愛に満ちた妻を演じている。世間的には、(よくできた奥さん)と
いったふう。

 こういうケースでも、その女性(妻)は、自分の背後に、シャドウをつくる。本来ならそのシャド
ウは、だれにも見えないものである。が、その女性の子どもたちは、そうでない。子どもたちに
は、見える。あるいは子どもが、そのシャドウを、そっくりそのまま受けついでしまう。親子の関
係は、それほどまでに密着している。ごまかしがきかない。

●三角関係

 その結果として、そこで心理学でいうところの「三角関係」ができる。父親→母親→子どもの
三角関係である。

 一度、この三角関係が親子の間でできてしまうと、子どもは、親の指示に従わなくなる。つま
りその時点で、家庭教育は崩壊する。が、それだけではない。子ども自身も、母親と父親を軽
蔑し、忌み嫌うようになることもある。

 社会的な地位もあり。世間的な評価も高い夫婦の子どもが、ときとして、想像もつかないよう
な凶悪事件を引き起こしたりすることがある。そういう事件について、このメカニズムで、すべて
を説明できるわけではない。が、おおまかに見て、「そうかな?」というケースは、決して、少なく
ない。

 たとえば、よく引きあいに出されるケースとして、佐木隆三の書いた、『復讐するは我にあり』
がある。敬虔(けいけん)な牧師の息子が、凶悪犯罪を重ねるという、実話に基づいた小説で
ある。

●演技性人格障害

 ところで、話は少しそれるが、精神医学の世界には、「演技性人格障害」というのがある。仮
面をかぶってばかりいるうちに、本当の自分が何であるかさえも、わからなくなってしまう状態
をいう。

 DSM−IVの診断基準によれば、つぎのようになっている。ここで書くシャドウとは、関係ない
が、一応、あげてみる。

++++++++++++++++++

(演技性人格障害)

過度の情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状
況で明らかになる。以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自分が注目の的になっていない状況では、楽しくない。
(2)他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または挑発的な行動によって
特徴づけられる。
(3)浅薄で、すばやく変化する感情表出を示す。
(4)自分への関心を示すために、絶えず身体的外見を用いる。
(5)過度に印象派的な内容の、詳細がない話し方をする。
(6)自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す。
(7)被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。

+++++++++++++++++++

 このタイプの人は、夜のバラエティ番組に出てくる人に多い。派手なパフォーマンスで、絶え
ず他人の注意を自分にひきつけようとする。わざと友人の数を誇張してみせたり、日ごろか
ら、親密な交際をしているかのような話題を並べる。

 ときとして非常識なことを口にしたり、ズケズケをものを言ったりすることもある。先日は、隣
の家からギターを盗んだことを、テレビカメラに向って、得意げに話していた女性タレントがい
た。(驚いたのは、そんなタレントでも、子どもをもつ母親であったこと。ギョッ!)

 このタイプの人も、「演技性」という部分で、仮面をかぶっていると考えてよい。(あるいはただ
の、ノーブレイン?)

 他人と良好な人間関係を結べなくなった状態を、「人格障害」という。仮面をかぶりつづけて
いると、では、どうして、他人と良好な人間関係を結べなくなるのか?

●良好な人間関係を結ぶために

 ひとつには、その人の行為や言動が、どこか不自然になることがあげられる。たとえば見知
らぬ相手でも、ホレホレ、ハイハイと、顔中に笑顔をつくって、その人に応対したりする。さも
「私は人格者でございます」というような、言い方をする。

 口がうまく、相手に取り入るのも、じょうず。さも相手の身になって、心配しているかのようなフ
リをする。ときに涙声で、(しかし涙は、一滴も出ない)、「それは、かわいそうに。ああ、つらい
です、つらいです。それは、お気の毒なことです」と言ったりする。

 つまりすべてが演技。その演技の上に、その人の人格(?)がのっている。だから、本人の意
思とは別に、周囲の人は、その人の心がつかめない。何を考えているか、わからない。だか
ら、周囲の人のほうが、その人から逃げる。距離をおく。そのため良好な人間関係が結べなく
なる。

 (反対に、そういう人を、「すばらしい人」と思いこんでしまう人もいる。実際、このタイプの人
は、他人の前では、いつも、仏様のように振る舞う。たとえばよく言われるが、天才的詐欺師と
いうのがいる。このタイプの詐欺師は、心底、自分は善人であると信じきって、他人をだますと
いう。つまり自分の中の邪悪な部分を、シャドウの中に、完全に切り離してしまう。)

●世代伝播(でんぱ)

 で、そのシャドウが、シャドウとしてこわいのは、そのシャドウが、その人の心の範囲でとどま
らないこと。その人の子どもに、伝播(でんぱ)してしまうことがあるということ。わかりやすく言え
ば、子どもが、親の邪悪な部分だけを、そっくりそのまま、受けついでしまう。

 日本では、『子は、親のうしろ姿を見て育つ』というが、もう少し正確には、『子は、親のシャド
ウをそのまま受けついでしまう。しかも、その多くは、邪悪なものである』ということになる。
 
 では、どうするか?

 子どもの世界では、(1)心の状態と、表情の一致している子どもを、心がすなおな子どもとい
う。(2)いじける、ひがむ、ねたむなどの、心のゆがみのない子どもを、心がすなおな子どもと
いう。

 同じように、こうしたシャドウを避けるためには、ありのままの自分を、そのままさらけ出しな
がら生きる。よきにつけ、悪しきにつけ、そういう人には、シャドウはできない。外から見ても、
わかりやすい。明るい。だから友だちも多い。人間関係も、わかりやすい。

 つまりは、自己開示の問題ということにもなる。もっと言えば、いつも、心を外の世界に向って
解き放ちながら、生きる。それがシャドウを防ぐ方法ということになる。と、同時に、子どもをこ
こでいう(すなおな子ども)に育てる方法ということになる。

 まだこの先は、私にもよくわからないところがある。このつづきは、またの機会に考えてみた
い。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 演技性 人格障害 すなおな子ども 子供)

(補記)

 シャドウというのは、いつでも、またどんな場所でもできる。

 たとえば電車の中で、すてきな女性を見かけたとする。その女性との、あらぬセックスを想像
したとする。(男なら、みな、そうするぞ!)

 しかしそれはあくまでも、想像。で、そのとき、男というのは、かなり邪悪な想像まで、する。
が、ふと現実にたちかえると、みな、何ごともないかのような顔をして、眠っていたり、携帯電話
をいじっていたりする。

 私も相変わらず、何ごともなかったかのような顔をして、静かに目を閉じる。が、その瞬間、
私のシャドウができる。

 で、家に帰って、ワイフを抱いたりすると、そのシャドウが顔を出す。その女性にしてみたかっ
たことを、ワイフに向ってする。とたん、ワイフに、叱られる。「何をするのよ!」「いやらしいわ
ね!」「今日のあなた、ヘンよ!」と。

 こうした現象も、私のシャドウ論で説明できるのでは……。あくまでも、一つの参考として…
…。

(補記2)

 要するに、何を考えているかわかりにくい人。ウラがありそうな人というのは、つきあいにくい
ですね。それがシャドウだと思えば、私がいう「シャドウ論」を、よりよく理解してもらえるのでは
ないかと思います。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【読者の方からの、ご意見】

 神奈川県にお住まいの、GSさんから、ご意見をいただきました。みなさんと、いっしょに、こ
の問題を考えてみたいと思います。

●介護保険

 介護保険について、やはり、もともとは、医療保険制度の救済のためではなかったのかと、G
Sさんも書いておられます。

 老人の無料診療化が進み、病院が、老人のサロンのようになってしまった。一方、病院側
は、保険で請求すればよいと、無駄な治療を、どんどんと重ねた。その結果、医療保険制度そ
のものが、崩壊しそうになってしまった。

 で、考えられたのが、介護保険制度というわけです。

 またGSさんのメールで興味深いのは、小さな工務店が、上限20万円の工事を、請け負って
いるという点です。毎年、20万円の範囲で、要介護者のいる家庭を、改築している? そうい
うことでしょうか?

●韓国問題

 なお、日本が韓国に支払った、戦後補償金は、莫大なものでしたよ。私が1968年に韓国に
いたころ、すでに、支払われていましたが、日本の国家経済の屋台骨を何本も抜くような額だ
ったと、当時の政治家たちから、そう聞いています。(現在のレートで、計算してはいけません。
当時は、1ドルは360円。韓国ウォンも、1ウォンが、4円程度ではなかったかな? 記憶があ
いまで、すみません。)

 それを韓国は、国民には一円も渡さず、全額、国家建設のために使ってしまったのです。日
本政府も、「渡したお金を、どう使おうが、それは韓国政府に任せる」というような言い方をした
と、聞いています。

 で、そのあと、いわゆる「漢江の奇跡」が始まったわけです。

●ミレーの落穂拾い

 ミレーの「落穂拾い」については、聖書に由来するとは、知りませんでした。(この世界、本当
に勉強不足のことが多くて、悲しくなります。)

 さっそく、ルツ記などを、読みました。旧約聖書の時代には、貧しい人たちのために、落穂を
残しておくという習慣があったのだそうですね。

 その落穂を拾っている……。なるほどと、感心しました。

++++++++++++++++++++

【GSより、はやし浩司へ】

いつも、興味深い内容をお届けくださってありがとうございます。

私も、介護の仕事をしていたこともあり、マガジンもまた、興味ある内容が一つふえたように感
じています。

介護保険は、ケアマネの資格を取るときに勉強しましたが、老人医療の無料化に端を発する
医療保険制度の破綻から新たに考え出された保険と聞いています。

老人は、医療の無料化とか、一部負担という形で、優遇されていますが、これがために、病院
においては、老人のサロン化が始まり、また、医師サイドも本人たちから直接お金を取るわけ
ではないので、高額な医療や、薬を提供し(医者は出来高請求なので)というようなことから、も
ともと善意の保険制度を破綻させてしまいました。

今では、以前のように、治療の必要がないときには、長期の入院はできなくなりました。そうい
う保険制度になってきました。老人の場合は、定額内での医療提供というように、変わってきて
います。

介護保険も、できた当時から、いろいろな事業者が、自分の施設に都合のいいケアプランを立
てるケアマネを置いて、やりたい放題・・・小さな工務店なども、介護者一人につき介護のため
に必要な住宅改修に、年間20万円を上限に介護保険に請求できますから、今年はここ、来年
はここという具合に利用したり・・・。

まだ、実が伴っていれば、良心的なほうなのですけれどね。フリーのケアマネが幅を利かせる
ような体制にならないと、介護保険はますます、お菓子に群がる蟻の状況なるのではないかと
思います。

最近のアジア情勢もいろいろありがとうございます。

こちらも、とても興味深いです。特に、最近の韓国は、私もがっかりしていましたので・・・。韓国
人は、受けた恩は忘れないという国民性と聞いていましたが、IMF体制のとき、日本がどれだ
けのお金を使ったか、なぜ、韓国人も、日本人も問題にしないのだろうと。それどころか、一応
パクチョンヒ大統領のときに、十分ではなかったのかも知れませんが、戦後保障を済ませた形
にはなっているにもかかわらず、今の大統領は、なお、これを請求するような発言をするのか
と・・・・。

私も日本の悪いところをある程度承知していても、今の韓国ちょっと〜という感じで、先生のマ
ガジンを読みながら、うなずいています。

最後に、ミレーの「落穂ひろい」について、旧約聖書のルツ記の記述からの絵という風に聞い
ていますが・・・・素敵な絵ですよね。ルツ記は、大変短い記述です。興味があったら、またご覧
くださいね。

それでは、いろいろと長く書いてしまいましたが、これからも、ご活躍をお祈りしています。
(はやし浩司 ルツ記 介護保険 介護保険制度 韓国 戦後補償)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(703)

●少女監禁事件

 東京で、24歳の男性が、逮捕された。容疑は、監禁。そのときその男性は、若い少女をホテ
ルに監禁して、その少女に好き勝手なことを繰りかえしていたという。

 新聞報道などによると、きっかけは、どうやら、母親の自殺らしい。そのあとまもなく、「女性を
監禁、暴行をして服従させる、(調教もの)と呼ばれるアダルトゲームに熱中するようになった」
(中日新聞)という。

調教ものゲームと言えば、元祖、「ポケモン」がある。ポケモンでは、サトシという少年が、ポケ
ットモンスターを、調教しながら、別のモンスターと戦わせるという筋書きになっている。その少
し前には、「たまごっち」があった。

●たまごっち

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物
(?)が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。

私が「何も死んでいないのだよ」と説明しても、このタイプの子どもにはわからない。一度私が
そのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そ
のときもそうだ。そのときも子ども(小三女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出してしまっ
た。いや、子どもだけではない。

当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではな
い。マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養している女性(20歳くらい)もい
た(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。し
かし本当にそうか? 

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」と、がんばったカルト教団が現れた。この教
団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を
死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信者は、どこが違うの
か。

方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが違うというのか。仮想現
実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。

●マザコン人間

 話をもどす。

担当弁護士は、こう話している。

 「(母親の死後)、彼は、母親がわりの女性を求めていた。何でも期待をかなえてくれる女性
を」(同紙)と。

 この部分だけを読めば、その男性は、典型的なマザコン人間であったことがわかる。そして
そのことから、彼の幼少年期がどのようなものであったかが、容易に察しがつく。

 同じく新聞報道によれば、「小学校にベンツで送迎されるなど、過保護に育てられた」とある。
(「過保護」の意味を、記者はとりちがえているようだが……。過保護ではなく、でき愛というほう
が、正しい。)

 ところで今、他人と、人間関係がうまく結べない若者がふえている。社会性そのものが欠落し
ている。これは乳幼児期における、社会的訓練の不足によるところが大きい。たいていこの時
期、親子だけの、マンツーマンの世界だけで、育てられている。

●社会性の不足

 子どもというのは、同年齢の子どもと、取っ組みあいのケンカをしたり、いがみあったり、ある
いは反対に協力しあったりして、その社会性を身につける。その機会がないまま、おとなにな
る。

 少年期には、見た目には、従順で、おとなしく、(いい子)であることが多い。しかし心を開い
て、他人と接することができない。自分を、すなおに、外に向って表現できない。

 そこでこのタイプの子どもは、暴力的なったり、依存的になったりしやすい。つまりそういう形
で、自分の存在感をつくろうとする。その少年のばあいは、暴力的に、自分の理想の女性、つ
まり(マドンナ)を、作ろうとしたのかもしれない。

 現実錯誤とゲーム、仮想現実と倒錯的趣味。まさに現代的な犯罪ということになる。しかしこ
れから先、この種の犯罪は、ふえることはあっても、決して減ることはない。さらに、今は、ゲー
ムだが、そのままカルト化することだって、ありえる。(現に、ある!)

 まあ、あえて言うなら、商魂だけを優先させた、無責任なおとなたちのツケが、こうした犯罪と
なって現れている。こうした事件を考えるときは、その部分まで踏みこまないと、解決策はみつ
からない。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿をいくつか、収録しておきます。
どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++++

【溺愛ママ(失敗危険度★★)】

●子どもを溺愛する母親

 親が子どもを溺愛する背景には、親側の情緒的未熟性や精神的な欠陥がある。つまりそうし
た未熟性や欠陥を代償的に補うために親は子どもを溺愛するようになる。

つまり子どもを溺愛す親というのは、どこかに心の問題をもった人とみてよい。が、親にはそれ
がわからない。わからないばかりか、溺愛を親の深い愛と誤解する。だから人前で平気で、そ
の溺愛ぶりを誇示する。こんなことがあった。

●溺愛を「愛」と誤解?

 高校のワンゲル部の総会でのこと。指導の教師が父母たちに向かって、「皆さんはお子さん
たちが汚してきた登山靴をどうしてますか?」と聞いたときのこと。一人の母親がまっさきに手
をあげてこう言った。

「このクツが無事息子を山から返してくれたと思うと、ただただいとおしくて頬ずりしています!」
と。

あるいは幼稚園で、それはそれは、みごとな髪型をしてくる子ども(年中女児)がいた。髪の毛
を細い三つ編みにした上、さらにその、三つ編みを幾重にも重ねて、複雑な髪型をつくるなど。
まさに芸術的! 

そこである日、その母親と道路であったので、それとなく「毎日たいへんでしょう?」と聞いてみ
た。が、その母親は何ら臆することなく、こう言った。「いいえ、毎朝、30分もあればすんでしま
います」と。毎朝、30分!、である。

●溺愛児の特徴

 親が子ども溺愛すると、子どもは子どもで溺愛児特有の症状を示すようになる。(1)幼児性
の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心
的になる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、(4)柔和で
おとなしく、満足げでハキがなくなるなど。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、
私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わ
るわけではない。

●カラを脱がない子ども 

子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子
どもには、満4・5歳から5・5歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。

この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へ
と移行する。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてあるとき、そのカラを
一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。

子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」
母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。

しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げな
い子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ず
っとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。

 溺愛ママは、あなたの周辺にも一人や二人は必ずいる。いて、何かと話題になっているは
ず。しかし溺愛は「愛」ではない。代償的愛といって、つまるところ自分の心のすき間うめるた
めの愛。身勝手な愛。一方的な愛。もっと言えば、愛もどきの愛。そんな愛に溺れてよいこと
は、何もない。

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●養殖される子どもたち

 岐阜県の長良川。その長良川のアユに異変が起きて、久しい。そのアユを見続けてきた一
人の老人は、こう言った。「アユが縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住むN氏である。
「最近のアユは水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。

原因というより理由は、養殖。この25年間、長良川を泳ぐアユの大半は、稚魚の時代に、琵
琶湖周辺の養魚場で育てられたアユだ。体長が数センチになったところで、毎年3〜4月に、
長良川に放流される。人工飼育という不自然な飼育環境が、こういうアユを生んだ。しかしこれ
はアユという魚の話。実はこれと同じ現象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッジボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。

これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、たき火がメラメラと急に
燃えあがったとき、「こわい!」と、その場から逃げてきた子どもがいた。小さな虫が机の上を
はっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組みあいの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。

カプセル化というのは、自分の家族を厚いカラでおおい、思想的に社会から孤立することをい
う。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるいは他人に心を許さない。カルト教団
の信者のように、その内部だけで、独自の価値観を先鋭化させてしまう。そのためものの考え
方が、かたよったり、極端になる。……なりやすい。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
同士の悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭からおさえつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。ウソだと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風
景を観察してみればよい。最近の子どもはみんな、仲がよい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それ
ぞれが勝手なことをして遊んでいる。

私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そのボスの許可なしでは、砂場に入
れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほかの子どもたちは、そのボスの命令に
従って山を作ったり、水を運んでダムを作ったりした。仮にそういう縄張りを荒らすような者が
現われたりすれば、私たちは力を合わせて、その者を追い出した。

 平和で、のどかに泳ぎ回るアユ。見方によっては、縄張りを争うアユより、ずっとよい。理想的
な社会だ。すばらしい。すべてのアユがそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間たち
の残虐な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでよいのか。それがアユの本
来の姿なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。

++++++++++++++++++++

 総じて言えば、今の子どもたちは、管理されすぎ。たとえば少し前、『砂場の守護霊』という言
葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守
護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。

 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。せっかく「砂
場」という恵まれた環境(?)の中にありながら、その場をつぶしてしまう。

 が、問題は、それで終わるわけではない。それについては、別の機会に考えてみる。

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●聖母か娼婦か?

 女性は、元来、聖母か娼婦か。どちらか。ただし、聖母のように見えても、決して、聖母とは
思ってはいけない。一人の女性が、相手に応じて、聖母になったり、娼婦になったりする。

 だから見た目には、つまり男によっては、その女性は、聖母にも見えることがあるし、娼婦に
見えることもある。わかりやすく言えば、男しだいということ。

 若いころ、こんな経験をした。高校を卒業してから、まもなくのことだった。

 私には、その女性(Aさんとしておく)は、聖母に見えた。高校時代、隣のクラスの女の子だっ
た。おしとやかで、恥ずかしがり屋だった。その上、理知的で、分別もある人に見えた。が、そ
の女性が、別の世界では、まったくの別人? 男を、まさにとっかえひっかえ、遊んでいた!

 ある友人が、こう言った。「あのな、林、あのAさんな、高校生のとき、草むらで、男とセックス
をしていたぞ。自転車で家へ帰るとき、オレ、見てしまったぞ」と。

 私が驚いて、「そんなことあるかア!」と言うと、その友人は、「ウソじゃない。オレは、ちゃんと
見た」と。

 それでも私は、信じなかった。「きっと見まちがえたのだろう」とか、「何か、ほかのことをして
いたのだろう」とか。「Aさんではなかったのかもしれない」とも。

 しかしそれから20年くらいたってからのこと。別の友人が、こう言った。「ぼくは、あのAさん
と、高校3年生のとき、つきあっていた。そのとき、Aさんは、すでに処女ではなかった」と。

 私は「ヘエ〜」としか、言いようがなかった。私がAさんにもっていたイメージとは、あまりにも、
かけ離れていたからだ。

私「女って、わからないものだあ」
友「お前は、Aさんをどう思っていたんだ?」
私「とにかく、信じられない。ぼくにとってAさんというのは、マドンナだった」
友「あのAさんが、マドンナだったってエ? お前は、いったい、Aさんの、どこを見ていたんだ
い?」
私「そう、ぼくには、マザコン的なところがあるからな」と。

 一般論として、マザコンタイプの男は、女性に、理想像を求める。そして好意を寄せる女性
を、マドンナ化する。日本語で言えば、聖母化する。(マドンナのことを、聖母という。少しニュア
ンスがちがうような気もするが……。)

 聖母化するのは、その人の勝手だが、聖母化された女性のほうは、たまらない。とくに夫に
聖母化されると、妻は、困る。これもまた一般論だが、マザコンタイプの男性は、離婚率が高い
という。浮気率も高いという。

 1990年に発表されたキンゼイ報告によれば、アメリカ人のうち、37%の夫が、少なくとも、
1回以上の浮気をしているという。この数字を多いとみるとか、少ないとみるか。日本には、宗
教的制約がないから、日本人の夫の浮気は、もう少し、多いのではないか。

 それはともかくも、マザコンタイプの男性は、理想の(?)女性を求めて、つぎからつぎへと、
女性を渡りあるく傾向が強い。新しい女性とつきあっては、「こんなはずではなかった」「この女
性は、ぼくの理想の女性ではない」と。だから離婚しやすい。浮気しやすい。(多分?)

 要するに、女性を聖母化するというのは、それ自体が、マザコン性のあらわれとみてよい。こ
のタイプの男性は、肉欲的な荒々しい性的関係を結ぶことができない。女性を聖母化する分だ
け、成熟したおとなの関係を結ぶことができない。

 で、問題は、まだつづく。

 さらに一般論として、女性は、自分がどう見られているかを敏感に察知し、その見られている
自分を、男の前で演ずることがある。

 「聖母に見られている」と感じたとたん、その人の前では、聖母のように振る舞うなど。つまり
Aさんは、私の前では、聖母を演じていただけ? しかしそう考えると、すべて、つじつまが合
う。

 が、これは私自身の問題でもある。

 私は、ここにも書いたように、かなりマザコンタイプの人間だった。母親を絶対化する分だ
け、若いとき、私とつきあう女性にも、それを求めた。私と結婚したワイフでさえ、あるとき、私
にこう言った。

 「私は、あんたの母親じゃないのよ!」「あんたの母親のかわりは、できないのよ!」と。

 そのときはなぜワイフがそう言ったのか、その意味がわからなかった。しかし当時の私は、ワ
イフに、いつも、女性としての完ぺきさを求めていたように思う。

 そこであなたの(あなたの夫の)マザコン度チェック!

(  )あなたは妻に、いつも完ぺきな女性であることを求める。(あなたの夫は、あなたに完ぺ
きな妻であることを求める。)
(  )あなたはいつも、女性に、母親的な女性像を求める。(あなたの夫は、あなたに母親的な
女性像を求める。)
(  )あなたは妻に、動物的な妻であることを許さない。(あなたの夫は、あなたに動物的な妻
であることを許さない。)
(  )あなたは、いつも妻に、完全に受けいれられていないと気がすまない。(あなたの夫は、
あなたに完全に受け入れられている状態を求める。)
(  )あなたは妻に、かつてあなたの母親がしてくれたことと同じことを、求めることが多い。
(あなたの夫は、夫の母親が夫にしたことと同じことを求めることが多い。)

 要するに、妻を聖母化するということは、その夫自身が、マザコンであるという証拠。(……
と、言い切るのは危険なことだが、それほど、まちがってはいない。)

ワイフ「本人自身は、それに気づいているのかしら?」
私「さあね。たぶん、気がついていないだろうね。マザコンタイプの人は、そうであること自体、
自分のことを、親思いのいい息子と考えているから」
ワイフ「でも、そんな夫をもったら、奥さんも、たいへんね」
私「お前も、苦労したな」
ワイフ「ホント!」(ハハハハ)と。

 人生も半世紀以上生きてみると、いろいろなことがわかるようになる。男も女も、ちがわない
というのも、その一つ。どこもちがわない。この世の中には、聖母も娼婦もいない。みんな、そ
のフリをしているだけ。そうでないフリをしているだけ。

 だからこの議論そのものが、意味がない。男性に、聖人も、男娼もいないように、女性にも、
聖母も娼婦もいない。……ということで、この話は、おしまい。


●女性とおとなのセックスができない男性

 概して言えば、日本の男性は、総じて、マザコン的? 母系社会というより、母子関係の是正
をしないまま、子どもは、おとなになる。つまり父性社会の欠落?

 よい例が、ストリップ劇場。私も若いころは、ときどき(ときどきだぞ!)、見にいったことがあ
る。

 日本のストリップ劇場では、中央の舞台で、裸の女性が、服を一枚ずつ脱ぎながら、なまめ
かしく踊る。観客の男たちは、それを見ながら、薄暗い客席で、シコシコとペニスをマッサージ
する。

 この関係が、実にマザコン的? 女がほしかったら、「ほしい」と言って、飛びついていけばよ
い。セックスをしたかったら、「したい」と言って、飛びついていけばよい。

 が、舞台の女性に、「あんた、ここへあがってきなさいよ。抜いてあげるからさア」と声をかけ
られても、その場で、照れて見せるだけ。どうも、はっきりしない。そのはっきりしないところが、
マザコン的?

 マザコンの特徴は、女性を美化し、絶対化するところにある。あるいは母親としての理想像
を、相手の女性や妻に求める。そのため女性の肉体は、おそれおおい存在となる?

 ……という心理は、私にはよく理解できないが、多分、そうではないか。このことは、子どもた
ちの世界を見ていると、よくわかる。

 数は少なくなったが、今でも、雄々しい男の子というのは、いるにはいる。(反対に、ナヨナヨ
した男の子は、多いというより、ほとんどが、そう。)そういう男の子は、女の子に対して、ストレ
ート。こんなことがあった。

 私が、何かのきっかけで、「騒いでいるヤツは、ハサミでチンチンを切るぞ」と言ったときのこ
と。一人の女の子(小5)が、すかさずこう言った。「私には、チンチンなんて、ないもんね」と。

 それを聞いた別の男の子(小5)が、「何、言ってるんだ。お前らには、クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 私はこのやりあいには、驚いた。「今どきの子どもは……!」と。

 しかし思い出してみると、私たちが子どものころには、そういう言葉こそ知らなかったが、相手
に対して、今の子どもよりは、ものごとをストレートに表現していたと思う。「おい、セックスをさ
せろ」というなことまでは言わなかったが、それに近い言葉を言っていたように思う。

 だから同じ男として、「お前らには、クリトリスがあるだろ!」と言いかえす男の子のほうが、好
きと言えば、好き。一応、たしなめるが、それは立場上、そうしているだけ。

 そういえば、マザコン的といえば、マザコン的? かなり昔、こんなことを言う男子高校生がい
た。その高校生は、ま顔で、私にこう言った。

 「先生、ぼくの彼女ね、本当にウンチをするのかねエ?」と。

 その高校生に言わせれば、「彼女は、ウンチをしない」とのこと。そこで私が「じゃあ、彼女
は、何を食べているの?」と聞くと、「ごはんだけど、彼女は、ウンチをしないと思う」と。

 また反対に、こんなことを言う男子高校生もいた。

 「先生、ぼく、ブルック・シールズ(当時のアメリカの女優)のウンチなら、みんなの前で食べて
みせることができる」と。

 彼は、そのブルック・シールズの熱狂的なファンだった。

 こうして考えてみると、初恋時には、男はみな、多かれ少なかれ、マザコン的になるのか? 
あるいはプラトニック・ラブを、そのままマザコンと結びつけて考えることのほうが、そもそも、お
かしいのか?

 ただ、こういうことは言える。

 マザコンタイプの男性ほど、その女性のすべてを受け入れる前に、自分をすべて受け入れて
くれる女性を求める。そしてその女性に、母親的な完ぺき性を求めて、その女性を追いつめや
すい、と。

 恋人関係ならまだしも、結婚生活となると、ことは深刻。いろいろ問題が起きてくる。離婚率
や浮気率が高いという説があるのも、その一つ。

 それについてワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「夫がマザコン的だと、奥さんも、疲れるわよ。夫が望むような妻にならなければならないから」
と。

私「夫がマザコンだと、離婚率が高いという説があるよ」
ワイフ「当然でしょうね。そんな男と、生活するのは、たいへんよ」
私「妻より、母親のほうが大切と考えている男性も、多いよ」
ワイフ「だったら、母親と結婚すればいいのよ」
私「ワア、それこそ、マザコンだあ」と。

 そういう意味でも、母親は、ある時期がきたら、子どもを、自分から切り離していかねばなら
ない。いつまでも、濃密な母子関係に溺れていると、子ども自身が、自立できなくなってしまう。

 本来なら、父親が、母子関係に割ってはいり、その母子関係を調整しなければならない。が、
今、その父親不在の家庭が多い。あるいは、父親自身が、マザコン的であるというケースも、
少なくない。

 最後に、タイトルに、「女性とおとなのセックスができない男性」と書いたので、一言。

 もう10年近くも前になるだろうか。中学3年生になったばかりの女の子が、私に、こう言っ
た。

 「先生、あんな男とは、もう別れた」と。その中学生には、ボーイフレンドがいた。そこで私が
理由を聞くと、こう言った。

 「だって、先生、3回もデートしたけど、何もしてくれないのよ」と。

私「何もしてくれないって?」
中学生「手も、握ってくれないのよ」
私「で、君は、どんなことをしてほしいと思っていたの?」
中学生「ふふふ。わかっているくせに……」と。

 性的な男女交際を奨励するわけではないが、私はその話を聞きながら、そのとき内心では、
「だらしない男もいるもんだ」と思った。
(はやし浩司 マザコン マザーコンプレックス マドンナ論 聖母 聖母意識 でき愛ママ 溺
愛 溺愛ママ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 

最前線の子育て論byはやし浩司(704)

【近況・あれこれ】

●スズメの子

 スズメの子が、うちのガラス戸に当たって、そのまま地面に落ちた。ドンという音で、それに気
がついた。

 すぐ庭へ出てみると、もうそこには、ハナ(犬)が立っていた。「あっちへ行け!」と命令する
と、ハナは、少しだけ、あとずさりをした。

 人間で言えば、脳震盪(のうしんとう)のようなものを起こしたらしい。しばらく動かなかった。

 家の中へ抱いて帰って、手の中で見ると、両側の口ばしのところが、赤く腫れあがっている。
どうやら頭からガラス戸に衝突したらしい。が、すぐに、意識がもどった。

●小鳥の警戒心

 しばらく手でくるんでやった。ときどき逃げようとするが、あまり元気はない。しかしそれほど、
おびえた様子もない。目だけを大きく開いて、こちらを、じっと見ている。が、警戒心は、解いて
いない。

 こうした小鳥は、抱いたとき、腹の底を、ペタリと手のひらにつけてくるかどうかで、それがわ
かる。つまり警戒心のない小鳥は、腹の底を、手のひらにこすりつけてくる。小鳥の腹の底に
は羽がなく、肌と肌が、直接触れあう。

 しかしその子スズメは、足を下へふんばっている。爪を立てている。スキさえあれば、逃げよ
うという雰囲気である。

●エサ

 すぐエサを用意する。たまたまニワトリの飼育用のエサがあった。それに以前飼っていた、文
鳥やインコ用の、飼育用スポイトもあった。エサをそのスポイトに入れて、口の中に押しこむ。

 そのとき注意しなければならないのは、食道と気管支をまちがえてはいけないということ。食
道は手前。気管支はその後方にある。

 気管支のほうにエサを入れると、当然のことながら、小鳥はそのまま死んでしまう。

 だから一度スポイトを口の中にいれたあと、スポイトをやや立てるようにして、舌にそって下の
ほうへ入れる。1センチほど入れたところで、スポイトの中のエサをぐいと、中へ押しこむ。

 小鳥というのは、意外と、大きな胃袋をしている。スポイトで2〜3杯分くらいなら、楽に入る。
それ以上入れると、口をあけて、ハーハーと言い出す。そのしぐさは、食べ過ぎた人間そっく
り。

 エサを入れたあと、巣箱をつくった。そこへスズメを置いた。

●スズメ

 私と小鳥の出会いは、古い。高校1年生のときから、ごく最近まで、欠かさず、文鳥を飼って
きた。ときどき、インコも飼った。

 子どものころは、スズメを飼っていた。

 まだ目もじゅうぶん開いていない子スズメを、巣から取りだして、育てた。(今は、野鳥を捕獲
することは、法律で禁じられている。)

 で、スズメというのは、警戒心の強い小鳥である。その警戒心が強い分だけ、頭もよい。文鳥
よりは、はるかに頭がよい。仕こめば、芸だって覚える。もちろん人間にも、なつく。

 が、どういうわけか、こと、スズメに関しては、長く飼った記憶がない。おとになると、外へ放し
てやったか、それとも友だちにあげてしまったためではないか。私の母が、そういった小動物を
飼うのを嫌った。

●手で抱く

 こうして2日がすぎ、3日がすぎた。が、やはりどこか脳ミソが、ダメージを受けているらしい。
逃げていったとき、ちょっとした拍子に、体があお向けになってしまう。そのとき、その子スズメ
は、腹を上にしたまま、起きあがれない。

 だから簡単に手でつかまえることができる。

 まだ子スズメだ。逃げるといっても、その位置から高いところに向っては、飛べない。足の力
も弱い。

 で、私は、ヒマさえあると、その子スズメを手で抱いた。警戒心を解くには、それが一番よい。
たまたまこのところ、寒い日がつづいている。私は、昼寝をしているときも、子スズメを抱いた。

 これは私の特技か?

 私は眠っていても、手で子スズメを、手でつぶすようなことはしない。高校生のときから、それ
ができる。

●4日目の朝

 鳥の世界には、(刷り込み)というよく知られた習性がある。人間の世界にも、それがあると、
最近、わかってきた。「敏感期」というのが、それである。

 スズメの世界のことは知らないが、スズメも、ある時期をすぎると、人間に、なれることはな
い。その時期は、目が開く前?

 そのスズメは、すでに庭を飛びまわっていたから、当然、目が見えていたことになる。人間に
たとえるなら、2〜3歳の子どもくらいの年齢か。しかしそうなると、もう人間になれることはない
……はず。

 「元気になったら、庭へ放してやろう」と考えた。

 が、4日目の朝。起きてみると、昨日より、ぐんと元気がなくなっていた。少し羽をバタつかせ
たが、そこまで。すぐ目を閉じてしまった。

 あわてて私は子スズメを取り出し、手でくるんだ。そしてそのまま電機コタツの中へ入れた。

 5分、10分……。しだいに腹の底がポーッと暖かくなるのがわかった。同時に心臓の鼓動が
大きくなったのがわかった。「よかった」と思った。「昨夜は、いつもになく寒かった。うかつだっ
た」と思った。

●お前、どうする?

 いつの間にか、子スズメを、「チュンチュン」とか、「チッチ」と呼ぶようになっていた。名前をつ
けた。

 口ばしのまわりのキズは、消えていた。しかし4日目の昼ごろになると、様子が変わってき
た。私が手をそっと差しだしても、逃げようとしない。じっと、しかしどこかうつろな目で、私の手
を見ている。

 そのまま手で抱くと、すぐ体を任す。人間に対する警戒感が、かなり薄らいできたようだ。私
はそのまま、またスポイトで、2杯分のエサを口の中に流しこむ。

 チュンチュンは、そのまま手の中で、うつらうつらとし始めた。

 私はもう一方の手で、頭や口ばしを、さわってやる。気持ちよさそうに目を閉じる。

 「お前、どうする?」と聞いても、もちろんチュンチュンは、答えない。おとといは、巣そのもの
を、温室の上に置いて、母鳥たちが迎えにくるのを待っていた。が、その母鳥が来る前に、チ
ュンチュンは、巣から飛び出し、そのまま地面に激突。

 しかしいつまでも飼っているわけには、いかない。また、聞く。「お前、これからどうする?」と。
しかしチュンチュンは、手の中で、気持ちよさそうに眠っている。

●まだ放せない

 スズメという小鳥は、このあたりの言葉で言うなら、「ぶしょったい」。小鳥特有の美しさがな
い。ほかの鳥とちがって、あまり毛づくろいをしないようだ。どの毛も、ボサボサといった感じ。
目だたないように、わざとそうしているのか?

 色も悪い。保護色ということになるが、何の保護色なのか。枯れた草むら、ヤブ、枯れ木。い
ろいろ考えられるが、美しいものでないことだけは、たしかだ。またそういう色をしているから、
町の中でも住めるということになる。

 で、そのスズメも、幼児期に、すべてが決まるのか? 手の中のスズメを見ながら、そんなこ
とを考える。

 この時期は、親鳥について、子育てのし方を学ぶころでもある。その情報があってはじめて、
今度は、自分が親鳥になったとき、子育てができるようになる。鳥のことはよく知らないが、人
間は、そうである。

 しかし今は、私という人間に育てられている。このままでは、このスズメは、野生に戻れなくな
ってしまう。いわゆる人間スズメになってしまう。

 しかし……。今、庭に放しても、まだじゅうぶん、飛べない。一つ気になるのは、足(脚)全体
が、血の気が引いたように、淡い黄色をしていること。かごの端に止まることはできるようだ
が、見た感じでは、足の力が弱い。逃げるときも、腹をこすったまま、逃げる。

 どこが悪いのだろうか?

 これからHK市へ、コンサートを聞きにいくつもり。途中、山荘に寄っていくので、帰りは、午後
9時ごろになる。

 「どうする?」とワイフに聞くと、「箱か何かに入れて、つれていくしかないわね」と。

●死

 コンサート会場から出てきたのが、午後9時ごろ。さっそく、箱の中を見ると、元気がない。体
を横にして、かすかな力をしぼり出すようにして、あえいでいる。

 すぐ手に抱いて、前の席に。

 車のヒーターを入れると、その送風口に、チュンチュンを置く。「寒かったかもしれない……」
と言うと、ワイフは、がまんしてくれた。

 家に着くころには、さらに元気がなくなっていた。そこでもう一度、箱に入れなおし、カイロを2
枚、その左右に置いた。スズメだって、低温ヤケドをするかもしれない。距離をおいた。

私「ダメかもしれない」
ワ「……」

 チュンチュンの反応は、ほとんどなくなっていた。体をさすってやると、そのときは、目を開い
た。しかしそのまま、やがて、うつろな目つきになり。目を閉じた。

 庭から、ワラを、またひとつかみもってきて、それでチュンチュンの体を、おおった。が、私た
ちが寝るころには、ほとんど、反応がなかった。それでその日は、終わった。

 翌朝、起きて、台所へ行くと、ワイフがいた。「どうだった?」と声をかけると、ワイフは、首を
横に振った。

 私の体から、スーッと力が抜けていくのが、よくわかった。静かな朝だった。

 チュンチュンは、5日目の朝に、死んだ。短い命だった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【読者の方から……、介護保険制度について】

●介護保険について、こんな意見が届いています。何かと問題の多い、介護保険制度。こうし
た問題をつぎのステップのための、試行錯誤とみるとか、それとも……?

どうも、このところ、官僚たちのやることが信用できない。何かにつけて、国民をだますようなこ
とばかり、している(?)。この読者の方の意見を読んでいると、そんな感じさえします。

++++++++++++++++++

一点目、介護保険制度は、医療保険制度の救済という目的だけではなく、景気のカンフル剤と
しても、使われたのではないかということです。

先生のマガジンの中にもありましたが、介護保険の事業者の施設が豪華で・・・という点が、そ
れです。

これは、介護保険が施行されてから、数年の間に、たとえば療養型病床にしても、老人保健施
設にしても、従来のベッド占有面積から、廊下の幅、共同使用のロビー的なものなど面積など
が大きくなったこと、(具体的な数値はわかりませんが、施設面での条件を満たさないことに
は、介護保険施設として認められない)こと。

また、医療保険を使う従来の病院としてのあり方では、入院日数が増えるほど、医療保険への
請求金額が減る仕組みなどに対応できないために、(先端医療提供以外の病院は、ある程度
中長期の入院患者を抱えておくことによって経営を安定させていたので・・・。)

介護保険へ請求できるベッドもある程度もつ必要が出てきて、そのために病院や、老人保健
施設などの改修が必要となったことも、あるのではないかと思います。つまり、直接自分たちで
いろいろな建物を作る箱物行政を外にやらせた。という点です。(経済効果のことは、私には、
ちょっとわかりませんが。)

もうひとつは、定額医療について、これは、出来高払いだった保険請求が、老人一人につきい
くらまで払いますから、その範囲内で医療を提供してください、というもの。

つまり、今まで、医療を提供すればするほど、儲かったというのが、定額になってからは、なる
べくお金のかかる医療は提供しないほうが・・・つまり定額に満たない医療を提供するほうが、
儲かるという仕組みになったということです。高齢者は、これによって必要な医療も受けること
が出来なくなる可能性が出てきます。

これは、医療保険保護のためということもいえますが、見方を変えれば、伸び続ける平均寿命
をストップさせるような、図式が見え隠れしているような・・・そんな、感じさえ受けるのは、私だ
けでしょうか。

ずいぶんと、過激な意見を書いてしまったと・・・そういう風に思いますが、ひとつの視点というこ
とで、捕らえてください。

++++++++++++++++++

 すでに介護保険制度は、パンク状態。そこで現在、政府は、40歳からの納入義務年齢を、
今度は、20歳まで引きさげようとしています。

 だれの目にもわかるほど、不必要な介護施設を作る一方で、必要な人に対しては、じゅうぶ
んな手が届いていない。

 この読者の方の意見では、「伸び続ける平均寿命をストップさせるような、図式が見え隠れし
ているような・・・そんな、感じさえ受けるのは、私だけでしょうか」と書いている。ここを読んだと
き、私も心底、ゾーッとしました。こうした超合理的なものの考え方は、まさに、(受験生の発
想)そのものだからです。

 実は、昨日(5・15)も、ワイフとドライブをしながら、田舎道へ迷いこんでしまいました。「どこ
だろう?」「どこ?」と車を走らせていると、目の前に、こつ然と姿を現したのが、「○○老人ケア
センター」という名前の、ビル。

 私たちは、あまりの豪華さに、驚いてしまいました。恐らく、(ほぼ、まちがいなく)、そうしたセ
ンターの理事長は、元政治家(市議会議員)か、その奥さんがなっているはず。

 しかしこの日本では、「お上」にたてついたら、仕事すら、できない。先日も、ある大学の講師
(私立大学助教授)と話しましたが、文科省の批判になると、とたんに、声が小さくなったのを感
じました。「この話は、ここだけにしておいてくださいね」「私の名前は出さないでくださいね」と。

 私は、「そういうものかなあ」「そういうものだろうなあ」と思いつつ、話を聞きましたが、こうし
た傾向は、パソコンのソフト開発会社にまで、およんでいます。

 知人は、そのソフト開発会社を経営していますが、こう言いました。「この業界で、生き残るこ
とができるかどうかは、どれだけ公的な仕事を引き受けることができるかどうかで決まります
よ。あとは、県の補助金(先端産業育成○○金)ですよ。それがなかったら、ウチのような会社
は、半年ももちません」と。

 何か、ことあるごとに、増税、増税、また増税。それでも足りなくなってきたから、今度は、消
費税の利率アップだそうです。理由は、「老人福祉の充実」(?)とか。

 必要な支出が生まれたら、それまでの何かを削って、それに当てるというのが、予算配分の
常識ではないでしょうか。しかし何も削らないまま、どんどん増税に増税を重ねたら、この日本
は、いったい、どうなるのでしょうか。その恩恵に浴する人は、それでよいのかもしれません
が、そうでない人は、指をくわえて見ているだけ……。

 その矛盾が、今、介護保険制度にも、現われつつあるように思います。

 これは一時的な、つまり過渡期の問題なのでしょうか。それとも、さらに泥沼に向う、深刻な
問題なのでしょうか。私たちは、その動きを、注意深く、見ていく必要があります。

 埼玉県のGSさん、ご意見、ありがとうございました。
(はやし浩司 介護制度 矛盾 介護保険制度 老人福祉政策 老人福祉)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

(受験生の発想)

 私はある時期、たった一日のサイクルの中で、幼稚園の年中児から高校3年生まで押してい
たことがある。

 たった一日で、だ。

 つまり子どもの成長と変化を、1日の間で、見ることができた。午前中は幼稚園で教え、午後
からは小学生。夕方は中学生。夜は、大学の受験生、と。

 そういう流れの中で、子どもたちの心理が、受験期を境に、急速に変化していくのを感じた。
総じて言えば、受験期の前の子どもたちは、なごやかで、やさしく、思いやりにあふれている。

 しかし受験期にさしかかると、どこかピリピリしてくる。ものの考え方が、どこか、トゲトゲしくな
ってくる。

 そして受験期が終わるころには、合理的、ドライ、そしてものの考え方が、冷酷になる。点数
だけで、ものごとを評価するようになる。

 それぞれの学年だけを教えている先生には、それがわからないかもしれない。自分自身が、
その世界に入ってしまうからである。

 しかし、変化する。確実に変化する。

 とくに有名大学の一流学部を受験するという子どもほど、その傾向は強い。「勉強さえできれ
ばいい」という考え方が、「勉強ができないやつは、落ちこぼれ」というような考え方につながっ
てくる。

 そして「勉強しかしない」「勉強しかできない」……、そんなイビツな子どもが生まれてくる。

 私はそういう(変化)を知るたびに、どうしてもっと、(受験制度)のもつ弊害について、世の研
究者たちは目を向けないのかと、疑問に思う。しかし考えてみれば、その研究者のほとんど
が、これまた、そういう受験勉強を通りぬけてきた人ばかりである。そしてそれなりの恩恵を受
けている人ばかりである。

 受験競争の弊害そのものに、気づかない。あるいは、そのままの(競争状態)が、生涯にわ
たってつづく。

 だから勝ち組の人たちは、平然と、こう言ってのける。「努力した人がいい生活をするのは、
当然ではないですか」と。そしてその一方で、おかしなエリート意識をもつ。

 数年前だが、「フリーター撲滅論」を口にした、どこかの高校の校長がいた。「フリーターは、
まともな職業ではない」と。自分は、恵まれた超特権階級にいて、そういうことを口にするから、
おかしい。

 また「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味である。

 が、皮肉なことに、今後10年間に、満60歳以上のフリーターが、この日本でも、数百万人に
なるという。社員として雇うには、金がかかる。ハーフ・アルバイトの形で仕事をしてもらえば、
労働コストも安くつく。それで、そうなるという。

 しかしここでいう「フリーター撲滅論」そのものが、鼻もちならぬエリート意識の上に、乗ってい
る。私はその記事を読んだとき、「では、自分は、何様か!」と、思わず叫んでしまった。

 はっきり言おう。若者たちよ、この日本では、公務員になれ。そのほうが、ぜったい、得。仕
事は楽。おまけに一生、安泰。死ぬまで、安泰。給料も、民間の約2倍。2年間、精神病院か
何かに入院しても、クビになることはない。

 が、ガードは、かたい。そこらの小さな図書館や公民館の館長職ですら、公務員どうしが回し
あっている。途中から、フリーターが、入りこむスキなど、どこにもない。人事募集すらない。ま
ったくない。

 一方でそういう現実を放置しながら、「撲滅」はないだろ! 

 つまり長い間、受験競争をし、その指導をしていると、発想そのものが、受験生そのものの
発想になる。私がここでいう、「合理的、ドライ、そしてものの考え方が、冷酷になる」というの
は、そういう意味である。

 今日も子どもたちは、受験勉強をしている。それはしかたのないことかもしれないが、同時
に、その一方で、人間が本来持っていたはずの、暖かい心をなくしつつある。

 その結果が、今の日本の社会とみてよい。あるいは、あなたには、この日本の社会のもつ、
(冷たさ)がわかるだろうか。

 そう言えば、以前、ここに書いたようなことについて考えたが原稿がある。それを紹介する
(中日新聞掲載済み)。この原稿に対する、反響は、ものすごかった。ただしこの話は、塾を経
営している友人から聞いたもの。私が経験した話のように書いているが、私の生徒の話ではな
い。当時、友人が、「そうしてくれ」と頼んだので、そうした。念のため。

++++++++++++++++++++

●生意気な子どもたち

子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。
そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学三年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、一年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。

彼が幼稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言っ
た。「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「よけいなことは言う
な」と。

母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、ある総合病院の医師だった。ほか
にも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも一番という進学校に通う、高校一年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小六女児)もいた。や
はりクラスでは、一、二を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。

言いかえると、親も勉強しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ど
も自身も、「自分は優秀だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。

都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見かけの人間味にだまされてはい
けない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだませない。彼らは頭がよいから、
いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることができるか、それだけを毎日、研究
している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

+++++++++++++++++++++  

きびしい話ばかりつづきましたので、ここで別の
角度から、家庭教育を考えてみます。では、どう
考えたらよいのか、その一つのヒントになれば、
うれしいです。

+++++++++++++++++++++

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小
二)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか?  

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻
が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が担当している
ケースは、わずか1%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たっ
たの3%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと
求める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の20代の男性は比較的家事
に参加しているようだが、40代、50代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性
の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識
改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。

言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていな
い。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。ア
メリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大
切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国
心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たっ
た一年足らずの間に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも
言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(01年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して
ほしい。
(はやし浩司 子どもの心 子供の心 家族主義 家族)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(705)

【週刊P誌・5・27日号を読む】

 週刊P誌に、こんな記事が載っていた。「日本を襲う、金XX(死の灰)」。

 マスコミの報道によれば、現在、K国は、K国北東部のある吉州(キルジユ)というところで、
核実験の準備をしているらしいという。北東部といっても、すぐその東は、日本海。もしここでK
国が核実験をしたら、その死の灰は、風にのって、そのまま日本を直撃する。

 週刊P誌によれば、「時速24キロの風に乗れば、44時間あまりで、東京に到達する。そして
その状態は、1週間程度つづく」という。

 今、ささやかれている「6月説」によれば、6月という月は、そういう月らしい。つまり6月ごろに
は、風は、K国から、南東の方向に吹く。

 そこでK国が核実験をするにしても、それだけのガードがしてあればよい。しかしああいう国
だから、それは期待できない。週刊P誌は、こうつづける。

 「(ガードする)コンクリートの強度が不足しているばあい、核爆発の衝撃で、トンネル上部の
フタが吹き飛び、放射性物質は空気中に拡散することになる」と。

 考えてみれば、とんでもない話である。そのとんでもない話が、今、現実になろうとしている。
私は、その記事を読みながら、こんなことを考えた。もし、核実験が強行されたら……、

(1)株価の大暴落と、日本経済の大混乱
(2)死の灰騒ぎと、連日の気象情報パニック
(3)食糧の買いだめ騒ぎと、汚染問題

 さらに週刊P誌によれば、札幌医科大学のT教授の弁として、つぎのような説明をしている。

 「吉州の放射能漏洩(ろうえい)が、かりに100%であっても、レベルCには至らない。(だか
ら不要な心配はしなくていい)」と。

 レベルCというのは、つぎのようなレベルを言うらしい。

レベルA……4シーベルト以上の放射線を受けた状態。このレベルの放射線を受けると、内臓
は深刻なダメージを受け、半数以上が、60日以内に死亡する。

レベルB……1シーベルト以上、4シーベルト以下の放射線を受けた状態。すぐさま生命に危
険はないものの、急性放射線障害や、悪性腫瘍を招く恐れがある。

レベルC……0・1シーベルト以上1シーベルト未満の放射線を受けた状態。将来、がんの発生
確率が高くなる一方、胎児に影響が出やすくなる。

 「試算の結果、日本に到達する放射線は、もっとも強い地域でも、0・002から0・003シーベ
ルトで、レベルDに分類される」(同誌、T教授)とのこと。この程度の放射線なら、病院でCTス
キャンを受ける程度、とか。

 が、パニックは、それでも起きる。K国が核実験をしたあとは、日本中は、蜂の巣をつついた
ような大騒ぎになるだろう。が、それで問題は、終わるわけではない。

 いままでしてきた6か国協議は、霧散する。同時にアメリカ政府の強硬派は、一挙に勢いをま
す。K国に対して、強硬手段に出る可能性もある。が、ここで誤解してはいけないのは、K国
は、アメリカと交渉したがっているが、そのターゲットは、アメリカではないということ。この日本
である。

 いくら金XXでも、アメリカを相手に、アメリカで戦争すれば、どうなるか、それくらいのことは知
っている。金XXが、実際に核兵器を使うとしたら、この日本で、である。つまりK国は、日本を
人質にした状態で、米朝交渉をしようとしている。

 では、日本は、どうすべきか?

 何度も書いてきたように、日本は、あんなK国を、本気で相手にしてはいけない。またあんな
K国と、いっしょに、心中する必要はない。中に勇ましい人がいて、「なめられるな」とか、「国の
権威を守れ」とか言う人がいる。

 しかしあんな国を相手に、「なめられる」とか、「権威を守る」とか言うほうが、おかしい。K国
は、今や、世界一の貧乏国である。一般の労働者は、1か月分の給料をはたいても、3キロの
米すら買えない(C日報)。

 仮に核実験をしても、すぐさま報復とか、そういうことを考えてはいけない。また報復行動をと
ってはいけない。

 昔と違って、今では、リアルタイムで、日本やK国の情勢は、世界に報道される。つまりそうい
う(状況)を見て、それを判断するのは、私たち日本人ではなく、世界の人たちである。

 ジャッジは、世界に任せればよい。とういうのも、すでにこの日本には、100〜200人のK国
の工作員が、入りこんでいるという。そういう人たちが、この日本で、何をしでかすか、わかった
ものではない。仮に、細菌兵器でもばらまかれたら、数週間以内に、数10万人以上〜もの死
者が出ると言われている。

 それだけ無防備なままにしてきた日本政府にも、責任がないとは言わせない。拉致問題にし
ても、本当の責任は、日本政府にある。しかし悲しいかな、これが現実である。

 だからここは務めて冷静に。私は、世界の人たちがもつ、(善なる心)を信ずる。その(善なる
心)が、必ず、K国の金XXを、自然死に追いこむ。あえる必要はない。あの中国ですら、「(K国
が核実験をしたら)、強烈措置を取る」とすでに宣言しているではないか。

 ただ、時期を見て、飲料水の確保と、食糧の確保はしておいてほうがよいかもしれない。いく
ら「害はない」と言われても、安心して飲める水や、安心して食べられる食糧は、ほしい。大き
なことはできないが、庶民として、それくらいの自衛策は、講じておかねばならない。

 週刊P誌を読んで、そんなことを感じた。
(この原稿は、5月16日・月曜日に書いたもの。マガジンの載せるときには、国際情勢が大きく
動いているかもしれません。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育て格言】

●『ひまな子どもほど、忙しいと言う』

 『ひまな子どもほど、忙しいと言う』は、イギリスの格言。

つまりひまで、時間をもてあましている子どもほど、何かを言いつけたりすると、「忙しいからで
きない」を口実にして、しない。日本でも、昔から、『大工は、いそがしい大工に頼め』という。い
そがしい大工は、それだけ仕事から手を抜くかといえば、そうではない。反対にヒマそうな大工
ほど、それだけよい仕事をしてくれるのではと思いがちだが、実際には、そうではない。

 人はある緊張感に巻き込まれると、そのリズムで、仕事をするようになる。わかりやすく言え
ば、「活気」ということか。これは教師についても言える。毎日、忙しそうにキビキビと動いてい
る教師は、そのリズムの中で、どんどんと仕事をこなしていく。仕事ぶりもよい。しかし毎日ひま
そうな教師は、そのリズムで、どんどんと仕事をあと回しにしていく。そのため仕事から、できる
だけ手を抜こうとする。

 子どもを伸ばすコツは、言うなれば、こうした緊張感のあるリズムの中に、子どもを巻き込む
こと。そして子ども自身が、日々の生活をキビキビとこなしていくようであれば、よし。そうでなけ
れば、……と書いたが、この先がむずかしい。

一度だらしなくなってしまった生活は、なかなかもとには戻らない。たとえば子どもに退行的な
生活態度(約束や規則、目標が守れない。時間がルーズになる。生活習慣が乱れる。だらしな
くなる)が見られるようになると、それをなおすのは、容易ではない。要は、そういう子どもにしな
いことだが、親が寝そべって、せんべいを食べながら、「あんたはしっかりしてね」はない。結局
は、親の心がまえの問題ということになる。

 そこであなた自身はどうか。毎日、メリハリのある生活を、キビキビとこなしているだろうか。
さらに月単位、年単位で、キビキビとこなしているだろうか。もしそうなら、そうした緊張感は、子
どもによい影響を与えているはずである。そうでなければ、そうでない。

 ふつうキビキビと目標をもって生活している子どもは、「忙しい」とは言わない。「時間がない」
という。だからこのイギリスの格言をもじると、こうなる。

 『忙しい子どもほど、時間がないと言う』と。さて、あなたの子どもはどうか。あなた自身はどう
か。


●肥満傾向は手の甲を見る

 もう三〇年前になるが、仕事で香港へ行くたびに、私は低周波治療器なるものを数台買って
きた。向こうでは五〜六万円のものだったが、日本へもってくると、一〇万円以上で売れた。日
本では針治療や、ハリ麻酔の研究にそれを使った。治療器と言っても、簡単な機械で、ぎょう
ぎょうしい外装とは別に、中身はがらんどうだった。

 その機械を日本でもできないかと考えていたとき、私は皮膚電気抵抗値という言葉を知っ
た。人間の体に微弱な電流(3V程度)を流すと、体の部位によって、抵抗値が違うというのだ。
測定はマイクロアンペア計ですればよい。このアンペア計が、当時、精度のよいもので、四〜
五〇〇〇円。あとはそれに整流体(一方向に電流を流すようにするもの)や抵抗体(電流を、
測定しやすい値に補正するもの)をつければ、それで皮膚電気抵抗値を測定できた。実に簡
単な装置だった。値段も、乾電池を含めても、五〇〇〇円前後だった。私はそれを使って、ハ
リ麻酔の研究をつづけた。

 が、やがてその皮膚電気抵抗値を応用して、体脂肪測定器ができるとは、思ってもみなかっ
た。脂肪分の多い人は、当然抵抗値が大きくなる。脂肪は電気を通さないからだ。一方、脂肪
の少ない人は、それだけ抵抗値が小さくなる。

この値を補正すれば、「体脂肪率○○%」と表示することができる。まちがいなく、私はそのと
き皮膚電気抵抗値の研究では、最先端を走っていた。もしそのとき、それに気づいていれば、
億万長者になっていたと思う。人生には、そういう、つまり、あとで気がついてみるとわかるが、
そのときは見逃してしまうチャンスというのが、ときどきあるものだ。しかしこれは余談。

 その肥満。長い間、子どもの肥満を見ていて気づいたことがある。満四歳前後までは、乳幼
児期の肥満がつづいているが、それ以後、子どもの体形は、少年少女期に向かって、スリム
になっていく。そのとき、肥満傾向がつづく子どもは、手の甲の肉がぷっくりとふくれたような感
じになる。そうでない子どもは、そうでない。もう少し詳しく言うと、こうだ。

 手のひらをぐいとのばしてみる。すると五本の指の付け根に、指からのびる五本の腱が現れ
る。この腱の様子を見れば、子どもの肥満度をある程度、判断できる。

(肥満度一)子どもの肥満傾向が進むと、四肢の末端からその傾向がはっきりとわかるように
なる。たとえば手の甲(てのひらの部分の反対側)が、何となくぷっくりと張れたような感じにな
る。腱そのものが、わかりにくくなる。

(肥満度二)さらに肥満度が進むと、この腱がまったく見えなくなり、かわって、付け根のところ
に、えくぼが現れるようになる。

(肥満度三)さらに肥満度が進むと、手の甲全体が丸くふくらんだようになり、手を伸ばすと、甲
に深いえくぼが現れるようになる。この段階になると、肥満がだれの目にもわかるようになる。

 子どものばあい、肥満は大敵。(太る)→(運動不足になる)→(ますます太る)の悪循環に入
ると、肥満度は一挙に加速する。学習にも大きな影響が出てくる。これはあくまでも見た感じだ
が、脳へ行くべき血流が、どこかほかへ行くような感じになってしまう。そのため集中力や思考
力が弱くなる。

 こうした肥満傾向が見られたら、できるだけ初期の段階で、家庭の中から、食べ物を一掃す
るのがよい。思い切って捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、そうする。そういう「思
い」が、まちがった買い物習慣を改めさせる。このタイプの親ほど、「うちの子はそれほど食べ
ていません」とか、「食事には注意しています」とか言う。しかしその反面、家の中には、食べ物
がゴロゴロしているもの。基準そのものが、ふつうの家庭と大きくズレていることが多い。

 なおこの手の甲をみる肥満度検査法は、ここにも書いたように、満四歳児以下には応用でき
ない。


●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まましてしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。「ヒロシ、日
本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、「ドラ化して
いる」という意味だ。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。しかしそれを見て見ぬフリし
たり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家庭教育のあり方を、かなり反
省したほうがよい。

子どもをかわいがるということは、どういうことなのか。子どもを育てるということがどういうこと
なのか。それをもう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。


●昼寝グセはガムで

 慢性的な睡眠不足とは別に、満五歳をすぎても、昼寝グセが残っているようなら、その時間、
ガムをかませるとよい。(だからといって、昼寝が悪いといっているのではない。もし気になるな
ら、ということ。)

 ここまで書いて気がついたが、本来人間は、生物学的に、昼寝をする習慣をもっているので
はないか。外国へ行っても、昼食後、昼寝する民族は多い。スペインに住んでいる知人も、少
し前メールで、こう教えてくれた。「このあたりでは、昼休みが長く、子どもたちは一度家へ帰っ
て、昼寝する。それで子どもたちも、夜一〇時をすぎても、通りで遊んでいる」と。日本の生活
習慣、あるいは常識が、そのまま世界の生活習慣の基準と考えるのは、正しくない。

 実のところ、私も五〇歳を過ぎるころから、昼寝をするようになった。毎日というわけではない
が、数日おきくらいにそうしている。そういう自分を振り返ってみると、昼寝は悪いものではない
と思うし、それが子どもにあっても、不思議ではない。むしろ現代生活のほうが、人間本来の生
活習慣をねじまげているのではないか?

 話はそれたが、ガムをかむことには、いろいろな利点がある。頭がよくなる(サイエンス誌)と
いう説もあるが、これなどは、素人が考えても、納得できる。あごの運動が、脳の活動を活発
化する。ほかにあごの筋肉を鍛えるということもある。当然、咀嚼(そしゃく=かむ)力が鍛えら
れる。胃腸のためにも、よい、などなど。そんなわけで、子どもにはガムをかませるとよい。が、
これにはいくつか、コツがある。

(1)当然のことながら、菓子ガムは、避ける。
(2)ガムは、一枚与えて、最低でも三〇分は同じガムをかませる。つぎつぎと交換するのは避
ける。
(3)はげしい運動中は、ガムは避ける。息を吸い込んだとき、のどをつまらせる。
(4)子どもの口にあった適量にする。幼児のばあい、ふつうのガムの半分の量でよい、など。
ほかにガムを捨てるときの、マナーを最初に、しっかりと教えておくというのもある。


●不安の原因は、わだかまり

 子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、あなた自身
の中に潜む、「わだかまり」をさぐってみる。わだかまりは、あなたの心の奥に巣をつくり、あな
たを裏から操る。

 わだかまりがあるということが悪いのではない。ほとんどの人は、何らかのわだかまりをもっ
ている。わだかまりがあるということが悪いのではなく、その「ある」ことに気がつかないまま、そ
れに振り回されるのが悪い。

 望まない結婚であった。望まない子どもであった。妊娠中に大きな不安があった。実家とうま
くいっていない。不幸な家庭生活だった。生活苦がある。夫婦げんかが絶えない。夫婦関係が
ぎくしゃくしている、などなど。こうした「思い」が、わだかまりとなり、それが「子育ての不安」を
増大させる。

 ある母親は、小学一年生の男の子を、「イヤーッ!」と叫んで、手で払いのけていた。長い
間、その理由がわからなかったが、いろいろ振り返ってみると、望まない結婚が原因だったと
いうことがわかった。

現在の夫(子どもの父親)は、その母親に対して、結婚前、執拗なストーカー行為を繰り返して
いた。が、その母親は心のやさしい人だった。「実家に迷惑がかかってはいけない」「私ひとり
ががまんすれば何とかなる」と考えて、その男と結婚した。が、そんな結婚だから、最初からう
まくいくはずがない。殺伐(さつばつ)とした結婚生活がつづいた。そこでその母親は、「子はか
すがいという。子どもをつくれば何とか、うまくいくだろう」と考えて、その男の子をもうけた。子ど
もが「ママ!」とすりよってくるたびに、その母親は、無意識のまま、その男の子を払いのけて
いたというわけである。

 こうしたわだかまりは、それに気がつくだけで、消えることはないが、おとなしくさせることはで
きる。そのあと少し時間はかかるが、やがて問題も解決する。そこで大切なことは、冒頭に書
いたように、いつも同じようなパターンで、同じように失敗するというのであれば、このわだかま
りを疑ってみる。何かあるはずである。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(705)

【韓国の教育事情】

 5月16日付けの、韓国・東亜日報は、現在の韓国の教育事情を、つぎのように報告してい
る。ポイントだけを、大きくまとめると、つぎのようになる(アメリカ・シンクタンクのランド研究所
報告)。

(1)過熱する海外留学ブーム

 韓国では今、小中学生による、早期留学が、一つのブームになっている。1995年に、225
9人だった、これら早期留学生たちは、04年には、1万人を超えた。その費用は、約2兆500
0億ウォン(=2500億円)。

(2)ソウル江南(カンナム)に集中する教育インフラ

 私教育が、ソウルの江南に集中している。そのため、高級人材は、この地を離れたがらず、
離れて仕事をするばあいも、家族を江南に残し、家族と離れて生活するケースが目立つとい
う。

たとえば三星(サムスン)電子の忠南天安(チュンナム・チョナン)LCD団地には、ソウルから
通勤する役職員が少なくないという。

(3)失敗する教育政策

 ソウル大学の調査によると、高所得者1万人中、ソウル大学へ入学する学生は、85年に
は、8・2人にすぎなく、一般家庭の1・3倍だったが、最近(05)では、それが16・8倍にまで上
昇した。

(4)少子化

 日本と同じように、韓国でも、少子化が問題になっている。その理由の第一は、「子どもの教
育費の負担」(韓国女性開発院)で、28%の既婚女性が、それをあげている。

(5)大学教育の停滞

スイス国際経営開発院(IMD)が最近発表した国家競争力評価のうち、「大学教育の社会要求
に対する一致度」では、韓国は60ヵ国のうち52位にとどまったという。

 以上、これらの事実を総合すると、つぎのような韓国の教育事情が、浮かびあがってくる。

 現在、富裕層を中心に、小中学生の海外留学が、さかんであるということ。またその教育イン
フラが、ソウル江南に集中しているため、子どもの教育を考えて、その地を離れたがらない親
が多いということ。

 さらに韓国でも少子化が始まっているということ。理由の第一は、子どもの教育費。ソウル大
学入学者についても、富裕層ほど年々、有利になりつつあるということ。

 また大学教育も、日本以上に権威主義的であり、そのため硬直した教育体制の中で、想像
的な教育ができなくなっているということ……らしい。

 また、この調査とは別だが、現在、多くの若者たちが、韓国を離れ、海外へ移住を始めてい
るという事実もある。(出稼ぎではなく、定住を目的とした移住である点に注意。)

韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後が、アメリカを中心として、海外へ移住している。
海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越えた。そのため、外貨の流出も、
大きな問題になっている。

(仮に韓国で大学を卒業して学位を取得しても、アメリカでは通用しない。そのため、アメリカへ
移住しても、単純肉体労働につくケースがほとんどだろいう。)

 ご存知のように、今、韓国では、一部の大企業のみが、巨額の経常黒字をあげている。その
代表的なものとして、S電子工業や、H自動車工業がある。

 しかしこれらの企業は、いわゆる「国策企業」であり、国の保護を徹底的に受けている企業で
ある。(国営とまではいかないが、しかし民営とは言えないという点で、「国策企業」と呼ばれて
いる。)

 が、何よりも深刻なのは、「海外定住をめざした留学生も、02年末までに、34万人を越え
た」という事実。日本の人口に換算すると、約120万人ということになる。

 もし日本の若者たちが、120万人も、海外定住を目ざして日本を離れるようになったら、その
とき日本は、どうなるか? それだけでも、たいへんな社会問題になるだろう。しかも、そういう
若者たちは、当然のことながら、多額の外貨をもちだす。そのため韓国政府は、一時期、その
持ち出し額(送金額)を制限したほどである。

またご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとして
いた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになったが、その機会を利用し
て、韓国は、財閥を解体した。その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行
になった。

 また現在、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、48歳ではな
い。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んできた。
しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会へと激
変した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬまで安泰という社会を、自
ら破棄したわけである。

 そのことが、よかったのか、それともかえって悪かったのか。その結果は、もう少し先を見な
いとわからない。しかし現実に、多くの若者たちが国を去り、富裕層たちがこぞって子どもたち
を、海外へ早期留学をさせているところをみると、韓国の未来は、それほど明るいものとはい
えないのではないか。

 一方、この日本でも、ジニ指数が、0・5に近づいてきた(厚生労働省が04年6月に発表)。ジ
ニ指数というのは、世帯ごとの所得格差を示す数字である。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3
の人たちが、残った4分の1の所得を分けあうという数字である。つまり貧富の格差をそのまま
示す数字といってよい。

 もう少しわかりやすい数字で説明しよう。

 仮に、100人の人が、1億円を稼いだとしよう。上位25人の人が、そのうちの7500万円を
自分たちのものにする。平均して、1人あたり、300万円。

 残った75人の人が、残った2500万円を分ける。平均して、33万円と少しということになる。
単純に見ても、貧富の格差は、10倍ということになる。これが今の日本の現状である。

 このままこうした状態を放置すれば、日本は、どうなるか? この先は、みなさん自身で考え
たらよい。「競争社会だから、しかたない」とあきらめるか、「おかしい」と思って、行動に移す
か。それは、私たち1人ひとりの問題である。

 韓国は、日本と比較して、国家規模も小さく、同じように経済規模も小さい。さらに教育インフ
ラは、ソウルに、かたよっている。そういう意味では、韓国を見れば、日本の教育の将来がわ
かる。

 そういう意味で、韓国の教育事情について、考えてみた。
(はやし浩司 韓国 韓国の教育事情 ジニ指数 38歳定年制)

【補足】

 韓国の若者たちが、海外移住をすることになった背景には、それにいたるまでのいくつかの
要因(ファクター)がある。

 韓国は、97年のはじめには、通貨危機を経験している。そしてそのあとの、国家破綻(デフ
ォルト)へと、つづく。それ以前にも、メキシコ、アルゼンチン、ソ連などが、国家破綻に追いこま
れているが、韓国の国家破綻は、官と民の両方が破綻したという点で、特徴的である。

 その結果、当然のことながら、失業者が増大した。

 98年の資料によれば、97年だけでも、以下の主だった会社群が、倒産、閉鎖に追いこまれ
ている(韓国公正取引委員会)。

 現代(解体)
 大宇(破綻)
 双龍(破綻)
 起亜(破綻)
 韓宝(破綻)などなど。

 そのため、ちまたには、失業者があふれ、物価は上昇した。失業者は、150万人。その他の
生活物資は、30%前後の値上がり。たとえばガソリン、35%、灯油、77%、食料品、27%な
ど。

 こうして韓国は、社会そのものが、不安的になり、犯罪も増加した。現在、日本へやってくる
強盗団、スリ集団は、そういう不安を背景にして生まれた犯罪集団と考えてよい。

 韓国の国家破綻は、もちろん教育にも、大きな影響を与えた。

 韓国のそれまでの受験競争は、日本の比ではなかった。が、この国家破綻によって、そのあ
と、「大学は出たけれど……」という状態になってしまった。国家破綻後、大学生の就職率は、
20%前後までさがってしまった。つまり5人に1人しか、就職できなくなってしまった。

 そこで「就職がダメなら、大学院進学、弁護士などの資格取得、あるいは海外留学しかない」
(藤井巌喜氏・「国家破綻後の世界」)ということになってしまった。

 これが「空前の海外留学ブーム」(同)へとつながった。

 藤井氏の本によれば、

 2001年度の韓国からの移民者数……1万3953人
 以後、同じ水準で、移民がつづいているとのこと。

 これらの移民の特徴は、いわゆる低所得者層の出稼ぎ的移民ではなく、ある程度の知識層
の、人材流出であるという点である。しかも移民先は、日本とかアメリカはもちろんのこと、中
南米にも「相当数」(同)が行っているところにあるという。

 藤井氏は、97年の国家破綻が、韓国の社会構造そのものを変えてしまったと説く。しかしそ
れは同時に、日本の近未来の姿と考えてもよい。
(参考、藤井巌喜氏・「国家破綻後の世界」光文社、およびimidas2005、集英社)
(はやし浩司 韓国の教育 教育事情 韓国の大学生 教育現状 韓国)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●ごみを捨てる人、拾う人

 私の家の周囲には、まだ空き地が多い。それはそれでよいことなのだが、そのため、そうい
った空き地は、かっこうのゴミ捨て場になっている。いつも、だれかが、何かのゴミを捨ててい
く。

 で、今日もそのゴミを集めながら、ふと、こんなことを思う。

 「この世の中には、ゴミを捨てる人と、ゴミを拾う人がいる」と。

 ゴミを捨てる人と、ゴミを拾う人は、はっきりと、2種類に分かれる。もちろん、その両方ともし
ない人もいる。しかしこれだけは言える。

 ゴミを捨てる人は、ゴミを拾わない。ゴミを拾う人は、ゴミを捨てない。

 つまり、人間の脳みそは、それほど、器用にはできていない。ゴミを捨てる人が、あるとき
は、ゴミを拾う人になるとか、反対に、ゴミを拾う人が、あるときは、ゴミを捨てる人になるとか、
そういうことはありえない。

 もしそんな矛盾したことを繰りかえしていると、頭の中が分裂してしまう。こういうのを、行為の
一貫性という。私が言う、『一事が万事論』でもよい。つまり人間の行為には、そのつど、一貫
性がある。

 で、その一貫性は、何も、ゴミ拾いにかぎらない。たとえば小ズルイ人は、何かにつけて、小
ズルイ。一方、誠実な人は、何かにつけて、誠実。ここにも書いたように、小ズルイ人が、とき
に誠実になったり、誠実な人が、ときに小ズルくなるということは、ありえない。

 ただ自分をごまかすことはできる。ときとばあいに応じて、たとえば悪人が善人ぶったりする
ことはできる。(反対に、善人が悪人ぶることは、めったに、ないが……。)

 しかしそれをするにしても、かなりの気力と神経を消耗する。こんな事件があった。

 ある妻が愛人の男と共謀して、彼女の夫を殺害した。よくある事件である。しかし妻は、自分
が犯人であることがバレないように、葬儀の席では、悲しみにうちひしがれた妻を演じて見せ
た。ときに涙をこぼし、ときに、弱々しくフラついて見せたりもした。

 その程度の演技なら、だれにでもできる。葬式の日一日くらいなら、できる。が、毎日となる
と、そうはいかない。

 そういうことはある。

 しかしゴミ拾いは、そうではない。ゴミを拾ったところで、自分への利益は、まったく、ない。だ
れかが見ているというわけでもない。自分をごまかす必要もないし、ごまかしたところで、意味
がない。

 つまり、そういう点では、あるがままの自分ということになる。

 だからといって、私が善人というわけではない。しかしこと、ゴミに関して言えば、私は、いつも
(ゴミを拾う人)であって、(ゴミを捨てる人)ではない。現実に、この30年以上、(それ以前から
も、記憶はないが……)、ゴミを、そうでない場所へ、捨てたことは一度も、ない。

 もし私が(ゴミを捨てる人)なら、ゴミ拾いはしないだろう。またそういう意識も生まれないだろ
う。

 そこで、こんなことにも気づいた。

 私の近所には、多くの定年退職者たちが住んでいる。みな、70代、80代の人たちである。

 中には、近所のために、あれこれ無料奉仕の活動をしている人もいる。町内の仕事を引き受
け、献身的に、それをこなしている人もいる。

 しかし全体としてみると、何もしない人のほうが、はるかに多いのでは……? 自分の家のま
わりの掃除程度ならする人はいる。が、しても、そこまで。

 そこでそういう(何もしない人)を、よく観察してみると、そういう人たちは、(自分のことしかし
ない人)であることがわかる。そしてそういう姿勢そのものにも、一貫性があることがわかる。

 たとえば少し離れたところに、学校があり、その学校のそばにA氏という人が住んでいる。今
年、70歳になった。現役時代は、○○署のH支所で、所長をしていたという。

 このA氏などは、何もしない。まったく何もしない。しないばかりか、空き地の草が少し伸びた
だけで、すぐ市役所の苦情課に電話をかける。しかしそれだけではない。少しでも市役所の職
員の対応が遅れたりすると、今度は、その状態を写真にとって、警察へ送り届ける。「ちゃんと
処分しろ」と。(警察に送ってもしかたないと思うのだが……。)

 まさに一事が万事。自分の周辺で起きる問題を、そういう形で解決しようとする。

 そして事件が起きた。

 多分、中学生のいたずらか何かだろうと思うのだが、だれかが、飲んだジュースの空き缶
を、A氏の庭に投げ入れた。

 が、その空き缶を、A氏は、その隣のB氏が投げ入れたと思った。A氏は、その空き缶をもっ
て、B氏のところへ怒鳴りこんでいった。「どうして、お前は、こんなものを、オレの家の中へ捨
てるのだ!」と。

 しかし私は、その話を聞いて、即座に、「Bさんは、そんなことをする人ではない」と言うことが
できた。B氏は、よく近所のゴミを拾っている。最近では、家の前の学校の側溝の掃除までして
いる。そんなB氏が、空き缶というゴミを捨てるはずがない。いわんや他人の家の庭の中へ!

 で、ここが重要な点だが、(ゴミを捨てる人)には、(ゴミを捨てない人)の心理が理解できな
い。もっとはっきり言えば、この人間社会では、より高レベルにいる人からは、より低いレベル
にいる人が、どういう人かはわかる。が、より低いレベルにいる人からは、より高いレベルにい
る人がどういう人かは、わからない。低レベルの人は、いつも自分を基準にして、ものを考え
る。「自分がそうだから、他人もそうだ」と。

 このケースでは、A氏はより低いレベルにる人ということになる。だからA氏には、B氏が理解
できない。B氏も、自分と同じように、他人の家に空き缶を捨てると思う。だからB氏の家に怒
鳴りこんでいった。

 この世の中には、(ゴミを捨てる人)と、(ゴミを拾う人)がいる。どちらの人間になるかは、結
局は、私たち次第ということになる。

(補記)

 同じように、賢い人からは、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは、賢い人がわから
ない。

 同じように、自分がより賢くなったりすると、それまでの自分の愚かさがよくわかることがあ
る。

 つまり賢いとか、愚かということは、あくまでも相対的なことでしかない。

 さらに言えば、それは健康論にも似ている。

 病気になってはじめて、それまでの健康が、わかる。健康のありがたさがわかる。そしてその
病気から回復したとき、健康というものが、どういうものであるかがわかる。

(補記2)

 人は、いつごろから進歩を止めるのか?

 進歩というより、新しい考え方に興味をもたなくなるのか?

 この問題を考えていくと、「では、私はどうか?」という問題に、行き着いてしまう。「私は、進
歩しているか?」「私は、常に新しい考え方に興味を示しているか?」と。

 しかしよく考えてみると、私は、進歩どころか、退化しているかもしれない。興味の範囲も、ま
すます狭くなってきた。書く文章にしても、このところ、どんどんとサエが消えてきたように思う。
どこか高校生が書く文章ぽくなってきた。浅い。いいかげん。甘い。

 ひょっとしたら、生きることそのものが、どうでもよくなってきたのかもしれない。あるいは初老
性のうつ? よくわからないが、まあ、そんなところかもしれない。

 
●ドキッとする話

 R天のHPの掲示板に、書きこみがあった。掲示板には、いろいろな書きこみがある。しかし
その書きこみには、さすがの私でも、ドキッとした。(「さすが」というのは、かなり免疫力のある
私でも、という意味。)

 もちろん、まじめな(?)書きこみである。よくあるスケベサイトへの勧誘でもない。相談でもな
いが、しかし、だからといって、そのまま無視できる内容でもない。で、結局、しばらく、「ウ〜ン」
と考えたあと、その書きこみは、削除することにした。何かと誤解を招きやすい。

 せっかく(?)書いてもらったのに、申し訳ない気持ち。それはあった。しかし残しておくことも
できない。だから削除した。そんなわけで、Kさん、ごめん!

 で、その内容だが、おおまかに言えば、つぎのような内容だった。

 「最近、女子高校生を誘拐し、監禁するという事件が、起きています。どうして男性は、女子
高校生に、そんなに興味をもつのでしょうか。体やセックスが目的ということは、よくわかりま
す。しかし相手は、まだ女子高校生です。

 男性が興味をもつとしたら、あの部分ということになりますね。しかし私もその女子高校生だ
ったときがあるので、よく知ってしますが、女子高校生って、不潔で、汚くて、臭いですよ。女性
なら、そんなこと、みんなよく知っています。

 何かの病気をもっている女子高校生など、ザラです。

 そういう女子高校生とセックスをして、どうして男性は、楽しいのでしょうか。たまたま私の夫
は、私と、10歳ほど、年齢がちがいます。で、その夫に、「女子高校生とセックスしてみたいと
思ったことがある?」と聞くと、「ある」と言いました。

 私だって、じゅうぶん若いし、女子高校生とは、○歳しか、年が離れていません。にもかかわ
らず、夫まで、そう言います。

 そこで、そういう性犯罪を減らすためには、女子高校生たちが、いかに不潔で、汚くて、臭い
かを、みんなが知ればいいと思います。ついでに病気をもっている女子高校生が、多いことも
知ればいいと思っています。

 そうすれば、そういう犯罪は、なくなると思います」(Kより)と。

 ナルホド! そういうこと!

 不潔で、汚くて、臭いのは、何も、女子高校生にかぎらない。男子高校生でも、汚くて、汚く
て、臭い。3日も風呂に入らなかったりすると、自分でも手でさわれないほど、臭くなる。

 ……と考えてみると、男女の関係というのは、おかしなもの。男女の関係というよりは、「性
器」というのは、おかしなもの。男は、女の性器にかぎりないロマンをいだき、女は男の性器に
かぎりないロマンをいだく。

 そしてそのロマンは、無数の花を咲かせ、ドラマを生む。

 しかしやはり考えてみれば、この女性の言っていることは正しい。恐らく体の中で、1番、不潔
になりやすく、汚く、そして臭いのが性器。しかし男も、女も、そこに最大のロマンを覚える。

 もっとも、こんなことを若い人に言っても理解してもらえないだろう。私くらいの年齢になっては
じめて、それがわかる。若いときは、不潔でも、汚くても、そして臭くても、かまわない。愛する
女性(男性)の体であれば、なおさらだ。

 ある男性(私じゃ、ないぞ!)は、こう言った。「一晩中でも、女のあそこをなめていたい」と。ま
た実際、毎晩、夫のペニスをしゃぶりながら眠りにつく妻もいるそうだ。そういう話を聞くと、「フ
ーン」と思ったり、「そういうものかなあ」と思ったりする。

 しかし50歳もすぎるころから、男や女を、客観的に見ることができるようになる。性欲の減退
が、それに拍車をかける。つまり性器で、相手を見るのではなく、性器を飛び越えて、人間とし
て、相手を見るようになる。

 そういう視点で見ると、その女性の言っている意味がよくわかる。どこかにスケベな女性がい
て、男子高校生のペニスをしゃぶりたいと言ったら、私も、同じように思うだろう。

 「女性って、どうして、あんな不潔で、汚くて、臭いものに、興味をもつのだろう」と。

 しかし、それが、「本能」ということになる。その本能があるからこそ、人間は、種族を今に伝
えることができた。「汚いから、やめた!」と言ってしまったら、その時点で、人間は、絶滅してし
まうことになる。

 で、その本能にブレーキがかからなくなってしまった。今回の監禁事件は、そうして起きた事
件である。その男は、27歳だったとか。夜、寝るときは、女子高校生が逃げないように、たが
いの手を手錠でつないで眠ったという。そういう意味では、ものすごい性的エネルギーの持ち
主ということになる。

 私も結構、スケベなほうだったが、そこまでは考えなかった。ただし一言。

 私自身は、女性のそれを、不潔で、汚くて、臭いと思ったことは、一度もない。今でも、私にと
って、それは、かぐわしく、美しく、神秘に満ちたもの。その意識は、恐らく、死ぬまで変わらな
いだろう。

【付記】

 しかし男も、女も、体で相手を愛するのではない。セックスだけなら、それほど相手を好きで
なくても、できる。(嫌いな相手とでは、できないが……。)

 セックスそのものは、排泄行為。それ以上の意味はない。しかし相手が、愛する男や女だっ
たりすると、セックスは、別の意味をもつようになる。愛そのものに、深みができる。セックスを
重ねることによって、さらに愛が深まるということもある。

 ……とまあ、こんなわかりきったことを書くのは、やめよう。「林も、その程度のことしか知らな
いのか!」と笑われそうである。どうも、私は、昔から、この手の話が苦手である。

 だから、この話は、ここまで。ごめん!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●進歩と後退

 思想の方向性は、思春期ごろにできる。左翼的であるにせよ、右翼的であるにせよ、そのこ
ろできた方向性というのは、そののち、簡単には変わらない。

 そのあと、人は、自分にとって耳ざわりのよい意見には耳を傾ける。耳ざわりの悪い意見か
らは、自らを遠ざける。

 こうして人は、自分の思想を、かためていく。が、一度かため始めると、今度は、ますますか
たくなになり、自分の思想に、しがみつこうとする。左翼的な人は、ますます左翼的になり、右
翼的な人は、ますます右翼的になる。

 途中で変更するということは、まず、ない。変更するということは、いわばそれまでの自分に
対して、敗北を認めることになる。時間をムダにすることになる。

 こうして10年たち、20年がすぎる。

 そこで大切なことは、その間に、つまりまだ脳ミソがやわらかい間に、いろいろな人に出会
い、いろいろな意見を聞くこと。コツは、「絶対、自分が正しい」とは、思わないこと。100人の
人がいれば、100種類のものの考え方がある。私やあなたの考え方は、その一つにすぎな
い。

 もうひとつのコツは、それぞれの考え方は、みな、平等であると知ること。上下はない。優劣
もない。「自分は正しい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、その返す刀で、「あ
なたはまちがっている」と言ってはいけない。

 ここで注意しなければならないのは、こうした思想というのは、立ち止まったとたん、サビつき
始めるということ。それは健康に似ている。運動をやめたとたん、体の調子は悪くなる。そのと
きから、体は、少しずつ、むしばまれていく。

 立ち止まってはいけない。

 いつも新しい思想を、補充していく。それは健康を維持するための、日々の運動に似ている。

 反対に、頭の脳ミソがサビついた人を見れば、それがわかる。10年前と同じことを言う。20
年前と同じことをいう。しかも10年前、20年前より、話している内容が浅い。

 ためしに、電車の中で、大声で騒ぐ、オバチャンたちの会話を聞いてみるとよい。「隣の娘が
どうの」「近所の男がどうの」と、そんな話ばかりしている。ああなる。

中学生や高校生の会話なら、まだわかる。ときに、これが人生を半世紀も生きてきた人の会
話かと思って、あ然とするときがある。

 人間は、考えるから人間である。頭の脳ミソだけは、そんなわけで、ぜったいにサビつかせて
はいけない。

(補足)

 運動にしても、若いころは、週に数回、2〜3時間程度の運動で、それなりの健康を維持でき
た。しかし加齢とともに、それでは、健康を維持できないことを知る。

 具体的な数字は、よくわからないが、少なくとも、毎日、1〜2時間は、必要ではないか。それ
を怠ったとたん、翌週には、体がダルくなってしまって、使いものにならなくなる。

 思考も、そうだ。

 風邪をひいたりして、1週間も、だらしない生活をしたりすると、頭が動かなくなる。パソコンに
向っても、画面をぼんやりと見つめているだけ……。

 で、時間を決めて、毎日、雑誌を読んだり、あちこちから情報を集めたりする。しかしそれで
も、現状維持が精一杯。もし進歩ということを目ざすなら、さらに考える時間をふやさなければ
ならない。しかしそれは、不可能。

 そこで私のばあい、時間を有効に使うことを考える。くだらないことは考えない。ムダなことは
考えない。同じことは考えない、など。

 そういう意味では、このところ、(時間の限界)を強く感ずるようになった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●祖父母と孫

 現在、自分の子どもを好きになれないと、人知れず悩んでいる母親は、8〜10%いる。10
人に1人である。「妹は好きだが、兄は、どうしても好きになれない」「自分の子どもでも、それ
ほど好きという感覚はない」というケースを含めると、もっと多い。

 親子でも、そうである。いわんや、自分の孫となると、もっと、多い。具体的な調査があるわけ
ではないが、「孫が好きになれない」と思っている祖父母は、ざっとみても、50%は、いるので
はないか。

 そんなわけで、「親だから、子どもが、好きなはず」「祖父母だから、孫が、かわいいはず」と
いう『ハズ論』ほど、あてにならないものはない。また、その『ハズ論』だけで、親子関係や、祖
父母と孫の関係を、決めてかかってはいけない。

 近くに住む、Sさん(59歳女性)は、いつもこう言っている。「さみしいから、孫には遊びに来て
ほしいと、思う。しかし半日もいっしょにいると、心底、もう帰ってほしいと願うようになる」「騒々
しくて、たまらない」と。

 昔から『来て、うれし。帰って、うれし』というのは、孫のことをいう。

 が、自己中心的な若いパパや、ママには、それがわからない。

 自分の子どもを見ながら、「おじいちゃん、おばあちゃんも、かわいいと思っているはず」「会
いたがっているはず」と考える。そしてそういう前提で、ものごとを考える。考えて、あれこれと、
祖父母に要求する。「孫の世話をしてほしい」「預かってほしい」「生活費を応援してほしい」と。

 ある若い母親は、私にこう言った。

 「息子と娘を、おじいちゃんの家に預かってくれないかと、再三再四、頼んでいるのですが、ど
うしても預かってくれません。孫に冷たいです。どうしたらいいでしょうか」(K県・MS)と。

 理由を聞くと、「祖父母の家は大きく、土地も広い。教育環境もいいから」と。

 しかし(ときどき遊んでやる)と、(預かる)とでは、大きくちがう。その若い母親にすれば、「孫
ではないか」ということになるが、預かるほうは、そうは思わない。自分の子ども以上に、大きな
責任を感ずる。(事故を起こしたり、ケガをさせたときのことを、考えてみればよい。)

 しかもやっと、「悠々自適な老後を……」と思っていた矢先、「孫の世話」とは!

 はっきり言おう。孫はかわいい。しかしかわいいだけでは、人間関係は育たない。孫がかわ
いいと思えるようになるには、条件がある。

 まず、ときどきでもよいから、孫に会わなければならない。そして成長を見守り、思い出をつく
らなければならない。会話をしなければならない。

 そうでないと、祖父母は、ただ一方的に、孫へのサービスだけを強いられるようになる。また
それだけで終わってしまう。ほしいものを買ってあげたり、遊びにつれていってやるだけでは、
人間関係は、育たない。

 そこで私は、相談してきたMSさんに、こう返事を書いた。

【MSさんへ】

 祖父母には、祖父母の生活というものがあります。親子関係と同じものを、祖父母に求めて
はいけません。期待するのも、おかしいです。

 表面的はどうか知りませんが、内心では、ひょっとしたら、あなたが子どもを思うほど、孫のこ
とを思っていないかもしれません。(中には、孫に夢中になってしまうおじいちゃん、おばあちゃ
んもいますが……。)

 そのあたりの気持ちを、正しく確かめたほうが、いいと思います。預ける、預けないは、その
あとの問題です。
 
 これは私の経験ですが、私にも、孫がいます。もうすぐ3歳になります。しかし会ったのは、1
度だけ。「かわいい」とは思いますが、最近、自分の中に起こりつつある変化に気づいていま
す。

 同年齢の子どもたちが、おしなべて、みな、かわいく思えてくるのです。幼児教育をしている
せいです。「ああ、この子も3歳か」と思ったとたん、その子どもに、言いようのない、いとおしさ
を覚えます。つまり、私にとっては、相手は孫でなくても、よいわけです。また孫にかぎる必要は
ないわけです。

 広く、どの子どもに対しても、祖父母らしい愛情を感じるようになりました。だからといって、実
の孫への愛着が消えたというわけではありませんが、そのときがきたら、そのとき考えようとい
うふうに、変わってきました。とくに、会いたいなどという気持ちは、ありません。あくまでも息子
夫婦、次第です。

 (孫にしても、「これがあなたのおじいちゃんよ。好きになりなさい」と強要されても、困るでしょ
うし……。)

 つまり、親子関係、祖父母関係といっても、そこは、純然たる人間関係です。人間と人間の関
係です。「関係」にこだわる必要はないのではないでしょうか。

 嫌いなら嫌いでよいのです。会いたくなければ会いたくないで、よいのです。無理に心をねじ
まげる必要はありません。自然の流れに、任せましょう!

 で、あなたの祖父母と、(義理の祖父母ということになりますが)、あなたの子どもの関係につ
いても、同じです。あなたの「心」を中心に、ものごとを考えてはいけません。何か、特別な事情
でもあれば、話は別ですが、今の状況では、やはりお子さんは、あなたの手元に置いて、子育
てをするのが、ベストではないでしょうか。

 要するに、祖父母に、子育てを期待しないこと、です。子育てをするのは、あくまでも、あなた
がた夫婦です。
(はやし浩司 孫育て 祖父母と孫 孫の問題)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●K国の核実験

 今のK国を、(まともな論理)で考えていけない。トップが、まともではない。だからまともな論
理は、通用しない。

 で、今、まともな政治評論家たちは、「いくらなんでも、K国は、核実験まではしないだろう」と
か言っている。核実験をしたとたん、ロシアも中国も、K国から離れる。

 まともな論理で考えると、そうなる。しかしあのK国では、一晩で、その論理がひっくりかえるこ
とがある。

 その可能性を考えると、K国が核実験を強行する確率は、きわめて高い。前日まで、「しない
だろう」と思っていても、その翌日に、ドカン!……ということもありえる。またそういうことをした
としても、今のK国では、何もおかしくない。

 が、問題は、そこから始まる。

 週刊誌や月刊誌は、さかんに、「死の灰」について、論じている。「封印は、完ぺきか」「旧ソ
連でも、30%〜40%の実験で、放射性物質の漏洩があった」と。しかし私の予想では、K国
は、あえて死の灰を、空中にバラまくようなことをするのではないか。

 つまりあえて、不完全な密閉をし、核爆発でできた放射性物質を、空中にバラまく。考えるだ
けでも、恐ろしいことだが、あのK国なら、そういうことも、ありえる。つまりそれだけでも、日本
や日本の経済に与える影響は、甚大である。株価かは大暴落。人々は、安全な食料や水を求
めて、パニック状態になる。

 が、K国は、こう弁解するだろう。「事故が起きた」と。あるいは、沈黙を守るかもしれない。さ
らなる核実験を、予告するかもしれない。

 願わくは、実験直後に風向きが変わること。首都のP市のほうへ向けば、さらにうれしい。日
本人なら、みな、こう叫ぶだろう。「ヤッター!」と。

 どちらにせよ、つまり核実験をするにせよ、しないにせよ、この6月は、K国から目が離せな
い。ただ一言、つけ加えるなら、韓国のN大統領のノー天気ぶりには、あきれるばかり。

 「K国は、核兵器はもっていない」「核実験は、おどしにすぎない」「核実験をするという情報
は、アメリカのでっちあげ」などなど。そしてムダとわかっていながら、「同胞」「同胞」と、K国に
すり寄っていく。工業団地までつくってやる。肥料や食料の援助をする。アメリカや日本が、そ
のつど、「やめなさい」とアドバイスをしても、聞く耳すら、もたない。

 もしK国が核実験をしたら、その責任の大半は、韓国にある。「K国が、核兵器を開発するこ
とには、一理ある」などと言ったのは、どこのどなたか? が、皮肉なことに、もしK国が核実験
をしたら、韓国経済は、大打撃を受ける。崩壊するかもしれない。すでに約30%の外資系企
業が、韓国から逃避するという、うわささえ流れている。

 ところで今(05年5月)、韓国国内では、「韓国も、G8入りをめざすべき」という議論が、さか
んに行われている。「GDPで、世界で第11位の国になったのだから、当然だ」と。そのための
助力を、アメリカに求めている。

 11位といっても、経済規模からして、日本の10分の1以下。一部の国策企業をのぞけば、
あとは、日系企業を中心とする外資系企業ばかり。そんな韓国が、どうして、またどうやってG
8に入るつもりなのか。入るべき国があるとしたら、インドがある。ブラジルがある。韓国は、つ
ぎのつぎの、そのまたつぎ!

 さらに、つい先日は、「韓国バランサー論」※をぶちあげて、とうとうアメリカを怒らせてしまっ
た。「韓国が、アメリカと中国の間に立って、北東アジアにおける、バランサーの役割をする」と
いうのが、それ。いつから韓国は、世界の超大国になったのか?

 決して意地悪をするつもりはないが、日本が国連安保理入りをめざしたときの、あの露骨な
意地悪は何か? 韓国は、世界中に特使まで派遣して、それに反対した。

 で、もしK国が核実験をしたら、日本では、一気に反K国世論がもりあがるだろう。今度ばか
りは、拉致問題程度の反K国世論ではすまない。へたをすれば、そのまま日本とK国は戦争状
態に突入するかもしれない。

 もうそのときは、「冷静になろう」という私の声など、かき消されてしまうだろう。日本は、戦後、
最大の危機を迎えることになる。
(この原稿は、5月18日に書いたものです。)

(緊急アピール)

 世界の良識を信じて、ジャッジ役は、世界にしてもらおう。日本は、事実だけを冷静に、世界
に伝えていこう。あとの判断は、世界に任せればよい。日本は、あんな国を本気で相手にして
はいけない。その価値もない。日本は、あんな国と、ぜったいに、心中してはいけない。

(補記)

 私は子どものころ、よくけんかをした。しかしメチャメチャしていたわけではない。いつも相手
を選んで、した。

 そのとき、よく使ったセリフが、「あんなヤツは相手にするな」だった。相手にする価値がない
と判断したとき、そう言った。

 日本も、もうそろそろ、アイデンテティ(自我の同一性)を明確にすべきときに、きているので
はないか。何を守り、何に向かって進むべきか、それを、明確にする。

 私は、それは、自由と平等と平和、そして民主主義であると思う。それに向かって、まっしぐら
に、進む。(進むべき道)と、(今、していること)が一致したとき、日本という国には、すばらしい
パワーが生まれる。

そしてその日本の、自由と平等と平和を侵害するものがあれば、そのときは、日本は、本気
で、それと立ち向かう。戦争も辞さない。

 今のK国は、そういう日本が、本気で相手にしなければならないような国ではない。

注※……「アメリカのヒル次官補は、ソウルで行なわれた同紙とのインタビューで、N大統領の
(北東アジアのバランサー論)について言及する際、失望の表情を見せながら、「韓国が同盟
体制を保つことを信じている」と述べたと、同紙は報じた(5月16日、C日報)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本PTA全国協議会の報告より】

●学力低下

 このほど、日本PTA全国協議会が、こんな調査結果を公表した(17日)。
 
小中学生の学力低下を心配している保護者  ……76%
教育基本法に「愛国心」を盛り込むことが大切……72%

 ほかに「教員の裁量の大きい(総合的な学習の時間)は、約半数が肯定的に評価しているも
のの、2割は「教員、学校により授業に差がついた」と感じていることもわかった。(教員免許更
新制)も、7割が必要と考えるなど、指導力不足教員への不信感が根強いことも明らかになっ
た」(同、調査)という。

(学力低下について)

 しかしあえて言おう。だれも、どこの親も、「学力低下など、心配していない」。親たちが心配し
ているのは、受験で、自分の子どもが不利になること、だ!

 具体的に報告しよう。

 現在、H市内(人口80万人)の、S女子私立中学校では、1年の半ばごろには、1年生でする
学習内容をほぼ終了し、2年にもなると、3年の範囲まで、学習範囲をのばしている。

 たとえば2年生で、英語では、関係代名詞などを学習している。数学では、二次方程式を学
習している。

 市内に、中高一貫校も一つ、あるが、そこでも似たような指導をしている。学習量そのもの
が、ちがう。ぶ厚い副読本に、テキスト、参考書、さらに問題集などが、生徒に配布されてい
る。中学1年生でも、夏休みには、英語の副読本を、1冊、読むことになっている。

 のんびりと、学習指導要領に沿って学習を進めている、公立のふつう(?)の中学校とは、大
ちがいである。

 これでは、「差」がついて、当然。高校入試、大学入試ともなれば、公立のふつうの中学校の
生徒が、不利になるのは、当然。明らか。これから先、その「差」は、歴然としたちがいとなっ
て、現れてくるはず。親たちは、それを心配している。

(愛国心について)

「教育基本法に「愛国心」を盛り込むことが大切……72%」という。

 こうした調査で注意しなければならないのは、選択肢が、どのように用意されていたかという
こと。

 新聞報道だけではわからないが、たとえば、つぎの二つだけの選択肢だけであったら、あな
たは、どちらに答えるだろうか。

(1)教育基本法に「愛国心」を盛り込むことは、大切。
(2)教育基本法に「愛国心」を盛り込むことは、大切ではない。

 大半の人は、(1)を選ぶにちがいない。賛成か、反対かという議論をする前に、「国を愛する
こと」に、反対する人はいない。(「国」の意味にも、いろいろあるが……。)とくにこうしたデリケ
ートな問題については、調査する側の、隠された意図が、微妙に働くことがある。

 もう25年前になるが、あのA新聞が、北海道で、こんな調査をしたことがある。

 塾についての調査である。当時は、「塾・必要悪論」が、日本中を騒がせていた。いわく、

(1)塾は、必要ないが、あってもよい。
(2)塾は、必要ないので、ないほうがよい。

 この2項目だけ。そしてこれらの質問に答えた人すべてを、合算して、「78%の人が、塾は必
要ないと答えた」と、新聞に、堂々と発表していた。

 あなたには、この統計マジックが、わかるだろうか? 私は今回の調査でも、どこかでそうい
った操作がなされたのではないかと、心配する。つまりこの数字だけを見て、「72%もの人が、
愛国心教育に賛成」と考えるのは、どうかと思う。

 郷土を愛する、文化や伝統を愛する、言葉や風習を愛する……ということと、体制としての
「国」を愛するということは、別。日本で、「愛国心」というと、どうも、このあたりが、すっきりしな
い。戦前の苦い経験も、まだ人々の心の奥に、深く残っている。

なお実際の質問は、「郷土と国を愛する心と、国際社会の一員としての意識は大切」という内
容でなされた。そうならよけに、「反対」と答える人は、少ないはず。

(教員免許更新制) 

 7割の人が、教員免許更新制に賛成だという(71%が、導入に賛成)。しかしここにも、問題
のすりかえがみえられる。

 要するに、親たちは、やる気のない、指導力不足の教師を排除したいということ。免許の問
題ではない。

 つまり免許があればよいという問題でもない。またあったから、それでよいということでもな
い。親たちが求めているのは、教師を選択する自由。だから本来なら、この質問項目は、(教
師選択の自由)という内容で、調査したほうが、よかったのではないか。

(1)教師を選択できるようにすることに賛成。
(2)教師を選択できるようにすることに反対。

 何も、免許にかこつけることはない。アメリカなどでは、公立の小学校でも、学年制もなけれ
ば、担任制もない。クラス名は、そのクラスを統括、管理する教師名で呼ばれるならわしになっ
ている。

 「モーガンズ・クラス」「ジョンソンズ・クラス」と。

 「うちの子は、まだ、進級するだけの学力が身についていないから、もう一年、モーガン先生
のクラスでお願いします」などという会話が、校長との間で、ごく日常的になされている。

 教員免許の問題では、ない!

(ほかに……)

 学校5日制について、よくない……4割
 学校5日制について、よい  ……3割

 休日(土日)に5時間以上テレビを見る中学生……23・5%、とか。

また(総合的な学習)については、

「『よい』が48%で、前年より1ポイント増加。しかし、心配な点として『教師や学校の教育力の
差が広がってきた』(21%)が最も多く、保護者間で、学校や教師によって授業内容が異なる
ことが伝わっている実情が浮かぶ」とか。

 約半数の人が、「よい」と答えているという。

 が、現場からの問題もないわけではない。いわゆる(やる気のない先生)を、どうふるいたた
せるか、それが、それぞれの学校で、問題になっている。まさに「笛吹けど、踊らず」の先生も、
多いということ。

 以上、産経新聞より。
(はやし浩司 学力低下 愛国心 学校五日制 学校5日制 教員免許更新制)

(補足)

 休日に、5時間以上テレビを見ている中学生が、23・5%もいるということは、驚きである。中
には、もっと多く見ている子どももいるだろう。3〜5時間見ている子どもとなると、もっと多いは
ず。

 NHKのニュースや、ニュース解説。教育テレビのクラシック・アワーを見ているというのであ
れば、まだ納得できるのだが……。そういう中学生は、いるのかな……? 今夜、中学生たち
に会うので、聞いてみよう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(706)

【子どもを伸ばすコツ】

子どもを伸ばす最大のコツは、(子どもがしたいと思っていること)と、(子どもが現実にしている
こと)を、一致させてあげることです。とくに乳幼児期は、遊びを通して、それを実現します。

「ぼくは、これをしたい。だからこれをする」「私はこれをしたい。だからこれをする」と。

こうして(子どもの中の私)と、(現実の私)を一致させます。これをアイデンティティの確立とい
います。

こうしてその子どもは、自分の進むべき道を、自分でさがし求めるようになります。

ただ一つ、誤解してはいけないのは、(したいこと)は、そのつど、変化するということです。たと
えば、幼児のことは、「ケーキ屋さんになりたい」と言っていた子どもが、小学生になると、「パン
屋さんになりたい」「お花屋さんになりたい」などと言うようになるかもしれません。

しかしそのときでも、(自分がやりたいことに向って努力する)という、思考プロセスは、頭の中
に残ります。この思考プロセスこそが重要なのです。

中身は、そのつど、変わります。変わって当然なのです。

ここでは、「非行」をテーマに、この問題について考えてみます。子どもの非行というのは、子ど
も自身が、(やりたいこと)を見つけ出せなくなったとき、その代償的方法(あるいは自己防衛的
方法)として、始まります。

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●非行のメカニズム

 子どもの非行。その非行に子どもが走るメカニズムは、意外に単純なもの。言いかえると、
子どもを非行から防ぐ方法も、簡単。

【第一期・遊離】

 (したいこと)と、(していること)が、遊離し始める。「ぼくは、サッカーをしたい。しかし塾へ行
かなければならない」など。「私はケーキ屋さんになりたいのに、親は、勉強をして、いい大学
へ入れと言う」など。

 (〜〜したい)と思っていることと、(現実にしていること)が、遊離し始める。つまり子ども中
で、アイデンティティ(自我の同一性)が、混乱し始める。

 アイデンティティが、混乱し始めると、子どもの心理状態は、不安定になる。怒りっぽくなった
り(プラス型)、反対にふさぎやすくなったりする(マイナス型)。

 この状態を、「同一性の危機」という。

 この段階の状態に対して、抵抗力のある子どもと、そうでない子どもがいる。幼少期から、甘
やかされて育った子どもほど、当然、抵抗力がない。遊離したとたん、一気に、つぎの(同一性
の崩壊)へと進む。

一方、幼少期から、家事の手伝いなどを日常的にしてきた子どもほど、抵抗力が強い。子ども
の世界では、(いやなことをする力)を、「忍耐力」という。その忍耐力がある。

 アイデンティティが混乱したからといって、すぐ、つぎの第二期に進行するわけではない。個
人差は、当然、ある。

【第二期・崩壊】

 (したいこと)と(していること)が、大きくズレてくると、子どもは、まず、自分を支えようとする。
がんばる。努力する。が、やがて臨界点にさしかかる。子ども自身の力では、それを支えきれ
なくなる。

「野球の選手をめざして、もっとがんばりたいのに、毎日、勉強に追われて、それもできない」
「勉強はおもしろくない」「成績が悪く、つまらない」と。

 こうして同一性は、一気に、崩壊へと向う。子ども自身が、「自分は何をしたいのか」「何をす
べきなのか」、それがわからなくなる。

【第三期・混乱】

 アイデンティティが崩壊すると、精神状態は、きわめて不安定になる。ささいなことで、激怒し
たり、突発的に暴れたりする(プラス型)。

 反対に落ち込んだり、家の奥にひきこもったりする(マイナス型)。外界との接触を断つことに
よって、不愉快な気分になるのを避けようとする。このとき、無気力になり、ボーッとした表情
で、一日を過ごすようになることもある。

【第四期・非行】

 アイデンティティが崩壊すると、子どもは、主につぎの5つのパターンの中から、自分の道を
模索する。

(1)攻撃型
(2)同情型
(3)依存型
(4)服従型
(5)逃避型

 このうち、攻撃型が、いわゆる非行ということになる。独特の目つきで、肩をいからせて歩く。
独特の服装に、独特の暴言などなど。暴力行為、暴力事件に発展することも珍しくない。

 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、君は、みなに、嫌われるんだよ」と説いても意
味はない。このタイプの子どもは、非行を通して、(自分の顔)をつくろうとする。顔のない自分
よりは、嫌われても、顔のある自分のほうが、よいというわけである。

 アイデンティティそのものが、崩壊しているため、ふつうの、合理的な論理は通用しない。ささ
いなどうでもよいことに、異常なこだわりを見せたりする。あるいは、それにこだわる。自己管
理能力も低下するため、自分をコントロールできなくなる。

 以上が、非行のメカニズムということになる。

 では、子どもを非行から守るためには、どうすればよいか。もうその答はおわかりかと思う。

 つねに(子どものしたいこと)と、(子どもがしていること)を、一致させるようにする。あるいは
その接点だけは、切らないようにする。

 仮に受験勉強をさせるにしても、「成績がさがったから、サッカーはダメ」式の乱暴な、指導は
しない。受験勉強をしながらも、サッカーはサッカーとして、別に楽しめるワクを用意する。

 言うまでもなく、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、精神的に、き
わめて安定している。どっしりしている。方向性がしっかりしているから、夢や希望も、もちやす
い。もちろん、目的もしっかりしている。

 また方向性がしっかりしているから、誘惑にも強い。悪の世界からの誘惑があっても、それを
はねかえすことができる。自己管理能力もしっかりいているから、してよいことと、悪いことの判
断も的確にできる。

 だから……。

 今までにも何度も書いてきたが、子どもが、「パン屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、す
てきね」「こんど、いっしょにパンを焼いてみましょう」などと、答えてやる。そういう子どもの夢や
希望には、ていねいに耳を傾けてやる。そういう思いやりが、結局は、自分の子どもを非行か
ら守る最善の方法ということになる。
(はやし浩司 非行 子どもの非行 子供の非行 非行から子供を守る方法 非行防止 アイ
デンティティ アイデンテティ 自我同一性の崩壊 顔のない子ども 子供 はやし浩司 非行
のメカニズム)


●スチューデント・アパシー

 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。

 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。

 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。

 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。

 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。

 「君は、本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、君にも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、君だって、思っていないだろ?」
 「……」と。

 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して、従順
で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。友だちと遊ぶときはそれなりに活発なのだが、教室
へ入り、机に向かってすわったとたん、無気力になってしまう。

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。

 だから今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ど
もは、本当に多い。市内の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教師
談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 アパシー スチューデントアパシー 無気力な子ども 自我の崩壊 同一性の危
機 同一性の崩壊)

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少し前、こんな相談がありました。再掲載します。

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【E氏より】

甥(おい)っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこの
ところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。

とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がないくせに、
やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。

やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身が持っ
ている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 

【はやし浩司より】

●消去法で

 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。

 バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる気が起き
ない、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)など。さらに回
避性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集団非行、非行)など。
自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害の前兆や、学校恐怖症の
初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。

 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を見せ
ることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。この時期だ
と、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハーハーあえぐ、など)。

 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうなのか。あ
るいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一日の中でも、
変動はあるのかないのか。

こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつう心配な
ケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うはずです。たとえ
ばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛もあります。行動面では、
たとえば収集癖や万引きなど。

さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすくなりま
す。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。

こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、これでは
ないか?」とです。

●教育と医療

 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したがって、ア
ドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが診断名をくだす
のは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書いたことを参考に、自分で
判断するしかありません。

 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方が違
うということです。

 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、幼児
期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、たいへん不安
定になります。

 「おとなに扱わないと怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というようにで
す。

 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、検査だ
けをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっていても、知
らないフリをして指導します。

 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。

 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。

 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある部分
(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生まれると説明
されます。

 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩慢動
作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象や回避性
障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進行していきま
す。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことということで、私も、少し気楽
に書いています。)

 ですから安易に考えないこと。

●二番底、三番底へ……

 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに最悪の
状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはしているようですが、
そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならないと思いがちですが……。
決して、そうではないということです。)

 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。そ
れが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。どこかに
心の変調があるとみてよいでしょう。

 では、なおすために、どうしたらよいか?

 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。

●家庭にあり方を疑う……

 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として機能し
ているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうどうと、ふてぶてし
く、体を休めているかどうかということです。

 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるようであ
れば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否があります。反省す
べきは、親のほうです。

 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」というの
は、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三番底へと、子ど
もを追いやってしまうから注意してください。

 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)の悪循
環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環を繰りかえ
し、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。
 
「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような行為と言っ
てもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、この年齢でも、半年
単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどということは、ありえません。

 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその子ど
もを見ていませんので、何とも判断しかねます。

 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということです。
子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離れます。

 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思いなお
し、大目にみます。

 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MGの多い食
生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり情緒が不安定
になっていることも、考えられます。)

 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えませ
ん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、意味がな
いばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に多いです。

 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。あまり
深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 バーントアウト 燃え尽き あしたのジョー症候群 無気力症候群 自我の崩壊
 回避性障害 引きこもり はやし浩司 行為障害 買い物グセ 集団非行 非行 学校恐怖
症 初期症状 怠学 不登校の前兆症状

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育て談話】

●服従的な生き方

 だれかに服従して生きるというのは、生き方としては、楽。相手が喜ぶことだけを考えて、生
きればよい。

 ある宗教団体では、入信すると同時に、「あなたは、教導様のために、何ができるか?」と聞
かれる。そして指導者のために何かをするかが、入信の条件となる。

 こうした服従的な生き方というのは、戦前の女性たちに、多く見られた。今でも、そういう生き
方を、美徳と考えている人は多い。

 ところであのK国を見ていると、どの人も、「将軍様に、喜んでいただくために」という言葉を使
う。国民全体が、服従的になっていることを示す。しかしここで誤解してはいけないのは、傍(は
た)から見ると、何とも息苦しい社会だが、本人たちにとっては、そうではないということ。意外
と、それは、心地がよい世界なのである。

 服従的であるということは、何も考えなくてもよいということ。(何も考えないから、服従的にな
るということも、反対に考えられる。)

 子どもの世界にも、同じような現象が見られる。よい例が、高校野球である。あの野球という
ゲームは、選手ひとりひとりは、ほとんど何も考えないで行動している。バッターボックスに立っ
た選手ですら、つぎにどう打つか、その指示を監督に、ちくいち求めている。

 そういう意味では、「考えるスポーツ」というよりは、「何も考えないスポーツ」ということになる。
(だからといって、野球はつまらないと言っているのではない。誤解のないように……。)

 「学習」という世界でも、服従的な子どもは、いくらでもいる。言われたことだけを、きちんとす
るが、それ以上のことは、何もしないというタイプの子どもである。一見、従順で教えやすいが、
それがよいことかということになると、悪いに決まっている。

 で、問題は、こうした服従性は、一度、その人の人生観に入りこむと、以後、さまざまな形で、
その人を支配するということ。そして一生、つづくということ。しかもその原点は、子ども時代、な
かんずく、幼児期に決まるということ。

 強圧的な環境、威圧的な育児姿勢が日常化すると、子どもは服従的になる。過度の過干
渉、過関心が原因になることもある。とくに母子の関係で、母親が、命令を主体とした子育てを
すると、子どもは、服従的になる。じゅうぶん、注意されたい。

 あなたが子どもに、何か不合理な仕事(あくまでも、不合理な仕事)を頼んだとき、あなたの
子どもは、はげしくそれに反発するようなことがあるだろうか。もしそうなら、それでよし。ハイハ
イと従順に従うようなら、ここに書いたことを参考に、子育てのあり方を、反省してみてほしい。

●子育ては主義の問題

 ある母親から、こんなメールが届いた。私の講演を聞いたあと、今度は、S氏という評論家の
講演を聞いたというのだ。その結果、「頭の中が混乱してしまいました」と。

 S氏というのは、このあたりでも、貝原益軒(かいばらえっけん)の「養生訓」風の子育て論を
説くことで、よく知られている。貝原益軒というのは、江戸時代の儒学者である。S氏も、「親の
威厳こそが、家族をまとめるカギである」というようなことを、あちこちで話している。

 私の考え方とは、180度違う。だからといって、私はS氏の思想を否定しているのではない。
人それぞれ。私は私。人は人。

 そこで大切なことは、いろいろな人の意見には、耳を傾けつつも、「私は私」という部分を、自
分の中につくること。でないと、この母親のように、混乱してしまう。

 子育てというのは、一見、ただの子育てに見えるかもしれないが、実は、そこに、その人の
「主義」がからんでくる。その人の生きザマや人生観が、そこに、集約される。学歴信仰とはよく
言ったもので、まさに「信仰」に近い部分もある。

 だから子育てをするとき、大切なことは、どんな小さなものでもよいから、そこに「主義」をもつ
こと。これを心理学の世界では、「一貫性」という。一貫性が大切とか大切でないとかいうことで
はなく、その一貫性がない子育てほど、こわいものはない。

 たとえば貝原益軒なら貝原益軒でもよい。親が、一本、スジの通った主義をもてば、子どもは
それに適応する。適応しながら、ときには、親を反面教師としながら、自分の生きザマを勝ち取
っていく。まずいのは、「混乱」である。

 そこで私のばあいは、「教師は、子ども※」と決め、めったに、ほかの人の教育論は読まない
ようにしている。話も聞かないようにしている。議論はよくするが、それは対等の立場の議論。
もし本を読む機会があれば、できるだけ教育とは無縁の本を読むようにしている。

 それは私自身が、自分の主義を確立するためでもある。またそういう主義を、自分の育児論
の中に、織りこむためでもある。とくに私は、どこか迎合しやすい性質をもっている。すぐ相手
に合わせて、自分の意見をねじまげてしまう。

 私の講演を聞いて、つづいてあのS氏の講演を聞けば、だれだって、わけがわからなくなる。
私は、「親子といえども、一対一の人間関係」と説く。一方S氏は、「親の尊厳論を説き、よい子
どもを育てるためには、先祖の墓参りが重要」と説く。

 どちらをとるかは、それはみなさん、一人ずつの問題。私の意見がよいと思う人は、私の意
見を参考に、自分の主義をもったらよい。そうでない人は、そうでない主義をもったらよい。そ
れは私の問題ではない。冷たいことを言うようだが、仮に、あなたが私の意見に同調してくれた
としても、私が得るものは、何もない。得をすることも、何もない。

 ただ私自身は、この宇宙に生まれた一つの証(あかし)として、ほんの数センチでも、あるい
はほんの数ミリでも、人間の社会を、一歩、前進させたい。そういう願いをもって、ものを書き、
自分の意見を述べている。

 だからその母親の意見には、こう答えるしかなかった。

 「あっちのカベ、こっちのカベにぶつかっていると、やがて子育ての輪郭が見えてきますよ。そ
れがあなたの子育てです。混乱するということは、一歩、その手前にいるということ。恐れない
で、もう一歩、前に、足を踏み出し、進んでみてください」と。
(はやし浩司 子供の服従性 服従する子供 子ども 子どもの服従 服従性)

※……これは私の重要な主義。子育て論を組み立てていて、わからないときがあると、本を調
べるよりも先に、子どもを観察し、子ども自身に問うことにしている。この世界へ入ってからとい
うもの、私はただひたすら、くる日も、くる日も、アンケート調査を繰りかえした。「教師は子ど
も」というのは、そういう意味。

●役割形成

 子どもは成長しながら、自分の身のまわりで、自分の世界をつくっていく。たとえば男の子と
は、男の子らしくなる。女の子は、女の子らしくなる。だれが教えるわけではない。子どもは、ま
わりを観察したり、自分の方向性に合わせたものを、自ら取り入れることによって、自分がどう
あるべきかを、つくっていく。

 これを役割形成という。

 この役割形成が、混乱することがある。子どものもつ方向性を、じゃましたり、否定したりする
と、そうなる。これをそのまま、「役割混乱」という。

 実は、親たちは、この役割混乱を、日常的に繰りかえす。繰りかえしながら、それに気づかな
い。たとえば干渉。たとえば押しつけ。たとえば指導。たとえば教育。

 たとえば「花屋さんになりたい」と言っている子どもに向かって、「何よ、こんな成績! こんな
成績では、○○中学へ入れないでしょ!」と言うのが、それ。

 子どもにしてみれば、「花屋と○○中学は、どういう関係があるの?」ということになる。そして
ここでいう役割混乱を、起こす。

 一般的に、役割混乱を起こすと、子どもにかぎらず、緊張状態に置かれ、情緒がたいへん不
安定になることが知られている。ささいなことでキレやすくなったりする。さらにこの混乱状態が
つづくと、精神不安。さらには自己嫌悪から、自己否定へとつながる。

 「自己否定」が、いかに恐ろしいものであるかは、それを経験したことがあるものでないとわ
からない。それはたとえて言うなら、ひとりのサラリーマンに、スカートをはかせて会社へ行か
せるようなもの。あまりよいたとえではないが、それに近い。中には、自己否定から、自殺に走
る人もいる。

 そこで大切なことは、子どもの方向性を見きわめたら、それを認め、それを励まし、それを核
として、子どもを伸ばすこと。たとえば子どもが花屋さんになりたいと言ったら、植物の勉強に
つなげ、実際に、いろいろな植物を栽培してみる、など。

 今、夢のある子どもが少なくなった。夢がないわけではない。ただ親たちが、それをあまりに
も無頓着に、つぶしているだけ。「花屋さんなんて……」と。その結果、子どもたちは、夢をもて
なくなった。

 だから大学へ入っても、目的がないから、遊ぶ。目的がないから、勉強しない。そうならない
ためにも、ここでいう「役割形成」を、考えなおしてみたい。
(はやし浩司 役割形成 役割混乱)


●劣等意識

 学校に対する劣等意識が、そのままその子どもの劣等意識に、転化することがある。自ら
に、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 ところで人間の行動を律するものには、大きく分けて、二つある。(1)内的規範と、(2)外的
規範である。

 内的規範というのは、その人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観をいう。

 外的規範というのは、その人の社会的地位や名誉、経歴などをいう。

 こうしたものが、いつも総合的にからみあいながら、その人の行動を律する。

 たとえばこんな例を考えてみよう。

 通りを歩いていたら、車が一台、窓をあけたまま、そこにあった。周囲には人影がまったくな
い。遠くに家があるが、そこにも、人の気配はない。

 車の窓の中を見ると、手さげバッグが無造作においてあり、そのバッグからは、札束の一部
が見えている。窓の中に手をのばせば、容易に、手が届く距離である。

 もしあなたがそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか。「もらっちゃえ」と思っ
て、バッグごと、持ち去る人もいるかもしれない。しかしほとんどの人は、この段階で、自分の
行動にブレーキをかける。そのブレーキをかける力が、ここでいう内部規範と、外部規範という
ことになる。

 「自分に恥じることはしたくない」というのが、内部規範。「私には、私の立場がある。もしバレ
たら、私は名誉のすべて失うから、しない」というのが、外部規範。しかし実際には、外部規範
の力は、それほど、強いものではない。たいていは、「バレたらたいへん……」という程度の力
でしかない。

 ともかくも、ほとんどの人は、そういったお金には、手をつけない。しかし、だ。その内部規範
を、その人の内部から破壊するものがある。

 それが劣等意識である。この劣等意識は、いわば心の中のがん細胞のようなもので、その
人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観を、少しずつ、むしばんでいく。最終的には、心そのもの
を破壊することもある。自暴自棄になり、善悪の判断すら、しなくなる。

 ところがこの劣等意識というのは、そのほとんどは、自分以外の人によって、植えつけられて
いくものである。友人とか、教師とか、あるいは親によるばあいもある。「君は、何をやっても、
ダメな人間だ」と言われることによって、劣等意識をもつようになる。 

 もう少し詳しく説明すると、こうなる。

 劣等意識は、長い時間をかけて、その人の中で、欲求不満として蓄積される。しかしさらにそ
れが慢性的につづくと、その劣等意識は、記憶のすみにおいやられ、人は無意識のうちにも、
自我の崩壊を防ごうとする。

 そこで多くのばあい、人は、その劣等意識を克服するため、つまり自我の崩壊を防ぐため、さ
まざまな行動に出ることが知られている。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 たとえば、勉強面で劣等意識をもった子どもが、スポーツ面でがんばる(=補償)、「勉強なん
て、どうせくだらない」と言って、勉強ができないことを、合理化する(=合理化)、有名人のマネ
をして、自分がその有名人になったような気分になる(=同一視)、空想や非現実的な世界に
いりびたりになり、現実を忘れる(=逃避)、まったく別人となるよう、別人格を自分の中につく
る(=反動形成)などがある。

 しかしこれらも一定の範囲に収まっている間は、問題ない。むしろよい方向に作用することが
多い。

 が、その範囲を超えて、度を越すと、問題行動を起こすようになる。社会的に不適応症状とな
って現れることもある。異常行動となって、犯罪に走るケースも、少なくない。

 つまり、人間がもつ、劣等意識を、決して軽く考えてはいけない。

 そこで最初の話にもどるが、こうした劣等意識は、子どもであればあるほど、鮮明にもちやす
い。そしていくつかの過程を、一足飛びに飛び越えて、問題行動へとつながっていく。

 「ボトム校」の問題と、劣等意識の問題は、こうして密接につながっていく。飛躍した意見に聞
こえるかもしれないが、現在の日本の教育には、こうした問題が隠されている。

 もう少し、かみくだいて説明してみよう。

 たとえば受験競争。勝ち組はともかくも、勝ち組が生まれる一方、当然、そこには負け組み
が生まれる。この負け組みは、毎日の学校生活を通して、「どうせ私は、ダメな人間なのだ」と
いう意識を、無意識のうちにも植えつけられていく。「少しくらいがんばっても、どうにもならな
い」というあきらめも、そこから生まれる。

 つまり日本の教育制度の中では、一部のエリートを生み出す一方、同時に、無気力で、従順
で、もの言わぬ民(たみ)を生み出す。そういうしくみになっている。この後者の子どもたちが、
回りにまわって、勝ち組がリードする社会に対して、ブレーキとして、働くようになる。

 つまり勝ち組のつくりあげる社会を、負け組みがそれを打ち消すことで、相殺してしまう。

 たとえば一方に、東大を出て、上級甲種の国家公務員試験に合格して、警察庁のエリートに
なる子どもがいる。が、もう一方に、受験競争から早い段階で脱落し、働いても働いても、夢も
希望ももてず、その日暮らしの労務者がいる。犯罪を取り締まるのが前者で、犯罪を犯すのが
後者ということになれば、では、そもそも受験競争とは何かということになってしまう。

 少し極端な書き方をしてしまったが、おおまかな図式としては、それほど、まちがってはいな
いと思う。つまりは、教育の世界では、「子どもを伸ばす」ことだけが最優先されるが、しかしそ
れよりも大切なことは、「子どもに劣等意識をもたせないこと」も、重要であるということ。

 そのためには、教育は、多様化されなければならない。自由化されなければならない。学校
以外に道はなく、学校を離れて道はないという世界のほうが、異常なのである。

 たとえば同じ学校にしても、アメリカやオーストラリアでは、学校単位で、自由にカリキュラム
を組むことができる。入学年度すら、自由に設定できる(アメリカの公立小学校)。あるいは生
徒一人ひとりに合わせて、カリキュラムを組むこともできる(オーストラリア・グラマースクー
ル)。

 世界の学校は、すでに、そこまでしている!

 私の過ごした高校が、「ボトム校」と言われるようになって、もう20年になる。M高校と、アル
ファベットで書かねばならないほどである。そうするのは、私が自分の母校を卑下しているから
ではなく、現在、その高校に通っている子どもたちの心にキズをつけないためである。

 しかしバカげている。本当にバカげている。こうした序列ができていること自体、バカげてい
る。

 そこでこれは私からの希望ではあるが、世の中には、反対にエリート校というのもある。そう
いう学校は学校で、どうか、おかしなエリート意識を助長するような活動は、さしひかえてほし
い。

 H市でもナンバーワンの進学校とも言われているSS高校ともなると、部活の総会というだけ
でも、壇上には、OBたちがズラリと顔を並べる。気持ちはよく理解できるが、そういうおかしな
エリート意識が、回りまわって、どこかで、これまたおかしな劣等意識をつくる。そしてそれが、
日本人のみならず、社会のあり方そのものをゆがめてしまう。

 あえて言うなら、外的規範に頼らず、みながみな、内的規範によって、自分を律することがで
きるような、そういう子どもを育てるのが、これからの課題と考えてよい。そのためには、学校
教育はどうあるべきか。それを考えていかないと、日本は、ますます国際社会から、取り残され
てしまうことになる。

 「ボトム校」という言葉から感じたことを、書いてみた。
(はやし浩司 劣等感 劣等意識 防衛機制 補償 合理化 内的規範 外的規範 規範)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(707)

【BW教室から……】

●無責任な教え方(?)

 小学5年の女の子が、自分で勉強するようになった。放っておいても、どんどんとしてくれる。
で、昨夜、小学5年の(上)が終わった。

 で、ロッカーをさがしても、5年の(下)がない。だれかに貸したままになっていた。

 しかたないので、「じゃあ、6年の上を勉強してみるか?」と声をかけると、かなり不安そうな
表情をしてみせた。

 「やってみな。自分を信じて!」と励ますと、「やってみる!」と。

 しばらく自分で本を読んでいた。何か、コツコツと作業をしていた。で、5分たち、10分がたっ
た。

 すると私のところへ来て、こう言った。「先生、最大公倍数って何?」と。

 そこで私はこう言った。

 「昔、昔、おじいさんと、おばあさんがいてね。竹やぶの中で、竹の子をさがしていた。すると
ね、一本だけ、光っている竹があったんだ。

 そこでおじいさんと、おばあさんは、その竹を切ってみることにしたんだよ……」

 「先生、その話と、最大公倍数とどういう関係があるの?」
 「ハハハ、ないよね。ごめん、ごめん」
 「もう、いい。私、自分で調べるから!」と。

 最近の教科書は、ていねいに書いてある。ふつうの本のように、ふつうに読めば、それなりに
理解できるようになっている。しかし心のどこかに不安をいだいている子どもは、その分だけ、
それを依存性に変える。少しでもつまずくと、すぐ聞きに来る。

 しかし安易に教えてはいけない。自分でわかりそうなところは、自分でわからせる。が、それ
でもわからなければ、教えるが、それには、タイミングというものがある。

 その女の子は、教科書を見ながら、ウーン、ウーンとうなっていた。

 が、やがて、大声で、「わかったア!」と。

 そこで私はこう言った。

 「いいか、教えられてできるのは、力ではない。またそんな知識など、すぐ消えてしまう。しかし
今、君は、自分で、それを理解した。それは君の力だ。その力は、君の身についた。一生、君
は、それを忘れないよ。よかったね」と。

 その女の子は、うれしそうに笑った。まわりにいた子どもたちも、みな、うれしそうに笑った。

 ところで私は、子どもたちに何かを教えるときは、表情を見ながら、教える。表情というより
は、その下に隠れている(心)というべきか。

 そこに、前向きな向学心を感ずれば、それでよし。そうでないときは、かなり警戒する。ときと
ばあいによっては、そのまま、サボって、みんなでたこ焼きを食べに行くこともある。

 こう書くと、「何てことを!」と思う人がいるかもしれない。が、ダラダラと2時間勉強させるよ
り、30分でも、サボったほうが、そのあと、はるかに効率よく子どもたちは勉強するようにな
る。

 たこ焼きを食べて帰ってくると、子どもたちの表情が、パッと明るくなる。そういうことは、よく
ある。

 こうした指導ができるのも、たがいの信頼関係があるから。決してそれに甘えてはいけない
が、しかし信頼関係がないと、こういう指導はできない。

 その女の子も、やがて、自分でどんどんと勉強するようになる。もうそのコースに入っている。
私がすべきことは、そのコースに、じょうずに、子どもを乗せること。励ますこと。

 「やりなさい!」「今日はここまで勉強します」「テストをします」「テスト範囲はここまで」「あなた
は○○点です」「順位は、○番!」などという指導は、指導ではない。訓練。しかし家畜でも、そ
んな愚劣な訓練はしない。

 が、今、そんな愚劣な訓練ばかりが、大手を振って歩いている。そんなことを、その女の子を
見ながら、考えた。

 それにしても、理知的な目をしている。母親譲りだと、ふと、そう思った。


●視力減退

 2週間ほど前、軽い結膜炎を起こした。そのせいだと思う。

 乱視がひどくなった。

 朝、起きたときは、モニターの文字が、よく見えない。ボーッとしている。そのため、こうしてワ
ープロで文字を打っていても、誤字、脱字が多くなった。

 (すでに読者の方の中には、気づいておられる方も多いと思うが……。)

 そこで目薬をさしながらの、作業ということになる。

 で、今、使っているパソコンは、息子に譲って、私は私で、別のパソコンを買おうかと思ってい
る。今度は、モニターを、17インチから、19インチにするつもり。そのほうが、大きな文字にな
る。

 画面上で、文字を大きくする方法もあるが、そうすると、今度は、文字の表示数が少なくな
る。私としては、できるだけ表示数は多いほうがよい。いろいろと考えている。


●夫婦

 これとて夫婦げんかをしているわけではないが、このところ、どうもワイフとの関係がしっくりこ
ない。

 ワイフは、いつも何かにじっと耐えているといったふう。だから先日も、ワイフにこう言った。

 「お前さ、いつも何かにがまんしているだろ。夫としてさ、お前がかわいそうに思うことがある
よ。こんなダンナで、いろいろつらいことや、おもしろくないこともあるだろう。ぼくは、そういうお
前に、申し訳ないと思っているよ」

 そういう意味で、このところ、私は、ワイフに気をつかっている。それが結構、疲れる。機嫌を
とるというほどでもないが、しかしまったく、安心して、つきあっているというふうでもない。

 「お前もさ、もっといい人(男)がいただろうにね。ぼくのような男と結婚したばかりに、苦労の
連続。お前も、もっと、ほかにしたいこともあっただろう。そうやって、いつも、何かにじっと耐え
ているような様子を見ると、かわいそうに思うよ。

 でね、よかったら、離婚してあげようか。ひとりになれば、お前だって、好き勝手なことをでき
るだろう。そのほうが、お前にとっても、幸福だと思うよう」と。

 するとワイフは、「それは、あなたの思い過ごしよ」「私は、ゼンゼン、そんなふうには、思って
いないわ」と。

 本当かな? 本当にそうかな?

 よくわからないが、そんなわけで、どうも、このところ、ワイフの心がつかめない。

 一方、このところ、私は、何かにつけて、自信をなくし始めている。気力、体力、精力、知力、
すべて、弱くなってきた。自分でも、それがヨ〜クわかる。風貌(ふうぼう)も、ますますジジ臭く
なってきた。

 ときどき、「もう自分なんか、いなくても、だれも困らないだろうな」と思うことがある。先日も、
道を歩いているとき、そう思った。

 「ぼくのことを、愛してくれる人間はいない。このまま死んだとしても、悲しんでくれる人はいな
い」と。

 そのことをワイフに言うと、ワイフは、「私は悲しむわよ」と。

私「ウソつけ!」
ワイフ「ウソじゃないわよ」
私「でもね、もし、お前が先に死んだら、どうする? そのときは、ぼくは、本当にひとりぼっちに
なってしまうよ」
ワイフ「そうね。あなたは、ひとりぼっちね。かわいそうな人ね」と。

 老後の人生というのは、細い道を、わざと視野を狭くして歩くものか。まわりを見れば見るほ
ど、さみしくなる。だから、まわりのものは、見て見ぬフリ。わざと視線を遠ざける。

 もちろんカガミなんて、もう見ない。見たくもない。そのときがきたら、何とかなるさと考え、あと
は、今日一日を、懸命に生きるだけ。

 ワイフも、そのうち、本当にひとりになりたければ、私から離れていくだろう。ワイフには、ワイ
フの人生がある。それも、そのときになったら、そのとき。あとは、淡々と生きるしかない。何と
も、わびしい人生観だとは、思うが、これが私の現実……。

 心のどこかで、そんな覚悟をし始めている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(708)

【近況・あれこれ】

●ニビル

 太陽系には、もう一つの惑星、つまり第10番目の惑星があるという。いろいろな名前で呼ば
れているが、その世界では、「ニビル」と呼ばれている。「その世界」というのは、ニビルの存在
を、本気で信じている人たちの集まりをいう。しかも、だ。そのニビルという星には、知的生物ま
で、住んでいるという!?

 ニビルは、もともとは、太陽系の外にあった惑星だったそうだ。が、あるとき、太陽の引力に
とらわれ、そのまま太陽系の惑星の一つになったという。

 それらしき「星」も、実際、発見されている。ただあまりにも距離が遠いので、確認はされてい
ないそうだ。

 その本を、実は、昨日、ワイフが、書店で買ってきた。そして目下、夢中になって読んでいる。
で、その本の中にも、火星の衛星の、フォボスについて書かれている。ウソか本当かは、確か
めることはできないが、その本でも、フォボスは、それ自体が、巨大な宇宙船だという。

 いろいろな理由が並べてある。

 中が空洞だとか、大きすぎるクレーターがあるとか、自然にはできるはすもない、スジが無数
にあるとか。さらには、月と同じように、真円に近い火星の軌道上を、回っているとかなど。

 フォボスも、自転周期と、公転周期が一致しているため、いつも、火星面に対しては、同じ方
向をむいているという。月によく似ている。

 いろいろ読んでいくと、かぎりなくロマンが広がっていく。おもしろい。私は、こういうSF的な話
が大好き。そう言えば、昨夜、アメリカで、『スターウォーズ』の新作が封切りになったという。楽
しみだ。

最終作は、「エピソード3・シスの復讐」(ジョージ・ルーカス監督)だそうだ。ハハハ。


●子どもの意思

 子どもの意思をそのつど確かめながら、子育てをする。それが子育てのコツということにな
る。

 子どもが何をしたがっているか。何に興味があるか。どんな方向に向って進んでいるか。そ
れを静かに観察する。

 あとはその方向性に沿って、子育てをしていけばよい。

 (自分のしたいこと)を、(自分でしている子ども)は、どっしりと落ちついている。安定感もあ
る。

 そういう子どもは、目標をもちやすい。またそれに、夢や希望を重ねやすい。だから途中で、
道からはずれたりしない。誘惑にも強い。したいことをしているから、その力も、2倍、3倍と発
揮される。

 が、それを乱してしまう親がいる。親のつごうや、勝手で、子どものやりたいことを、ねじ曲げ
てしまう。


【近況・あれこれ】

●妻たちの本音

 夫が九州へ、単身赴任が決まったとき、私の家にやってきて、ワイフの前で、「ヤッター!」と
喜んでいた妻がいた。

 ふつうなら、悲しむはず。しかしその妻は、「ヤッター!」と。

 「静岡くらいだと、毎週、帰ってきちゃうけど、九州だと、そうはいかないしね」とも。私は、最
初、その言葉が信じられなかった。(浜松から静岡までは、新幹線で、30分ほど。九州まで
は、丸1日かかる。)

 で、この話を、母親たちが集まる会で話したら、そこにいた母親たちが、みな、こう言い出し
た。

「そういうものよねえ」
「私も、20%は、うれしかった。夫が沖縄に単身赴任と決まったときは、うれしくて実家に電話
をしたわよ」
「私の友だちも、そうよ。夫が北海道へ転勤が決まったとき、なんだかんだと理由をつけて、単
身赴任にさせてしまったそうよ」と。

 私はそれを横で聞いていて、返す言葉が出てこなかった。意外だった! 「さみしくないので
すか?」と聞こうと思ったが、やめた。

 で、会話はつづく。

 「うちなんか、月に1度くらい帰ってくるけど、たがいに、無関心よ」
 「うちのダンナも、先週帰ってきたけど、私、その日は、実家にとまったわ。母が病気だとかな
んとか、ウソを言ってね」と。

 みな、あっけらかんとしている。屈託がない。明るい。それでいて、みな、「夫婦仲は、いいわ
よ」「月に1度くらい会えば、満足よねえ」とか言う。

 全国の男性諸君のみなさん! 夫のみなさん! こういう現実を、ご存知だろうか。

 今まで、「単身赴任という制度は、非人間的な制度だから、反対しましょう」と運動してきた、
私が、バカに思えてきた。つまり、サラリーマンの妻たちは、夫の単身赴任を、嫌うどころか、
望んでいる(?)。

 このことを家に帰ってワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「長くサラリーマンの妻をしてい
ると、そういうものの考え方になるみたいよ……」と。

 そういうものか?
 
 私にはよくわからないが……。

 となると、夫婦とは、いったい、何か、ということになってしまう。時代が変わったのか? 若い
女性たちの意識が変わったのか? 

 私にはわからないが、そういう現実もあるということを、ここに記録しておく。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛することと、愛されること

 わかりやすい例で考えてみよう。

 もしだれかが、「ぼくのために、だれも動いてくれない」と言ったとする。するとだれしも、こう答
える。「それは甘い。では、君は、だれかのために動いたことは、あるのか?」と。

 家族だってそうだ。父親が、「だれも、ぼくのことを理解してくれない」と言ったとする。すると家
族のみなは、こう答えるだろう。「では、お父さん、あなたは、家族のことを理解しています
か?」と。

 同じように考えていくと、「愛する」ということが、どういうことかわかってくる。

 他人に動いてもらうためには、まず、自分が、他人のために動かねばならない。自分を理解
してもらうためには、まず、ほかの人を理解しなければならない。同じように、自分が愛される
ためには、まず、自分が、他人を愛さなければならない。

 一方的に、相手に求めるだけではいけない。が、依存性の強い人には、それがわからない。
(してもらうこと)が、当たり前の世界で生きている。最初は、多少の感謝の念をこめて、「あり
がとう」と言う。しかし長つづきしない。やがて、それが当たり前になってしまう。

 そういう意味では、依存性は、麻薬の依存性に似ている。依存性をもちながら、それを繰りか
えしていると、依存的であることすら、忘れてしまう。私の、頭のやや(かなり?)ボケた兄がそ
うだ。

 食事の時間になると、急に落ちつきなく、動きまわる。ワイフが「もう少し待っていてね」と、い
くら声をかけても、その瞬間だけの効果しかない。もちろん、何も手伝わない。

 そして少しでも時間が遅れたりすると、とたんに不機嫌になったり、「死んでしまう」とか言い出
す。

 で、食事。その食事のときも、「かたいものは、食べれない」「食べると、腸がつまって死んで
しまう」とか言い出す。突然、口からパッと食べているものを吐き出してしまうこともある。横へ
投げ捨ててしまったこともある。「かたいから、食べれない」と。

 もちろん食事のあとは、そのまま。食器をシンクへ持っていくことすら、しない。そのままソファ
に座って、テレビを見始める。

 こうした依存性は、なぜ生まれるか……というより、長い生活習慣の中で、兄の中に定着して
しまったと考えるほうが、わかりやすい。兄にとっては、それが当たり前の生活なのだ。

 そこで、あるとき、一度だけだが、自分の茶碗に、ポットからお茶を注がせた。しかしそのとた
ん、兄は、パニック状態になってしまった。ポットをわざと、ひっくり返してしまった。そして体で
ぶつかるようにして、テーブルに倒れかかり、茶碗を割ってしまった。

 私たちも、一度で、こりた。以後、兄には、何もさせないようにした。で、これも考えてみれば、
依存性の問題ということになる。

 では、こうした依存性を防ぐためには、どうしたらよいのか。子どもの世界で考えて見よう。

 まず大切なことは、自分でそれなりの苦労をさせて、相手を喜ばすことから教え始めなけれ
ばならない。「こうすれば、パパが喜ぶよ」「こうすれば、お兄ちゃんが喜ぶよ」と。子どものかわ
いさに負けて、子どもを、決して、王子様や王女様にしてはいけない。

 つぎに大切なことは、自分でできる喜びを、わからせる……というふうに、つづくが、今まで、
それについては、何度も書いてきたので、この話は、ここまで。

 さて、「愛」の話にもどる。

 結論から言えば、そんなわけで、愛というのは、(もらうもの)ではなく、(与えるもの)ということ
になる。少なくとも、「愛される」「愛されない」というのは、私やあなたの問題ではないというこ
と。それを決めるのは、あくまでも、他人ということになる。

 私やあなたは、ただひたすら、人を愛することだけを考えればよい。その結果は、あとからつ
いてくる。あるいは結果すらも、求めない。気にしない。

 そんなわけで、もしあなたが今、「私はだれにも、愛されない」「私は孤独だ」と感じているな
ら、その原因は、あなた自身にあるということにある。

 ただここで注意しなければならないのは、私やあなたが、他人を愛したからといって、必ずし
も、その見かえりがあるというわけではないということ。ほとんどのばあい、その見かえりはな
い。

 だから最初から、見かえりなど、期待しないこと。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(709)

アメリカの育児、「ファーバー方式(FEBER METHOD)」(改)

●ファーバー方式
 新生児の夜泣きの対処のしかたについて、アメリカには、「ファーバー方式」というのがある。
それについての紹介文を転載する。ファーバーというのは、その考案者の博士の名前をいう。
(義理の娘が通う、母親学級のテキストからの転載)

Your baby is crying, and wakes up several times during the night. Your'e exhausted, and 
haven't had a descent night sleep, what are you going to do?  Ferberizing your baby will 
help your child sleep through the night and will help you from going mad from lack of sleep. 
Dr. Ferber, a leading pediatric sleep disorder specialist, has come up with a method 
guarantee to get your child sleeping through the night. 
 あなたの赤ちゃんが泣き、毎晩何度も起こされる。
 あなたは消耗し、安らかな眠りを得られない。
 そういうとき、どうしますか?
 睡眠障害のスペシャリストのファーバー博士が、あなたの赤ちゃんが眠るのを助けます。
The Ferber method is a progressive method and it calls for the parents to let their babies 
cry for a set period of time before comforting or "checking in on their child". Although the 
Ferber method does work for some parents, others think that it is to rigid. It is important to 
read the book and to decide for yourself. Some of the mothers in my classes have modified 
his method to fit their schedules and tolerance levels.

ファーバー方式は、泣いている赤ちゃんをなぐさめたり、「あれこれ原因さがしをする」前に、あ
る程度泣かせるという方式です。
ファーバー方式は、有効なときもありますが、しかし厳格すぎるという人もいます。
大切なことは、あなた自身が自分で本を読み、判断することです。
私の(母親教室の)母親たちは、自分たちの忍耐力のレベルにあわせて、このファーバー方式
を修正して、応用しています。

 Dr. Ferber is the first one to tell parents that his method can take a toll on the family. So
me parents cannot bear to hear their children cry for extended periods of time. Ferber 
states in his book that in order for his approach to work it is very important to stick with 
the routine. There are no exceptions unless your are traveling , your child is sick or you 
have company at your house. If you disrupt your babies sleep schedule and they start to 
wake up during the night again you will probably have to referberize the child. 
ファーバー博士は、この方式は、母親の負担を減らすものだと、述べています。
母親によっては、(忍耐の限界を超えて)赤ちゃんが泣きつづけることに耐えられない。
ファーバー博士は、この本の中で、この方式を応用するためには、日常生活をそのままつづけ
ることが重要だといいます。
旅行中とか、赤ちゃんが病気とか、来客中とかいうのであれば別ですが、例外はないといいま
す。
もし赤ちゃんの睡眠スケジュールを乱すと、赤ちゃんをあやすために、また夜中に起きなけれ
ばならなくなります。

 In his method Dr. Ferber suggest that after a loving pre-bedtime routine that you put 
your child to sleep while your baby is still awake. Putting your child to sleep while he/she is 
still awake is very important and this will teach them to go to sleep on their own.

この方式の中で、ファーバー博士は、赤ちゃんがまだ目をさましていても、赤ちゃんを寝さか
せ、いつもの就眠儀式をすることを提案しています。

まだ目をさましている赤ちゃんを寝させることは、とても重要なことで、このことが、赤ちゃんが
自分で眠ることを教えます。

 Ferber suggests that children be at least 5 months old before you try to ferberize them. 
Your baby must not be sick, or on any medications that will interfere with his/her sleeping 
when you start the method. Once your child is in bed leave the room and if she/he cries, 
wait a certain amount of time before you check on your child again.(the waiting time is 
outlined in his book, 

ファーバー博士は、少なくとも五か月未満の赤ちゃんは、この方式を応用してみるとよいと言っ
ています。
この方式をはじめるときは、まず赤ちゃんが病気でないないことが前提となります。
赤ちゃんがベッドに入ったら、赤ちゃんが泣いても、(親は)部屋を出ます。
そしてしばらく様子をみます。
(その時間については、本の中のガイドに従ってください。)

(Solve Your Child's Sleep Problems). After the "waiting time" check in on your child but do 
not rock, feed or pick her/him up. Soothe your child only with your voice. Gradually increase 
the amount of time between the visits to your child's room. Eventually (usually within a 
week) your child will realize that crying means nothing more than a brief check from you. He 
or she will learn to sleep on his/her own through the night and you will also get the sleep 
that you have been deprived of for so long. 

赤ちゃんの睡眠問題を解くために……
しばらく待ってみて、赤ちゃんをチェックし、赤ちゃんを抱いてあげます。
あなたの声で、赤ちゃんをあやします。
少しずつ、赤ちゃんの部屋を訪問する時間を長くしていきます。
結果として(ふつう一週間単位で)赤ちゃんは、泣いても無駄ということを学びます。
そして赤ちゃんは夜の間、眠るようになります。
あなたも眠られるようになります。

 Ferber states that it's ok for your child to throw a tantrum or to cry for extended periods 
of time this will not hurt your child. He/she will realize that crying will get them nowhere. To 
ferberize or not ferberize is a decision that only you and your partner can make. Here's 
what some parents are saying about the Ferber Method.

ファーバー博士は、赤ちゃんがかんしゃくを起こし、ある程度の間泣いても、この方式は、赤ち
ゃんを傷つけないといいます。
赤ちゃんは泣いても、何も解決しないことに気づきます。
ファーバー方式を使うにせよ、しないにせよ、それはあなたが決めることです。
ここにいくつかコメントがあります。

" I hated it. I just couldn't ! let my child cry not even for 5 minutes". Jody 

「この方式は、嫌いです。私は五分だって、子どもには泣かせることはできません」

" I was so exhausted I couldn't do anything. His method saved my life." Sonia 

「私は疲労しました。彼の方式は、私を救いました」

"It's great to have a formula to follow. It worked with all my kids." Maria 

 「すばらしい方式です。私の子どもたちには、有効でした」

●はやし浩司より
 このファーバー方式は、アメリカでは広く知られている。子育て(parenting)の指導法として
も、一定の地位を確立しつつある。
 
 私も、外国へ行くと、よく書店をのぞいてみる。向こうでは、いわゆる「教育書」と「育児書」
が、ほぼ、同じ割合で、並んで書店に並んでいる。一方、この日本では、育児書の多くは、書
店の目立たないところに、ひっそりと並んでいる。このあたりにも、「家庭教育」に対する認識の
違いがある。つまりこの日本では、「何でも幼稚園や保育園で……」という考え方が強く、一
方、欧米では、「子育ては家庭で……」という考え方が強い。

++++++++++++++++++++++

以上の訳について、読者の方より、「訳がおかしい」
という指摘をもらった。
東京M区に住んでいる、SKさんという方からです。
ご指摘ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++

【SKさんより……】

ファーバー方式の和訳についてひと言。英文の解釈が少し違うような気がするのですが、もう
一度注意深く読むと良いかと……特に Ferber suggests that children be at least 5 months 
old before you try to ferberize them. とAfter the "waiting time" check in on your child but 
do not rock, feed or pick her/him up. のくだりです。私には、「赤ちゃんが少なくとも五ヶ月に達
していること」と「抱き上げたりおっぱいなどを与えるな」と解釈できるのですが……

+++++++++++++++++++++
(はやし浩司 ファーバー方式 Feber Method 子どもの夜泣き 子供の夜泣き 夜泣き)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを伸ばす、5つの箴言(しんげん)】

●許して、忘れる

 親の愛の深さは、どこまで子どもを許して忘れるかで、決まる。英語では、『for・give & for・
get 』という。

 この単語をよく見ると、「与えるために、許し、得るために忘れる」とも訳せる。(forgive= 許
す、 forget=忘れる。そのため、「フォ・ギブは、与えるため」、「フォ・ゲッは、得るため」とも訳せ
る。)

子どもに愛を与えるために、親は許し、子どもから愛を得るために、親は忘れるということにな
る。

 子育てをしていて、袋小路に入り、行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してほしい。心
が軽くなるはずである。


●子どもの横を歩く

 親には、三つの役目がある。ガイドとして、前を歩く。プロテクター(保護者)として、うしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。

 いつも子どもの意思を確かめること。(したいこと)と、(していること)が一致している子ども
は、どっしりと落ちついている。夢や希望もある。当然、目的があるから、誘惑にも強い。

●ほどよい親である

 やりすぎない。子どもが求めてきたら、与えどきと考えて、そのときは、ていねいに答えてや
る。昔から『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。

 いつも、「子どもがそれを求めているか」ということを、自分に問いかけながら、子どもに対処
するとよい。手のかけすぎ、サービス過剰は、かえって、子ども自身が自ら伸びていく芽をつん
でしまうことになる。

●暖かい無視

 親の過剰期待、過関心、過干渉ほど、子どもの負担になるものはない。「まあ、うちの子は、
こんなもの。親が親だから……」という割りきりが、子どもを伸ばす。

 親は、いつも子どもから一歩退いた位置で、子どもを見守る。野生動物保護団体には、『暖
かい無視』という言葉がある。その言葉は、そのまま、子育てにも当てはまる。

 子育てをしていて、「少しやりすぎかな……?」と感じたら、子どもを暖かい愛情で包みなが
ら、あとは無視する。その度量の広さが、子どもを伸ばす。

●子どもは使う

 使えば使うほど、子どもは、すばらしい子どもになる。家事、仕事、手伝いなど。身近なところ
から、どんどん、使う。

 使えば使うほど、子どもには忍耐力(いやなことをする力)が身につく。この力が、子どもを伸
ばす。もちろん学習面でも、伸びる。もともと学習には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を
乗りこえる力が、忍耐力ということになる。
(はやし浩司 育児 育児のコツ 子育てのコツ 子育て法 育児法 子どもを伸ばす 子供を
伸ばす 育児相談)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもの心理、思いつくまま】

●ものわかりのよい子ども

 幼稚園児や小学校の低学年児であるにもかかわらず、たいへん従順で、すなお(?)で、も
のわかりのよい子どもがいる。聞き分けもよく、先生の指示にも、よく従う。

 「ブランコに乗っていたら、そこへ友だちがきて、貸してくださいと言いました。あなたはどうし
ますか」と聞くと、「貸してあげます」などと、スラスラと答える。

 このタイプの子どもは、いつも、自分が他人にどう見られているかを気にしている。他人の評
価の中で、自分の位置づけをしようとする。みなに、(いい子)に見られることによって、安心感
を覚える。

 親や先生には、その分だけ、受けがよい。「よくできた子」という評価を受ける。しかし問題が
ないわけではない。こうした不自然さは、やがて子どもの心を、少しずつ、むしばみ始める。

 見た感じとしては、いつも柔和な笑みを浮かべているといったふう。しかし何を考えているか、
よくわからない。

 子どもというのは、そのときどきにおいて、昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。乳児期から
幼児期へ。幼児期から少年期へ、と。そのカラをそのつど脱がないため、そのツケは、おとな
になってから、ドッと出てくる。いわゆる『アダルト・チェルドレン』の問題も、そこから生まれる。

 おとなになりきえない、精神的未熟性の残った子どもを、アダルト・チェルドレンという。

 他者への依存性が強く、自立できない。そのため相対的な価値観をもちやすい。隣の人よ
り、よい生活ができれば、幸福。そうでなければ、不幸、と。が、それだけではすまない。

 外の世界で、大きなストレスをためやすく、そのため家の中で、暴れたり、親に向かって暴言
を吐いたりすることもある(プラス型)。カアッとなって、母親に、包丁を投げつけていた女の子
(年長児)がいた。

 一般的に、(すなおな子ども)というときは、心の状態と表情が一致している子どもをいう。い
やだったら、はっきりと「いや」と言う。このタイプの子どもは、ここに書いた子どもと正反対の位
置にいる子どもと理解すると、わかりやすい。
(はやし浩司 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン ものわかりのよい子ども 子供 
子供の心理 依存性の強い子ども 子供)


●自分を偽る子ども

 (そうである自分)を偽り、(別の自分)を演ずる子どもは、少なくない。以前、書いた、「悲しき
道化師」と呼ばれる子どもも、このタイプの子どもということになる。

 勉強ができない。宿題もやっていない。先生にさされても、答を言うことができない。そこでこ
のタイプの子どもは、ひょうきんな道化師として、みなを笑わせる。決してふざけているのでは
ない。そういう形で、自分の存在感をつくる。「みなに、バカと思われるより、おもしろいヤツ」と
思われたほうが、気が楽なのである。

 しかしこのタイプの子どもは、(この悲しき道化師タイプの子どもも含めて)、集団の中では、
相当のストレスを受ける。一見、朗らかで、明るい表情をしている。おおらかに見える。それで
つい油断して、ほかの友だちが、からかったりすると、それで大きくキズついたりする。

 つまりこのタイプの子どもは、ストレッサー(ストレスの原因)を、自分の中で、つくりあげてしま
う。

 わからなかったら、「わからない」と言う。できなかったら、「できない」と言う。そう言うことは、
何も恥ずかしいことではないし、またそうであるからといって、卑下しなければならないことでは
ない。そんな教育観を、まず親自身が取りもどす。

親が、「こんなことができなくて、恥ずかしくないの!」などと言っていると、子どもは、ますます
自分の心を偽るようになる。

 子どもが生活のどこかで、自分を偽り始めたら、要注意。それが進むと、心身症や神経症の
遠因になることもある。
(はやし浩司 悲しき道化師 心を偽る子供 虚飾 虚栄 他人の目を意識する子供)


●虚栄心の強い子ども

 その子ども(人)の生き様は、20歳くらいまでに完成する。「完成する」というより、その方向
性は、20歳くらいまでにできあがる。あとは、その子ども(人)は、自分で敷いたレールの上
を、歩くようになる。

 虚栄心と、ウソは、ちがう。虚栄心は、自分を飾り、(本当の自分)より、よい自分を、他人の
目の中で演ずることをいう。ウソをつくのは、あくまでも、その結果でしかない。

 昔、「私はイタリアの王女」と言っていた女の子(オーストラリア人、10歳くらい)がいた。そこ
で私が、「イタリアには、王女はいないよ」と話したが、その子どもは、それを頑(がん)として、
否定した。

 その子どもは、虚構の世界に住んでいたことになる。しかしこうした虚構性は、年齢とともに、
大きくなり、さらに、巧みになる。

 わざと高貴な奥様ぶってみたり、リッチな様子をしてみせたりする。家の中では、インスタント
ラーメンを食べていても、外出するときは、ブランド品で身を包んで出かけたりする。いつも、財
布の中に、10〜20万円の札束を入れて、支払いのときなどに、これ見よがしに、他人に見せ
びらかしていた女性(65歳)もいた。

 本当は、その女性は、老齢年金と、近くに住む息子氏からのわずかな仕送りで、細々と生活
をしていたのだが……。

 このタイプの子ども(人)が、悲劇的なのは、やがて、自分を見失ってしまうということ。自分が
だれであるかさえ、わからなくなってしまう。そして虚栄がそれなりにうまく作用していれば、そ
れなりに幸福感(充実感)を味わうことができるが、そうでない自分に気づいたとき、へたをす
れば、はげしい自己嫌悪から自己否定へと進んでしまうこともある。

 こうした虚栄心の強い子どもは、そうでない子どもと比較すると、よくわかる。虚栄心の強い
子どももいれば、反対に、自分をまったく飾らない子どもというのもいる。あるがままの自分を、
堂々と見せながら生きている。

 ふつう、虚栄心の強い子どもというのは、それだけ愛情に恵まれなかった家庭に育った子ど
もとみてよい。親子の信頼関係そのものが、結ばれていない。そのため、他人に心を開くこと
ができない。社会そのものに心を開くことができない。その結果として、自分の姿を偽るように
なる。

 さらに症状がひどくなり、長期にわたると、仮面をかぶっていること、そのものがわからなくな
ってしまう。

 このタイプの人は、言動が、わざとらしく、どこか不自然。ぎこちない。ことさら善人ぶったりす
る。
(はやし浩司 虚栄心 虚栄心の強い子ども 見栄を張る子ども 子供 自分を偽る子ども 親
子の基本的信頼関係 仮面 ペルソナ)


●現実を認識しない子ども

 理想や望みばかりが高くて、現実を受け入れることができない。……そんなタイプの子どもが
いる。

 もっとも、この時期(4歳〜12歳)は、自分の能力を客観的に評価することができる子どもは
少ない。しかし小学校の高学年になってくると、(現実)というカベに、多くの子どもたちは、「成
績と」いう形で、直面する。

 たとえば、能力をはるかに超えたワークブックをかかえ、苦しんでいる子どもがいる。で、そう
いう子どもには、私は、「そのワークブックは、君には合っていないから、もっと簡単なのにしな
さい」とアドバイスをする。

 しかしそういうアドバイスに耳を傾ける子どもは、少ない。「これができないと、AA中学に入れ
ない」と、反論したりする。また、「できない」と認めることは、このタイプの子どもにとっては、敗
北を意味する。

 そこで、このタイプの子どもは、解答を丸写しにしたりして、(できた)という体裁をとりつくろ
う。親は、そのワークブックを見て、「うちの子は、できる」と思いこむ。

そこで私は、こう言った。「あなたのお母さんに、正直に言いなさい。ぼくには、その力はないか
ら、AA中学は無理だ。もう少し下の学校にランクを落としたいと」と。

 しかし子どもは、そういうことを、親には、絶対に言わない。

 私は、長い間、そういう子どもの心理が理解できなかった。が、ある日、こんな男性がいるこ
とを知った。それで理解できた。

 その男性は、会社をリストラされて、職を失った。しかし家族には、それを言えず、いつものよ
うに、定刻に家を出て、また夜は、定刻に家に帰ってきていたという。その間、魚釣りをしたり、
パチンコをしたりして、時間をつぶしていた。

 つまり子どもにしてみれば、「その力がない」と告白することは、自分の存在感そのものを否
定することになる。だから親には、言わない。親に「できる」と思わせることによって、自分の存
在感を保つ。

 その心は、仕事を失った人が、あたかも仕事にでかけるようなフリをして、時間をつぶす。そ
の心と、どこも、ちがわない。
(はやし浩司 現実を認めない子供 子ども)


●ウソをつく子ども

 子どもというのは、たとえばスポーツクラブや塾、さらにはおけいこ塾などをやめたくなって
も、「やめたい」とは言わない。そういうときは、親にウソをつく。

 「先生が、まじめに教えてくれない」「体罰を加える」「ひどいことをする」と。

 そういうウソを並べながら、親をして、「それなら、そんなところはやめなさい」と言うように、し
むける。

 ……たいていのケースでは、ここまでで話が終わるが、そのあと、子どもの予想を超えて、事
件に発展することもある。

 ある母親が、スポーツクラブのコーチのところへ、ある夜、怒鳴りこんできた。ものすごい剣
幕だった。いわく、「あなたは、うちの息子(10歳)を、殴ったそうですね。息子の話では、息子
は何もしていなかったと言っています。どうしてそんなことをするのですかア!」と。

 そのコーチにしてみれば、まさに寝耳に水。「私は、そんなことをした覚えはありません」と言
うと、その母親は、「息子は、ウソをつくような子どもではありません!」「いいかげんなことを言
うな!」と。

 残念ながら、子どもというのは、よくウソをつく。その子どものばあいも、そういう母親だからこ
そ、ウソを言ったと考えられる。親の過干渉と過関心。それに加えて、はげしい気性の親をも
つと、子どもは親の前では、いい子ぶるようになる。つまり仮面をかぶる。

 だからかえって親の前では、(その母親が言うように)、かえっていい子に見えるときが多い。
まただからこそ、ウソも多くなる。

 さらにこの仮面で注意しなければならないのは、子ども(人)は、仮面をかぶることで、自分に
とってつごうの悪いことを、心の別のところにしまいこむことがあるということ。つまり邪悪な自
分を、そこへしまいこむことによって、自分はいい子だと、本気で信ずるようになる。

 しかしときとして、その別の心が、表に出てくるときがある。日ごろは、よくできたと思われてい
る子どもが、とんでもないような大事件を引き起こすことがある。そういう事件が起きると、周囲
の人たちは、異口同音に、「信じられません」「あんないい子が……」「おとなしくて、やさしい子
でした」などと言う。

 このタイプの子どもは、仮面(ペルソナ)をかぶりながら、別のところで、暗い影(シャドウ)を
つくっていたことになる。そのシャドウが、その子どもを、ウラから操ったということになる。

 子どもの仮面には、じゅうぶん、注意したほうがよい。
(はやし浩司 仮面 嘘 嘘をつく子ども シャドウ 子供の心理 育児問題)


●思いこみの強い子ども

 ふつうでないこだわりをもつ子どもは、心に何かの病気をもっていると考える。たとえばささい
なことを気にして、いつまでもクヨクヨと悩むなど。幼児期に読んでいた雑誌を、片時も放さなか
った子ども(小6男児)もいた。

 で、少し話は変わるが、こんな中学生(男子)がいた。Pケモン全盛期のころである。

ある日、窓の外に向かって、何やら呪文(じゅもん)らしきものを唱えていたので、「何をしてい
るの?」と声をかけると、こう言った。「あのビルを、ぼくの超能力で、破壊してみたい」と。

私「君が、そう思うのは勝手だけど、破壊されるほうは、困るよ。中には、人がいるしね」
子「ぼくが、やったとは、だれにも、わからない」
私「わからなくても、たいへんな迷惑だよ」と。

 私はその異常なまでの自己中心性に驚いた。自分のことしか考えていない。しかも、超能力
などという、コミックの世界の能力があると思いこんでいる!

 こうした異常なまでの(思いこみ)でよく知られているのが、ストーカー行為である。「相手は、
自分のことを好きなはずだ」「相手を真に幸福にできるのは、ぼくだけだ」と。そうした思いこみ
だけをもとに、妄想をどんどんとふくらませていく。

 ある程度の妄想性は、だれにでもある。またその妄想性が、ロマンやドラマを生み出すことも
ある。しかしその妄想性が、ひとり歩きを始めて、手に負えなくなくなることがある。

 相手をつけまわしたり、執拗に電話をかけたりするなど。待ち伏せすることもある。いわゆる
「ドクレランボー症候群」というのが、それである。

 このタイプの人にも、異常なまでの自己中心性が見られる。相手の立場に立ってものを考え
ることができない。そういう意味で、「パーソナリティ障害」と位置づける人もいる。

 同じように、このタイプの人も、いくら説明しても、それがわからない。「ぼくは相手のためにし
てやっている」「相手を守ってやっている」などと考える。そしてささいな相手の行動や言動に、
特別な(?)意味を添えて、自分勝手な妄想をふくらませる。

 本当は、その相手は、追いかけまわされるのがいやで、別の道を通って家に帰ったのに、
「相手は、ぼくと二人だけになりたかったら、その道を選んだのだ」などと考える。

 一度、こういう状態になると、(社会性の欠落)→(ますます強い妄想性をもつ)→(ますます社
会性が欠落する)の悪循環の中で、社会生活そのものから、遊離するようになる。ひとりで、部
屋に引きこもってしまうことも珍しくない。

 こうした(思いこみ)は、子どもの世界では、決して、好ましいものではない。しかもやっかいな
ことに、こうした思いこみによる妄想性は、年齢とともに、ますますふくらんでいく。一般的に
は、思春期前後に発症すると言われている。

それまでの家庭教育が、重要ということになる。
(はやし浩司 ドクレランボー症候群 妄想 思いこみ 思い込み ストーカー行為)


●大家族問題

 大家族だから、悪いということではない。貧困だから、悪いということではない。家族が、それ
ぞれ暖かい愛情で包まれ、助けあって生きていくなら、それはそれとして、すばらしいことであ
る。

 しかし今のこの日本では、大家族である上に、そこに貧困が加わると、さまざまな問題が生じ
てくる。第一に、教育には、お金がかかりすぎる。そのため、子育てにも、お金がかかりすぎ
る。いわゆる「一人前の育児」(?)となると、こうした家庭では、無理ではないのか。

 ときどきテレビなどで紹介される、こうした家庭をみると、高校へ進学したくても、進学できな
いという事情も生まれてくるようだ。さらに最近、かいま見た番組の中では、16歳になった長女
が、妊娠して出産。子どもを家に連れて帰るというシーンまであった。

 全体(流れ)を見ていないので、これ以上のことは、何とも言えないが、それまで、長女は、家
出をしていたということになる(?)。番組のあちこちで、私は、親の、どこか無責任な育児姿勢
を感じた(失礼!)。

 もっとも、大家族にせよ、貧困にせよ、こうした家族は、2世代昔の日本では、珍しくなかっ
た。私の母方の兄弟(母の兄弟)は、13人もいた。当時は、まさに、「生めよ、ふやせよ」の時
代であった。

 もちろんテレビ番組だから、その家族に対して、否定的な意見や見方は、いっさい、なかっ
た。「すばらしい家族」として、紹介されていた。そうしたテレビ局側の意図は、こうした番組の
制作上、やむをえなかったかもしれない。

 最後は、長女からの父親への手紙で、終わった。しかし、私の経験では、つまり私が知る範
囲では、一度できた親子の(わだかまり)が、たった一通程度の手紙で、霧散するということ
は、ありえない。

 何となく「ヤラセかなあ……」という、思いで、私は、そのシーンを見た。

 ……と、まあ、いろいろ言いたいことはあるが、この話は、ここまで。その家族は、その家族
なりに、がんばっている。それに生まれてきた子どもたちには、責任はない。それにあえて皮肉
な見方をすれば、その家族には、100万円単位以上の、制作協力費が支払われているは
ず。(常識的には、1回分の収録で、数百万円程度。)

 テレビに出ることで、生活費が助かっているということも、ありえる。

 ただ、そういうこともあって、すなおに、「がんばってくださいよ」という言葉は、私の口から出て
こなかった。むしろ、あえて言うなら、子ども1人ひとりの将来を考えて、もう少し計画的に、出
産計画を立てられなかったのかなという思いは残った。

 が、これとて、いらぬ節介。その家族がその家族なりに、幸福であれば、私のようなものがと
やかく言う必要はない。また言ってはならない。
(はやし浩司 大家族)


●サイクル

 子育てには、大きなリズムがある。そしてそれぞれのリズムは、無数のサイクルで構成され
ている。

 たとえば夫婦げんかや、親子げんか。そこには一定のサイクルがある。

 (衝突期)→(反省期)→(安定期)→(緊張期)→(衝突期)と。

 これについては、すでに何度も書いてきたので、ここではその先について、書く。

 こうしたサイクルを感じたら、できるだけそのサイクルを、繰りかえさないように、その途中
で、それを切る。まずいのは、そのサイクルに気づかないまま、同じ失敗を繰りかえすこと。

 このサイクルは、それに気がついた段階で、やがて自ら崩壊する。だからもしあなたが、いつ
も同じようなサイクルで、失敗を繰りかえしているというようなら、それにまず、気がつくというこ
と。そこが重要。

 気がつくだけでよい。

 ただし、夫婦げんかにせよ、親子げんかにせよ、それが生活のスパイス(調味料)になってい
ることもある。もちろん破滅的なけんかはよくないが、そのつど、適当なサイクルを繰りかえしな
がら、生活に、緊張感をもたらすことは、それほど、悪いことではない。

 「夫婦げんかをして、仲なおりしたあとの、セックスは、これまた格別」などと、言った友人(男
性)が、昔、いた。(こういうことを書くと、すぐ私自身のことだと思う人がいる。しかし私じゃ、な
いぞ。念のため。T市のKさんへ。) 一理ある。
(はやし浩司 夫婦喧嘩 親子喧嘩 夫婦げんか 親子げんか)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(710)

(N様へ)

以下の書き込みをいただきました。

+++++++++++++++++++

(Nより、はやし浩司へ)

『たとえば緘黙児や自閉症児などの情緒障害児』←こういう自閉症に対して誤解を生じるよう
な、書き方は止めてください! 自閉症児は情緒障害児ではありません。
脳の器質的な障害です。
情緒障害とは感情生活に支障をきたし、社会的適応が困難になった状態を指します。

+++++++++++++++++++

(返信)

これは私の意見ではなく、「障害」という言葉は、広く使われています。

(1)「かん黙児は、心理障害」(臨床心理学 稲富正冶 日本文芸社)
(2)自閉症―自閉性障害(広汎性発達障害)(同書)ほか。
(3)自閉症は、70〜80%が、精神遅滞を合併し……原因については、脳機能障害が有力と
考えられている(臨床心理学 松原達哉 ナツメ社)

 ふつう「情緒障害」(脳の機能に問題がある)というときは、「精神障害(脳の器質に問題があ
る)と分けていうときに使われています。簡単に言えば、「心の問題」ということです。だれにで
も、ときとばあいに応じて、あるものです。

「障害」という言葉は、実際、暗いですね。英語では、disorderといいます。「不調」という意味
でしょうか。私も、「障害」という言葉には、大きな抵抗を感じ、あちこちで、そう書いています。

また躁鬱的な症状をまとめて、「情動性人格障害」「気分障害」というときもあります(例、心理
学用語辞典 渋谷昌三ほか かんき出版)ほか。

 なお「器質的障害」というのは、脳の構造そのものに障害があるばあいをいいます。たとえ
ば、統合失調症(分裂病)や、てんかんなど。

これに対して、自閉症やかん黙症は、機能的(働きの)問題ということになります。しかし、(精
神障害)については、精神医学の問題で、教育の問題ではありません。私も、それについて、
書いたことはありません。

 情緒障害であるから、「感情生活に支障をきたし……」ということは、ありません。ご指摘のと
おりです。私はそのように書いたことはありません。(もちろん軽重の問題もありますから。)

 なお自閉傾向と自閉症とは、分けて考えます。多分、そのあたりにも、誤解があるのではな
いでしょうか。同じような言葉を使いますので……。

 ともかくも、これからは、言葉に、気をつけます。ご指摘、ありがとうございました。折につけ、
原稿を訂正していきます。(何しろ、ぼう大なHPなものですから、思うように、修正、訂正ができ
ないのも事実です。

 ですからできるだけ、最新の原稿を優先してお読みくだされば、うれしく思います。この世界
も、日進月歩で進んでいます。)

+++++++++++++++

●ついでながら

以前は、「気分の移り変わりがはげしいく、通常の社会生活に支障をきたす状態」を、「情緒障
害」といいました。現在では、「情緒」にかわって、「情動」という言葉を使います(岩波書店、「広
辞苑」)。

 一般的には、(私の個人的な見解ではなく)、脳の機能による障害を、「機能障害」、また器質
的な問題による障害を、「器質(機質)障害」と呼んでいるようです。

 このうち、自閉症は、脳の機能による障害ということで、「原因としては、脳機能障害が強いと
見られている」(「臨床心理学」松原達哉ほか)と位置づけられています。

DSM−IV、ICD−10(国際疾病分類第10版)の診断基準によっても、自閉症は、「広汎性発
達障害(特定の能力だけではなく、対人的相互作用、言語、情動行動といった領域に発達上
の障害が見られる)」と、正式に位置づけられています。

 しかし教育の分野では、親への言葉の衝撃をやわらげるため、「情緒」という言葉を使うこと
が多いようです。かえってこうした言葉のほうが、誤解を招くかもしれません。

 またそういった障害をもった子どもを、「〜〜児」と呼んでいるのは、一般的なことであって、
たとえば、「ADHD児」「かん黙児」と呼んでいます。決して、差別してそう呼んでいるのではない
と思います。(私の造語では、ありません。誤解のないように!)

 ご指摘の「器質障害」というのは、ここにも書きましたように、脳の構造(機能ではなく、構造)
そのものに、何らかの問題があることをいいます。したがって、これは精神医学の分野のテー
マであって、教育のテーマではないということになります。

 いろいろ誤解もあるようです。また調べて、報告します。
(はやし浩司 自閉症 広汎性発達障害 DSM ICD)


**********************

ここにも書きましたように、私のHPには、
ぼう大な量の原稿が収録されています。
A4サイズ、1ページ3000字ほどで、
約1万3000ページ、単行本にすれば、
約100冊分ということになります。

訂正、修正もままなりませんが、同時に、
古い原稿(若いときに書いた原稿)も
混在しています。

そのつど、訂正記事などを追加しています。
ですから、できるだけ、最新のものを
お読みいただければ、うれしく思います。

まちがったことは書いてないつもりですが、
しかし古い原稿ほど、不備な点、言い足りない点
があるのは、事実です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(711)

【今朝、思うこと】

●やっと調子がもどる

 季節的なものだと思うが、どうも、このところ、心がふさぐことがつづいた。「もの思う春」と言う
べきか。何を考えても、メランカリーになる。そんな2週間だった。

 ……こうして考えてみると、「心の状態」というのは、そのつど、変化するものであることがわ
かる。体調と同じように、だ。

 実は、東洋医学では、肉体の健康と、心の健康を、(おなじもの)として考える。肉体的な病気
そのものも、「気の病」と考える。

 なるほどなあ……と、感心しながら、しばし、天井を見あげる。


●体重

 体重のコントロールが、むずかしい。少し、油断すると、パクパクと食べてしまう。そのたび
に、1〜2キロ、体重がふえる。

 そこで今朝もまた、ダイエット宣言。ワイフに、「朝ごはんを抜くから……」と言うと、すなおに
応じてくれた。

 で、私の体重は、微妙なもの。ほんの少しふえただけで、体がズシリと重く感ずる。その反対
に、ほんの少し減っただけで、ヒョイヒョイと軽くなる。一番調子がよいのは、63キロを少し下回
るとき。正確には、62・5〜63・0キロ。

 今は、64キロくらいあるのでは……? 何となく腹の中が、ゴボゴボしている感じ……。その
感じで、体重がわかる。


●ヘリコプター

 模型のヘリコプターに、このところ、ハマっている。毎日、飛ばして、遊んでいる。が、なかな
か上達しない。

 飛ばしては壊し、壊しては修理の連続。

 この世界も、なかなか奥が深いようだ。映画などを見ていると、(本物のヘリコプターだが)、
スイスイと飛びまわっている。そういうのを見ていると、「どうしてあんなにうまく操縦できるのか」
と感心さえする。

 私の趣味は、周期的に変化する。今は、ヘリコプター。ウィーンと風を切って、プロペラが回る
様子がたまらない。

 そう言えば、今度、同じタイプだが、ジャイロスコープつきのヘリコプターが売りに出されたと
か。ジャイロがついていれば、飛行は、もっと、安定するはず。値段は、1万円ほど、アップ。

 どうしようか?

 若いころは、一度ハマり始めると、底なしにハマった。しかし今は、ちがう。どこか一歩、退い
ている。冷めている。これも年のせいかな?


●バカになっていく?

 このところ、パソコン相手の将棋で、負けてばかりいる。1年ほど前、5分5分のところで調整
したのだが、負けてばかりいる。(私の将棋ソフトは、強さを、レベルで調整できるようになって
いる。今は、レベル3に調整してある。以前は、そのレベル3で、勝率は50%くらいだった…
…。)

 負けそうになると、途中でやめてしまうので、本当のところ、勝率はわからないが、このごろ
は、10回やって、1、2回、勝てればよいところ。「待った(一手戻し)」をかけることも多くなっ
た。

 そういう自分を知ると、心底、こわくなる。年々、脳ミソの働きが悪くなっているのが、わかる。
直接、わかる。つまりわかりやすく言うと、パソコン相手の将棋は、私の脳ミソの老化を知る、
バロメーターということになる。

 私の脳ミソは、たしかに悪くなってきている。鈍くなってきている。

 ボケた兄を見ているので、それは私にとっては、恐怖以外の何ものでもない。「ああはなりた
くない」と思いつつ、一方で、そうなりつつある私。ゾーッ!


●享楽主義

 自分の欲望を、とことん、満足させてはいけない。ほどほどのところで、ブレーキをかける。あ
とは、その切なさを楽しむ。

 切なさ……年をとると、何かにつけて、その切なさを感ずる。先日、コンサートを聞きに行った
ら、美空ひばりの「悲しい酒」を演奏した。

 「♪ひとり、酒場で飲む酒は……」という、あの歌である。

 私は酒は一滴も飲めない。が、気持ちは、ヨ〜クわかる。あの切なさである。すべてが、思う
ようにならない。すべてが、だ。切なさは、そこから生まれる。

 しかし悪いばかりではない。

 自虐的な楽しみというか、その切なさをしみじみと感じながら、毎日を生きていく。それが結
構、楽しい。年相応ということもある。分相応ということもある。この年齢で、若い人と立ち向か
って、勝ち目はない。今さら、人生が大きく変わるということもない。

 私たちがすべきことは、もし楽しみがそこにあるなら、それは若い人に譲って、一歩退いたと
ころで、そのおこぼれを楽しむこと。「まあ、私の人生は、こんなものよ」と、自分を納得させる。
ほどほどのところで、あきらめる。

 そう言えば、昔、一世を風靡(ふうび)した、歌手に、M子という人がいた。そのM子が、今
度、写真集を出した。ワイフが先にそれを見つけて、こう言った。「M子って、おとなになりきれ
ない人ね」と。

 見ると、赤いミニスカートをはいて、表紙を飾っていた。明らかにx0年以上も前の服装であ
る。「精神年齢は、子どものまま」と、私は感じた。

 「同じ女性として、こういう女性を見ると、なさけなくなるわ」と、ワイフはつづけた。「いくらがん
ばっても、がんばれることと、がんばれないことがあるわ。そのむなしさが、M子には、わから
ないのかしら」とも。

 世の中には、そういう人も多い。人それぞれだが、大切なことは、表面的な「形」を取りもどそ
うとしないこと。大切なことは、表面的な「形」を乗り越えて、人間的な美しさをみがくこと。……
では、ないか?

 M子は、ひょっとしたら、x0年前の、あの栄光を取りもどそうとしているのかもしれない。「夢
よ、もう一度」と。しかし……。

 つまり、この問題は、はっきり言えば、どうでもよい。M子は、M子。世の中には、M子のよう
な生きザマを、すばらしいと思う人もいる。反対に、私の生きザマがすばらしいというわけでは
ない。

 しかしごくふつうの男として、一言。私はその表紙を見ただけだが、(全体には、ビニールシー
トがかぶせてあった)、一片の性的魅力も感じなかった。それどころか、嫌悪感さえ覚えた。(ご
めん!)今のままのM子なら、M子の時代は、もう、とっくの昔に終わったように思うのだが…
…。

(補足)

 否定的なことばかり書いたが、M子は、そのつどマスコミ的な話題をつくっては、世間を騒が
している。それもタレントとして、生きる道なのか。それとも、何か特別の心理状態にあるのか。
私は若いころ、M子が好きだったし、あのままのイメージでいてほしいと思う。どうしてM子は、
自ら、そのイメージを、自らぶち壊すようなことをするのだろうか?


●リスト・カット

 Fさんという知人の娘(21歳)が、リスト・カットをしたという。「今まで、気づかなかったが、とき
どきしていたようだ」と、知人は言った。

 リスト・カット。今、若い女性の間で、それをする人が、ふえている。とくに自殺に結びつくわけ
ではない。

 稲富正治氏の「臨床心理学」(日本文芸社)によれば、つぎのようにある。

(1)感情が不安定で、衝動的な行動を起こしやすい。傷つけたときの血が、贖罪(しょくざい)
のしるしなので、何度も繰りかえして行われる。

(2)感情が不安定で、怒りっぽく、人間関係に支障をきたす。

(3)1人でいることが苦手で、自分が見捨てられるのではないかと、不安になる。

(4)手首にかぎらず、体中に傷をつける。血を見て、自分は許されたと感ずる。何度も繰りか
えし、リスト・カットをする。

 稲富氏は、「パーソナリティ障害の中の、(境界性人格障害)にあたる人たちに多く見られま
す。感情が不安定で、怒りがあらわになりやすいのですが、見捨てられるのではないかという
不安も、非常に強いのです。

 また本人は、1人でいることに耐えられないはずなのに、対人関係も不安定です」(同書、10
8)とある。

 知人の話では、いつも神経がピリピリとしているといった感じで、ささいなことで、怒ったり、そ
れにこだわっていつまでも、不機嫌になるという症状もあるとか。ボーイフレンドもいるが、いつ
も相手がちがうという。

 で、そういう相談をもちかけられると、あれこれと、頭の中の情報を、さがしまわる。しかしこ
の分野については、私は、まったくの門外漢。経験もないし、それに私は、女性ではない。デリ
ケートな(?)女性の心理が、まだよく理解できない。

 「そんなことしなくてもいいのに」と思ったりする。3、4回、会ったことがあるが、とてもすてきな
女の子である。だまって座っているだけで、男のほうが声をかけてくるだろう。そんなタイプの女
の子である。

 が、いろいろと悩みもあるのだろう。心の緊張感が、とれないのかもしれない。見たところ、
(つまり感じるところ)、母親との関係があまりうまくいっていないようだ。心理学でいう、「母子関
係の不全による、基本的信頼関係の不足」ということになる。

 新生児から乳児期にかけて、母親に、安心して心をよせることができなかったのかもしれな
い。

 これは私の勝手な推測によるものだが、そんな感じがした。

 「時期がきて、結婚でもすれば、何ごともなかったかのように終わるのでは……」とは、電話
では言ったものの、本当のところは、私にもよくわからない。ごめん、Fさん!

「時期がきて、結婚でもすれば、何ごともなかったかのように終わりますよ」とは言ったものの、
本当のところは、私にもよくわからない。ごめん、Fさん

(Mさんからの、助言)

 こんな助言が、R天掲示板に届いています。そのまま、紹介します。こういうこともあるようで
す。

++++++++++++++++++++++

本当です。私と実母とは、私が結婚する前は、良い関係ではありませんでしたが、(リストカット
とかそういうのはしませんでしたが)、結婚して子供ができたら、今までの何十年といった関係
はなんだったのか、というぐらい仲が良くなってしまいました。

本当、母子戦争は何だったのか、というぐらいあっけなく終ります。女って不思議! 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●巧妙化するスパムメール

 ますます巧妙化するスパムメール。最近のスパムメールは、件名だけからでは、それがスパ
ムメールとは、わからない。

 たとえば……

件名:お世話になっています。小林です。
件名:懸賞募集、VIOが、五名に様当る
件名:お得なキャンペーン実施中! 
件名:返事が遅れてすみません。よろしく。

 目的はわからない。雑誌などによると、中にHPのアドレスなどが書いてあり、それを不用意
にクリックしたりすると、ウィルスが侵入したり、スケベサイトにつながったりするという。あるい
はこちらのアドレスが生きていることがわかってしまい、そのあと、ドッと、スパムメールがふえ
るということもあるそうだ。

 そこでフィルターをかけて、削除する。が、こうしたメールが、つぎからつぎへとやってくる。対
策は、いろいろあるようだが、何かとめんどう。今は、こまめに、削除するという方法で、対処し
ている。

 しかしこんなことをすれば、かえって信用をなくすだけ。ますます相手にされなくなるだけ。そう
言えば、こんなスパムメールもあった。

件名:これはまじめな連絡です。スパムペースではありません。浩子より

 読んで、思わず笑ってしまった。ドロボーが、私の家に、「こんにちは、ドロボーではありませ
ん」と言いながら、入ってくるようなものだ。

 それにしても、ものすごい、スケベ力! こうしたスパムメールをながめていると、人間は、か
くもスケベだったのかと、改めて、思い知らされる。そのスケベ力が、インターネットの普及に一
役買っているというから、これもまた、しかたないことなのかもしれない。


●こだわり

 自閉症児が見せる症状のひとつに、こだわりがある。ある特定のものや、ことがらに、強くこ
だわる。

 しかしこだわりがあるからといって、自閉症ということではない。また、こだわりといっても、軽
重がある。軽いこだわりから、重いこだわりまで、症状は、さまざま。決まった席でないと座らな
い子ども(年長男児)や、決まったズボンでないと、外出しなかった子ども(年長男児)がいた。

 これらは、軽いこだわりということになる。こうした傾向は、だれにでもあるもので、またそれ
があるからといって、自閉症ということではない。ふつうの生活をしていくには、さほど、問題は
ない。「どこか気がむずかしい子ども」という程度ですんでしまう。(その分、見過ごしてしまうこ
ともあるが……。)

 が、こだわりがひどくなると、部屋の中の置き物の位置が、少しでもズレただけで、パニック
状態になったりする。生活の順序がちがっただけで、同じく、パニック状態になったりする。

 こだわる対象によって、いろいろに分類される。

(1)モノにこだわる

 ある特定のモノにこだわる。それがないとイライラしたり、モジモジしたり、あるいは不機嫌に
なって、暴れたりする。モノは、古い雑誌や、ペン、おもちゃなど。

(2)時間にこだわる

 決められた時刻に、一定のことが始まらないと、同じように、情緒が不安定になる。グズりや
すくなったり、怒りっぽくなったりする。毎日、時計ばかり見て、自分の行動を決めたりする。

(3)生活習慣にこだわる

 風呂に入っても、体を洗う順番が決まっている。使うシャンプーが決まっている。着る服の組
み合わせが決まっている、など。母親が風呂の中で、体を洗ってやるのだが、洗う順序が決ま
っている子どもがいた。その順序がちがうと、突発的に混乱状態になったりした。

(4)ささいなことにこだわる

 だれかが、何気なしに言った言葉にこだわったりする。ある特定の、部分的な言葉にこだわ
るのが特徴。全体としてみれば、何でもないことなのだが、それが理解できない。

 たとえば「わからないところがあったら、電話をしなさい。ときどき、勉強をみてあげる」などと
言うと、その「ときどき」という言葉にこだわる。それを勝手に、「毎日」というふうに、解釈してし
まう、など。

(5)儀式にこだわる

 「誕生日には、こうするものだ」というふうに、自分で決めてしまう。そしてそれがその通りでな
いと、突然、イラついたり、怒ったり、ふさいだりする。あるいは寝る前の就眠儀式が、いつも同
じパターンでないと、眠りにつかない、など。ある子ども(年長児)は、毎晩、自分でフトンをなお
すのだが、センチ単位まで正確に、フトンをなおしてから、フトンの中に入っていた。

 母親が、「寝相がよくて、朝まで、そのままです」と言っていたのが、私にはたいへん気になっ
た。

 こうして一度、何かにこだわり、カラにこもってしまうと、説得しても、効果がない。いつまでも、
グズったり、不機嫌な様子をしてみせたりする。

 子どもの世界で、こうした(こだわり)が見られたら、好ましくないという前提で、早めに対処す
る。叱ったり、乱暴な指導をしてはいけない。たいてい、こうしたこだわりが見られると、母親
は、強く子どもを叱ったりする。あるいは、「気のせいよ」と、乱暴な言い方をして、子どもの心
を無視する。

 そういう接し方が、子どもの症状を悪化させる。(が、親には、その意識がないのが特徴。)私
が、「家で、神経質に接していませんか?」と聞いたとき、「あの子は、生まれつき、ああでした」
と、どこまでもがんばっていた母親がいた。

 冒頭に書いたように、自閉傾向が見られるからといって、自閉症とはかぎらない。それはちょ
うど、熱があるから、扁桃腺炎とはかぎらないというのに、似ている。念のため。
(はやし浩司 こだわり 自閉傾向 自閉症 固執 がんこ 子どもの頑固 子供の頑固)

(補記)

 こうした一連のこだわりが子どもに見られたら、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態を
より悪くしないことだけ」を考えて、子どもの立場でものを考えるようにする。

 たとえばある子ども(中学生)は、CDを集めていた。そのCDを、ほんの少しでもだれかが動
かしたりすると、オドオドとしたり、ときには、突発的に、自らCDを割ってしまっていた。

 こういうケースのばあいでも、それがおかしいと決めてかかるのではなく、「そうだね。大切に
しているCDを動かしてはだめだよね」と、子どもの立場で考えて行動する。

 子どもに安心感を与えることが、何よりも重要。こうしたこだわりの強い子どもは、いつも緊張
状態にあるとみる。不安感も強い。そうした緊張状態をほぐし、不安の原因となっていること
を、いっしょに考えてやる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●今日を生きよう、明日に向って

昨日(きのう)のことは、話さない。
今日のことを、明日に向って
夢と、希望と、目的を、話そう。

朝起きたら、その日のことを考える。
何をして、何をすべきかを考える。
あとは、それを懸命にしよう。

みんな、十字架の一つや、二つ、
あって当たり前。それが当然。
だから、十字架のことは気にしない。

悩んでも、悔やんでも、道は開けない。
どうせ歩かねばならない道だったら、
前に向って、笑って生きていこう。

昨日(きのう)のことは、話さない。
今日のことを、明日に向って
夢と、希望と 目的を、話そう。


●ロマンとカルト

 少し前、幻の第10惑星、「ニビル」について書いた。ロマンの一つとして書いた。人間以外
に、この太陽系に、知的生物がいると考えることは、それだけでも楽しい。しかしロマンは、ロ
マン。

 が、このロマンがひとり歩きするときがある。そしてそれがどこかで、宗教化するときがある。
そうなると、今度は、ロマンが、カルトに変身する。

 数年前、G県やN県かいわいに、体中を、白い布でおおった集団が現われた。当時は、その
服装から、「白xx集団」と呼ばれた。どういうグループで、どういう活動をしているのかは、知ら
ないが、彼らは、そのニビルという惑星の存在を、本気で信じていたようだ。(今も、そう、信じ
て、どこかで活動していることと思う。)

 結局、彼らの予言は、当たらなかった。彼らは、その年の○月○日に、ニビルからやってき
た、ニビル星人なるものが、地球人を滅ぼすと信じていた(ようだ)。

 つまりこういう話をするときは、注意しなければならない。どこまでが、ロマンで、どこからがカ
ルトか、と。

 私は、それほど深く考えず、ニビルの話を書いた。「この太陽系にも宇宙人が住んでいるか
もしれない」「火星のまわりを回っている、あの衛星フォボスが、あやしい」と。

 しかしそれは、ロマンとして書いた。無責任と思われるかもしれないが、私も、その種の雑誌
に書いてあること以上の、情報をもっているわけではない。また本気で、ニビル星人がいると
信じているわけでもない。

 それにこれは私の脳ミソの特徴(=欠陥?)の一つかもしれないが、そのことについて書いて
いるときは、それなりにハマるが、書き終わると、興味は、別の方に向いてしまう。と、同時に、
それまで書いてきたことを忘れてしまう。

 そういう意味で、スイッチングが、速い。つまり脳ミソの切り替えが速い。だから、そのときは、
「宇宙人はいるかもしれない」と書いても、つぎに育児のことを書いているときには、宇宙人の
ことは、すっかり忘れてしまう。

 だから、「あの林(=私)は、白xx集団のメンバーではないか」と、勘ぐられても、困る。私は、
そういった団体とは、まったく無縁である。連絡をとったこともない。

 ロマンとカルト。どこで線を引くか。これは一つの大きな問題である。また機会があれば、じっ
くりと考えてみたい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(712)

【これからの日本】

●私の仕事

 昨日、浜北市にある友人の家に、遊びに行った。が、あいにくと、不在。いつもアポイントなし
で行く。引佐町(いなさちょう)で買った、名物の「味噌まんじゅう(みそまん)」を奥さんに渡して、
そのまま帰る。

 その帰り道、『S工業』という巨大な工場を見る。『Z工業』という工場も、そのとなりにあった。
この二つの会社は、私には、たいへん縁のある会社である。

 『S工業』。金属部品やその加工をしている会社である。『Z工業』は、空調機器を製造してい
る会社である。

 私は、ワイフと結婚すると、浜松市の北部にある、曳馬町(ひくまちょう)のアパートに移った。
4畳と6畳だけの、今から思うと信じられないほど狭い、アパートだった。私が23歳のときのこ
とである。

 当時、そのあたりは、まだ田んぼや畑が、たくさん残っていた。歩いて1、2分のところには、
電車通りがあって、その東側には、いくつかの工場があった。私はそれらの工場で、ときどき
翻訳の仕事を手伝っていた。その工場の一つが、『S工業』だった。

 私が「あれが、あのときのS工業だよ」とワイフに話しかえると、ワイフは、一瞬息を止めた。
「そうねえ……」と。しばらく感慨深そうに、その工場をながめていた。

 当時の『S工業』は、小さな町工場。鉄サビで赤茶けた玄関を入ると、そのまま受付、総務室
になっていた。社長は、いつもその奥のイスにすわっていた。玄関から声をかけると、そのまま
社長が返事をしてくれるような、そんな会社だった。

 私は、毎週、いくつかの英文パンフレットを渡された。それを翻訳して、届ける。が、数か月も
すると、立場が逆転した。私が外国から情報を集めて、それを社長に渡すようになっていた。

 『S工業』の社長は、いつも、こう言ってくれた。「林さんは、私から見ると、神様みたいだ」と。
私が社長の目の前で、英語の情報を読んでやっていたときのことだった。

 その会社が、今では、従業員だけでも、数百人を超える大会社になった。『Z工業』もそうだ。
そうそう、ほかにも、翻訳を手伝っていた会社に、『M工業』『A産業』があった。これらの会社
も、今では、中学校ほどのビルを構える会社に成長している。

 そんな話をワイフにする。「あのころ、ぼくのような男を使って、世界の情報を手に入れようと
していた会社は、みな、成功しているね」と。

 当時、この浜松市には、商工会議所に名前を登録し、翻訳のできる人間は、私を含めて、た
った2人しか、いなかった。(たったの、2人だぞ!)

 あの世界を代表する楽器メーカーの、あの『Y楽器』にしても、まだ、輸出入の貿易業務は、
M物産の名古屋支店が代行していた。その『Y楽器』の仕事もしていた。私は幼稚園で働いて
いたが、収入の大半は、そうした「アルバイト」で稼いでいた。

 実際、おもしろいように、稼げた。

 英語のパンフレットなど、1、2時間もあれば、訳せる。それをワイフに清書させる。そしてそ
れを、それぞれの会社へもっていく。するとたいてい社長が、じきじきに出てきて、「ごくろうさ
ん」と言って、お金を渡してくれる。

 「何日、かかりましたか?」と私に、聞く。相手も、値段がわからないから、かかった日数で、
費用を計算しようとする。私は、「この程度の仕事なら、2、3日もあれば、じゅうぶんです」と答
える。すると、社長は、その2、3日分の給料を計算して、現金で、お金をくれる。

 実際、給料のことを考えたら、幼稚園の仕事など、バカらしくてできない。しかしいつしか私
は、幼稚園での仕事は、私の天職。収入は、ほかで……と考えるようになった。

●モビリィティ

 最近、「モビリィティ」という言葉をよく耳にする。「機動性」という意味である。だからといって、
何も、私にそのモビリィティがあったというわけではない。

 しかしまだ当時は、そういうことができた。翻訳士の資格試験もなければ、何もなかった。仕
事を見つけるのも、簡単だった。夜中に、工場団地を回りながら、電柱に、「翻訳します。電話
 4xxx−xxxx 林」と印刷した小さな紙切れを、張っておくだけでよかった。

 翌朝には、いくつか仕事の舞いこんできた。あとは、実力の世界。

 私は、そういう「私」を知っているから、今の若い人たちを見ると、「どうしてそういうことをしな
いのか?」と、よく不思議に思う。お金に、名前があるわけではない。会社で給料としてもらう1
0万円も、10万円なら、アルバイトで稼ぐ10万円も、10万円。

 あとは、その10万円を使って、どうやって楽しく人生を生きるか、である。

 こうしたモビリィティは、日本の外では、当たり前のことである。あのデトロイトが、大不況に襲
われたとき、アメリカ人の若者たちは、車のトランクに、家財道具いっさいをつめて、カルフォル
ニアへ向った。そういう若者たちが、映画産業を発展させ、シリコンバレーの基礎を作った。

 オーストラリアの大学には、1年ごとに留年を繰りかえす友人がいた。1年間働いて、1年間
勉強して……と。ある日、道で会うと、やはり車のトランクに、女性の下着を、どっさりともってい
た。「何をしているんだ?」と声をかけると、「セールスだ」と。

 今でも、そういう大学生は、日本にはいない。(私は聞いたことがない。)

 中国人や韓国人となると、さらにたくましい。南米の人たちも、そうだ。現在、浜松市内だけで
も、2・5万人程度のブラジル人たちが生活している(05年)。以前は、どこか小さくなっていた
彼らだが、このところ、態度も大きくなってきた。堂々としてきた。彼らのたくましさを見ている
と、そのまま、35年前の私を思い出す。

 以前、こんな原稿を書いた(書籍で発表済み。)

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日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦
労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマも
ない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・99年春)と答えていた。

また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるま
ま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで
言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど40年前
の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。

あの国では誰もがギラギラとした脂汗を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。
若者とて例外ではない。タクシーの運転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場
で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、
それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼
ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれてい
た。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行
った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小
づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。

が、今の日本にはそれはない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私
のところへやってきて、私とこんな会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、私「君は何ができる?」
学「翻訳ぐらいなら、何とか」、私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。
『翻訳します』とか書いてくれば、仕事が回ってくるかもしれない」
学「カッコ悪いからいやだ」
私「なぜカッコ悪い?」
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その
学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろ
んその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者
たちを見れば、日本の未来がわかる。

で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論から先に言えば、お先まっ暗。このま
までは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。いや、おおかたの経
済学者は、2015年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれてしまうだろうと予想してい
る。事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。

たとえばアメリカでは、今では日本の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NB
C)。どこの大学でも日本語を学ぶ学生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている
(ハーバード大学)。

私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。そのツケを払うの
は、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなのか。私たちが子ど
ものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとしている。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「21世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏4カ国の中高生を対象にし
た調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。

現在の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きるこ
と」。学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か
国で最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが2000年7月、東京、ソウル、ニューヨ
ーク、パリの中学2年生と高校2年生、計約3700人を対象に実施。「二一世紀は希望に満ち
た社会になる」と答えたのは、米国で85・7%、韓仏でも6割以上に達したが、日本は33・8%
と際立って低かった。

自分への満足度では、米国では9割近くが「満足」と答えたが、日本は23・1%。学校生活、友
達関係、社会全体への満足度とも日本が4カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは
弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽し
む」が61・5%と最も多く、米国は「地位と名誉」(40・6%)、フランスは「円満な家庭」(32・
4%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が20・2%だったの
に対し、米国は78・8%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本40・1%、米国76・4%
と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益よりわ
が国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なことも浮か
んだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希
望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。1980年代からの傾向で、豊か
になったことに伴ったのだろう」と分析している。

++++++++++++++++++

 この原稿を書いたのは数年前。かなり悲観的なことを書いた。しかしそれから数年。今の私
なら、さらに悲観的なことを書く。

 もしこれからの若者がどうあるべきかと聞かれたら、私は、このモビリィティをあげる。「これ
がダメだから、もうダメだ」という発想ではなく、「これがダメなら、つぎにこれがある」という発想
である。

 もっとわかりやすく言えば、たくましく生きるということか。貪欲に、ガツガツ生きるということ
か。

●管理国家

 「あのころには、いろいろなチャンスがあったわね」とワイフは言った。「何をしても、お金もう
けができたわ」と。

そう、あのころには、いろいろなチャンスがあった。

 今でも、ないわけではない。私も、もしその気になれば、なりふり構わず、仕事をするかもしれ
ない。しかしあのころとくらべると、この日本も、息苦しくなった。すべてが、そしてすべての人
が、管理されているといった感じ。

 こうした日本をさして、「新・社会主義国家」と評する人もいる。スタンフォード大学の客員教授
の、野口悠紀雄氏などもその1人である(「新版1940年体制」ダイアモンド社)。日本人とし
て、日本だけに住んでいると、それがわからない。野口氏のような人には、それがわかる。

 たしかに外国から見ると、日本人がいうところの民主主義は、異質である。イビツというべき
か。日本人は、「お上」に依存する分だけ、モビリィティを失ってしまった。バイタリィティ(活力)
は、そのモビリィティから生まれるとするなら、そのバイテリィティも、失ってしまった。教育にし
ても、学校以外に道はなく、学校を離れて道はない、と。

 私も、日本がどうしてこんなバカげた国になってしまったのか、本当のところは、よくわからな
い。しかし奈良時代からつづいた、この官僚制度国家を変えることは、容易ではない。官僚制
度というより、この息苦しいほどまでに管理された、管理国家というべきか。

 この日本では、何をするにも、資格だの認可だの、許可がいる。このままでは、K国の兵隊
が日本を侵略してきたときですら、「戦っていいですか?」という許可を、国に申請しなければな
らなくなるかもしれない。

 許可がおりるころには、家族もろとも、みな、殺されている。そうなる。もっとも、今の若い人た
ちは、こういう世界しか知らないから、「これがふつうの世界」と思うかもしれない。

 しかし、ぜったいに、日本は、(ふつうの世界)ではない。異常である。日本人は、「生きる」と
いう意味すら、わからなくなってしまったのではないかとさえ思える。

ワ「あのころ、世界に目を向けていた会社は、伸びたということね」
私「そうだよ。覚えているか、S町に、小さな警報機を作る工場があっただろ。A産業という会社
だ」
ワ「あったわね」
私「あの会社だって、今では、従業員が、300人もいる会社になっているよ」
ワ「あの会社が?」
私「そうだよ」と。

 A産業の社長は、(社長といっても、社長と、従業員数人の会社だったが)、毎週のように私
のところへやってきた。アメリカの警報装置のシステムに関する資料を集めていた。当時は、
まだ日本には、光学システムで作動する警報機はなく、足や手で触れると、音が出る程度のも
のしかなかった。

 が、その社長は、いち早く、光学システムの警報機の開発に乗りだした。で、今に見る会社に
なった。もちろんその会社だけの力だけで、そうなったわけではない。そのあと、日本は、高度
成長期の波に乗り、やがてバブル経済期へと突入していく。

 だから今、外から見るほど、会社経営は楽ではないかもしれない。しかしチャンスはあった。
そしてその多様性というか、モビリィティこそが、日本にバイタリィティを与えていた。

 管理国家には、管理国家のよい点も、たしかにある。しかしその管理が強すぎると、国民は
硬直したものの考え方しかできなくなる。その硬直性が、今度は、足かせとなって、日本の発
展を止めてしまう。今が、そうだ!

 「これでいいのか、日本!」と叫んだところで、このつづきは、またの機会に書きたい。
(はやし浩司 日本の未来 教育観 モビリィティ モビリティ 機動性 日本の活力 官僚国家
 管理国家)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(713)

●子どもの問題について

 自閉症についての補足。

 自閉症と、「症」という文字をつけて、私たちは、自閉症について論ずる。しかしここで注意し
なければならないのは、その診断権をもつのは、医師のみであって、またそれ以外のだれでも
ない。

 当然のことである。

 教育の世界では、かりに、その子どもが、自閉症児とわかっていても、その言葉を、口にする
のは、許されない。またしてはならない。知っていても、知らぬフリをして、対処する。これは教
育の、大原則である。

 しかしこうしてHPなどで、自閉症や自閉症児について書いていると、中には、あたかも、自分
の子どもに向かって直接言われたように感ずる親がいる。そして抗議してくる。

 親自身が、たいへん神経質になっている。

 しかし私はいまだかって、一度たりとも、その親に向かって、「あなたの子どもは、〜〜症児
の心配があります」などと、言ったことはない。親のほうから質問があり、「うちの子は、自閉症
ですが……」と言われたとき、はじめて、その言葉を口にする。

 これまた当然のことである。

 だから、これは何も、自閉症児にかぎらないことだが、私が書いたことが、自分にあてはまる
からといって、あるいは自分の子どもにあてはまるからといって、抗議をされても、たいへん困
る。見知らぬ人であれば、なおさらである。

 反対に言うと、問題のない子どもなど、この世にいない。だれしも、多かれ少なかれ、何らか
の問題をもっている。あえて言うなら、自閉症にしても、それらの問題のひとつにすぎない。だ
からあえて、そのテーマだけで、教育論を組み立てるということは、本来、ありえない。

 ともあれ、こうした診断名を使うときには、慎重でなければならない。読む人によっては、たい
へんなショックを受ける。

 なお、その自閉症について、補足的意見を、追加する。

++++++++++++++++++

以前は、「気分の移り変わりがはげしいく、通常の社会生活に支障をきたす状態」を、「情緒障
害」といった。現在では、「情緒」にかわって、「情動」という言葉を使う(岩波書店、「広辞苑」)。

 一般的には、(私の個人的な見解ではなく)、脳の機能による障害を、「機能障害」、また器質
的な問題による障害を、「器質(機質)障害」と呼んでいる。

 このうち、自閉症は、脳の機能による障害ということで、「原因としては、脳機能障害が強いと
見られている」(「臨床心理学」松原達哉ほか)と位置づけられている。

DSM−IV、ICD−10(国際疾病分類第10版)の診断基準によっても、自閉症は、「広汎性発
達障害(特定の能力だけではなく、対人的相互作用、言語、情動行動といった領域に発達上
の障害が見られる)」と、正式に位置づけられている。

 しかし教育の分野では、親への言葉の衝撃をやわらげるため、「情緒」という言葉を使うこと
が多い。かえってこうした言葉のほうが、誤解を招くかもしれない。

 またそういった障害をもった子どもを、「〜〜児」と呼んでいるのは、一般的なことであって、
たとえば、「ADHD児」「かん黙児」と呼んでいる。決して、差別してそう呼んでいるのではない。
(私の造語では、ない。誤解のないように!)

 ご指摘の「器質障害」というのは、ここにも書いたように、脳の構造(機能ではなく、構造)その
ものに、何らかの問題があることをいう。したがって、これは精神医学の分野のテーマであっ
て、教育のテーマではないということになる。
(はやし浩司 自閉症 広汎性発達障害 DSM ICD)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●Y国神社参拝問題

何でまた、この時期に!

 K国問題で、5カ国が、もっとも協力しあわねばならないこのときに!

 ……ということで、今回のY国神社参拝問題。

 J民党のT幹事長が、中国まで行って、大激論(?)をしたらしい。激論の内容は、オフレコに
され、伏せられているようだが、「Y国神社参拝問題に異義を唱えるのは、内政干渉だ」という
ようなところまで言ったらしい。

 そのせいで、昨日(5・23)、中国の副首相が、日本のY首相との会談を、無断でキャンセル
して、帰国してしまった。日本側は、カンカンに怒っているようだが、肝心のT幹事長は、「私の
せいだとは思わない」(NHK昼のニュース)などと、これまたノー天気というか、無責任なことを
言っている。

 しかし、どうして日本人は、こうまで「形」にこだわるのか? 少し脱線するが、こんな話があ
る。

 昔、隠れキリシタンをさがしだすために、日出藩(ひじはん)という藩は、住民たちに、踏み絵
をさせた。よく知られた話である。

 その踏み絵について、こんな話が伝わっている(「日本耶蘇教会年報」)。少しむずかしい文
章なので、あらかじめ、内容を簡単に説明しておく。

 つまり隠れキリシタンであった父親(加賀隼人)に対して、その娘が、こう言ったという。

「お父さん、踏み絵ぐらいのことで、家族もろとも、命を落すなどというのは、バカげているでは
ありませんか。踏み絵を、どうか踏んでください。大切なのは、家族です。家族の命です。(それ
で信仰が消えるわけではありませんから)」と。

 記録には、つぎのようにある。

 「豊前国小倉藩の家臣、加賀山隼人は、キリシタンであったという理由で、処刑されていが、
加賀山隼人の娘が、父親の隼人に、『父上、何も、裁きを受けず、大罪を犯した訳でもなく、た
だ、キリスタンなるが故の死罪、外で執行されるに及ばず。我等にとりても、此の家が一番好
都合でありませぬか』と。

繰りかえすが、娘は、こう言っている。「ただキリスト教徒というだけで、処刑なんて、おかしいで
しょう。私たちにとって、この家の幸福が、一番、大切ではないですか」と。

それに答えて、「ならぬ。かの救世主・耶蘇基督(キリスト)は罪なき身を以って、エルサレムの
城門外に、二人のあさましき兇徒(きょうと)の間に置かれ、公衆の面前で死なんと欲したでは
ないか。我もまた、公衆の面前で汚辱を受けつつ死を熱望するなり」と。

つまり、「あのイエスも、信仰を守るため、公衆の面前で処刑にあっているではないか。私も、
それを熱望する」と。

 この話は、その筋の世界では、「美談」として、もてはやされている。「命がけの信仰」として、
たたえられている。

しかし私は、こういう話に、どうしても、ついていけない。信仰心と、盲目的な忠誠心を、どこか
で混同しているのではないか? ……と書くと、猛烈な反発を買いそうだが、いくら信仰をして
も、自分を見失ってはいけない。命までかけて、信仰をしてはいけない。信仰をしながらも、自
分の心にブレーキをかける。そのブレーキをかける部分が「私」である。

 キリストの立場で考えてみれば、それがわかる。

 彼自身は、公衆の面前で処刑された。しかしキリストは、すべての民の原罪を背負って、処
刑された。決して、「自分の信者に、同じことをせよ」と、見本を見せたわけではない。いつだっ
たか、私は、「キリストも教師ではなかったか?」という文章を書いた。教師という視点で、聖書
や仏典を読むと、キリストや釈迦のそのときの心理がよくわかる。

 で、つまり信仰するにせよ、しないにせよ、それはあくまでも、「心」の問題。踏み絵を踏んだ
からといって、信仰心が崩れるというものでもない。また踏まなかったからといって、信仰心が
深まるというものでもない。

 「形」にこだわることはない。

 Y国神社を参拝したから、愛国心があるということにはならない。Y国神社を参拝しなかった
から、愛国心がないということにもならない。

 大切なことは、中国にせよ、韓国にせよ、日本のY国神社を、戦前のあの植民地主義時代の
象徴としていること。それを理解してやること。

 どうして、日本よ、日本人よ、相手の国の人たちの立場で、ものを考えることができないの
か。日本が、彼らに迷惑をかけたのは事実だし、その事実は、いくら日本がお金(戦後倍賞
金)を出したからといって、消えるものではない。

 何度も言うが、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをしたら、世界は、何と言う
だろうか。どう思うだろうか。それと同じことをしながら、「これは国内問題だ」「内政干渉だ」と
は!

信仰は、「心の中」でするもの。どこまでも、心の中の問題。踏む、踏まないに、そこまでこだわ
るほうがおかしい。たかが、踏み絵ではないか。

 大切なことは、みんな、仲よく、気持ちよく、暮らすこと。私だったら、仮にキリシタンであった
としても、踏み絵を踏む。そして役人たちの顔を一べつしながら、ニヤリと笑ってやる。

 そういう信仰のし方もある。Y国問題とは、直接関係のない話になってしまったが、今回の騒
動のニュースを聞いているとき、どういうわけか、あの隠れキリシタンの話を、私は頭の中で、
思い浮かべてしまった。

 話をもどして、一言。

 みなさん、もう少し、まともな政治家を、選ぼう。それだけのこと。政治家が悪いのではない。
そういう政治家を選ぶ、私たちが、悪いのだ。
(はやし浩司 隠れキリシタン 加賀山隼人の娘 踏み絵 日出藩(ひじはん))

(補足)

 オーストラリアの大学にいたころ、カレッジには、毎週のように、世界各国の要人や政治化た
ちが、晩餐会にやってきた。

 その中には、もちろん日本の政治家もいた。しかし日本の政治家の中で、晩餐会のあと、英
語でスピーチをして帰っていった政治家は、ひとりもいなかった。何を聞かれても、さも私は何
でも知ってますというような顔をして、ニヤニヤと笑っているだけ。

 それから35年。日本の政治家たちも進化したのだろうか。それとも、当時のままなのだろう
か。

 私が見たところ、T幹事長などは、当時の、典型的な日本の政治家そのものといった感じが
する。みなさんは、あのT幹事長に、どんな印象をもっているだろうか。


●信仰と思いこみ

 ほとんどの信仰は、思いこみから始まる。自分で、「そうだ」と思いこむ。そこから信仰は、始
まる。一番、印象に残っている事件に、こんなことがあった。

 ある夏の暑い日だった。見ると、その女の子(小6)の首に、よごれた太いヒモが見えた。そ
れが少し肩の方に、はみ出していた。

 で、私はそのヒモを指先でつかんで、「これ、何?」と言ってしまった。とたん、その女の子は、
ものすごい声、……動物がギャーと叫ぶような声を張りあげて、こう言った。「さわらないで!」
「汚(けが)れる!」と。

 そのヒモの先には、何かのお守りがぶらさがっていた。私は、そのあまりにもすごい声に、驚
いた。私は、ただただひたすら、頭をさげて、謝るしかなかった。

 その子どもにしてみれば、そのお守りは、自分の命より大切なものということになる。絶対、
他人には、さわらせてはいけないもの……らしい。多分、彼女の親たちが属する宗教団体で
は、そう教えているのだろう。

 こういうケースでも、決して、その人や子どもの宗教を批判してはいけない。人は、それぞれ
の思いの中で、宗教に身を寄せる。それぞれの人には、言うに言われぬ、事情というものがあ
る。

 いくら「おかしい」と思っても、そっとしておいてやることこそ、大切。重要。その人が、それで
ハッピーなら、それはそれでよいこと。

(思いこみ)でも何でも、よいということになるが、しかし(思いこみ)は、(思いこみ)。自分で、そ
う思いこんでいるだけ。あるいは、だれかに、そう思いこまされているだけ。たかがお守りでは
ないか。

 しかし、当の本人には、それがわからない。つまりどんな信仰にも、程度の差はあるが、こう
した(思いこみ)が、ついて回る。「これはキリストの○○だ」「これは釈迦の○○だ」と。昔か
ら、『イワシの頭も信心から』という。イワシの頭でも、思いこんでしまえば、それなりに信心の
対象になることをいった。

 つまりそこへ、思いこみを集中させることで、心の安定をはかろうとする。「私は絶対的に守ら
れている」「私は絶対的な真理の中にいる」「私は絶対に正しい」と。自ら思いこむことで、絶対
的な安心感を覚えようとする。

 それは、心を溶かすほど、甘美な世界でもある。多くの信仰者たちは、その世界に、酔いし
れる。

 が、『イワシの頭』では、いくらなんでも、それを心のよりどころとすることはできない。そこで、
ある程度のお膳立てが必要となる。本尊でも、教義でも、何でもよい。それを信仰の中心にす
える。それを宗教の世界では、「権威づけ」という。

 この権威づけがあってはじめて、人は、そこに自分の心を寄せることができる。

 で、あとは、その時点から、一方的な思想の注入が始まる。信者自身は、自ら考えることを
放棄することによって、まず頭の中を、からっぽにする。からっぽにした上で、新しい思想を注
入してもらう

 方法は、いくらでもある。

 たとえば何時間も、同じ文句を唱えさせたりする、など。ふつうの人でも、同じ言葉を30分も
繰りかえしていると、いわゆるラポールと呼ばれる状態になる。甘い陶酔感を覚える状態にな
る。大脳生理学の世界では、脳の中の辺縁系と呼ばれる組織の中で、エンドロフィンやエンケ
ファリン系の麻薬様の物質が放出されるためと説明している。

 このラポール状態(=思考力ゼロの甘美な世界)に入ると、人は、たいへん暗示にかかりや
すくなる。指導者に、「○○教導様は、釈迦の生まれ変わりだ」と言われたりすると、そのまま、
それを信じてしまう。

 あとはお決まりの妄信……。

 そこで大切なことは、いつも、自分で考えるクセを身につけておくこと。おかしいものは、「お
かしい」と思う。たったそれだけのことでよい。でないと、死んでミイラになった人を、「生きてい
る」と思いこんでしまったり、指導者の髪の毛を煎じて飲むと、超能力が授かると思いこんでし
まったりする。

 足の裏を見ただけで、すべての病気がわかると教えていた教団も、少し前まで、あった。「お
守りにさわったら、汚れる!」と叫んだ、女の子も、その延長線上にいる。

 常識で考えれば、バカげているが、妄信の世界に一度入ってしまうと、それがわからなくなっ
てしまう。いくら信仰をしても、人間が本来的にもつ、常識まで、曇らせてしまってはいけない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近ごろ、あれこれ】

●過干渉

 私のワイフは、ふだんは、のんびり屋。私が何をしていても、無関心。無頓着。しかし私が料
理をするときだけは、急に、騒がしくなる。あれこれ、つぎつぎと、横から口を出す。

 それがうるさくて、たまらない。……と同時に、口うるさい母親をもつ子どもの心理が、よくわ
かる。ときどき、「これが過干渉というもの」と思うときがある。

「換気扇を回してよ」
「油は、これ」
「牛乳を入れ過ぎないように」
「フタをかけて、焼いてよ」
「もう、そろそろ、いいんじゃない?」と。

 うるさくて、落ちついて料理もできない。

「あのな、ちょっとだけでいいから、黙っていてくれないか」と。

 が、よく誤解されるが、口うるさいだけなら、子どもには、それほど、害はない。が、そこに親
の情緒不安が入ると、過干渉が、「過干渉」になる。イライラして、子どもをおさえつけてしまう、
など。ガミガミ、キリキリも、よくない。

 こうした過干渉が日常化すると、子どもは、萎縮する、(反対に、粗放化することもある。)

 幸いなことに、ワイフの情緒は安定している。結婚してからこのかた、もう34年になるが、い
まだかって、取り乱して大声をあげたことは、一度もない。そういう意味で、私はラッキーだっ
た。

 N君(56歳)の奥さん(52歳)なんか、ときどき、手がつけられなくなるという。大声をあげて、
家の中で、暴れ回るのだそうだ。近所の人たちから苦情がくるほどだという。「アル中か?」と、
聞くと、「原因がよくわからない」と。N君は、さみしそうに言った。

 しかし私が料理をすると、ワイフは、うるさくなるのか? おそらく、テリトリー意識が強いせい
ではないか。本当は、私が台所の用品をあれこれ使うのが、おもしろくないのかもしれない。


●出迎え

 明日の朝、早く、オーストラリアの友人たちが、関西国際空港に着く。そのため今夜は、大阪
に一泊。一行を出迎えたあと、そのまままた、浜松へ。いそがしい一日になりそう。

 で、こういう時代にあって、実は、関西国際空港へ行くのは、今回が、はじめて。伊丹にある
空港は、ときどき利用していたが、関西国際空港は、はじめて。どんな空港だろうと、ワクワク
している。プラス、飛行機を見るのが、何よりも楽しみ。

 浜松からだと、名古屋空港が一番、便利。今度できた、新名古屋空港(中部国際空港・セン
トレア)は、もっと便利。アメリカへ行くときは、いつも成田空港を利用している。しかし成田空港
は、不便。本当に不便。ほかに適当な便がないから、しかたなしに利用しているだけ。どうして
あんな不便なところに、空港をつくったのか。

 外国の友人たちにも、たいへん評判が悪い。聞くところによると、地元の有力政治家のゴリ
押しでできた空港とか。そのトバッチリを受けて、いまだに建設反対運動が消えない。羽田空
港を拡張して、それを国際空港にすればよいのだが、そうなると、今度は、成田空港が困るら
しい(?)。水面下では、し烈な反対運動を展開しているとか。つまり羽田空港の国際空港化
に、だ。

 バカげている。実にバカげている。

 国民不在と言うべきか。利用客不在というべきか。成田空港まで、東京から、1時間30分も
かかる。この時間が、東京の国際化を、10年は、遅らせてしまった。20年、かも?

 そうそうあの新幹線にしても、名古屋から京都にかけて、岐阜県のところで、かなり大回りし
ている。あれなども、当時の地元の有力政治家のゴリ押しで、そうなったという。

 もし新幹線が、名古屋からまっすぐ京都、大阪へ向っていたら、時間は、15分短縮できたは
ず。

 新幹線の岐阜羽島駅前には、その政治家の銅像が立っている。地元の人たちにとっては、
大功労者ということになっているのだろう。しかし私もその元岐阜県人だが、岐阜へ行くとき、
その岐阜羽島駅を使うことはない。名古屋でおりて、在来線か、名鉄線に乗りかえる。

 岐阜羽島駅から、岐阜市内まで、バスで、40分前後かかる。本数も少ない。この不便さが、
どうしようもない。本当にバカなところに駅を作ったものだ……というのが、私の本音。

 さてさて、不愉快な話は忘れて、明日は、パッと陽気に、みんなと騒ごう!

 
●デジタルカメラ

 私は、いつも、小型のデジタルカメラを持ち歩いている。これが結構、楽しい。何か美しいも
のを見たりすると、そこですかさず、パチリ。また、パチリ。

 で、そのカメラを、教室でも利用している。

 ふざけて遊んでいる子どもがいたりすると、こう言って、おどす。「君の写真をとって、HPにの
せてやる。君のお母さん、それを見て、びっくりするぞ!」と。

 すると、とたん、子どもは、まじめになる。

 が、ききめは、最初の1、2週間だけ。そのうち、おどすだけで、HPにのせないとわかると、
今度は、「写真をとっていいよ」と、子どもたちのほうから、わざと、ふざけたポーズをつくって見
せたりする。

 「先生、さあ、とりなよ! ベーッ」とか。

 そうだ。今度、教室でも、そのままプリントアウトできる、小型のプリンターを置いてみよう。そ
の場でプリントアウトできれば、おもしろみも倍化する。子どもたちも、喜ぶ。


●K国が、6国協議に復帰(?)

 常識から考えて、K国の金XXが、6か国協議に復帰するはずがない。仮に復帰したとして
も、つぎつぎと無理難題をふっかけて、協議そのものを、ぶちこわしてしまうだろう。

 K国の核開発は、それくらい、「根」が深い。拉致問題ですら、あれだけスッタモンダを繰りか
えした国である。仮に協議が、うまく運びそうになったとしても、洪水のように、自分勝手な要求
を、出してくるはず。

 そしてちょっとでも何か、気に食わないことがあると、それを針小棒大に問題にして、大騒ぎ
する。が、何と言っても、最大の関門は、「査察」。

 K国が、どこまで、核査察をさせるかだが、K国が、核査察など、させるはずがない。K国は、
国中が、地価トンネルで結ばれた、秘密基地化している。核査察をさせるということは、彼らに
してみれば、武装解除するというにふさわしい。

 仮に6か国協議に応じてくるとしても、時間稼ぎ。決裂すれば、核実験。金XXは、すでに、そ
ういう段取りを考えている。

 一方、アメリカは、それを知っている。K国は、つぎつぎと、こう言うだろう。「原油をよこせ」
「食糧をよこせ」「金をよこせ」と。

そして日本との関係では、「戦後補償を日本から取りつける、その仲介をせよ」とまで言いだす
にちがいない。(すでに中国との間には、そういう約束ができている。中国は、今まで、K国の
代理人となって、戦後補償の額を、何度か、日本に打診してきている。)

 最終的には、韓国や日本から、アメリカ軍を撤退せよというところまで要求してくるはず。K国
にしてみれば、そのための核兵器である。

 そこでアメリカは、(日本も)、K国の核開発問題を、国連安保理に付託することを考えてい
る。が、ここでの最大の難関は、中国の拒否権。中国が、「ノー」と言ったら、アメリカも日本も、
何もできない。

 そこで一応、中国に歩み寄った形をつくっておかねばならない。今回の6か国協議への動き
は、その流れの中にある。「中国よ、やれるところまで、やってみな。それができなければ、アメ
リカや日本に協力しなさい」と。

 もはや、最善の方策は、金XX政権の打倒しか、ない。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国。そのためか、今度、K国で、韓国と合同の、「反
日学生会議※」を開いた。この原稿が、マガジンにのるころには、米韓首脳会談の結果も出て
いるだろうが、さてさて、どうなることやら?

 そんな折にも折、日本のノーブレインな政治家が、アホなことを口にして、中国を怒らせてし
まった。発言したあと、その発言を撤回し、さらに謝罪するくらいなら、はじめから、言うな! 
あのT幹事長は、N大臣だったときから、ときどき、アホなことを口にして、国民から、ヒンシュク
を買っている。

 どうしてそんな政治家を、わざわざ中国に送りこんだのか? 本人は、「オレが何とかしてき
てやる」とか何とか言って、粋(いき)がって中国へ行ったのだろう。しかしあのタイプの政治家
は、世界では、通用しない。バカにされるだけ。

 さあ、これから、日本は、どうなるか?

 アメリカは、K国を単独攻撃する準備を整えつつある。しかしそんなことをすれば、まっさき
に、日本が、報復攻撃される。アメリカとしても、それは困る。

そこでやはり、この問題は、国連安保理に付託するのが、一番よいということになる。しかしそ
の肝心の中国は、今回の、T幹事長のノーブレイン発言で、日本から離反してしまった。

 こうした動きに、今、いちばん、失望しているのは、アメリカのブッシュ大統領ではないだろう
か。それにしても、日本の政治家のお粗末さには、あきれる。なさけないほど、あきれる。

ブッシュ「日本の政治家のレベルの低さは、かねてから聞いていたが、ここまでひどいとは、知
らなかった」と。

 今ごろ、そんな会話が、ホワイトハウスの中で、かわされているにちがいない。

注※……南北の大学生500人あまりが、6・15共同宣言5周年を前に、5月23日、K国の、
金剛(クムガン)山文化会館で。南北大学生相逢(サンボン、たがいに会うこと)行事を開き、
日本の独(トク)島領有権主張と、歴史教科書の歪曲に対し糾弾した(C日報)。


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最前線の子育て論byはやし浩司(714)

●人格の崩壊

 人格は、一度、崩壊すると、そのあと、再生するということは、ありえない。それは健康に似て
いる。

 一度、腎不全や、心筋梗塞、肝硬変になると、そのあと、自然治癒(ちゆ)するということは、
ありえない。手術でもすれば、話は別だが、脳ミソは、手術するわけには、いかない。

 私は、このことを、一匹の犬を飼っていて、知った。

 去年、その犬は、死んだが、死ぬまで、私たち家族に心を開くことはなかった。かわいそうな
生い立ちの犬だった。保健所で、処分される寸前の犬を、もらってきた。育てた。つまりその時
点で、育児拒否、冷淡、無視、家庭崩壊など、その犬は、ありとあらゆる不幸を経験している。

 その犬の、ズルさというか、忠誠心のなさには、本当に手を焼いた。人間でいえば、大ウソつ
き。誠実さの一カケラもない。そんな犬だった。

 が、人間の前では、おとなしそうな顔をして、しおらしくしている。だれにでも、シッポをふる。コ
ビを売る。もちろん番犬にはならない。ほんの少しでもスキがあれば、すぐ外へ逃げ出してしま
う。

 追いかけて、外に出ると、私の顔を見て、また逃げ出す。一度は、500メートルほど離れた
家に保護された。連絡を受けて迎えにいくと、喜ぶどころか、私を避けるしまつ。飼い主である
自分が、ほとほと、なさけなくなった。

 15年近く飼っていたが、そんなわけで、私との心の交流は、ゼロ。一方的に、私たち人間の
ほうが、その犬の世話をするだけという関係になってしまった。

 つまり、その犬の人格は、(「犬格」と書くべきか?)、すでにその犬が、乳児期に崩壊してい
たことになる。「核」となる、柱そのものがない。不幸な犬だったが、その不幸さに気づくこともな
いまま、死んでしまった。

 で、実は、こうした人格の崩壊というのは、人間についても、経験する。

 平気でウソをつく。ウソをついたという意識すらない。その場をごまかす。とぼける。自分勝手
でわがまま。人をだますのは、平気。日常茶飯事。まさに、ウソのかたまり。だれかが同情して
くれると、そのときは、しおらしい顔をして、「ありがとう」とは言う。が、心の中では、シメシメと笑
う。喜ぶ。

 このタイプの人がかわいそうだなと思うのは、自分がそうであるからといって、他人も、そうで
あると思うところにある。万事について、猜疑心(さいぎしん)がつよく、嫉妬深い。

 他人に親切にして見せたり、やさしくして見せたりするのは、自分をそれだけよい人間に見せ
るため。つまりは演技。心理学的には、自己愛者。愛他的自己愛者。

 私もこのタイプの人と、何人か、つきあったことがある。中には、半世紀近く、つきあった人も
いる。が、結論から先にいうと、「変わらない」。

 本人が、よほど自分に自覚して、そういう自分を正そうとしないかぎり、「変わらない」。ふつう
は、そういう自覚もないから、「変わらない」。仮に自覚したとしても、その先は、イバラの道。

 実のところ、私自身が、その犬のようであった。(……と思う。)それについては、もう何度も書
いてきたので、ここではその先を書く。

 そういう自分に気づいたとき、私は、最初、父や母をうらんだ。生まれ育った、環境をうらん
だ。しかしそれも一巡すると、結局は、それは、私自身の問題であることに気づいた。

 幸いにも、私のワイフは、石頭と言うにふさわしいほど、誠実な女性である。人を疑うこともを
知らない。嫉妬心など、みじんもない。

 そういうワイフを見て、私は、「こいつは、アホだ」と思ったことも、何度かある。こんなことがあ
った。

 結婚したころのこと。1万円をもって、銀行へ預けに行った。今とちがって、当時は、窓口の
行員が、何かの機械を使って、数字を通帳に打ちこんでいた。見ると、1万円が、10万円にな
っていた。行員のミスである。

 瞬間、私は、「シメタ!」と思った、が、つぎの瞬間、ワイフは、パッと振りかえって、「あのう、
まちがっています……」と。

 そのあと、私とワイフは、けんかになった。「ああいうときは、だまっていろ」「どうして」と。私
は、そういう人間だった。ワイフは、そういう人間だった。

 つまり私は、いつもワイフと自分を対比することで、自分を知ることができた。そしてそれまで
の自分が、本来の自分でないことに、気がつき始めた。が、すぐに、私から、小ズルさが消え
たわけではない。今から思うと、10年単位の努力と時間が、必要だった。

 で、今回、やや頭のボケた兄を観察してみて、気づいたことがある。

 その兄が、去年死んだ、あの犬、そっくりなのである。約束などというものは、まったく意味が
ない。しても、5分ももたない。1分ももたない。まだらボケというか、部分的には、頭のよいとこ
ろがあって、つぎつぎと私たち夫婦を、ごまかす。だます。それを追及すると、今度は、とぼけ
る。泣きべそをかく。言い訳をして、ウソをつく。「ぼくは、タワケ(=バカ)だから……」と、自分
から言うときもある。

 たとえばワイフが、買い物に行くとき、留守番を頼んだりする。すると、調子よく、「OK!」など
と言ったりする。そこで念のため、ワイフは、台所へ入るドアにかぎをかける。「台所へは、入ら
ないでね」と念を押すと、また「OK!」と。

 しかしワイフが帰ってきてみると、台所が荒されている。ワインの入ったビンも、何本か、なく
なっている。

 兄は、窓から窓へと、侵入したらしい。そこで「ワインは、どこにあるか知らないか?」と聞く
と、「覚えていない」「知らない」「だれか、来た」と、おかしなことを言い出す。そこでしかたない
ので、兄の部屋の中をさがそうとすると、いっしょにさがすフリをしたかと思うと、突然、台の上
の、ステレオセットを、手ではたいて、下へ落としてしまう。

 「手が、すべった!」と。

 つまし兄は、そういう形で、ワインから、私たちの関心をはぐらかそうとした。しかし数千円の
ワインで、数万円のステレオセットが、こわされたのではたまらない。以後、同じようなことがあ
っても、私たちは、無視することにした。

私「クッキー(死んだ犬の名)と同じだね」
ワ「そうね。そう思えばいいのよ」と。

 人格が崩壊すると、人間は、人間でなくなってしまう。動物以下というか、動物でもしないよう
なことまでするようになる。

 さらに一言。

 一度、そういう関係になると、保護、依存の関係が、固定化してしまう。私たちは、徹底的に、
兄を保護しなければならない。一方、兄は、徹底的に、私たちに依存するようになる。また依存
して、当たり前というふうに考える。

 死んだ犬もそうだった。エサの時間になると、ガラス戸の向こうで、ジーッと待っている。いつ
までも待っている。「ほしい」とも言わない。

 で、エサを出してやると、ときどき、もう一匹の犬に、横取りされてしまう。すると、大げさに、
キャーンキャーンと泣く。その声が、私たちに「何とかしてくれ」「何とかしてくれ」と言っているよ
うに、聞こえる。……聞こえた。

 人格の「格」は、「核」にも通ずる。その「核」をつくるのは、幼児期まで。一度、その時期まで
に「核づくり」に失敗すると、そのあと、人格の形成そのものができなくなる。子育てをするとき
は、じゅうぶん、注意されたい。
(はやし浩司 人格 人格論 子供の人格 子どもの人格 人格の崩壊 崩壊)

 
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●コミュニケーション・ネットワーク

 一定のワクの中に、何人かの子どもを入れて、しばらく放置してみる。するとやがて、子ども
どうしが、それぞれのつながりをつくって、結びついていくのがわかる。

 心理学の世界では、「コミュニケーション・ネットワーク」と呼ばれている。人と人のつながり
を、(チャンネル)とか(リンク)いう(リービット)。

 で、その結びつき方は、さまざま。いろいろなタイプがある。

(1)中心に、リーダーができるタイプ(リーダーを中心に、星型に結びつく)
(2)リーダーができなく、全体としてまとまるタイプ
(3)一対一の人間関係で、結びつくタイプ
(4)数珠(じゅず)のように、一連性をもって、結びつくタイプ
(5)バラバラになって、人間関係ができないタイプ

 それぞれの結びつき方に、一長一短がある。しかし教育の場で、望ましい結びつき方といえ
ば、それぞれが、全員、たがいに結びつき、かつ、リーダーがいて、全体として、星型になるタ
イプである。

 しかし、そういう結びつき方を、指導するのは、簡単なことではない。

 で、この話とは直接関係ないが、このコミュニケーション・ネットワークについて、こんなエピソ
ードがある。

 ある小学校の1年生を担任していた先生(女性)が、このコミュニケーション・ネットワークに興
味をもった。

 で、2学期が始まった直後、クラスの子どもたちにこう言った。

「今日は、席がえをします。好きな子どうし、グループをつくって、自分たちで席を決めてくださ
い。3人で、机をくっつけたい人は、3人でくっつけてもいいです。5人でくっつけたい人は、5人
でくっつけてもいいです。机を置く場所も、自分たちで、決めてください」と。

 その先生は、子どもたちの様子をみて、クラスにどのような、コミュニケーション・ネットワーク
ができているかを調べたかった。

 で、そのクラスのばあい、いくつかのグループができた。2人だけの組もできたら、どのグル
−プにも入れない子どももいた。その先生は、その子どもを、一番大きなグループの中に入れ
た。

 が、翌日、ものすごい形相でそれに抗議してきた、母親がいた。どのグループにも、入れなか
った子どもの母親だった。その母親、いわく、

「好きな子どうしで、席を決めていいとは、どういうことだ!」「うちの子のように、友だちがいな
い子に対する、配慮が足りない!」「差別だ!」「うちの子は、仲間はずれにされたという。謝
れ!」と。

 その母親には、その先生の、アカデミックな研究意識が理解できなかったようである。誤解と
いえば誤解ということになる。その先生は、そういう指導をした意図と目的を説明しようとした
が、とても理解してもらえるような雰囲気ではなかったという。

 その先生は、配慮が足りなかったことを、ていねいにわびたという。

 で、こうした人間関係は、そのまま国と国の関係についても、応用できる。

 日本、韓国、K国、中国、アメリカ、ロシア、台湾……。

 今、これらの国は、今、どのようなチャンネルを構成しているだろうか。

(ア)−(日)、(韓)−(K)、(韓)―(中)、(ア)−(ロ)、(ロ)−(K)……。

 短いチャンネルはできているが、それぞれが、バラバラ。その中でも、一番、孤立しているの
が、悲しいかな、日本。

 「日米関係は強固だ」と言う人もいるが、本当のところは、どうか? 日本がほかの国すべて
から孤立しているため、アメリカにすがらざるをえないというのが、本当の姿かもしれない。

 しかしこういうコミュニケーション・チャンネルは、たいへん、まずい。たとえば日本と、どこか
の国が戦争状態に入ったとたん、残りの国々が、いっせいに、団結する可能性がある。そうな
れば、いくらアメリカがバックにいるといっても、日本には、勝ち目はない。

 日本、あやうし!

 ……というところで、J民党のT幹事長。あなたが、これほどまでに、ノーブレインだとは、思わ
なかった。国際感覚ゼロ。国際常識ゼロ。ホント! 古典的な大臣意識? ふんぞりかえって
歩いている姿を見るたびに、「ああ、これが私たちのリーダーか」と、悲しくさえなる。同じ日本
人として、なさけない。

 以上、話がバラバラになってしまった。ごめん!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●掲示板投稿より

こんな書き込みがありました。少し考えてみます。

+++++++++++++++++++++++++++++

小学1年生の長女のクラスでは、毎日ひらがなの練習の宿題があります。プリント1枚なので、
宿題の量はたいしたものではないと思うのですが、長女が自信を持って書いた字でも、赤ペン
で修正され、書き直すように言われているようです。

はじめははりきって宿題をしていたのですが、最近では「直されるから・・・」と言って、なかなか
宿題をはじめようとしません。今はまだ、書くことが楽しめればいいのでは?と私は思うのです
が・・・。先生に伝えた方がいいのか、伝えずに従っていた方がいいのか迷っています。

+++++++++++++++++++++++++++++

【Yさんへ……】

 これから先、こうしたドラマは、無数に、それこそ怒涛(どとう)のように襲ってきますよ。まだま
だ序の口!

 先生の指導は、先生に任せて、その範囲で、つまりあなたは親としてではなく、友として、子ど
ものそばに立って、子どもの問題を考えればよいと思います。

 どうでしょう、こういう言い方をしてみたら……。

「先生は、あなたにじょうずな字を書いてほしいと思って、なおしてくれるのよ。だから、お母さん
も、いっしょに教えてあげるから、先生がびっくりするような字をかいてみようね」と。

 この段階で、「文字はよめればいい」と子どもに教えるのは、タブーです。(親が、そう思うの
は、親の勝手ですが、子どもの前で、先生の批判は、タブーです、とくに指導法についての批
判は、タブーです。子どもが先生の指示に従わなくなります。と、同時に、親と教師の信頼関係
が破壊されます。あなたが子どもに言ったことは、100%、ほぼまちがいなく、先生に伝わりま
す。そうなったき、先生は、あなたとの信頼関係を、切ってしまいます。

教育には、信頼関係が必要です。教師と父母の信頼関係です。それがないと、教育そのもの
が、なりたたなくなります。

 また、そういう先生の指導でよいと考えている親も、多いかもしれません。「こまかい指導をし
てくれる先生ほど、ていねいで、熱心な先生」と、です。が、一方で、あなたのお子さんのよう
に、どこかでキズついてしまう子どももいるかもしれません。

 大切なことは、そうした指導に対して、アクティブに、つまり攻撃的に、先生に意見を伝えるこ
とではなく、これから先、そういうトラブルが起きたら、そのつど、どのようにして解決するか、そ
のプロセスを、こちら側で、つくっておくということです。プロセスというのは、子ども自身が、ど
のように、心の中で処理していくかという、その解決法の手順です。

 でないと、あなた自身も、そのつど、いろいろな問題に振りまわさることになってしまいます。
またこの程度のことで、(失礼!)、子どもがキズつくことを恐れてはいけません。これから先、
冒頭にも書いたように、こうした問題は、つぎからつぎへと起きてきます。そして、ここが重要で
すが、そのつど、子どもは、たくましくなっていきます。
  
 私が勧める方法は、まず、あなたの仲のよい友だちに相談してみることです。同じクラスの母
親なら、なおよいでしょう。(ただし、おだやかに!)

 「あなたのところは、どう?」「うちの子、このところ、漢字を書くのをいやがるので、困っていま
す。何か、いい方法ない?」と。たいていこの段階で、「うちも、そうなの」というアドバイスをもら
って解決します。

 (ついでながら、書き取りの作業は、もともとめんどうなもの。いやがって当然、です。ふつう
の子どもなら、いやがりますよ。あなたなら、やりますか?)

 つぎに大切なことは、たしかにやる気をなくしているかもしれませんが、であるならなおさら、
あなたは子どもの横にいて、先生からほめられるような字を教えてあげればよいと思います。
子どもを励まし、子どもと山をいっしょに乗り越えるのは、あなたです。何か問題が起きたら、
排除しようと考えるのではなく、乗り越えるのです。(……というほど、大げさな問題ではありま
せんが……。)

 子どもが先生の批判をしたり、悪口を言ったときも、一応、子どもの前では、それをたしなめ
ます。繰りかえしますが、教育には、信頼関係が必要です。それがあれば、教育は可能です
が、それがないと、教育は、崩壊します。

 どうか、お気をつけください。
(はやし浩司 書き取りをいやがる 嫌がる子ども 勉強 勉強を嫌がる子ども 子供 子供の
勉強 学習指導 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【カプセルホテル・宿泊記】

●新大阪駅

 新大阪駅に着いたのが、午後9時少し過ぎ。階段を降りて、ビジネスホテルをさがす。どこ
か、ガランとした様子。元気がない。何十台ものタクシーが、屋根の上のライトをつけて、とまっ
ている。

 それらしいネオンサインをさがすが、どれも、遠い。○○ホテル、△△ビジネスホテル……。
夜の都会は、わびしい。新幹線の中で眠っていたせいか、足もとが、ふらつく。

 が、ふと振りかえると、うしろに、「カプセルホテル、男性専用」という文字が、目に飛びこんで
きた。「カプセルホテル?」と思いながら、足をそちらに向ける。「一度は、泊まってみるか…
…」と。

 が、しかし、それがまちがいの始まりだった。

●カプセルホテル

 玄関を入ると、カウンターの向こうに、2人の男が立っていた。一人はこわそうな顔をしてい
た。その男が、不自然な笑みをつくって、「いらっしゃいませ」と。とたん、足が、自然とそちらの
ほうに向かって、動き出してしまった。

私はもともと優柔不断な男。おまけに気が小さい。そう言われると、あともどりすることはがきな
い。さも、泊まりなれた客のような顔をして、「あいてますか?」と聞くと、「あいてます」と。

 差し出されるままチェックインの用紙に、住所と名前を書きこむ。料金は、3xxx円。安いが、
どうも印象がよくない。

私「カプセルの中では、パソコンを使えますか?」
男「使えません」
私「荷物は?」
男「そこにロッカーがあります」
私「貴重品は……?」
男「ロッカーがあります」と。

 通路を見ると、何人かの男たちが、水色のガウンを着て、うろうろと歩いていた。どこか雰囲
気が暗〜い。

 部屋(?)は、2階にあった。腕に巻いた番号を見ながら、そこへ行く。が、うわさどおり、カプ
セルというのは、カプセル。小さな直方体形のボックス。それが上段と下段で、よく映画に出て
くる、死体置き場のような配列になっている。下の段は床の高さのまま。

 その死体置き場よりは、一回り広いといった感じ。映画などによく出てくる、あれである。雰囲
気が、よく似ている。構造としては、ただ寝るだけの場所。私は、カバンをかかえて、とりあえ
ず、中に入ってみた。

●閉所恐怖症

 閉所恐怖症というのが、ある。私が、そう。閉じ困った場所に入ると、言いようのない恐怖感
に襲われる。緊張する。体がこわばる。

 私には、いくつかの恐怖症がある。高所恐怖症、暗闇恐怖症、スピード恐怖症など。閉所恐
怖症も、そのひとつ。いつだったか、若いとき、みなと、土肥(とい)の金山(伊豆半島)に入ろう
としたことがある。しかし私だけ、足がすくんで、中に入れなかった。

 その私が、カプセルホテルに泊まる?

 私はまず、出入り口をチェックした。もちろん立つことはできない。はったまま中に入る。ドア
はなく、かぎもない。カーテン様のシャッターがあって、それを上から、おろすしくみになってい
る。

 つぎに空気口を調べる。飛行機のそれのように、調整ができない。いくらひねっても、動かな
い。手をかざしても、空気らしきものを、感じない。

 即座に計算する。一回に、1000ccの空気を呼吸する。1分間に15回、呼吸をするとして、
その1分間に、1万5000cc。全体の広さを、縦1メートル、横1メートル、奥行き2メートルで計
算すると、100x100x200=20万cc。つまり約20分ほどで酸欠状態になる。

 窒息死? 故障? そうだ、通気装置の故障かもしれない。「一応、フロントに、連絡したほう
がいいのか」と、あれこれ迷う。命にかかわる問題である。しかし最近、カプセルホテルで窒息
死したという話は聞かない。カプセルホテルに関するニュースを懸命に思い出しながら、「だい
じょうぶだ」「心配ない」と、自分に言って聞かせる。

 が、心配は、心配。どうなっているのか、あれこれ調べる。……で、わかったことは、新鮮な
空気は外から入ってくるしくみになっているらしいということ。部屋の入り口のところに手をかざ
すと、かすかだが、風を感じた。部屋の中の『空気口は、どうやら空気を外へ出すための、排
気口のようだ。

●眠れない

 私は頭の下に腕を組んで、天井を見た。手が届く。どんと体をゆすると、カベにボカンとあた
る。軽い音だ。私は、ふと「宇宙船の中も、こうだろうな」と思った。味気のない空間。

 静かにしていると、心臓がいつもより高鳴っているのが、わかる。新幹線の中では、あれほど
眠かったのに、カプセルの中に入ったら、かえって頭がさえてしまった。「これはまずい」と思っ
た。「このままでは、明日の朝まで、こうだぞ」と。

 こういうときのために、カバンの中に、睡眠薬が用意してある。いつだったか、かかりつけのド
クターからもらったもの。しかし1錠を、まるまるのむと、翌日の昼過ぎまで寝てしまう。のむとし
ても、6分の1から、8分の1。こまかく割って、舌の先で溶かしてのむ。

 溶かしながら、心の中で、念ずる。「眠くなる、眠くなる……」と。

 が、ここで問題が起きた。

●どこへ隠す

 貴重品、つまり財布やカードは、どこへ隠すか?

 私は、その少し前、財布やカードをひとつの袋にまとめて、マットの下に置いた。その上にカ
バンを置き、枕を置いた。

 しかしそれでは安心できない。もし暴漢が入ってきたら、どうする。まず、そのあたりをさがす
だろう。枕の下にものを隠すのは、この世界の常識。それに熟睡していたら、気がつかない。
その前に、棒か何かで、殴られたら、どうする。

 つぎつぎと、妄想がふくらむ。睡眠薬を口の中で溶かしながら、あれこれ考える。

 私は、財布やカードの入った袋を、カバンにもどした。が、また出した。出して、また枕の下に
……。

 腕に巻いたロッカーのカギに、その袋をしばってみた。「こうすれば、だれかが引っ張ったとき
に、目がさめる」と。

 しかし安心できない。シャッターといっても、布製。外から簡単にあけられるしくみになってい
る。私は天井を見ながら、また考えた。考えて、よいことを思いついた。

 私は、その袋を、パンツの下に入れることにした。かなり感度は落ちたが、今でも、私にとっ
ては、一番敏感な部分である。ここをだれかがいじれば、必ず、目がさめる。「我ながら、名案」
と感心する。

●目覚まし時計
 
 再度、目覚ましをセットする。7時18分発の「はるか」、関西空港行きに乗れば、ちょうどよ
い。が、起きる時刻を、何時にするか? またまた悩む。

 ふだんなら、何も考えずにセットできるはずなのに、こうした閉所では、それができない。考え
が、まとまらない。ちょうど、デパートかどこかで、服を選ぶときの気持に似ている。あれにしよ
うか、これにしようかと考えているうちに、時間ばかりが過ぎていく。

後悔した。キャンセルして、ほかのホテルに移ることも考えた。しかし、今さら……!

 結局、6時30分にセットした。どうせその前に目がさめるだろうが……。

●騒音

 カプセルホテルというのはカベとカベが、くっついている。だから隣の人が、寝がえりをうつた
びに、その音が、直接、聞こえてくる。ドスン、ドンドン……と。

 これが結構、気になる。通路を歩く音も、聞こえる。スリッパをこする音。距離にして、1メート
ルも離れていないところを、人が歩くのだから、当然である。こうして、目を閉じたまま、またま
たあれこれ考える。

 最初は死体置き場が頭に浮かんだ。それは、先に、書いた。死体置き場の死人が、助けを
求めるというビデオも、最近、ビデオショップに並んでいる。「ツルー・コーリング」とか、いった。
それを思い出しているうちに、今度は、死体置き場が、頭の中で、火葬場になった。

 火葬場で、人を焼くときも、やはり、こういう戸棚のようなボックスの中に入れて、焼く、と。

 「死ぬときは、こうだろうな」「こんな狭いところで死ぬのもいやだな」とか……。そんなことまで
考えていると、ますます頭がさえてしまう。が、そのうち、トイレに行きたくなった。

 今度は私が、まわりの人たちに迷惑をかける番になった。時計を見ると、11時を過ぎてい
た。

 いくら静かにシャッターをあげようとしても、どうしても音が出る。いくらスリッパを静かにはこう
としても、これまた音が出る。通路を歩くときも、そうだ。

 こうして時間ばかりが過ぎていく。

●男性専用 

 が、朝がきた。いつの間にか眠ったらしい。夢心地は、よくなかった。それに、どういうわけ
か、ヒワイな夢ばかりを見た。人間は、生死の境目を歩くと、性欲だけが高まるのか? ……と
いうのは、少し考えすぎだが、あれほど不安だったのに、夢だけは、ヒワイな夢を見た。これは
どういう心理作用によるものか。

 内容は、そのときは、覚えていたが、今は、覚えていない。女性の裸が、ムラムラと出てき
た。そんな夢だった。

 きっと眠る前に、男性専用の意味を考えていたせいではないか。「どうして男性専用なのだろ
う?」と。あるいは、パンツの下に、貴重品を入れたせいかもしれない。その貴重品が、私のア
レを刺激した? そのせいかもしれない。朝起きたとき、貴重品が、10センチほど(正確には、
15センチほど)、上に、盛りあがっていた。

 しかし、どうして「男性専用」なのか。答はすぐわかったが、それが、そのままヒワイな想像に
つながってしまったらしい。

 夜中に、そっと、カーテンをあげて、カプセルの中で眠っている女性と……と。

 時計を見ると、午前5時。横になっていても、しかたがない。風呂に入ることにした。カバンを
かかえるようにして、一階のロッカーへ。

それからのことは、いつものとおり。時刻表を見ると、新大阪発、6時15分の、はるか1号があ
ることがわかった。少し(かなり?)はやいが、それで関西空港に行くことにした。

 5月26日、木曜日。

 空は気持ちよく晴れていた。さわやかな5月のかわいた風。寝不足なのに、体は軽かった。
ただし……。カプセルホテルは、一度で、こりごり。私には、向かない。

 せっかく泊めてもらったのに、悪口ばかり、書いて、ごめん。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(715)

●栃木県のHさん(母親)より、二男の食事について、
こんな相談がありました。

【Hより、はやし浩司へ】
 
 二男(小6)が、家で食事をするとき、ノドをつまらせて、苦しそうに
します。病院でみてもらっても、まったく異常はみつかりません。
 
 しかし食事になると、のどに食べたものをつまらせてしまうのです。
ノドがふくれあがることもあります。
 
 が、学校の給食は食べられます。原因は、1週間ほど前に見た
テレビのようです。ノドをつまらせて苦しそうにしていました。その番組を
見て以来、そうなりました。
 
 6年生でも、そうなるのでしょうか。今は、2人で、抱きあいながら、
ふざけて遊んだりしています。

【はやし浩司よりH様へ】
 
拝復
 
私には、診断権がないので、あくまでもアドバイスとして、お考えください。
 
お子さんの強迫観念については、このままの症状が長くつづくよう
であれば、一度、心療内科のドクターに相談なさるとよいかと思います。
 
症状としては一部だけですので、簡単な薬で、症状(こだわり、不安感)は
消失するはずです。あまりおおげさに考えないで、任すことろは
任したらいかがでしょうか。今では、よい薬もあり、効き目もおだやかで、
副作用もほとんど、ありません。
 
またまだ症状が出て一週間ということですから、一過性のものかも
しれません。
 
私の近くの湖で、死体があがったとき、近くの小学校の子どもたちにも
似たような症状が出たという話を聞いています。子どもの心は、ときとして
過剰なまでに、敏感に反応するものですね。
 
ここから先が、今度は、家庭教育の部分です。
 
不安神経症的な症状がつづくようであれば、乳幼児期の母子関係の
不全を疑います。しかし今さら、それを問題にしてもいけません。
 
そこで今は、濃厚なスキンシップ(子どもが求めてきたときが与え時と
考えて、子どもが体をすりよせてきたときなど、すかさず、濃厚なスキン
シップを与えてあげます。ぐいと力いっぱい、抱くだけでも結構です。
 
あとは手つなぎ、いっしょの入浴、添い寝など。子どもの心に安心感を
与えるのがコツです。メールによれば、現在、それをなさっておられる
ということですので、そのままでよいと思います。
 
「おかしいから、なおそう」という発想ではなく、「今の状態を今以上に
悪くしないことだけ」を考えて、少しでもよくなったら、すかさずほめるよう
にします。
 
子ども自身に、罪の意識をもたせないようにするのがコツです。
「食べたくなければ、いいわよ」とか、「ゆっくり食べようね」とか、
そういう言い方にして、あとは、子どもに任せます。
 
私の経験では、この問題には、まだ二番底、三番底がありますから、
気をつけてください。何かの神経症(心身症)の初期症状ということも
ありまえます。
 
せっかちになおそうとすると、かえって症状を悪化させてしまいます。
 
また薬物だけに頼るのも、賢明ではありません。心の問題として考えます。
で、今、一番、重要なのは、お母さん自身の対処のしかたです。
 
お母さん自身が、過剰に心配するため、それを子どもが直接肌で
感じてしまっているようにも思われます。
 
気負い先行、心配先行型の子育てから、肩の力を抜いてください。
お子さんは、すでに、親離れする時期の終わりごろにきています。その自立心を
うまくつかって、なおします。
 
これからも、折につけ、マガジンのほうでこの問題をとりあげていきます。
無料ですから、ぜひまた読んでみてください。
 
では、本日は、これで失礼します。
(はやし浩司 子供 食事 食事障害 食事の問題 喉 喉につまる)
 
**************************
 
【掲示板の投稿より】

息子が、小学校に入学してからそろそろ2ヶ月になりますが、ひとりで(友達がいても)、私が玄
関まで送っていかないと、学校へ行けません。

玄関で私の手を握ってなかなか離れないこともあります。しばらくは仕方ない事と思って続けて
きましたが、まわりの子供たち(同級生)が、羨(うらや)ましがっています。

今朝、玄関で同じクラスの子が、「ウチのお母さんは来ないもん」と言って、玄関の戸を押さえ、
私を外へ出さないようにしていました。

もう一人の子がそれをやめさせようとして、その子とケンカになりそうになったんです。

長女は「ママ早く来て」と泣きそうな顔で見ていました。このまま私が付いていけば、友達とも仲
良くできなくなるのでは?と。でもいっしょに行かなければ学校へは行けないし、どうすればい
いのか困っています(Yより)。 

+++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 軽い母子分離不安かと思われます。無理をしてもいけないので、自然体で、対処するしかな
いようです。

 ただ相談の内容とは別に、私には、ほほえましい光景が浮かんできます。「うちの息子たちも
そうだったなあ」と、です。

 「ああいう楽しいときは、どこへ消えてしまったのだろう?」と思うときさえあります。そのとき
は、何かと問題があるように思われ、あれこれ四苦八苦したものですが、子育ても終わってみ
ると、そういう光景が、たまらなく、いとおしく思われてきます。

 母親として、負担が大きいようであれば、少しずつ手を抜いていくという方法もありますし、ま
あ、あまりおおげさに考えないほうが、よいのではないかと思います。

 子どもが学校へ入学すると、親も、何かにつけ神経質になります。今のあなたが、そうかもし
れませんが、少し、子どもから目をそらすということも考えてみてください。あまり深く意味を考
えないで、それが儀式になっているなら、そのままつづけても、さほど、問題はありません。

 私も職場に行くときは、必ず、ワイフが玄関先まで出てきます。夫妻分離不安?……というよ
り習慣的な儀式になっています。今では、ほとんど意味はありません。たまにワイフが玄関先
まで出てこないときもありますが、そういうときは、多少、気分が落ちつかないということはあり
ます。

 しかし外へ出て数分もしれば、忘れます。

 今は、そういう楽しい思い出をたくさん充電しておいてください。ついでに写真でもとってあげ
たらいいですよ。やがて、生意気な子どもになりますから、そのとき、「あなたね、偉そうなこと
を言うけど、1年生のとき、ママのそばから離れなかったのよ」とか何とか、言って、そのとき、
からかってあげなさい。

 私の書いた原稿を、1作、プレゼントします。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、
ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちの
ために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそう
だから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。

そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわからなかった。その「何でもな
い」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 

子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++++++

 あなたも、今をもっと、楽しんでください。子育ては、すばらしいですよ!!

 では!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(716)

●世界から、極東アジアを見る

 少し前、「世界の中心で……」とか何とかいう、小説があった。若い人の物語だから、しかた
ないとしても、そのタイトルほど、自己中心的なものはない。

 その自己中心性を感じさせる(?)調査結果が、英国の国家ブランド調査機関(アンホールド
GMI)というところが、発表した。

 世界各国の消費者1万人を対象に、政治・輸出・投資・文化・国民・観光の6項目に分けて調
査が行われた。が、その結果だが、好感度(ブランドパワー)が、日本や韓国は、最下位に近
いところにランクされた。とくに、韓国は、11か国中9位と、最下位に近い。

 理由は、つまり世界の人にしてみれば、韓国もK国も、区別がつかないということ。日本人
が、北イエメンと、南イエメンの区別がつかないのと、同じ。「危険な(dangerous)」、「邪悪だ
(sinister)」という理由が並べられたと言う。

 韓国政府は、いつものように、猛反発しているが、韓国も、もう少し、広い視野から、自分の
国を見てみたらどうだろうか。「同胞」「同胞」と言って、K国にすりよるのも結構なことだが、核
兵器を一生懸命作っている国に、肥料を送ってみたり、ナベやフライパンを作る工場団地を作
ってやったり、あげくのはてには、ファッションショーを開いてやったり、K国と合同で反日集会
を開いてみたり……。

 問題の本筋が、ちがうのではないか。

 やっと6か国協議ができそうという雰囲気になった今、またまたK国は、開催地だとか、議論
の進め方で、あれこれと水面下では、ゴネているらしい。まあ、何でも、ゴネる国だから、はっき
りいって、どうしようもない。手がつけられない。状況は、韓国も、似ている。だから、世界の人
たちは、韓国も、K国も、区別ができない。

 日本が、ただの一度でも、ゴネたことがあるか?

 私が知るところ、今の韓国、K国ほど、自己中心的な国はない。自分たちが、世界の中心に
でもいるかのような錯覚にとらわれている。アメリカなどででは、日本がどこにあるかさえ知らな
い大学生が多い。が、韓国となると、もっと知らない。

 いちいち日本の政治家の言葉じりをつかまえて、いがみあっているときではない。今度、アメ
リカは、「もっと、日本と対話をしなさい」と、中国と韓国に忠告したが、それが世界の常識。

 ところで今度、韓国のN大統領は、日本の外務省のY外務事務次官に、「無礼だ!」と怒った
という(ヤフー・ニューす・5月26日)。話の内容は、つまりは、常識的な意見だった。「今のよう
な政治をしていると、アメリカは、韓国との軍事情報の交換をためらいますよ」というような内容
だったらしい。

 それをN大統領は、「おどし」ととったか、「米韓関係を破壊する意図」と感じたかは知らない。
が、「無礼だ!」と。

 いまどき、使うような言葉ではない。

 「世界の中心」と思いたい気持ちはよくわかるが、EUやロシア、さらにアメリカにしてみれば、
極東の国々など、消えてなくなっても、どうということはない。一応の心配はしてみせてくれてい
るが、その分、極東の国々は、EUやロシア、アメリカの心配をしているか?

 そういう現実がわかったら、もう少し、心を開いて、仲よくしようではないか。いつまでも、戦前
の日本にこだわり、そのイメージで、現在の日本人を見ることは、やめてほしい。不愉快という
より、バカげている。「世界の中心で……」という発想ではなく、「世界に向って……」という発想
で、もう少し、国際政治を考えようではないか。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもを、まっすぐ伸ばす】

●同一性の危機

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻
撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉
強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」とい
う場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ
選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力

「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる

たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱

子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)

しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強

たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代

これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題

現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成

子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。

(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス 子
供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●2人の人に、よい顔はできない

 こまかすぎる指導にも、おおざっぱな指導にも、それぞれ、問題点がある。そこで「中庸(ちゅ
うよう)」ということになるが、これが、また、むずかしい。

 たとえば子どもの漢字学習。多くの学校では、毎日の書き取りが宿題になる。その宿題につ
いて、先生が、毎日赤ペンで、なおしを入れる。それについても、「ていねいな、いい指導だ」と
思う親もいれば、「かえって、子どもがやる気をなくす」と、批評する親もいる。

 私も、よく失敗する。

 子どもが自分でしてきたワークブックを、私に見せてくれるときがある。そういうとき私は、少
しくらいミスがあっても、大きな丸を描いて、「よくやったね」と言って、ほめて返す。

 それについても、「ちゃんと、正しい答を書いてください」「まちがった答に丸を描かないでくだ
さい」と言われたりすることがある。私は、子どもの達成感を大切にしたいから、大きな丸をつ
ける。

 教育の世界では、2人の人を、同時に満足させることはできない。ほかにも、こうした例は多
い。

 最近、失敗した例としては、こういう事件がある。

 教室へ入るとき、私のところでは、一度、靴を脱いで、スリッパにかえることになっている。そ
のとき、靴をきちんとそろえないで、教室へ入ってくる子どもがいる。

 たいてい、数回、指導をすると、それにしたがってくれる。が、中には、何度、指導しても、言
うことを聞いてくれない子どもがいる。私も、それほど、神経質に構えているわけではない。し
かしときどき、私のほうが、ややふざけるような形で、子どもたちに、こう言うときがある。

 「きちんと並べてない靴は、外へ、放りだすぞ!」と。そして演技タップリに、かつ、おもしろお
かしく、きちんと並べてない靴を、玄関の外へ、ポンポンと投げる。それを見て、自分の靴と知
った子どもは、あわてて、拾いに行く。

 一度、この指導をすると、たいてい、つぎからは、靴をきちんと並べてくれる。いわば、ショック
指導!、ということになる。

 いや、「指導」というほど、大げさなものではないが、しかしそれでも、そういう指導を不愉快に
思う親がいる。数年前だが、「先生の指導は、感情的すぎます」と、怒ってきた母親がいた。つ
まり、私は叱られた。

 だから、……ということもあって、私の教室では、100%、全参観授業をモットーにしている。
幼児クラスでは、とくにそうである。その場の雰囲気を、親たちに理解してもらう。そしてそのつ
ど、簡単な説明をしながら、レッスンを進める。

 「少し、ちがうところがあるけど、あなたはがんばったから、丸にしておくよ」とか、子どもに
は、そういう言う。そして母親のほうを見て、軽く合図する。親が、そこにいるからこそできる、
指導法である。

 大切なことは、その場の子どもの雰囲気を見て、判断するということ。あくまでも、子ども次
第。この世界、「どの子も、みな、同じ」というわけにはいかない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●置き換え

 子どもがグズるとき、言葉の内容そのものに、まどわされてはいけない。子どもがグズるとき
は、その向こうに何があるか、それを知る。

 もう少し、わかりやすく説明しよう。

 日本にも昔から、『八つ当たり』という言葉がある。何かのことで、ムシャクシャすると、別のこ
とに怒りを向けて、そこで爆発させる。これを、「置き換え」という。

 子どもは、いつも、つまりほぼ日常的に、その「置き換え」をする。友だちに、何か不愉快なこ
とをされたりすると、家に帰ってから、母親にグズってみたりするなど。おとなのばあいは、原因
となる(怒り)を知っていて、置き換えをすることが多い。が、子どもには、それがわからない。
わからないまま、ああでもない、こうでもないと、グズる。

 こんなことがあった。

 ある女の子(年長児)は、毎週、水曜日の朝になると、機嫌が悪くなる。グズる。幼稚園へ出
かけるときから、「今日は、足が痛い」「今日は、気持ち悪い」と。そのつど、あれこれと理由を
並べる。

 最初、母親は、幼稚園に何か原因があると思った。しかし水曜日だからといって、とくに変わ
ったことをするわけではない。が、ある日、理由がわかった。

 幼稚園へ出かけるとき、母親が、「今日は、ピアノ教室があるからね。忘れないでね」と言っ
た。が、そのとたん、その女の子が、狂乱状態になってしまったという。そしてギャーと泣き叫び
ながら、手当たり次第に、そこらにあるものを、母親に向って、投げつけたという。

 その女の子は、心のどこかで、ピアノ教室を気にしていたということになる。「レッスンがいや
だ」という思いが、グズるという行為に置き換わっていた。

ほかにも、「A君がいじめる」「B先生が、ぼくをのけものにする」と、訴えるケースもある。で、調
べてみると、「学校へ行きたくない」という思いが、別にあることがわかった。つまり「学校へ行
きたくない」という思いが、友だちや先生の悪口を言うという行為に、置き換わったことになる。

 もっとも心理学の世界では、ふつう置き換わりというときは、「怒り」をいう。本来、Aさんに向
けるべき怒りを、Bさんに向けるなど。よくあるケースは、会社でおもしろくないことがあった夫
が、妻に対して、怒りをぶつけるなど。

 八つ当たりされる妻こそ、えらい、迷惑というものだが……。
(はやし浩司 置き換え 置き換わり 置換 グズる子供 ぐずる 子ども 子供 子どもの心
理)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「国のために、命を落とした……」 

 J民党のA氏が、今夜(5・29)、こう言った。「総理大臣は、Y神社を参拝すべきである。今の
総理大臣も、つぎの総理大臣も……」と。そしてそのとき、「国のために、命を落とした人を慰
霊するのは、世界の常識だ」と。

 A氏は、拉致問題について、さかんに「報復」という言葉を使っている。J民党の中でも、タカ
派。右翼。

 これに対して、K明党のX氏が、「首相のY神社参拝は、ヒットラーの墓参りと同じ」と公言し
た。週刊誌などでも、問題になっている。何となく、私に持論が、パクられたようで、不愉快。た
だし私はいつも、こう書いている。

 「首相が、Y神社を訪問するのは、首相の勝手と思うかもしれないが、それはドイツのシュレ
ーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなもの。少なくとも、中国や韓国の人たちは、そう
見ている。彼らの神経を逆なでするようなことをしながら、その批判に対して、『内政干渉』はな
い」と。

 もう、5.6年前から、そう書いている。

 それにしても、A氏が、ここまでタカ派だったとは?

 A氏は、「お国のために、命を落とした」と言うが、本当にそうだろうか?

 「落とした」のではなく、命令に従って、いやいや戦争に行って、「命を落とされた」のえはない
dろうか。またそう言うほうが、正しいのではないだろうか。

 その証拠に、日本が敗戦したとき、進駐してきたアメリカ軍に対して、ほとんどだれも、抵抗し
なかった。むしろ、歓迎したような雰囲気すら、ある。もし、本当に、アメリカ軍に敵意をもってい
たのなら、そのあと、今のイラクのように、レジスタンス活動があったはずである。ゲリラ活動で
もよい。

 しかし実際には、原爆投下後、2週間足らずで広島に入ったアメリカの調査団ですら、逗留
(とうりゅう)先の旅館などでは、大接待を受けている。

 あなたなら、こういう日本人の意識を、どう説明するだろうか。理解できるだろうか。

 つまり、日本人は、だれかによいように操られて、戦争に行っただけ。実は、私の父だってそ
うだ。徹底した天皇崇拝者だったが、思想らしきものは、まったく、なかった。ただ、天皇を、神
様のように崇拝していただけ。信仰と言えば、信仰。

 だから天皇が、「負けました」と宣言したとたん、戦意そのものを、喪失してしまった。

 ……こうした事実を総合すると、トップクラスの幹部は、「命を落とした」という言い方をするか
もしれないが、一般庶民の感覚とは、少しちがうように思う。当時の世相は、頭の中で想像す
るしかないが、みながみな、何かの主義、主張があって、戦争に行ったわけではない。命を落
としたくて、落としたわけではない。

 行かされた。その結果として、「命を落とされた」。

 だいたいにおいて、当時、だれが、戦争に反対できたか? 「平和」という言葉を口にしただ
けで、非国民あつかい。そのあと、逮捕、投獄された。天皇の批判など、夢のまた夢。当時は、
「不敬罪」という恐ろしい法律もあった。「天皇」と呼び捨てにしただけで、やはり逮捕、投獄され
た。

 そういう点では、今のK国、そっくり! いや、あの国を外から見ていると、戦前の日本がどん
な国であったか、それがよくわかる。皮肉なことに、今のK国は、戦前の日本以上に、日本的
な国。そう言っても、過言ではない。

 だからあえて、私は、A氏に言いたい。

 勇ましい好戦論は、ときには、甘い響きをもって、私たちを惑わす。しかし、それはまさに悪
魔のささやき。戦争など、してはいけない。また、K国にしても、あんな国を、相手にしてはいけ
ない。一般労働者は、1か月分の給料で、トウモロコシがやっと5キロしか買えないそうだ。米
なら、3キロ(C日報、5・27)。

 「報復」を考えなくても、彼らは、すでにじゅうぶんすふぎるほどの、ツケを払っている。

 私たちがすべきことは、ただひたすら、「常識」に従って、生きていくこと。日本やその周辺で
起きていることを、冷静に、客観的に、世界へ伝えていくこと。これだけ情報通信網が発達した
のだから、それを使って、世界に、あるがままを発信していけばよい。

 あとの判断は、世界の人に任せればよい。「人間は、基本的には、善である」。善であるから
こそ、今まで滅亡しないで、ここまで生き延びることができた。その「善」を信じて、あとの判断
は、世界の人に任せればよい。

 今こそみなさん、冷静になろう! 常識で、ものを考えよう! 絶対に、感情的になってはい
けない!

(追記)

 国の威信、誇りというのは、何も、国が作るものではない。私たち1人ひとりが、作るもの。も
し、国に、威信や、誇りがあるとするなら、正義を貫くところから、生まれる。その正義もない国
が、いくら、「日本の威信」「日本の誇り」を説いても、意味はない。

その日本にとって、正義とは、何か? 私は、自由、平等、平和だと思うが、それについては、
もう、何度も書いてきた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●畑をつくる

 今日、ワイフと長男と3人で、畑をつくった。庭につくった。10年ぶりの復活である。

 犬を飼うようになって、畑は全滅。花壇も全滅。そこで今日は、先に、柵をつくった。2間4方
の小さな畑だが、これから夏にかけて、野菜をつくるには、じゅうぶん。

 楽しかった。プラス、疲れた。

 そうそう畑を耕すとき、「♪与作は……」と、歌いながらした。どうでもよいことだが……。


●近く、友人夫妻がやってくる

 来週から、オーストラリア人の夫婦が、2組、4人、1か月近く、我が家に泊まることになった。
x日に、京都まで、迎えに行ってくる。

 忙しくなりそうだが、楽しみ。今、ワイフと、あれこれ計画を練っているところ。

 袋井市にある、K寺。市内にある、オーストラリア料理レストラン。F・パーク。ほかに、EXP
O・05などなど。コンサートの予約も、2つ取った。みんな、音楽が大好き人間。

 今日、1組の夫婦のために、甚平と、作務衣を買ってきた。一着、980円。麻製だったが、9
80円! 毎年、衣服が、どんどんと安くなっていくように思う。(昔は、「麻」というだけで、1万円
以上は、した!)


●私の株が、暴落!

 先週1週間で、私がもっている株が、xxx円の暴落。大暴落。株価を見るのも、いやになっ
た。

 三男は、「新しいパソコンがほしい」と言う。私は、「もう少し、待て」という。私は昔から、パソ
コン関連機器は、株でもうけたお金で買うことにしている。

 で、こういうときは、じっとがまん。株というのは、そういうもの。ジタバタしたとき、大損する。


●ゴキブリ

 今年は、例年より、ゴキブリが多いように思う。まだ1センチ前後の大きさだが、毎日、数匹
は殺している。

 ワイフが言うには、「近くのどこかに、巣があるからよ」と言うが、本当のところはわからない。
まさか異常気象の影響……?

 いやだね。あのゴキブリだけは、好きになれない。遠い昔、人間とゴキブリの間には、何か、
あったのかもしれない。色、ツヤ、顔つき、すべて、いや。


●苗

 畑をつくったら、今度は、苗。これからワイフと、それを買いにいくつもり。「ナスなら、秋まで
収穫できるから」と、ワイフは言った。しかし6月に入ってから、苗を植えるとは……? 今ご
ろ、売っているような店があるかな?

 まあ、あちこちの店を回ってみるつもり。なければ、花の苗にするつもり。花なら、今、あちこ
ちの花屋で売っている。


●1本、200円

 近くのビデオショップに行くと、1本200円の、古いビデオを売っている。このところ、毎週のう
ように、5本ずつまとめて買っている。

 「2泊3日……」とか何とか言われて借りてくるビデオだと、何となく、追いたてられているよう
で、落ちつかない。しかし買ってきたビデオなら、いつでも、見られる。今日、半分、見て、明
日、残りを見る、ということもできる。

 昨夜も、あるビデオの、残り半分を見た。結構、楽しかった。ただしタイトルは忘れた。俳優
も、よく知った顔の人だったが、5〜6歳は、若がえったよう(?)。

 ところで最近は、ビデオがどんどんと店頭から消え、DVD版になりつつある。これも時代の流
れか? やがてテープ版のビデオは、姿を消すことになるのだろう。使い勝手もDVDのほう
が、はるかによい。

 それにビデオは、すぐカビが生える。これはビデオがもつ、致命的な欠陥と言ってもよい。私
も、息子たちが子どものころ、ビデオカメラでたくさんの映像をとった。が、すべて、カビが生え
てしまった。もったいないという思いより、怒りのようなものすら、覚える。


●隕石の落下

 私は見なかった。しかしワイフと長男は、見た。巨大な隕石の落下だった、……らしい。「青
白い、花火のような光が、南の方角へ、スーッと流れて、飛んでいった」という。

 仕事から帰ると、ワイフは、興奮気味に、かつ、うれしそうに、それを話してくれた。「きれいだ
ったわよ」と。

 翌朝のC新聞を見ると、それについての記事が出ていた。さらにその翌日(つまり昨日)の新
聞には、どこかの天文台が、その写真をとっていたという記事が出ていた。写真も載っていた。

 しかしそんな大きな隕石だったら、何かの衝撃があったはず? それとも、地上へ着く前に、
燃えつきてしまったのだろうか。

 私たちがふつう夜空で見る、あの流れ星は、大きさが、1円玉くらいだそうだ。(意外と、小さ
い!)昔、何かの本でそう、読んだことがある。それが超高速で、地球の大気圏内へ突入する
ため、あのように、きれいな光線を描くのだそうだ。

 だからワイフたちが見た隕石も、地球に衝撃を与えるほどのものではなかったのかもしれな
い。せいぜい、野球ボールくらいの大きさ(?)。それが、太平洋の海の中に落ちた。

 しかし、私も、見たかった。ひょっとしたら、エイリアンの宇宙船だったかもしれない。

 実は……。その隕石には、悪性のウィルスが忍びこんでいた。それが海の中で、猛烈な勢い
で、増殖しつつある。数か月もすると、そのウィルスは、全世界に広がり、地球上の生物が、バ
タバタと倒れて死んでいく……。 

 SF映画の見すぎかな?

しかし、同じウィルスでも、良性のウィルスもあるそうだ。そのウィルスに感染すると、人間の知
能が飛躍的に進化することもあるそうだ。太古の昔、人間が、直立歩行するようになったのも、
そうしたウィルスの作用だったという説も、ある。

 悪いことばかりではないらしい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(717)

●心配ごと

 何か心配ごとがあると、思考が停止してしまう。それだけならまだしも、無意味な行動を繰り
かえしてしまう。何度も何度も、同じことを繰りかえしては、またもとの状態にもどってしまう。

 だれから「気のせいよ」と言ってくれても、頭の脳ミソに、それが、湿布薬か何かが張りついた
ような状態になる。それが、どうにもこうにも、はがれない。

 こういう状態を、心理学の世界では、「固着」という。つまりは、「こだわり」のことか。子どもで
も、何か心配ごとがあると、とたん、別人のように、できが悪くなったりする。

 少し前、G君(小1)の母親が、病気で入院した。幸い、数日の入院ですんだが、その間、G君
は、ふだんならスラスラ解けるような問題ですら、できなくなってしまった。ミスばかりを繰りかえ
した。

 子どもなりに、母親のことを心配していたのだろう。

 私も、集団検診か何かで、「要再検診」などという通知をもらったとたん、仕事が手につかなく
なってしまう。「心気症」とまではいかないが、それに近い。「重大な病気だったら、どうしよう?」
とか、そんなふうに考えてしまう。クヨクヨと考えてしまう。

 だからそういうときは、すぐ、かかりつけの医院へ飛びこむ。「先生、こんなのをもらいました
が……」と。再検診の日まで待っていたら、気がヘンになってしまう。「クロならクロでもいい。ど
ちらか、はっきりしてほしい」と。

 平和で、幸福な日々というのは、その心配ごとがない状態をいう。大切なことは、心配ごとと
どう戦うかではなく、心配ごとを、どう作らないかということ。これは毎日を生きるときの、コツの
ように思う。

 ……といっても、心配ごとのほとんどは、自分でつくるものというより、向こうから勝手に飛び
こんでくるものだが……。
(はやし浩司 固着 心配ごと 心配事 子供の心理 子ども 心理)

(補足)

固着……「固着観念」ともいう。たえず意識を支配し、それによって主として行動が決定される
観念。強迫観念とはちがって、秒的な感じはしない(広辞苑)。幼児期の母子関係から逃れる
ことができず、とくに母親に愛情的な愛着をもつなど、精神的に未発達な状態もいう(同)。


●スパムメール

 毎日、毎日、まあ、本当に数多くの、スパムメールが届く。フィルターにかけているスパムメー
ルだけでも、数百を超えた。が、それでも届く!

 改めて、スケベ力のものすごさというか、人間のもつ本能的なエネルギーに驚く。

 今日も、「件名:やりたがりの人妻、即、10人、紹介」とか何とか、いうのがあった。

 私は、過去、34年近く、その人妻たちとつきあってきているが、そんな人妻、会ったことがな
い。女性は、そんな甘くないし、もしそういう人妻がいたとしたら、一度、どんな人か、セックス抜
きで会ってみたい。

 「件名:1日で、10万円の収入を約束」というのもあったが、女性にせよ、マネーにせよ、そん
な簡単にどうこうできるものでははない。

 本当に、ホント、私は、女性と、そういうつきあい方をしたことがない。だから、そういう女性が
いるということ自体、信じられない。「だれでも構わないから、私とセックスをして!」などと言う
ような女性など、いるはずがない。

 常識で考えれば、わかりきったこと。しかしそういうスパムメールにひかかって、ひどいヤケド
をする男性も、いるとか。HPをクリックしただけで、何10万円も請求された人もいる。そんな話
も聞いている。

 つまりは、ウマイ話には乗らないこと。この世界、そんな甘くない。

 ところで最近、気になる話を聞いた。

 だれかのHPに不正アクセスをして、何でも、そのHPの内容を、勝手に改ざんしてしまうとい
う事件が、相ついでいるそうだ。そしてそのHPを開いた人に、ウィルスを勝手に送り届けてしま
うという。

 ウィルスの中身は、さまざま。

 IDや、パスワードを複雑にして、かつ随時、それらを変更するという方法しか、今のところ、防
御方法は、ないそうだ。あるいは、こまめに、HPを更新していく……。私は、1〜2週間に1度
は、HPのファイル全体を、ウィルス・チェックしている。が、それでも安心できない。

 みなさんも、どうか、お気をつけください。


●車の左折と右折

 車を運転する。そのとき、T字路か、四つ角に、さしかかる。

 そのとき車が、どちらかの方向に曲がろうとする。そのときのこと。ほとんどの人は、「左折も
右折も同じ」と考える。しかし、それは、まちがい!

 車の左折と、車の右折とでは、感覚は、大きくズれる。

 たとえばあなたが今、車を運転席で車を運転していたとしよう。そしてT字路にさしかかったと
する。

 そのときあなたの運転席から見たとき、右側からくる車は、相対的に、近くに見える。一方、
左側からくる車は、相対的に、遠くに見える。だから同じ距離でも、右側からくる車があると、あ
なたは、その車が行き去るのを待つ。

 一方、左側からくる車は、相対的に遠くに見えるから、同じ距離でも、「まだ行ける」と思って、
その前へ割りこんでいく。つまり、ここで事故が発生する。

 ……と書いて、告白。

 私のワイフは、過去、一度も事故を起こしていない。今度から免許証も、ゴールドになった。し
かし私が知るかぎり、右折が、甘い。甘いと言うより、同乗者として、何度も、肝を冷やしてい
る。

 ワイフの運転は、こうである。

 たとえばT字路にさしかかって、右折しようとする。そのとき、左側の方向から車が近づいてき
たとする。が、ワイフのすわる運転席からは、その車が、相対的に、遠くに見える。

 そこでワイフは、車を止めて待つのではなく、思い切りアクセルを踏んで、その前に出ようと
する。そしてときどき後続のその車の運転手に、叱られる。怒鳴られたり、クラクションを鳴らさ
れたりする。

 が、何度、注意しても、ワイフには、それがわからない。

 そこで今日、道路に車を止めて、実験をしてみた。

 T字路の路地のほうに、車を止めた。(●)の位置が、ワイフの車の位置。

―――――――――――――――――――――
△A→
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
                    ←△B
―――――――――    ――――――――― 
         │ ● │
         │   │   ●……ワイフの車

 △Aと、△Bのところに、ティッシュペーパーを置いた。距離は、ワイフの車(●)から、等距離
(歩数で、ちょうど20歩)のところ。

私「今、左から、車が来るだろ」
ワ「来るわ」
私「いいか、△Aのところまできたら、そのときのことをよく覚えておくんだ」
ワ「わかった」

 車の運転席にいると、左から来る車は、同じ距離でも、より遠くに見える。

私「今度は、右から、車が来るだろ」
ワ「来るわ」
私「いいか。△Bのところまできたら、そのときのことをよく覚えておくんだ」
ワ「わかった」

 車の運転席にいると、右から来る車は、同じ距離でも、より近くに見える。

私「どうだ?」
ワ「不思議ね。同じ距離なのに、△Aのほうが、はるかに遠くに見えるわ」
私「そうだろ。それがお前の感覚のズレているところだ。わかった?」
ワ「わかった……」と。

 本当に理解してくれたかどうかは知らない。しかし、ワイフは、ときどき、私の言葉で言うな
ら、「メチャメチャな右折をする」。助手席にいる私は、相手が怒って、怒鳴っている顔を見るこ
とになる。が、ワイフは、右のほうを見ながら、右折するから、それが見えない。

 だからそのあとも、平然としている。

 しかし、こういうことを、一度、もう少し、科学的に証明できる人がいたら、きちんと証明してほ
しい。私の実感でも、右折車の事故は、そうでない事故よりも、はるかに件数が多いのではな
いかと思う。そしてその理由は、ここに書いたような感覚のズレによるものではないか思う。

 この原稿は、ワイフの安全を願って、書いた。(A子、ちゃんと、読めよ!)
(はやし浩司 車の右折 右折事故)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パラノイア

 ある母親(Aさん)が、別の母親(Xさん)のことで、今、たいへん悩んでいる。Aさんが何をして
も、Xさんが、あれこれ苦情を言ってくるという。Aさんは、こう言う。

 「私は、まったくXさんのことなど、考えていません。しかしやることなすこと、私がすることは、
Xさんに対する、意地悪だと、Xさんは、言うのです。こんなことがありました。

 今度、クラス対抗のバトミントン大会をすることになりました。それについて、私が責任者にな
っているものですから、練習時間を、○曜日の○時からと決めたとします。

 するとXさんから電話がかかってきて、『わざと、私が参加できない時間に設定した』とか、言
ってくるのです。『練習には、おいでになれる方だけで、いいです』と、連絡帳には書いておいた
のですが……。
 
 さらにユニフォームについても、短パンで統一することになったのですが、それについても、X
さんは、『私が短パンをはかないことを知っていて、そうした』と苦情を言ってきます。

 Xさんからの電話が入ると、心臓がドキドキし、手が震えてしまいます」と。

 パラノイア(妄想)にもいろいろある。Xさんは、何でも自分に関係づけてしまうという点で、「敏
感妄想」ということになる。「敏感関係妄想」ともいう。言うことが、一応まともなため、かえって、
どう対処したらよいのか、わからなくなる。そのため、本人は、それでよいとしても、その周囲の
人が、とことん神経をすり減らす。

 中年期から発症しやすくなるというが、子どもでも、ときどき、そうなるときがある。「B君が、
ぼくをいじめた」と、ある子どもが言ったとする。そこで調べてみると、B君には、その意識がな
い。いじめたという覚えもない。

 ただその子どもが教室へ入ったとき、B君は、マンガか何かを読んでいて、その子どもを無
視したような感じになったらしい。それを「いじめ」と、その子どもは、誤解した。

 このパラノイアがからんでくると、人間関係も、わけのわからないものになる。ある日突然、
「お前が、石を投げたので、窓ガラスが割れた」と、隣人に怒鳴りこまれた人がいた。多分、車
か何かが、タイヤで石をはねあげたのだろうが、その隣人は、そう言ったという。

 さらに「私の家は、いつも監視されている」「盗聴器がしかけられている」と訴える人もいる。

 こうした妄想性を感じたら、その妄想性そのものよりも、その人を包む環境を改善する。何か
のストレスが、遠因になっていることが多い。そのストレスが姿を変えて、妄想を引き起こす。
「学校へ行きたくない」という思いが、妄想を生み、「ぼくは、B君にいじめられている」となる。

 妄想性だけをみて、その妄想と戦っても意味がない。その相手に向って、「あなたはパラノイ
アよ」と言えば、その結果は、どうなるか? 火を見るより、明らかである。一応、相手の言い
分を聞きながら、その周囲の環境がどうであるかを知る。
(はやし浩司 妄想 パラノイア 敏感妄想 敏感関係妄想 妄想観念)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不思議な体験

 今朝、ワイフと朝食を食べながら、ぼんやりと庭を見ていたときのこと。私がした、不思議な
体験を思い出した。

私「マルという犬の話をしたことがあるかな?」
ワ「……名前だけは、どこかで聞いたような覚えがあるわ」
私「ほら、K村の伯父の家だよ。あの家にいた犬だよ。一度、お前にも話したことがあるはずだ
けど……」と。
 
 これから書くことは、事実である。ウソや作り話ではない。ありのままを、そのまま、書く。

 私が、小学校の4年生だったか、3年生だったかは、よく覚えていない。そのころのことであ
る。

 そのとき私は、G県の山奥にある、伯父の家に遊びに行っていた。そこでのこと。

その家には、マルという、頭のいい犬がいた。本当に、頭がよかった。雑種で、それほど大きな
犬ではなかった。静かな犬で、いつも、庭で放し飼いになっていた。

で、ある日のこと。伯父の玄関から外に出ると、マルは、庭の反対側にいた。そこにいて、私の
ほうを、首だけこちらに向けて、じっと私を見つめていた。

 私は一段、石段をおりて、庭へ出ると、「マル!」と声をかけた。しかし、マルは、身動きしな
かった。そこでもう一度、声をかけた。が、マルは、そのままの姿勢で、こちらを見つめていた。

 不思議な体験というのは、そのあとに起きた。

 私は、かがんで小石を拾うと、マルのほうに向って、その小石を投げた。マルに当てるつもり
はなかった。マルは、動かなかったが、視線と視線があった、そのとたん、私は足元から体を
すくわれるような感じになり、地面に、ズデンと倒れてしまった。倒れたというよりは、体がひっく
りかえってしまった。

私「そのときのことだけどね、地面がなくなってしまったかのように感じたよ」
ワ「超能力のようなものだったかもしれないわね」
私「ううん。その時代には、そんな言葉はまだなかった。そんな能力があるといことも、まだ知ら
れていなかった」
ワ「不思議ね」
私「不思議な体験だった」と。

 マルの頭のよさは、近所でも評判だった。今となっては、どう頭がよかったかということを思い
出すことができない。ただ、かすかに記憶に残っているのは、そのマルが、あの小さな体で、イ
ノシシを倒したということ。それくらいしか、残っていない。

私「でね、そのあと、マルがこわくなってしまい、ぼくは、走って逃げたよ」
ワ「走って逃げた?」
私「そう。こわくなった。言いようのない恐怖感を覚えた。もちろんそれからは、マルに石を投げ
るようなことはしなかった。マルも、ぼくには、やさしくなった。縁側に座ると、ほら、足が地面に
届かないだろ。そうすると、マルは、ぼくの足の下にやってきて、ぼくの足の踏み台になってくれ
た」と。

 超能力だったかもしれない。動物には、未知の力があるという。あるいは、何かの拍子に、こ
ろんだだけかもしれない。しかし私は、子どものころ、機敏で、そういうドジは、めったにしたこと
がない。その私が、ころぶというよりは、ズデンとひっくりかえるようにして、倒れてしまった。

 不思議な体験というのは、それをいう。みなさんは、この話を聞いて、どう思うだろうか。念の
ため、もう一度、繰りかえすが、これは作り話ではない。本当に私が体験した話である。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●苗を植える

 昨日、畑に植える野菜の苗を買ってきた。

 ナス、エンドウ、トマトなど。トウモロコシの苗も売っていたが、1本、115円。「これじゃあ、ス
ーパーで買ったほうが安いね」ということで、トウモロコシの苗は、買わなかった。

 畑をもう一度耕して、苗を植える。

 何とも言えない、初夏のすがすがしさ。土のにおい。肥料のにおい。若いころは、毎日夢中に
なって、畑作りをした。その思い出が、どっとよみがえってくる。

 楽しかった。

 それを横でワイフが見ていて、「あのころは、食べきれないほど、キュウリがとれたわね」と言
った。

 私はすぐ、頭の中で、息子たちがそのキュウリを食べている姿を思い出した。そしてこういう
ときは、必ず、あの歌を歌う。

+++++++++++++++

♪麦わら帽子はもう消えた
 田んぼのカエルはもう消えた
  それでも待ってる夏休み

絵日記つけてた夏休み
 花火を買ってた夏休み
  ゆびおり待ってた夏休み 

畑のとんぼはもういない
 あの時逃がしてあげたのに
  一人で待ってた夏休み 

すいかを食べてた夏休み
 水まきしたっけ 夏休み
  ひまわり 夕立 セミの声

  (吉田 拓郎 『夏休み』より)

++++++++++++++++++

 畑で野菜を育てることには、不思議な魅力がある。何というか、少しおおげさな言い方をすれ
ば、「生きている」という実感さえ覚える。それに、畑を耕している間というのは、すべてを忘れ
る。頭の中が、からっぽになる。

 作業が終わったとき、ほどよい汗が、体中を流れていた。私は台所で、冷たい麦茶を一気
に、飲み干した。おいしかった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(718)

【掲示板の投稿より】

●私のHPの掲示板に、こんな投稿記事が載っていました。
それについて、みなさんと、ごいっしょに考えてみたいと思います。

(できるだけ、相談ごとは、掲示板へお願いします。
 そのまま、マガジン用原稿として、こちらで利用
 させていただくことがあります。よろしくご理解
 ください。)

++++++++++++++++++++++++++

ありがとうございます。こんなふうに相談できることは、とても心強いです。

私自身の「情緒的未熟性」や「精神的欠陥性」は、指摘されたことがないのでわかりません。
が、主人には間違いなくあるのでは・・・?、と思います。

主人は、神経質で、かなり自己中心的です。

子供がエスカレーターに乗ることに躊躇していたりすると、(うちの子供は、かなりおく病なの
で)、まだ買い物に来たばかりであるにもかかわらず、「(エスカレーターに)乗れないんなら帰
るぞ!」と車に戻っていってしまいました。

仕方ないので長女と次女と3人で買い物を済ませました。

先日も、私が勤めている会社の「花見会」を釣堀でしました。長女は、釣ったばかりでまだ跳ね
ている魚を初めて見た事が嬉しかったらしく、もらってきた魚を見せようと「パパ見てー」と家に
入っていきました。なのに・・・

主人が長女に言った言葉は、「こっちに持ってくるな!」です。それを聞いて、長女は泣きまし
た。

子供と遊んでくれる事もありますが、子供に合わせて遊んでいる様には見えません。
ボールは(やわらかいボールですが)、手かげんせず、おもいっきり投げます。

「怖い」「やだ」と言っているのに、そのまま続けます。で、子供が泣けば、「俺のせいじゃない」
とばかりに、知らん顔をしてその場を離れてしまいます。「子供に負けてあげよう」なんて、これ
っぽっちも思っていないようです。

次女が生まれた頃、長女は夜鳴きするようになりました。
その夜鳴きしている長女の胸ぐらをつかみ上げて「うるせんだ、おらぁ!」と怒鳴りつけ、布団
に叩きつけた事もありました。

次女が2〜3歳位の頃、何度言っても片づけをしないと言って、耳をつかみ引きずっていこうと
した事もあります。私が主人の手を払いのけて、やめさせると、今度は私の耳をつかもうともし
ました。「お前がやらせないからだ」と。(それも私は、払いのけましたが)、
俺が怒るのは、お前のせいだという感じです。

他にも「虐待」と言われても仕方のないような事が何度かあり、周期的に繰り返しているような
感じでした。

二度ほど離婚の話をしてからは、主人も気をつけてはいるようで、手をあげる事はなくなりまし
たが、言葉による「人格攻撃」は、時々あります。

子供の前でケンカをするのは良くないとわかっていますが、子供に対してあまりにひどい時は、
ケンカになってしまう事があります。
そのせいか、長女は主人に何か言われると、私の顔を見るようになりました。

主人は、小学校にあがる前の事を憶えていないと言います。
私は、主人の子供の頃の写真(アルバム)を、私は見たことがありません。

お義母さん(お義父さんも)は、2歳になったばかりの孫に、「お姉ちゃんになったんだから、抱
っこなんておかしいよ! おりなさい!」と怒るような人です。「言うことを聞けと言ったら絶対聞
かせる。子供には、絶対に妥協はしない」と言った事もあります。

きっと主人は、弟ができた頃から、「抱っこ」も「甘えたり」も「わがまま」も受け入れてもらえなか
ったのでは?、と思えてしまいます。

長々と愚痴のようになってしまいました(^^>"
主人のことを、誰に相談しても「子供だね」と言われます。

こんな主人を、良い方向に持っていくことなんてできるでしょうか?

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親像のない親たち 

 子育ては、本能ではなく、学習によって身につくものです。それについて書いたのが、つぎの
原稿です。まず、それをお読みください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

親像を考える法

親が子育てできなくなるとき 

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母
親すらいた。

また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭を
経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」のない人
とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。

もっとも会話といっても、スイッチを押しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九
八年の夏、一度妊娠したことがある。が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことで
はない。「はたしてアイに、子育てができるかどうか」(新聞報道)だった。

人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができない。チンパンジーのような、頭のよい
動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回るのもいるという。いわんや、人間を
や。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。

しかしその「体験」が、何らかの理由で十分でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性
がある。……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団
体から、猛烈な抗議が殺到する。

先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような記事を書いただけでそ
の翌日、一〇本以上の電話が届いた。

「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸
せな結婚はできないのか」など。

「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家
庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにとも
なう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。
たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければ
ならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。

それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家
族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔
父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくった。また別の人は、ある作家に傾倒し
て、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。

そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てがで
きるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかってい
ても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考
えてほしい。

(付記)

●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを
見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説
明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。アイは確かに人工飼育されたチンパン
ジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、まさに人間の子どもとして育てられてい
る。

アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、
アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。

(参考)

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇
〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。

妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作
成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……
二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四
九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であった。この結果か
らみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二
五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。

虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待
を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳
未満が一二三五件で、全体の八一・三%となっている。

+++++++++++++++++++++はやし浩司

●親像と親意識

 自然な形で、親としての務めができる。そのための下地を、「親像」と私は呼んでいる。(「親
像」という言葉は、私が考えた。)

その親像と親意識は、区別して考える。「私は親だ」「お前は子だ」という、旧来型の親子意識
をいう。

 その親意識には、善玉と悪玉がある。

+++++++++++++++++++++はやし浩司

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにする
のが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとす
るのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者
ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

+++++++++++++++++++++++はやし浩司

 以上の原稿と似たようなないようですが、少し前に
書いた原稿も、合わせて、添付しておきます。どうか、
参考にしてください。

+++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親風、親像、親意識

 親は、どこまで親であるべきか。また親であるべきでないか。

 「私は親だ」というのを、親意識という。この親意識には、二種類ある。善玉親意識と、悪玉親
意識である。

 「私は親だから、しっかりと子どもを育てよう」というのは、善玉親意識。しかし「私は親だか
ら、子どもは、親に従うべき」と、親風を吹かすのは、悪玉親意識。悪玉親意識が強ければ強
いほど、(子どもがそれを受け入れればよいが、そうでなければ)、親子の間は、ギクシャクして
くる。

 ここでいう「親像」というのは、親としての素養と考えればよい。人は、自分が親に育てられた
という経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。そういう意味では、子
育てができる、できないは、本能ではなく、学習によって決まる。その身についた素養を、親像
という。

 この親像が満足にない人は、子育てをしていても、どこかギクシャクしてくる。あるいは「いい
親であろう」「いい家庭をつくろう」という気負いばかりが強くなる。一般論として、極端に甘い
親、反対に極端にきびしい親というのは、親像のない親とみる。不幸にして不幸な家庭に育っ
た親ほど、その親像がない。あるいは親像が、ゆがんでいる。

 ……というような話は、前にも書いたので、ここでは話を一歩、先に進める。

 どんな親であっても、親は親。だいたいにおいて、完ぺきな親など、いない。それぞれがそれ
ぞれの立場で、懸命に生きている。そしてそれぞれの立場で、懸命に、子育てをしている。そ
の「懸命さ」を少しでも感じたら、他人がとやかく言ってはいけない。また言う必要はない。

 ただその先で、親は、賢い親と、そうでない親に分かれる。(こういう言い方も、たいへん失礼
な言い方になるかもしれないが……。)私の言葉ではない。法句経の中に、こんな一節があ
る。

『もし愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、愚者と
いうべし』と。つまり「私はバカな親だ」「不完全で、未熟な親だ」と謙虚になれる親ほど、賢い親
だということ。そうでない親ほど、そうでないということ。

 一般論として、悪玉親意識の強い人ほど、他人の言葉に耳を傾けない。子どもの言うことに
も、耳を傾けない。「私は正しい」と思う一方で、「相手はまちがっている」と切りかえす。子ども
が親に向かって反論でもしようものなら、「何だ、親に向かって!」とそれを押さえつけてしまう。
ものの考え方が、何かにつけて、権威主義的。いつも頭の中で、「親だから」「子どもだから」と
いう、上下関係を意識している。

 もっとも、子どもがそれに納得しているなら、それはそれでよい。要は、どんな形であれ、また
どんな親子であれ、たがいにうまくいけばよい。しかし今のように、価値観の変動期というか、
混乱期というか、こういう時代になると、親と子が、うまくいっているケースは、本当に少ない。
一見うまくいっているように見える親子でも、「うまくいっている」と思っているのは、親だけという
ケースも、多い。たいていどこの家庭でも、旧世代的な考え方をする親と、それを受け入れるこ
とができない子どもの間で、さまざまな摩擦(まさつ)が起きている。

 では、どうするか? こういうときは、親が、子どもたちの声に耳を傾けるしかない。いつの時
代でも、価値観の変動は、若い世代から始まる。そして旧世代と新生代が対立したとき、旧世
代が勝ったためしは、一度もない。言いかえると、賢い親というのは、バカな親のフリをしなが
ら、子どもの声に耳を傾ける親ということになる。

 親として自分の限界を認めるのは、つらいこと。しかし気負うことはない。もっと言えば、「私
は親だ」と思う必要など、どこにもない。冒頭に書いたように、「どこまで親であるべきか」とか、
「どこまで親であるべきではないか」ということなど、考えなくてもよい。無論、親風を吹かした
り、悪玉親意識をもったりする必要もない。ひとりの友として、子どもを受け入れ、あとは自然
体で考えればよい。

 なお「親像」に関しては、それ自体が大きなテーマなので、また別の機会に考える。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【Yさんへ……】

 この問題は、まず、あなたの夫が、自分自身がもつ問題に気がつくことです。そのためには、
あなたの夫の機嫌がよいときに、私が書いた原稿を読んでもらってください。

 ただしあなたの夫に問題があるのではありません。また、そういう言い方をしてはいけませ
ん。夫も、あなたの義父母も、日本の子育てという大きな(うねり)の中にいます。個人的な問
題というよりは、広く日本人全体が、共通してかかえる問題です。

 あなたの夫は、その(うねり)の中で、右往左往しているだけです。

 どうか、そういう視点で、あなたの夫の問題を考えてください。私の書いた原稿が、あなたの
夫を批判したりするための道具(資料)にならないことを、強く望みます。

 この問題、つまり親像の欠落にせよ、悪玉親意識にせよ、それに気づくだけでも、問題の半
分は、解決したとみます。あとは、時間が解決してくれます。すぐには、解決しません。つまり、
この問題は、それくらい「根」が深いということです。

 掲示板に書かれているように、あなたの夫は、かなり親意識(悪玉)の強い人です。そして不
幸にして、不幸なご家庭で、育てられたことも考えられます。とくに下の弟が生まれてから、慢
性的な愛情飢餓の状態に置かれたのだろうと思います。

 そのため、心に大きなキズをもっているとしても、何ら、おかしくありません。だから今、幼い
自分の子どもに、自分の過去を、投影しているのかもしれません。(自分の娘たちに対して、無
意識のうちに、弟への憎しみや悲しみをふつけているということです。)無意識下の行為ですか
ら、あなたの夫自身も、なぜ、そういう行為に出るのか、わかっていないないはずです。

 しかし、夫がそれに気づけば、この問題は、解決したとみます。ですからいつか、機会があれ
ば、ゆっくりと、かつ穏かに、あなたの夫に、私がここに書いたようなことを、説明してみてくださ
い。

 時間はかかりますが、必ず、あなたの夫も、心を溶かすときがやってきます。キザないい方で
すが、「愛は万能」「愛には不思議な力があります」、です。それを信じて、前に進んでください。

 短気を起こして、離婚を考えてはいけませんよ。あなたが経験している程度の問題は、何で
もない問題の部類に入ります。重要なことは、あなた自身も、あなたの夫の心のキズに気づ
き、いっしょに、力を合わせて、乗りこえることです。

 応援します。
(はやし浩司 夫の暴力 虐待 親像 親意識 悪玉親意識 子供を愛せない夫 権威主義的
な夫 夫の問題 育児問題)

++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++※

最前線の子育て論byはやし浩司(715)

【子育て相談より】

 M県在住のKさん(母親)から、「うちの子(年長児)が、乱暴で困ります。いつも近所の子ども
たちに、ケガをさせます。

 ですからこのところ、ますます、ほかの子どもたちから相手にされず、親たちにも嫌われてい
ます。突発的に、キレて、相手に殴りかかっていきます。どうしたらよいでしょうか」という質問を
もらいました。

 今回は、それについて、考えてみます。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの社会適応性

 「乱暴」が、ある一定のワクの中に収まっていればよし。しかしそのワクを超えて、社会的に、
他者との共存に、弊害が出るようようであれば、「問題がある」とみる。

 ふつう子どもの人格を評価するときは、

(1)他者との共存性(円満な人間関係が築けるか)
(2)常識的な価値基準(常識的な価値基準をもっているか)
(3)平均性(平均的な行動、ものの考え方をしているか)
(4)非異常性(異常な行動や、様子がみられないか)

 の4つを見て判断する。

 乱暴な子どもでも、そこに統一性や、行動の予測性が見られれば、問題はない。乱暴するに
も、それなりの理由がある。相手に応じて、手加減する。乱暴したあと、その処理をうまくする、
など。

 この時期、乱暴を乱暴として理解できず、遊びの一つとして、する子どもも少なくない。たとえ
ばある幼稚園では、ある時期、足蹴り(キック)が大流行したことがある。テレビのヒーローのマ
ネから始まったものだが、こうした流行性の問題もある。

 足蹴り(キック)をするから、乱暴な子というように、決めてかかることもできない。あくまでもそ
の周囲の子どもとの人間関係をみて、判断する。

 が、そのワクを超えて、良好な人間関係そのものを結べなくなるケースもある。乱暴な行為が
日常化し、暴力によって、自己主張するなど。

 ここで重要なことは、一つの目安としては、(1)乱暴をしても、抑えがきくか、どうか、というこ
と。

 乱暴な行為をしても、それを注意したり、叱ったりすることで、抑えることができれば、問題は
ない。しかしかなりきつく叱っても、効果がその場だけしかないというのであれば、ADHD児な
ど、脳の機能そのものの障害が疑われる。

 抑えがきくばあいでも、程度の差の問題もある。やさしく「だめだよ」と言って、抑えれれるケ
ースもあれば、そうでないケースもある。そこで今度は、免疫性の問題とからんでくる。

 家庭で、親の乱暴なしつけが日常化していると、簡単には抑えられなくなる。(きつく叱る)→
(ますます乱暴になる)の悪循環の中で、乱暴は、ますますはげしくなり、抑えがきかなくなる。

 が、どうであるにせよ、ほかの子どもたちと、良好な人間関係が結べなくなるというのは、そ
の子どもにとっても、悲劇的なことである。これもまた一つの目安になるが、こんなことも調べて
みるとよい。

 幼稚園児であれば、(1)どれくらい頻繁(ひんぱん)に、友だちの誕生会に誘われるか、とい
うこと。

 誕生会といっても、実際に、招待する子どもを決めるのは、親である。その親は、自分の子ど
もから日ごろの様子を聞いて、招待する子どもを選ぶ。こういうとき、乱暴な子どもは、まず、
除外される。

 「うちの子は、いつも、友だちの誕生会に誘われる」というのではあれば、問題はない。しかし
「めったに誘われることはない」というようであれば、子どもの問題というよりは、子どもを包む
家庭環境に問題がないかを疑ってみる。

 意味もない乱暴を繰りかえす子どもは、子ども自身の心が、何らかの理由で、いつも緊張状
態にあるとみる。家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児拒否、虐待など。

 「家庭(ホーム)の第一の目的は、子どもの心と体に、やすらぎを与えること」という視点にた
ちかえって、もう一度、家庭のあり方を、反省してみるとよい。
(はやし浩司 乱暴な子 乱暴な子ども 暴力 暴力を振るう子供 暴力的な子供 子ども)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

以前、書いた原稿を添付します。
少し内容がそれるかもしれませんが、
参考になると思います。

かなる古い原稿なので、語句の使い方に
不適切な点があるかもしれません。
お許しください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

心を開かない子ども

●EAさんの相談から

うちの子(小二)は、ほとんどよその子と、遊びません。他人と関わるのが、苦手なようです。家
の中では、ふつうだと思っていたのですが、このところ、ときどき荒れて、暴言を吐いたり、私に
向かって、突発的に、暴力を振るったりするようになりました。どうしたらよいでしょうか? (佐
賀県・EA、母親)

●子どもらしい、すなおさ

家族も含めて、他人との関わりがうまくできない子どもが、ふえています。要するに、心を開くこ
とができないわけです。子どものばあい、心を開くことができるかどうかは、やさしくしてあげる
と、わかります。心を開くことができる子どもは、やさしくしてあげたり、親切にしてあげたり、ほ
めてあげたりすると、こちらの好意が、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかり
ます。

 先日も、一台の車が自転車に乗っている私の横を通り過ぎました。見ると、うしろの座席に、
五歳くらいの男の子が乗っていました。そこで私が、少しおどけた顔をして見せると、その子ど
もは、ニンマリとうれしそうな顔をしました。他人に対して、心を開くことができる子どもは、そう
いう様子を、自然な形でしてみせます。「自然」というのは、「子どもらしい」という意味です。

 が、心を開くことができない子どもは、その瞬間、いじけたり、つっぱったり、ひがんだり、ひ
ねくれたりします。こちらの思いや、好意が、そのまま拒絶されてしまうわけです。さらにこの症
状がひどくなると、そうした反応そのものまで、しなくなります。心の閉じた子どもと、みます。

●子どもの心は、抱いてみればわかる

 ふつう子どもというのは、心が開いているか、あるいは開くことができるかは、抱いてみるとわ
かります。心を開いている子どもや、開くことができる子どもは、抱いてあげると、スーッとこち
ら側に、身を寄せてきます。そして力を抜いて、体を任せてきます。が、そうでない子どもは、体
をこわばらせ、かたくします。無理に抱いたりすると、まるで、丸太を抱いているかのようなりま
す。

 この話を、ある懇談会ですると、一人の父親がこう言いました。「子どもも、女房も同じです
な」と。

 つまりたがいに心を開きあっているときは、女房も、抱き心地がよいが、そうでないときは、そ
うでない、と。不謹慎な話ですが、まちがってはいないようです。

 が、問題は、ここで終わるわけではありません。心を開けない、あるいは開くことができない
子どもは、それだけ孤立します。いつも追いつめられた孤独感を覚えるようになります。しか
し、この孤独感は、それ自体が、苦痛をともなうもので、人は、そして子どもは、無意識のうち
にも、それを避けようとします。

●自己防衛

 ここでまず、二つのタイプに分かれます。孤独感を、攻撃的に処理しようとするプラス型。孤
独感を受け入れてしまう、マイナス型です。これを心理学の世界では、防衛機制といいます。い
わば心を守るための自己防衛機能のことです。

 プラス型の子どもは、自分の周辺に、強引に「孤独でない環境」をつくろうとします。わがまま
を言ったり、ときには暴力的に、相手を屈服させたりするなど。極端な例としては、家庭内暴力
があります。このタイプの子どもは、よく親に対して、「こんなオレにしたのは、お前だろうが
ア!」と叫びますが、それは、子どもの中で、子ども自身が、心を開くことができない自分と、は
げしく葛藤(かっとう)するためと考えます。

 マイナス型の子どもは、他人との関係が結べない分だけ、他人に対して恐怖感、不信感、拒
絶感を覚えます。そこで他人に対して、依存性をもったり、服従的になったりします。少ないで
すが、相手に同情を求め、相手に「かわいそうな子ども」と思わせることで、自分にとっては、居
心地のよい世界をつくろうとする子どももいます。さらに症状がひどくなると、他人との関わりそ
のものを回避するようになります。極端な例としては、引きこもりがあります。

●EAさんのお子さんは……

 そこでまず、EAさんの子どものばあい、これらのどのタイプの子どもかを、判断しなければな
りません。たとえば「心を開くことができない子ども」というとき、最初に思い浮かぶのが、自閉
症児や、自閉傾向のある子ども、さらには、かん黙児などがいます。しかしこのタイプの子ども
は、いわば症状として、様子がはっきりとわかる子どもをいいます。こうした症状が、その前の
段階で、よくわからない子どもも、少なくありません。

 私は「濃い」「薄い」という言葉を使います。同じ心の問題をかかえていても、その症状が、濃
い子どももいれば、薄い子どももいるということです。先にあげた、家庭内暴力を繰りかえす子
どもにしても、引きこもりを繰りかえす子どもにしても、「濃い」子どももいれば、そうでなく、症状
が軽く、判断がしにくい「薄い」子どももいます。精神医学の世界では、「重い」とか、「軽い」とか
いう言葉を使いますが、私は、これらの言葉が、好きではありません。好きではないというよ
り、症状を適切に説明していません。それで「濃い」「薄い」という言葉を使っています。

 で、その上で、EAさんのお子さを考えると、いわゆる「内弁慶、外幽霊」ということになりま
す。一般的に、他人との関わりがうまくできない子どもは(おとなも)、他人と関わるだけで、精
神的に疲れてしまいます。自分をつくったり、操作したりするようになるからです。

●自分をさらけ出すことができない

 もっとわかりやすく言うと、自分をそのままストレートに出すことに、恐怖感を覚えるからです。
もともと他人を信頼していませんから、他人も、自分の対してそういう目で見ていると考えてしま
うわけです。「こんなことをすれば、他人に笑われる」「こんなことをすれば、他人から、へんな
人間に思われる」と。他人とうまく関われない子どもと言うのは、つまりは他人に対して心を開
けない子どもということになり、さらには、自分をさらけ出すことができない子どもということにな
ります。

 そこでこのタイプの子どもは、外の世界では、自分をつくります。よい子ぶったり、ときには優
等生ぶったりします。いつも他人の目の中で、「自分がどう思われているか」「どう映っている
か」を考えています。心がいつも緊張状態にあると考えてあげてください。その緊張感が、とれ
ない。だから、疲れるわけです。

 問題は、まだつづきます。

●精神疲労

 この緊張状態がつづき、精神的に疲労してくると、子どもは、つぎの四つの方法で、その緊張
状態を解消しようとします。(1)攻撃型(家の中で、暴言を吐いたり、暴力を振るったりする)、
(2)内閉型(グズグズしたり、わけのわからないことを言ったりする)、(3)固執型(ものに異常
にこだわり、それらを意味もなく集めたり、大切にしたりする)、(4)逃避型(引きこもってしまっ
たり、他人との接触を避けようとする)です。

 EAさんのお子さんは、この中でも、(1)の攻撃型が疑われます。外の世界で疲れて帰ってく
る分だけ、家の中で、それを解消しようと、荒れるわけです。このタイプの子どもは、外の世界
(学校や塾など)では、たいへんよい子で通ることが多く、また成績も、それなりによいはずで
す。先生に、「しっかりしていますよ」と、ほめられることも、少なくありません。

 が、いただいたメール(注、全文は、掲載を許可してもらえませんでしたので、省略)を読ませ
ていただいた範囲では、いわゆる薄いタイプの、情緒不安定児ということになります。

よく誤解されますが、情緒が不安定だから、情緒不安定児というのではありません。心の緊張
状態が、とれない子どもを、情緒不安定児といいます。その緊張状態の中に、不安や心配が
入り込むと、その心配や不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。つまり情緒が不安
定になるのは、あくまでも、心の緊張感がとれないことによる、結果でしかないということです。

●心の緊張感をとる

 EAさんのお子さんは、そういう点では、心の緊張感がとれない、あるいはとることが苦手、さ
らには、他人に対して、いつも緊張状態にあるとみます。原因は、先にも書いたように、心を開
くことができない、あるいはありのままの自分をさらけ出すことができないところにあります。だ
から疲れる。そしてその疲れた分だけ、それを解消しようと、家の中で荒れるというわけです。

 こうした心のメカニズムがわかれば、おのずと、対処のし方もわかっていただけると思いま
す。

 方法としては、心の緊張感をほぐすということになりますが、しかしこれは口で言うほど、簡単
なことではなりません。というのも、なぜ子どもが、心の緊張感をほぐせないかということになる
と、そのルーツは、乳幼児期まで、さかのぼってしまうからです。

●ルーツは、乳幼児期

 恐らく、お子さんは乳幼児期に、何らかの理由で、神経質な子育て、過干渉、愛情不足など
が背景にあって、子どもの側からみて、全幅に心を開けない状態があったものと、推察されま
す。「自分はどんなことをしても、守られるのだ」「許されるのだ」という、意識しない意識です。
「意識しない意識」というのは、「まったく疑いを抱かない」という意味です。子どもというのは、そ
うした「さらけ出し」をしてはじめて、「心の安心感」を覚えます。覚えるというより、学ぶと言った
ほうが、正確かもしれません。

 つまり乳幼児期に、「安心して、自分をさらけ出すことができなかった」という、無意識の意識
が、心を開くことができない子どもの、根底にあるということ。EAさんのお子さんが、そうだとい
うわけではありませんが、その疑いは、かなり濃厚です。……と言っても、過去をほじくり返して
も、意味はありません。では、どうするか、ですね。

●心の開放を大切に

 最初に、こうした心の問題は、簡単には解決しないということ。これは脳のCPU(中央演算装
置)の問題ですから、子ども自身がそれに気づくということは、まずありません。子ども自身が、
長い人生の中で、無数の経験をしながら、やがて自分で発見するしかありません。恐らくその
時期は、晩年になってからではないでしょうか。それまでは、その子どもといえども、「私は私」
と思ったままでしょう。

 そこでまわりの者、なかんずく親たちがどうするかということです。方法としては、(1)子ども
の心の開放を考える。……たとえば、家の中で暴言を吐いたり、ときに暴力を振るっても、「あ
あ、この子は外でがんばっているから、家の中では荒れるのだ」と思いなおすことです。力ずく
でそれを押さえつけたり、威圧してはいけません。そうすればするほど、子どもはますます行き
場所をなくしてしまいます。

●ひとり、のんびりとさせる

 つぎに(2)心の緊張感を取りのぞくことを考える。……このタイプの子どもは、何らかの方法
で、自分の心の中にたまった緊張感を取りのぞこうとしているはずなので、それを観察してみ
てください。何かモノにこだわったり、それを集めたりするなど。あるいは、魚釣りに行くとか、ゲ
ームに夢中になることもあります。そういう行為のほとんどが、親から見れば、つまらないもの
に見えるかもしれませんが、頭から「ダメ!」式に禁止してはいけません。そのときも、「ああ、う
ちの子は、こういう方法で、心の緊張感をほぐそうとしているのだ」と思いなおしてあげてくださ
い。

 三つ目に、(3)ひとりでいる時間を大切にする。……過関心、干渉、過心配は、かえって子ど
もの心を窮屈(きゅうくつ)にしますので、注意してください。学校から帰ってきたら、ひとり、だ
れにも(親にも)干渉されないで、のんびりとくつろげる環境を用意してあげます。親の視線そ
のものを感じさせないようにするのがよいのですが、実際には、これがむずかしいようです。

そこで大切なことは、親自身が、子育てとは離れた世界で、自分のしたいことをすることです。
つまりその結果として子どもから視線をはずすようにします。「何とかしなければ……」とあせれ
ばあせるほど、かえって親自身が、あり地獄の巣の中に落ちてしまいますから、注意してくださ
い。

●スキンシップを大切に

 あとは(4)スキンシップと食事に注意する。……子どもの心の問題の特効薬は、スキンシップ
です。EAさんのお子さんは、小学二年生ということですから、まだスキンシップが重要であり、
効果的な時期です。添い寝、抱っこ、手つなぎなどは、濃厚にしてあげてください。この際、「抱
きグセがつく」とか、「依存心がつく」とか、そういうことは、あまり考えないようにしてください。子
どもの側からみて、「全幅に心を開いても、だいじょうぶ」という状態をつくるように心がけます。

 しかしここで注意しなければならないことは、仮にこういう状態にしたからといって、明日とか、
来月とかに、症状が消えるわけではないということです。先日も同じようなケースで、相談してき
た母親がいました。それで同じような返事を書いたのですが、その数日後(たったの数日!)、
その母親は、またこんな相談をしてきました。「先生の言ったとおりにしていますが、効果が現
れてきません」と。

●心の問題は、一年単位で

 子どもの心を開放させるというのは、簡単なことではありません。一年や二年、あるいはもっ
と時間がかかることです。子どもの心というのは、一年単位で、観察し、判断しますが、その一
年でも、短いほどです。それこそ気が遠くなるほどの根気が必要ということです。

 それにこうした子どもの心の問題は、たいていは(あるいはまちがいなく)、親自身の姿勢に
原因があるため、それが改められないと、簡単には解決しません。もっとはっきり言えば、あな
たという親自身の問題だということです。あなた自身が、子どもが心を開くのを許していなかっ
た。今も許していない。あなたはひょっとしたら、子どもが乱暴な言葉を使ったとき、「親に向か
って、何よ!」式のことを、言ってはいませんか?

 あとは食生活を改善します。心の緊張感をとると同時に、動揺させないことを考えます。CA
やMGが効果的なことは言うまでもありません。はやし浩司(私)のサイトのどこかに詳しく書い
ておきましたので、参考にしてください。

 全体としてみれば、EAさんのお子さんの症状は、たいへん軽く、いわゆる情緒障害の症状と
しても、たいへん「薄い」ものと考えられます。こういうケースでは、コツは、そういった症状を
「治そう」とか「直そう」と考えるのではなく、「今の状態を、これ以上悪くしない」ことだけを考え
て対処することです。なおそうと思っても、なおるものではありません。はっきり言えば、あきら
める。

今のお子さんの様子は、今までの一〇年間の総決算のようなものです。そこでこう考えてみて
ください。一〇年後に、これからの一〇年間の総決算が現れる、と。この問題は、そういう視点
で考えます。あせりは禁物。あせればあせるほど、EAさんも、そしてお子さんも、さらに底なし
の悪循環の世界に落ちてしまいます。どうか、ご注意ください。
(030401)

【追記】

 心を開くことができる、開くことができないの問題は、全人格的な問題ですね。夫婦生活を二
〇年以上もしていながら、心を開けない夫や妻は、いくらでもいます。夫婦生活のどこかに問
題があるというよりは、その人自身の根源的な問題だからです。いわんや、子どもを、や。

 そういう意味では、乳幼児期の子育ては、たいへん重要です。この時期に、子どもの心の方
向性が決まってしまうということです。そして一度決まると、その軌道修正は、ほとんど不可能と
いうことになります。あとは、その子どもが、いつか自分で気がついて、自分で軌道修正するし
かないということになります。しかしそれとて簡単なことではありません。その人自身が、それま
で、無数の失敗と、葛藤(かっとう)を繰り返すことになります。

 あなたはどうですか? あなたはだいじょうぶですか? あなたは他人に対して、心を開いて
いますか? 心を開くことができますか? 他人はともかくも、あなたの夫や妻、あるいはあな
たの子どもに対して、心を開いていますか? 開くことができますか?

 もしそうでないなら、一度、あなたの幼児期をさぐってみてください。
(はやし浩司 心を開く 心を開けない子ども 子供 心の緊張感 子供の暴力 暴力行為 心
を閉ざす子供 子ども)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●乱暴な子ども

 一度、乱暴な子どもというレッテルを張られてしまうと、子どもは、乱暴そのものを、自ら肯定
してしまうようになる。そしてものの考え方を、乱暴を基準にして、考えるようになる。

 こんなことがあった。

 ある日、幼稚園の年長児に、こんな問題を出したときのこと。

 「ブランコに乗っていたら、ブランコを、あなたは横取りされそうになりました。そういうとき、あ
なたはどうしますか?」と。

 すると1人の男の子が、サッと手をあげて、こう言った。

 「ぶん殴ってやる。そういうヤツは、どうせ口で言ってもわからない」と。

 私はこの答に驚いたが、それがここでいう(乱暴を基準にしたものの考え方)である。幼児の
ばあい、嫉妬心と、攻撃心は、あまりいじらないほうがよい。カッと頭に血がのぼると、何をしで
かすかわからないというのは、幼児としては、あるまじき姿と考えてよい。

 もし、そうなら、つまりここでいうような症状を見せるなら、それは、もう子どもの問題ではな
い。親である、あなた自身の問題ということになる。もっとはっきり言えば、家庭教育の失敗と
みる。(「失敗」という言葉は好きではないが、子どもを責めても、意味はないということ。その自
覚をもってほしいから、あえて、そう言う。)

 対処方法は、先にも書いたように、「今の状態を悪くしないことだけ」を考えながら、一年単位
で、様子を改善していく。それには、気が遠くなるほど(ホント!)の根気と努力が必要である。

 それはかたまった心を、少しずつ溶かす作業に似ている。さらに、こうした乱暴を繰りかえす
子どもは、心に大きなキズをもっていることが多い。そういう視点でも、子どもの様子をみる。
(はやし浩司 子どもの暴力 乱暴な子ども 子供の暴力行為 乱暴な子供)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【マガジン読者の方より……】

 毎回、子育てや人生勉強、毎日の生活の励みとして大切に読ませていただいております。

 私は去年の11月終わり頃当時小学6年の息子の不登校について相談させていただき、丁
寧に返事を頂いた者でございます。

その時は息子が治るまで数年かかるといわれ、ショックを受け、せめて中学からはちゃんと登
校させようと説得しておりましたが、今年4月の入学式は出席したものの、週に1〜2日登校す
るといった日々をつづけております。

運動会の練習が嫌で今週からはまだ登校していません。行きたいけれど行けないと本人は言
っています。登校前は緊張が高まり、とても辛そうです。帰宅したときは疲れきった様子ですが
何とか学校へ行ったという達成感があり、少しほっとすると言います。

まだ続けて登校は無理のようですが本人は何とか学校につながっていたいようでもあります。
私もこれがいいことだとは思っていませんが、高校進学もあきらめるという覚悟もできず、本人
も高校の事は気になっているようで、休んでいてもまったく心は休まっていません。

 担任の先生はとても理解があり、本人の自由にしてかまわない、いつでもクラスで受け入れ
る雰囲気と体制は作っておくとおっしゃって頂いてます。

 本人も私も3年生までに続けて登校できるようになればいいね、と話しています。
 このままでは元に戻って別の底に落ちてしまうのでしょうか。不安で辛い毎日を送っておりま
す。

 昨日のマガジンを拝読いたしましたら、私のやり方では間違っているように思えました。どう
すればいいのでしょうか。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【宮城県のEさんよりの相談】

毎回、子育てや人生勉強、毎日の生活の励みとして大切に読ませていただいております。

 私は去年の11月終わり頃当時小学6年の息子の不登校について相談させていただき、丁
寧に返事を頂いた者でございます。

その時は息子が治るまで、数年かかるといわれ、ショックを受け、せめて中学からはちゃんと
登校させようと説得しておりましたが、今年4月の入学式は出席したものの、週に1〜2日登校
するといった日々をつづけております。

運動会の練習が嫌で今週からは、まだ登校していません。行きたいけれど行けないと本人は
言っています。登校前は緊張が高まり、とても辛そうです。帰宅したときは疲れきった様子です
が、何とか学校へ行ったという達成感があり、少しほっとすると言います。

まだ続けて登校は無理のようですが本人は何とか学校につながっていたいようでもあります。
私もこれがいいことだとは思っていませんが、高校進学もあきらめるという覚悟もできず、本人
も高校の事は気になっているようで、休んでいてもまったく心は休まっていません。

 担任の先生はとても理解があり、本人の自由にしてかまわない、いつでもクラスで受け入れ
る雰囲気と体制は作っておくとおっしゃって頂いています。

 本人も私も3年生までに、続けて登校できるようになればいいね、と話しています。

 このままでは元に戻って、別の底に落ちてしまうのでしょうか。不安で、辛い毎日を送っており
ます。

 昨日のマガジンを拝読いたしましたら、私のやり方では、間違っているように思えました。どう
すればいいのでしょうか。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【Eさんへ……】

 症状からすれば、「学校恐怖症」かと思われますが、であるならなおさら、そんなに簡単には
なおりません。(昨年11月の返事の内容については、こちらでは記録保存していませんので、
どんなことを書いたか、忘れてしまいました。が、そのときも、そう書いたはずです。)

 あなたは子どもの心配をしているのではなく、つまり子どもの将来を心配しているのではなく、
自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけではないでしょうか。

 今、あなたのお子さんは、心の病気にかかっています。外からはそれが見えないため、ほと
んどの親は、それを安易に考えますが、そんな簡単なものではなりません。それともあなたは、
熱を出してウンウンとうなされている子どもを見て、「学校へ行こうね」などと言うでしょうか。

 学校恐怖症について書いた原稿を、添付します。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子どもが学校恐怖症になるとき

●四つの段階論

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状
を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し
ている。

これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的
時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくし
たのが次である。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪
化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校
へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含め
て、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすれ
ばするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、一九三二年に最
初に使い、一九四一年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始ま
る。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期
の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。

しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによることが多い。
ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「三
か月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし一週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす
れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち
に、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え
て、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈
をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)生活態度(部屋や服
装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様
子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいる
が、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。


●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……四五%
教師との関係   ……二一%
クラブ・部活動  ……一七%
転校などでなじめず……一四%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 学校恐怖症 不登校 登校拒否)

【Eさんへ、再び……】

 「3年生までに……」という言い方で、時限を決めて説得しても意味はありません。またそうい
う言い方をすると、かえって子どもを、窮地に追いこんでしまうことになります。(恐らく、幼少期
のときから、そういう条件づけ的な子育て法が、日常化していたのではないでしょうか? もし
そうなら、できるだけ改めてみてください。)

 「週に1、2度、学校へ行っていた」ということですから、その時点で、「よくがんばっているね」
式のねぎらいが大切だったかと思います。が、あなたは、「つづけて登校する」という意識に、ど
こかでこだわっているように思います。

 これはEさんの例ではありませんが、子どもがやっとのことで、子どもが学校へ行くようになっ
たケースがあります。しかし行くとしても、午前中だけ。するとその母親は、私にこう言いまし
た。「何とか、給食まで、みなと、いっしょに食べてくれるといい」と。

 こうした無理(欲望)が、症状を悪化させます。もしその子どもが給食を食べるようになると、
今度は、母親は、「何とか、午後まで……」と言い出すのです。

 Eさんは、いかがですか? そういうことはありませんか?

 私の印象では、あなた自身の緊張感がつづくかぎり。家庭の緊張感もつづき、ついで、子ど
もの緊張感も、とれません。「学校とは行かねばならないところ」という、強い、信仰にも似た信
念を、あなたは、もっているのではありませんか。それが、あなたのいう、「このままでは元に戻
って別の底に落ちてしまうのでしょうか。不安で、辛い毎日を送っております」という言葉の中に
感じます。

 たいへんお気持ちは、よくわかりますが、ここであせっては、かえって症状をこじらせてしまし
ます。子ども自身も、「高校へは行かねばならない」という、重圧感を感じていますし、それに束
縛されています。

 そういう重圧感や束縛感の大半も、実は、親が長い年月をかけて、半ば、無意識のまま子ど
もに植えつけてきたものではないでしょうか。

 今は、しばらく、静かに回復期を待つしかないようです。もし何かに強いこだわりをもっている
ようなら、一度、心療内科を訪問なさってみてはどうでしょうか。今は、副作用の少ない、よくき
く薬もあります。子どもによっては、数日のうちに、ウソのように改善するケースも、私は見てい
ます。

 しかしそのときでも重要なことは、「それでなおった」とは思わないこと。薬で抑えているだけで
す。ですから基本的には、対処のし方は、同じです。「無理をしなくていいよ」です。

 仮に1日、学校へ行きそうな日があったら、「午前中で帰ってきなさいよ」と。週に2、3日、学
校へ行くようになったら、「1日行けば、じゅうぶんよ」と。そういう言い方をします。

 できますか? あなたなら、できますか?

 実はあなた自身が、学歴信仰というカルトの呪縛から、心を開放しなければなりません。この
問題は、一見、子どもの問題に見えますが、あなた自身の問題だということです。

 多分、以前私が書いた返事は、今でも正しいと思います。どうか、もう一度、読んでみてくださ
い。さらに必要なら、グーグルかヤフーの検索エンジンで、「はやし浩司 学校恐怖症」を検索
してみてください。お役にたてる記事をヒットできるはずです。

 では、失礼します。
(はやし浩司 学校恐怖症 不登校 学歴信仰)

【読者の方へ】

 毎日多くの相談をいただきます。ありがとうございます。

 しかしながら、そういう相談に対して、返事を書くとき、いただいた相談内容を、私の原稿の
ほうへ転載しなければならないときがあります。もちろんお名前や住所、家族構成などをこちら
で、その方とわからないように改変します。

 が、それでも、「転載はだめ」などという返事をいただくと、率直に言って、返事(原稿)そのも
のが書けなくなってしまいます。

 そんなわけで、相談があるときは、できるだけ、掲示板か、相談フォームを利用してくださると
うれしいです。そちらのほうへ書いてくだされば、転載許可を求めるという手間もはぶけます
し、あとあとのトラブルを避けることもできます。

 よろしくご理解の上、ご協力くださいますよう、心から、お願いします。くれぐれも、よろしくお願
いします。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(716)

●犬

 人間と犬。その知能は、大きくちがうように見えるが、それはある特殊な部分だけのことのよ
うに思う。全体としてみれば、それほど、ちがわないのではないか。

 私の家に家にいるハナ(ポインター種)にしても、それほど利口な犬だとは思わない。しかしそ
れでも、たいていのことなら、一度で覚えてしまう。

 数日前も、野菜畑の柵を作った。が、一度、「この中へ入ってはダメ」と強く制したら、以後、
その約束(?)を守っている。一歩も、足を踏み入れていない。

 で、今日も、ハナを洗ってやるため、パンツ一枚の姿になった。そのとたん、小屋の一番奥に
隠れてしまった。私がパンツ一枚になった段階で、「洗われる」ということが、ハナにはわかって
しまった。

 こういう例は、多い。

 もちろん感情も、人間並みに、ある。喜怒哀楽、すべて、ある。「犬だから鈍感だろう」という
考える人もいるかもしれないが、まちがっている。とくに驚かされるのは、人間が経験する、あ
らゆる心の病気を、犬も、まったく同じよう経験するということ。

 だからこのところ、(実際には、ずいぶん前から、そう感じていたが……)、人間と犬を、それ
ほど、区別して考えなくなった。さらに幼児と犬は、よく似ている。似ているというより、同じ。

 犬だから、バカだと考えるのは正しくないし、反対に、人間だから利口だと考えるのも正しくな
い。少し前、「ケータイをもったxx」という本が、たいへんよく売れたと聞いている。しかしそのxx
(サル)にしても、人間と、それほど、ちがわないのでは……?

 庭を走り回るハナを見ていると、いろいろ考えさせられる。せっかく、たった今、シャンプーで
洗ってやったにもかかわらず、もう、自分で、体中に、砂をかけている。

 そういうのを見ると、「バカだなあ」と思うが、「洗ってやる」という人間の行為そのものが、犬
にとっては、ありがた迷惑なのかもしれない。犬には、そういう習性がある。

 さわやかな昼さがり。まっ白な陽光が、庭を明るく照らしている。さあ、今日から6月だア!
(05年6月1日)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 

最前線の子育て論byはやし浩司(717)

【近ごろ・あれこれ】

●大学生活

 私は、北陸のK大学で、学生生活を送った。4年間を、あの金沢市で過ごした。しかしおかし
なことに、その4年間の思い出が、ほとんどない。

 教養部時代の1年半は、合唱団や加賀宝生(ほうしょう)クラブに属していた。専門過程に入
ってからは、法律相談所(クラブ)に属していた。思い出はたくさんあるはず。しかし、あれこれ
思い出そうとするのだが、どれも、色あせてしまって、輪郭(りんかく)がはっきりしない。

 最大の理由のひとつは、そのあとオーストラリアで留学生活を送ったこと。その留学生活が、
あまりにも強烈であったため、それ以前のK大学での学生生活が、相対的に、心のどこかにか
すんでしまった。

 もうひとつの理由は、そのあと、つまりK大学を卒業してからこの年齢になるまで、(思い出の
反復)をしなかったこと。

 思い出というのは、そのつど、たとえば数年おきでもよいから、改めて思い出してみたり、そ
のときどきの人たちと交流することで、深みをます。そういった(思い出の反復)を、私はしてこ
なかった。もっと言えば、思い出を、心の中で、育ててこなかった。

 思い出も、そのつど、植物に水をやったり、肥料をやったりするように、育てる心がないと、育
たない。

 で、そのため、私にとっての大学生活といえば、あのオーストラリアでの留学時代ということに
なる。それはここにも書いたように、強烈な経験だった。恐ろしいほど強烈な経験だった。

 オーストラリアでの、1日、1日が、それまでの1年に匹敵(ひってき)するほど、強烈な経験だ
った。今となってみると、それがよかったのかどうかは、わからない。名古屋市近郊に住む同
窓生の友だちたちは、毎月のように集まって、飲み会を開いているという。親交を深めている。

 しかし、私は、そうした努力を、ほとんどしてこなかった。だからこそ、よけいに、K大学での学
生生活が、色あせてしまった。つまり、過去の一時代を、私は、粗末にしてしまった。……とい
うことになる。

 実は、子育てにも、同じようなところがある。同じように考えることができる。

 息子たちが巣立ってしまった今、(私から見ると、みな、まだ、半巣立ちの状態だが……)、あ
れこれ思い出してみようとするのだが、子育てをしたという思い出が、あまり浮かんでこない。

 これには、別の理由がある。

 ひとつには、子育てをしながら、親というのは、いつも、「先へ……」「先へ……」と、先を考え
てしまう。「過去」よりも、「未来」を優先させてしまう。そのつど過去にもどって、思い出を暖める
ということしない。子育てをするだけで、精一杯。時間的にも、心理的にも、その余裕もない。…
…なかった。

 もうひとつの理由は、つねに思い出を、ワープロにたとえて言うなら、上書きしてしまうことに
ある。文字を上書きするということは、当然、その前に書いた文字を消すことを意味する。それ
までの思い出を消すようにして、いつも、新しい思い出を、その上に上書きする。そこへ、頭の
ボケもそれに加わってくる。

 だからアルバムを開いたようなとき、いつも、おかしな感覚にとらわれる。「本当に、こんな時
代があったのかなあ?」と。

 もともと脳のキャパシティ(容量)には、限界がある。新しい経験をすると、古い思い出は、そ
れに合わせて、脳みその中から消えていく。

 しかしこういう生き方は、本当に賢明な生き方と言えるのだろうか。画家にたとえていうなら、
古い絵は、どんどんと廃棄処分にしながら、新しい絵を描いていくようなもの。古い絵だって、
その時代に、自分が生きたという証(あかし)である。いくら「今を生きる」と言っても、「過去を
蹴散らして……」というのは、正しくない。

 で、またまた改めて、考えてみる。私にとっての、あのK大学の4年間は何だったのか、と。
と、同時に、私にとって、私にとって、子育てとは、何だったのか、と。


●浜松航空自衛隊基地

 このところ、ジェット機の発着、飛行訓練が、急激にふえたような気がする。今朝も、ワイフと
そんな話をした。「最近、急に、騒々しくなったね」「そうね」と。

 まさか、K国との戦争に備えて……ということでもないだろうが、実感として、訓練がふえてい
るのは事実。日によっては、終日、ひっきりなしに、ジェット機のエンジン音が聞こえてくる。

 もし、K国との戦争ということになれば、空戦が中心になるだろう。それを望むわけではない
が、しかし備えだけは、じゅうぶんしておいたほうがよい。K国との間で、何が起きても、おかし
くない。今は、そんな状況である。

 ところで私は、はっきり言うが、今の日本の自衛隊には、戦闘能力は、ほとんどないと思う。
自衛隊というより、自衛隊員には、ほとんどない。(だからといって、日本の自衛隊のみなさん
を、バカにしているのではない。念のため!)そのことは、外国の軍隊とくらべてみれとわか
る。

 たとえば東南アジアの国々へ行くと、どこへ行っても、そこに兵隊がいる。その兵隊たちだ
が、顔つきそのものがちがう。ひきしまっているというか、ひきつっているという感じ。鋭い目つ
き、張りつめた緊張感……。

 残念ながら、日本の自衛隊員には、それがない。サラリーマン化しているのが悪いといって
いるのではない。ないが、たしかにサラリーマン化している。こういう環境、つまり平穏無事な状
況の中で、戦後の60年間を過ごしてきたのだから、それはしかたのないことかもしれない。

 で、勇ましい好戦論を展開している評論家も少なくない。「中国になめられるな」「K国に、報
復せよ」「制裁せよ」と。近くに住む老人(80歳くらい)でさえ、私にこう言った。「(戦前の)陸戦
隊がいればなあ。あっという間に、拉致された人たちを、K国からつれもどしてくれるのになあ。
日本も、なさけないものだ」と。

 で、私は、そういう勇ましい好戦論を聞くたびに、こう思う。「だったら、あなたが、戦場に行け
ばよい。あなたなら、戦場に行くか?」と。自分は、安全な奥の院にひっこんでいて、若い自衛
隊員たちに向かって、「戦場に行け」はない。

 大切なことは、今は、もう武力などで、勝負する時代ではないということ。何か問題があれ
ば、そしてそこに主張すべき、正義があれば、どこまでも事務的に、どこまでも冷静に、相手を
追いつめればよい。

 あとの判断は、世界に任す。

 で、そのとき、理不尽な相手の言い分だけが、通ってしまったとしても、気にすることはない。
世界は、そういう相手を、ズルいと判断する。つまりそういう判断が積み重なって、自然と、そ
の相手は、世界から孤立することになる。

 私たちがすべきことは、人間が、本来的にもつ、「善の力」を信ずること。K国や韓国は、もち
ろんのこと、中国にしても、日本が本気で相手にしなければならないような国ではない。

 そのことは、日本で犯罪を重ねる中国人たちを見ればわかる。今日(5・31)も、ニセ入国審
査証偽造事件で、何人かの中国人が、逮捕された。一方、多くの日本人が今、中国で働いて
いる。が、そういうワルをする日本人の話は、今のところ、まだ、耳にしたことがない。世界の
人は、民族の優劣性について、そういうところを見て、判断する。

 大切なのは、良識だ。知性だ。理性だ。

 ところでK国が、近く核実験をするかもしれないという。常識で考えれば、金XXは、核実験を
しないはず。しかしその常識が、通らないところが、あの国の恐ろしいところ。数日前も、K国の
新聞は、アメリカのR国務長官をさして、「海辺で吠えるメス犬」と酷評した。

 何ともあさましい言い方だが、そのあさましさこそが、今のK国そのものということになる。ま
た、それでR国務長官の名誉がキズつけられたと思う人はいない。かえって、そう言うことによ
って、K国は、自分の品位をさげてしまった。

 ところで仮にK国との戦争ということになれば、この浜松市も、K国によるミサイル攻撃の対
象になっているという。あるいは工作員による、破壊工作があるかもしれない。週刊誌などの
情報によれば、(あくまでも週刊誌の情報だが)、工作員は、細菌兵器や、化学兵器をもって、
日本のどこかで、その日を待っているという。この浜松市も、決して、安全ではない。

 ……たった今も、ジェット戦闘機が、我が家の上をかすめて、海の方へ飛んでいった。そうそ
う昨日、小4のY君に、「なあ、最近、自衛隊のジェット機が、よく飛ぶと思わないか?」と声をか
けると、「ぼくも、そう思う」と言った。

 小学生でも、その変化が、わかるようだ。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●シカのペニス

 今日、オーストラリアの友人と、話す。日本へ来て、ちょうど1週間になる。いろいろなことを言
った。

(1)どうして日本では、自転車に乗っている人が、ヘルメットをかぶらないのか。
(2)どうして夜、ライトをつけずに走っている自転車があるのか。
(3)どうして自転車が、歩道を走っているのか。

 その友人は、あやうく歩道で、一台の自転車と衝突しそうになったという。それで自転車にこ
だわっていた。

 ほかにも、おもしろいことを言った。

(4)空をおおう電線が、クモの巣みたいだ。(これには同感!)
(5)女の子は、英語で話しかけてくれるが、どうして男の子は、何も話してくれないのか。
(6)日本人の子どもは、大きくなったように感ずるが、みな、太りすぎのように思う。

 そして料理の話になった。

 今、オーストラリアで、一番の人気料理と言えば、鹿のペニスをバーベキューにしたものだと
いう。それについて、世界でも有名な愛食家が、それが何の肉か、言い当てることができなか
ったという。そこで私が、「いつ、切り落とす(cut off)するのか」と聞いた。

 つまり大きくしてから、切り落とすのか、小さいときに切り落とすのか、と。

 「近くにメスの鹿をおいておき、そのおしりを見せる。それを見て、オスの鹿のペニスが大きく
なったところで、切り落とす」と。

 もちろんこれは冗談だが、しかし鹿のペニスは、超珍味で、おいしいのだそうだ。で、オースト
ラリア人は、それを何かの雑誌で「これぞ、オーストラリア料理」として紹介したのだそうだ。

 すると、すぐカルフォルニアの料理店がそれをマネして、店で出すようになったという。「だか
らアメリカ人はずるい」と、その友人は言っていたが、しかしそれにしても、鹿のペニスを食べる
とは……?

 彼らと話していると、脳ミソがかく拌(はん)されて、気持ちがよい。ときに頭の中の電線が、
バチバチとショートするが、それも楽しい。

 そしてこんな話もしてくれた。

 友人の娘は、現在22歳で、フィンランドで、建築学の勉強をしているという。その娘だが、毎
日、いわゆる混浴のサウナバスに入っているという。

 「男も女もない。年齢も関係ない。7歳くらいの子どもから、60歳くらいの老人まで、みな、い
っしょだ。タオルで肌を隠すような人は、おとなでも、子どもでも、1人もいない」と。

 こういう話を聞くと、いつも、「本当かな?」と思うが、どうやら、本当らしい。

 「日本では、そんなことは考えられない」と言うと、「日本にも、パブリック・バース(浴場)があ
るではないか」と。

 「男と女は別々に入る」と私が反論すると、「混浴温泉があるではないか」と。

 たがいの常識が、こういうとき、真正面から対立する。国がちがえば、ものの考え方もちが
う。しかし「性」に対する概念ほど、ちがうものはない。

 「ヒロシも、フィンランドへ行くか?」と聞いたので、「行くときは、バイアグラを2箱もっていく」と
言ってやった。


●奈良の国立博物館へ行く

 みんなで、奈良の国立博物館へ行く。経文を見ながら、こんな会話をする。

 私が、「当時の僧侶たちは、超特権階級だった。今でいう、大学の教授と、ドクターを兼ねそ
なえるような仕事をしていた。ときには、政治に口を出すこともあった。

 東大寺は、いわば、その権威の象徴だった。たとえば当時、(平安、鎌倉時代)には、「戒壇
(かいだん)の道場」と知られていたところは、日本に3か所あった。

 この東大寺がその一つだが、この戒壇の道場で認定されて、はじめて、僧侶は、正式の僧侶
として認められた。もちろん、その認定をする最高責任者は、そのときどきの天皇だった」と。

 私が知っている話を、説明した。

W氏(ドクター)「医者の仕事もしていたのか。ヨーロッパの僧侶とよく似ている」
私「何しろ、漢字を読み書きできるというだけでも、たいへんな特別階級だった。一般の人は、
簡単な文字さえ読むことができなかった」

W氏「それは、ヨーロッパでも、同じだった」
私「少し前までは、医者の卵たちは、ドイツ語を勉強した」
W氏「なぜだ」
私「カルテ(ディスクリプション)を、ドイツ語で書くためだ」
W氏「なぜ、そんなめんどうなことをするのか?」

私「だって、『がん』だなんて日本語でカルテに書いたら、患者にそれがわかってしまう」
W氏「どうして、わかってはだめなのか?」
私「ショックを受ける」
W氏「オーストラリアでは、患者に対しては、いっさい、何も隠さない。その患者ががんだった
ら、『あなたはガンだから、スペシャリストを紹介します』と、すべてを話す。それが、ファミリィ
ー・ドクター(Family Physician)の義務だ」

私「患者は、ショックは受けないのか?」
W氏「受けるだろうが、しかし事実を隠したら、かえって、信頼関係をなくす」と。

 オーストラリアでは、その地域に住む住民の健康管理をする、ファミリードクター制度が確立
している。簡単な病気なら、その場で、治療することも多いという。が、手に負えないような重い
病気については、スペシャリストを紹介することになっている。

ついで、W氏はこう言った。「日本でも、ファミリードクターの制度が、取りいれ始められていると
聞いている」と。

 ほかに興味深かったのは、南オーストラリア州では、住民は、たとえば事故などの際に、その
とき延命処置をすべきかどうかの意思表示を、あらかじめ、文書ですることになっているとい
う。

もし延命処置をしてほしくなかったら、「してほしくない」を選んで、サインをするのだそうだ。そう
すれば、事故などのときでも、そのまま、死ぬことになり、結果的には、安楽死を選択したのと
同じになるという。それについて、W氏は、「オーストラリアの中でも、この分野では、南オースト
ラリア州が一番、進んでいる」と言った。

 私が、「ファミリードクターが管轄するテリトリーは決まっているのか?」と聞いたら、「テリトリ
ーは決まっていない。住民が、どのドクターを選ぶかは、住民の自由だ。ニュージーランドやカ
ナダでは、患者は登録制になっている。住民は、自分が登録されているファミリードクターのと
ころへ行くことになっている。しかしオーストラリアでは、まだ登録制になっていない」と教えてく
れた。

 ニュージーランドやカナダでは、ファミリードクターと住民の関係が、学校の担任教師と生徒
の関係のようになっている、……ということらしい。

 これから先、日本の医療制度も、そういう方向に向って、変化していくだろうと思う。少しだけ
だが、日本の未来の医療制度を、かいま見たような思いがした。
(はやし浩司 オーストラリアの医療制度)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(718)

●日本のよさ

 オーストラリアの友人たちを、山荘へ連れてきた。曇天の小雨模様。それを見て、友人の1人
は、こう言った。

 「日本でこんな景色を見るのははじめた」
 「4か月ぶりの雨だ」と。

 だからということでもないだろうが、オーストラリア人は、雨が平気。サラサラと降る程度だっ
たら、カサなど、ささない。

 もう1人のオーストラリア人は、イギリス生まれのイギリス育ち。ヨークシャー出身だという。だ
から、日本人ほどではないが、雨を気にする。

 「ぼくの家は、周囲、400キロは、平地だ。山はない」
 「ぼくの父の家は、周囲、800キロは、砂漠だ。雨が降らない」と。

 オーストラリアはオーストラリアで、すばらしい。しかし日本も、日本で、すばらしい。そのすば
らしさを、彼らの目を通して、再確認した。実感した。うれしかった。

 そして、私たち日本人には、何でもないことが、彼らには、珍しくてたまらないらしい。そのイ
ギリス生まれのオーストラリア人は、世界中を回っているが、日本は、今回がはじめてだとい
う。

 その彼は、日本のスライド式の戸や、紙でできた、障子に興味をもった。戸を動かしてみた
り、指先でさわってみたり……。「火事になったら、みんな燃えてしまうのではないか」とか、そ
んなことも言った。

 「日本は、こうだ」「日本は、ああだ」という話を、横で聞いていると、それだけでも、よい勉強
になる。

 彼らだけを山荘に残し、家に帰る前に、マムシの注意をした。「こういうヘビを見たら、注視し
ろ」と絵を描いてやった。「かまれたら、近くに日赤病院がある。そこへ行け」と。

 すると、みな、「病院では、どうやってお金を払うのか」と聞いたので、「かわりに、君たちが、
病院の患者を治療してやればよい。物々交換だ」と言ってやった。

 彼らは、みな、オーストラリアでは有名な、ドクターたちだ。だから、みな、「それはいい考え
だ」と言って笑った。


【オーストラリア英語】

 オーストラリアでは、

 Good……よい
 Very good……とてもよい
 Not bad……たいへんよい

 という順序になる。が、さらにこの上があある。

 Not too horrible……(ものすごく、すばらしい)

「horrible」というのは、「ひどい」という意味。だから、そのまま訳せば、「ひどくはない」という意
味になるのだが……。

 知らなかった!

 それにもう一つ、オーストラリア英語。

 「最悪に悪い」というのは、「pretty ordinary」という。

 これには、驚いた。「ordinary」というのは、「ふつうの」という意味である。オーストラリアで
は、「ordinary」というのは、「ありふれた」という意味。しかし、「pretty ordinary」が、「最悪に
悪い」とは!

 「ヒロシ、だから、オーストラリアへやってきた、アメリカ人(ヤンクス)や、イギリス人(ポム)
を、こういう言葉を使って、からかってやるんだよ。『君は、pretty ordinaryだよ』とか、何とか
言ってね。あいつら、意味がわからないから、笑って喜ぶよ」と。

私「どうして、オーストラリアには、そういうおかしな英語がたくさんあるのか?」
友「オーストラリア人は、昔、みな、囚人だった。だから、そういう無数の隠語をつくった。それ
が理由ではないかと思う」と。

 ナルホド!


(補記)

 アメリカ人にしても、オーストラリア人にしても、たとえば、「父親はオーストラリア人だが、母親
はフランス人。娘は、スイス人と結婚した。祖父は、もともとは、ポーランドに住んでいた。祖母
は、アイルランド人だ」と言う人が多い。

 そのせいか、一つの話題を提供すると、「フランスではこうだ」「ドイツではこうだ」という話が、
ポンポンと飛び出してくる。

 島国に住んでいる日本人には、できない芸当だ。彼らはいつも、自分の周辺を、地球的規模
で考えている。そしてそれが、当たり前になている。

 こうした「ちがい」は、たとえば言葉の話になったときに、はっきりとわかる。バイリンガルどこ
ろか、3〜5か語くらいなら、平気で話す。そんな人は、少なくない。

 私が、「日本では、苦労をすることを、十字架を背負うと言うよ」と話すと、すかさず、「ドイツで
も、そう言う。フランスでも、そう言う。もちろん英語でも、そう言う。もともとはローマ人たちが使
い出した言葉だよ、ヒロシ」と。

 勝ち目はない。


●白いウソ(white lie)と黒いウソ(black lie)

 英語には、「白いウソ」と、「黒いウソ」があるそうだ。ウソは、よくないが、それでも、相手をキ
ズつけないで、その場をうまくやりすごすウソのことを、「白いウソ」という。しかし相手をキズつ
けるウソもある。それを「黒いウソ」という。

 おもしろい言い方だと思う。

 「日本には、ウソも方便という言葉がある。ウソでも、100回、つけば本当になると教える宗
教指導者もいる」と、オーストラリアの友人に話すと、「それは仏教の教えか」と聞かれた。

 「仏教といっても、釈迦が本当にそんなことを教えたかどうかは、わからない。釈迦が死んで
から、5、600年後にできた経典に、そう書いてある」と言うと、しばらく考えたあと、彼は、こう
言った。

 「それは白いウソのことだろう」「黒いウソは、どんなばあいも、いけない」と。

 しかしここにも書いたように、白人社会では、ウソは嫌われる。一度、「不信」のラベルをはら
れると、相手にしてもらえないだけではなく、その社会からも、はじき飛ばされてしまう。

 もともと、日本式の(あいまいな言い方)が、通用しない世界である。どんなばあいも、YES/
NOを、明確に言わなければならない。またそういう言い方をしたほうが、相手にとっても、よ
い。安心する。

 ……ということだけでもないが、私は、ある時期から、ウソについては、かなり敏感になった。
ウソを嫌う分だけ、その反動形成で、ウソをつく人が、嫌いになった。(本当の私は、ウソつき
だと思う。私はもともと、そういう環境で、生まれ育っている。)

 しかしウソは、人生を道にたとえるなら、わき道に相当する、つまりは、時間のムダ。ウソをつ
けばつくほど、そのときどきで、わき道に入ることになる。それを避けるためには、正直に生き
る。

 ウソをつかないは、その第一歩ということになるが、ほかに、自分を飾らない、ごまかさない、
見栄を張らないなどが、含まれる。つまりは、ありのままの自分を、さらけ出して生きるというこ
と。

 しかしそれにしても、「白いウソ」とは! いろいろと考えさせられる。
(はやし浩司 白い嘘 白いウソ)


●切ない虚脱感

 オーストラリアの友人夫妻が、今日、北海道に向った。朝食を終えると、あわただしく、でかけ
て行った。

 それを見送ったとき、ほっとしたつぎの瞬間、切ない虚脱感を覚えた。人と別れるときは、さ
みしい。つらい。ふと気がつくと、そこにいつもの生活。ハナ(犬)がそばにいて、じっと私の顔を
見あげている。

 「あとで、散歩に行こう?」と声をかけると、その言葉がわかったのか、頭を、私の足にこすり
つけてきた。

 騒々しさの消えた居間。あのあわただしさは、どこへ行ったのか?

 ワイフと、長男は、今ごろは、友人たちを、駅でおろしているはず。それを思いながら、この原
稿を書く。

 底抜けに明るく、ウラのない人たちだ。それがオーストラリア人の特徴でもある。彼らが、「YE
S」と言ったときは、YRSの意味。それがすべて。「NO」と言ったときは、NOの意味。それがす
べて。

 そのすがすがしさが好きで、私は、一度ならず、何度も、オーストラリアへの移住を考えた。し
かしその夢も中途半端に終わってしまった。今、私が感じている切ない虚脱感の中には、燃や
しつくすことができなかった、自分がいる。不完全燃焼のままの自分がいる。

 ダラダラと、ただ生きるだけの人生に、どれほどの意味があるというのか。これから先、明日
も今日と同じという人生に、どれほどの意味があるというのか。

 燃やしつくして、燃やしつくして、自分がこなごなの灰になるまで、生きて、そしてあとは静か
に、だれにも知られず、死ぬ。私は、そんな人生を、今も、夢見ている。かなわぬ夢とは、よく
わかっているが……。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●フリ−チケット

 外国人専用のための、21日間有効のフリーチケットがある。国外のJAL関連会社、旅行社
などで発売しれている。残念ながら、日本国内では、販売されていない。

 外国で、外国人しか買えない。

 そのフリーチケットだが、8万円弱で、21日間、日本国内、どこでも、グリーン車(当然、指定
席)に、乗り放題。6万円弱で、グリーン車ではないが、座席指定車に、乗り放題。うらやましい
ようなチケットだが、日本人には、買えない! 残念!

 外国から日本へやってくる外国人に、このチケットの話をしてやると、きっと喜ぶと思う。何し
ろ、大名気分で、日本中を、好き勝手に、旅行できる。


●オーストラリア人の離婚率、50%!

 何度も確かめたが、オーストラリア人の離婚率は、50%前後だという。「本当か?」と念を押
すと、「そうだ」と。

 ただし毎年のように、結婚、離婚を繰りかえす人も多いので、50%という数字を考えるとき
は、そういう事実も、考慮に入れなければならない。

 しかし、それにしても、離婚率が、50%とは!

理由を聞くと、「オーストラリアは、アメリカとちがって、キリスト教国ではない。だからそういう宗
教上の抵抗感もない」とのこと。

 私が「オーストラリアは、キリスト教国だろ」と言うと、オーストラリアの友人は、「ちがう」と、は
っきりと否定した。

「オーストラリア人たちは、国を追い出され、オーストラリアへ渡った時点で、宗教を捨てた」「だ
れも、オーストラリアがキリスト教国とは思っていない」と。

 もちろん、オーストラリアには、教会がある。カトリック教会もあれば、プロテスタント教会もあ
る。教会の数だけをみれば、日本よりは、はるかに多いのは事実だが、しかし「日本よりは多
い」という程度か?

 同じ、移民国家でも、アメリカとオーストラリアとでは、大きく、ちがうようだ。


●老人介護

 オーストラリアでは、老人介護は、以前の日本のように、病院がすることになっている。「日本
では、医療制度と介護制度を分けた」と話すと、とたんに嵐のように質問が、浴びせかけられ
た。

 わかる、わかる、その気持ち。

 日本では、結果的に、医療保険制度を救済するために、介護制度を併設した。あるいは、税
金(保険制度の保険金額)をあげるための口実として、介護制度を併設した、

 オーストラリアでは、身寄りもなく、お金もない老人は、国がめんどうをみることになっていると
いう。当然といえば、当然だが、その当然のことが、なかなかできなくて、日本も、苦しんでい
る。

 オーストラリアがよいとか、日本がよいとか、そんな議論をしても、意味はない。が、こと老人
にとっては、オーストラリアは、日本より、はるかに住みやすい国のようだ。話を聞いていると、
感心させられることばかり。


●「許して、忘れる」

 「許して、忘れる(Forgive & Forget)」の話になる。「いい言葉だ」と私が言うと、すかさ
ず、Mさん(女医)が、こう言った。

 「ヒロシ、許すことは大切だが、忘れることはできない。忘れる必要はない」と。

 当然、「そうです」という言葉が返ってくると思っていたので、これには、ショックを受けた。

私「だって、これは君たちの言い方(expression)だろ?」
M「あえて、忘れようとする必要はない。心の成りゆきに任せればよい。それが自然な生き方
だ」と。

 ナルホドと思ってみたり、そうかなあと思ってみたり……。


●他人の話を聞かない

 「日本には、他人の話を聞く前に、『そんな話は、聞きたくない』と言って、耳をふさぐ人がい
る」という話をしたら、J氏(医師)が、こう言った。

 「オーストラリアでは、そういうは、精神的に問題があるとみる」と。

私「その程度でもか?」
J「そうだ。もし相手が自分とちがった意見を言ったら、『どうして、君はそう思うか?』と聞けば
よい。そういうふうに、冷静になれないということは、心に問題があることになる」
私「自己中心性(selfish)の問題か?」
J「そうだ」と。

 たしかに自己愛者は、他人の批評、批判を許さない。聞きたくないことがあると、耳をふさぐ
のは、広く自閉症児に共通して見られる症状の一つである。

 他人の意見に、しっかりと耳を傾ける。これは欧米社会では、とても重要なことのようだ。「子
どもたちは、小さいときから、そういう訓練を受ける」とも。つまり親から、「人の話を、聞きなさ
い」と、いつも訓練されているという。

 これは、日本人にはない、(しつけ)の一つということになる。


●虐待

 T氏は、最近、こんな患者に出会ったという。

 女の子で、年齢は、11歳。7歳のときから10歳のときまで、実の父親と性的関係をもってい
たという。

 で、その女の子は、父親をさぞかし、うらんでいるだろうなと思って、それをT氏に聞くと、そう
ではなく、「母親を殺したい」と言っていたという。

 父親に嫉妬して、父親を殺したいと思う男の子は、多い。エディプスコンプレックスという言葉
もある。

 しかしその女の子は、父親を愛するあまり、母親に嫉妬したようだ。

 もちろんT氏は、手続きをとって、父親とその女の子を、引き離したという。しかし私は、そうい
う話をはじめて聞いた。

 横で聞いていたワイフも、「そういうこともあるのねえ」と驚いていた。そういう意味では、白人
社会では、日本では考えられないような事件が、起きる(?)。そんな印象をもった。

【参考】

エディプス・コンプレックス

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。ギリシャ神話である。物語の内容は、
つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王
子として育てられる。それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。つまりエディプスは、実父を殺
し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。エディプス自身も、自分で自分の目をつぶ
し、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思
想のキーワード」(講談社現代新書))。

つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライ
バルとして父親を憎むようになるというのだ。(女児が、父親を欲して、母親をライバル視すると
いうことも、これに含まれる。)

 私も今までに何度か、この話を聞いたことがある。しかしこうしたコンプレックスは、この日本
ではそのまま当てはめて考えることはできない。その第一。日本の家族の結びつき方は、欧米
のそれとは、かなり違う。その第二。文化がある程度、高揚してくると、男性の女性化(あるい
は女性の男性化といってもよいが)が、かぎりなく進む。現代の日本が、そういう状態になりつ
つあるが、そうなると、父親、母親の、輪郭(りんかく)そのものが、ぼやけてくる。

つまり「母親を欲するため、父親をライバルとみる」という見方そのものが、軟弱になってくる。
現に今、小学校の低学年児のばあい、「いじめられて泣くのは、男児。いじめるのは女児」とい
う、逆転現象(「逆転」と言ってよいかどうかはわからないが、私の世代からみると、逆転)が、
当たり前になっている。

 家族の結びつき方が違うというのは、日本の家族は、父、母、子どもという三者が、相互の依
存関係で成り立っている。三〇年ほど前、それを「甘えの構造」として発表した学者がいるが、
まさに「甘えの関係」で成り立っている。子どもの側からみて、父親と母親の境目が、いろいろ
な意味において、明確ではない。

少なくとも、フロイトが活躍していたころの欧米とは、かなり違う。だから男児にしても、ばあい
によっては、「父親を欲するあまり、母親をライバル視することもありうる」ということになる。

 しかし全体としてみると、親子といえども、基本的には、人間関係で決まる。親子でも嫉妬(し
っと)することもあるし、当然、ライバルになることもある。親子の縁は絶対と思っている人も多
いが、しかし親子の縁も、切れるときには切れる。また親なら子どもを愛しているはず、子ども
ならふるさとを愛しているはずと考える、いわゆる「ハズ論」にしても、それをすべての人に当て
はめるのは、危険なことでもある。そういう「ハズ論」の中で、人知れず苦しんでいる人も少なく
ない。

 ただ、ここに書いたエディプスコンプレックスが、この日本には、まったくないかというと、そう
でもない。私も、「これがそうかな?」と思うような事例を、経験している。私にもこんな記憶があ
る。

 小学五年生のときだったと思う。私はしばらく担任になった、Iという女性の教師に、淡い恋心
をいだいたことがある。で、その教師は、まもなく結婚してしまった。それからの記憶はないが、
つぎによく覚えているのは、私がそのIという教師の家に遊びに行ったときのこと。川のそば
の、小さな家だったが、私は家全体に、猛烈に嫉妬した。家の中にはたしか、白いソファが置
いてあったが、そのソファにすら、私は嫉妬した。常識で考えれば、彼女の夫に嫉妬にするは
ずだが、夫には嫉妬しなかった。私は「家」嫉妬した。家全体を自分のものにしたい衝動にから
れた。

 こういう心理を何と言うのか。フロイトなら多分、おもしろい名前をつけるだろうと思う。あえて
言うなら、「代償物嫉妬性コンプレックス」か。好きな女性の持ち物に嫉妬するという、まあ、ゆ
がんだ嫉妬心だ。そういえば、高校時代、私は、好きだった女の子のブラジャーになりたかっ
たのを覚えている。

「ブラジャーに変身できれば、毎日、彼女の胸にさわることができる」と。そういう意味では、私
にはかなりヘンタイ的な部分があったかもしれない。(今も、ある!?)

 話を戻すが、ときとして子どもの心は複雑に変化し、ふつうの常識では理解できないときがあ
る。このエディプスコンプレックスも、そのひとつということになる。まあ、そういうこともあるとい
う程度に覚えておくとよいのでは……。何かのときに、役にたつかもしれない。

●夫婦が仲よすぎるのも考えもの? ひょっとしたら、あなたの子どもは、そういうあなたたち
夫婦を見ながら、さみしく思っているかもしれない。
(はやし浩司 エディプス エディプスコンプレックス ソフォクレスの戯曲 ギリシャ ギリシャ神
話 エディプス 父親への嫉妬)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(719)

●善人VS悪人

 会えば会うほど、自分を高めてくれる人がいる。そういう人を、「善人」という。しかし会えば会
うほど、自分の中の邪悪さが、えぐり出されてくるように感ずる人がいる。そういう人を、「悪人」
という。

 そういうわけで、人は、いつも、相手を選んで、生きていかねばならない。選び方をまちがえ
ると、自分も、その悪人になってしまう。がそれだけではない。時間をムダにする。人生をムダ
にする。せっかくの命をムダにする。

 ……という話は、何度も書いた。

 で、今日も、子ども(小学生くらい)を助手席に乗せて、車を運転している母親を見かけた。そ
の母親は、携帯電話をかけながら、運転していた。

 私はそれを見て、ワイフにこう言った。「ああいう親の姿を見て、子どもは、いつか、それを、
まねをするようになるんだよ」「いや、運転しながら、携帯電話をかけることを、まねするのでは
ない。母親の小ズルサを、まねするようになるんだよ」と。

 もちろんその母親には、そういう姿を見せたという意識はない。子どもも、それを、見たという
意識はない。しかしそういう小スルイ姿は、子どもの脳裏の奥深くに、しっかりと、焼きこまれ
る。

私「あんな母親でも、子どもに向かっては、『約束を守りなさい』とかなんとか言って、叱っている
かもしれないよね」
ワイフ「そうよね、きっと」と。

 そういう母親をもった、子どもは、不幸である。本当に不幸である。こうした小ズルサは、一
度、身についてしまうと、それをはずすのは、簡単なことではない。至難のワザ。私自身が、そ
れを経験している。つまり、私は、子どものころ、その小ズルイ男だった。

 戦後のドサクサ期ということもあったが、どうもそれだけではなかったような気もする。もしそう
なら、私たち、団塊の世代の人間は、みな小ズルイ人間ということになってしまう。(小ズルイ人
間が多いのは、事実だが……。)

 ウソをついて、適当に、その場をごまかすなどということは、朝飯前。とぼけたり、知らぬフリ
をすることも、よくあった。そういう点では、私は、自分勝手で、自己中心的な子どもだった。

 そういう自分がいやになったのは、25歳も、過ぎてからではなかったか。いろいろな失敗をし
た。他人に、不愉快な思いをさせることも、しばしばあった。そのときですら、何年もつきあった
友だちを、つぎつぎと、失った。

 今でも、基本的には、私は小ズルイ男である。自分でも、それがよくわかっている。自分の体
にしみついた、体質などというものは、そうは簡単に消えない。だからこそ、私は自分の中の小
ズルサには、いつも警戒している。何かのことで、ふと油断したようなとき、それは顔を出す。

 だから私は、あまり私自身が好きではない。自分にどうしても、自信がもてない。前にも書い
たことがあるが、そういう自分が試されるのは、たとえば道路で、サイフやお金を拾ったような
とき。

 一つの基準としては、私は、サイフらしきものが落ちていたときは、拾わないようにしている。
「K国の工作員が、わざと捨てたサイフだ。中には、炭素菌が入っている」などと、バカげたこと
を自分に言って聞かせながら、その場を通り過ぎる。

 問題は、お金だ。今までに拾った最高金額は、1000円札だが、その1000円札は、もらっ
てしまった。私が、金沢で、学生だったときだ。

 悪いことをしたという思いはなかった。うれしかった。私はそのお金で、喫茶店で、お茶を飲
み、腹いっぱい、トンチャン(焼き肉)を食べた。家からの仕送りは下宿代だけ。そのほかの生
活費は、すべてアルバイトで稼がねばならなかった。そんな身分だった。

 が、今は、ちがう。心のどこかに、小ズルサを感じながらも、務めて、その小ズルサとは、戦
っている。幸いにも、ワイフが、正直な女性なので、助かっている。こうした体質としてしみこん
だ性癖と、私1人の力で戦うには、限界がある。

 そこで最初の話。

 私は、そんなわけで、小ズルイ人を見ると、即、その人からは、遠ざかるようにしている。その
人を嫌うというよりは、自分の中の小ズルサを、その人によって、えぐり出されように感ずる。
それが、こわい。

 で、今日は、ハナ(犬)をつれて、散歩に行ってきた。少し風邪ぎみだった。それを知って、ワ
イフが、「今日は、やめたら?」と声をかけてくれた。

 が、私は、「さきほど、散歩につれていってやると、約束したから……」と。

 自分でも、バカげていると思う。犬との約束を守るとは……! しかしいくら相手が犬でも、約
束を破るのは、気持ちのよいものではない。だから散歩につれていってやった。

 ……といっても、私を善人と思ってほしくない。こういう私のような心理状態を、心理学の世界
では、「反動形成」という。自分の中の邪悪な部分をおおい隠すために、無意識のまま、その
反対の善人を演ずることをいう。

 よくある例としては、教会の牧師が、善人ぶるあまり、たとえばセックスの話などを、露骨に嫌
ってみせるようなことがある。「牧師だから……」という理由で、別の人間を、作ってしまう。学校
の教師の中にも、そういう人は少なくない。そんなわけで、これから先、あと何年、生きられる
かわからないが、私は、ここで改めて、誓う。

 悪人とは、絶対に、つきあわない。考えてみれば、当たり前のことだが……。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの性格

 「?」と感ずる子どもは、少なくない。しかしそれが「性格」「性質」という範囲で、理解できるな
ら、問題はない。

 が、そうした「?」が、過度、もしくは極端になって、対人関係で支障をきたすようになることが
ある。心理学の世界では、「パーソナリティ障害」という。子どものばあい、その「?」の部分を
感じたとき、それをていねいに観察することで、将来、起こすであろう人格的な問題を、かなり
正確に知ることができる。

(1)おかしなことを口にする子ども
(2)感情の起伏がはげしい子ども
(3)自分の心の状態を、隠したり、偽ったりする子ども

 いろいろなタイプに分類できるが、この中でも、とくに(3)の、いわゆる「何を考えているかわ
からない子ども」が重要。一見すると、おとなしく、従順だが、その実、つかみどころがなく、子
どもの意思が明確ではない。外に現れてこない。

 いやだったら、「いや」と言う。うれしいときは、うれしそうな顔をする。幼児教育の世界では、
そういう子どもを、「すなおな子ども」という。しかしそういうすなおな子どもにするには、親側の
ほうに、子どもに対する、深い愛情と、忍耐力がなければならない。

 で、それを、子どもの方の側から見れば、絶対的な安心感と信頼感ということになる。「絶対
的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

 つまりは、家庭が、なぜ家庭であるかといえば、すべては、この一点に集約される。「絶対的
な安心感と信頼感」。それがある家庭を、よい家庭といい、それがない家庭を、そうでない家庭
という。

 が、その安心感や信頼感が、何らかの理由で、ゆらぐときがある。夫婦問題、経済問題、病
気、貧困、事故、事件、家庭不和、嫁姑問題など。一時的なものならまだしも、それが慢性的
につづいたりすると、子どもの心は、ゆがむ。

 それがここでいう、「?」である。

 ただし「?」の内容は、千差万別。しかし大きく分けて考えると、つぎの7つに分けられる。

(1)暴力的、攻撃的(反社会的行動が目立つ)
(2)他人との接触を嫌い、ひとりでいることを好む。(回避的行動が目立つ)
(3)自己中心的で目立ちがりや。態度が大きく、おおげさ(演技性性格)
(4)自分が大切にされないとわかると、機嫌を悪くする(自己愛型行動が目立つ)
(5)母親に極端に依存し、いつも母親から離れたらがらない(脅迫的不安神経症)
(6)空想にふけることが多く、ウソをつく。言い逃れをする(妄想性が強い)
(7)表情がほとんどなく、喜怒哀楽の情をほとんど表現しない。

 こうした「?」の行動や言動が見られると、親は、すぐ「子どもをなおそう」と考える。しかし原
因のほとんどは、親の育児姿勢の中、そのものにある。が、親は、それに気づかない。気づこ
うともしない。中には、「生まれつき、そうです」と、がんばる親さえいる。

 さらに私の経験では、満5・5歳をすぎると、その「?」の部分が、その子どもの性格として定
着してしまうため、「直す」とか、「治す」ということが、たいへんむずかしくなる。つまりは、それ
までの子育てが重要ということになるが、しかし気負うことはない。

 子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき育て方をされれば、ごく自然な形で、ごくふ
つうの子どもに育っていく。そのことは、野に遊ぶ、動物や鳥たちを見ればわかる。人間も、過
去数10万年という、気が遠くなるほど長い年月を、その動物や鳥たちと同じようにして、生きて
きた。ここ100年や200年で、その流れが変わったということは、ありえない。

 大切なことは、「あるがままの子育てをする」ということ。まずいのは、そのときどきのおかしな
情報(失礼!)にまどわされて、振りまわされること。たとえば右脳教育がある。すばらしい教育
法かもしれないが、まだその安全性が、じゅうぶん確認されたわけではない。

 右脳教育が、まちがっているとは、私にも断言はできない。が、もう少し私たちは、慎重であ
るべきではないのか。たとえば少し前には、(今でもあるが……)、胎教というのもあった。一面
では、効果的であり、それゆえに正しい部分もあるかもしれないが、そのあと、いろいろな弊害
が指摘されるようになった。やり方の問題もある。やはり慎重であるに、越したことはない。

 とくに、0歳〜3、4歳にかけてはそうである。静かで、落ちついた環境の中で、親の愛情をた
っぷりとかけながら、育てる。それにまさる育児法は、ない。

 先日も、S県在住の母親から、こんな相談が寄せられた。

 「生まれてからまもなくから、いろいろな英才教育を試みてきました。乳幼児教室にも、英語
教室にも、運動教室にも通いました。寝る前には、毎晩30分、英会話のカセットを聞かせまし
た。ところが1歳をすぎるころから、おかしな行動が目立つようになり、小児科でみてもらうと、
『自閉傾向がある』と診断されました。

 現在、もうすぐ、3歳になりますが、ほかの子どもたちとは、ほとんど、遊びません。ときどき
奇声をあげて叫んだりしますが、それ以外のときは、黙々と絵を描いて遊んでいます。どうした
らよいでしょうか」と。

 ……ということで、子どもの性格について書いてきたが、結局は、この問題は、子どもを育て
る親の問題ということになる。仮に自分の子どものどこかに、「?」を感じたとしても、それは子
どもの問題ではない。親の問題ということ。

 たとえばここにあげた(1)〜(7)の問題にしても、原因のほとんどは、家庭にある。家庭とい
うより、親にある。そしてこうした親が作った(種)がもととなって、子どもの性格や性質をつくり
あげていく。ときに、それが深刻な問題に、つながっていくことがある。先に書いた、パーソナリ
ティ障害にしても、その中の1つにすぎない。
(はやし浩司 子どもの性格 性質 子供の性格 性質 パーソナリティ パーソナリティ障害)

(補記)

 しかしみんな、よかれと思って、一生懸命やっている。しかしその「一生懸命」が、時として、
裏目に出る。

 総じてみれば、子育てというのは、そういうもの。

 問題のない子どもはいないし、それゆえに、問題のない子育てというものもない。みんな、そ
れぞれ何らかの問題をかかえている。

 そこで重要なことは、(1)愛情だけは見失わずに、(2)「?」と思ったら、勇気を出して、軌道
修正していくということ。「こんなはずはない」「まだ、何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、
二番底、三番底へと落ちていく。

 が、それでも、ほとんどの親は、行き着くところまで行かないと、自分で気がつかない。それ
は子育てがもつ、宿命的な問題のように思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●飲酒

 日本では、20歳未満の青年、子ども飲酒は、禁じられている。ヨーロッパなどでは、16歳
(オーストリア。イタリア、スペインほか)という国もある。オーストラリアでは、18歳。このあたり
が、平均的な年齢ということになる。が、アメリカのように、反対に、18歳から、21歳に、引き
あげられた国もある。

 私は、残念ながら、一滴も酒を飲めない。ビールを、コップに、2分の1から3分の1、飲んだ
だけで、二日酔い。ひどいばあいには、三日酔いになってしまう。だからワイフには、よくこう言
う。

 「ぼくを殺すには、毒はいらない。毎日、少しずつ、食べ物に酒を混ぜればいい」と。

 自分の体を調べたわけではないが、私の体の中には、アルコールを分解する、酵素が、どう
やら欠けているようだ。

 体の中に入ったアルコールは、

(1)ADH(アルコール脱水素酵素)という酵素の作用により、アセトアルデヒドになる。
(2)さらにアセトアルデヒドは、ALDH(アルデヒド脱水素酵素)という酵素の作用により酢酸へと
変化する、という。(日本大学HPより)

 このメカニズムで考えるなら、私には、ALDH(アルデヒド脱水素酵素)がないことになる。(多
分?)ひどい二日酔いに悩まされるのは、アセトアルデヒドが、そのまま血中に残って、悪さを
するためである。

 で、同じく日本大学HPの資料によれば、白人や黒人には、酒の飲めない人はいないそうだ。

 が、日本人だと、飲める人が、56%。ほどほどになら飲める人が、40%。まったく飲めない
人が、4%ということだそうだ。私は、その最後の、4%の中の1人ということになる。

 その酒だが、飲めないことで損をしたことも多いが、それ以上に、飲めないことで、得をしたこ
とも多い。

 酒というのは、それ自体が、すばらしいストレス解消剤と説く人もいる。脳の老化を防止する
と説く人もいる。『酒は、百薬の長』という言葉すらある。

 しかし本当にそうだろうか?

 私の経験では、つまり同年齢の、大酒飲みと言われている人たちをみると、どこか、ふつうで
ないところを感ずる。

 繊細な思考能力がない。静かな会話ができない。他人の心の動きに無神経になりやすいな
ど。痴呆とはちがうが、しかし、全体に、脳ミソの活動が低下している。そんな感じがする。

 それに酒を飲むと、ストレスの解消になると説く人もいるが、別の友人(56歳)は、こう言っ
た。

 「林さん、それは飲んでいるときだけだよ。酒が抜けてくるとね、憂うつ感が、何倍もひどくなっ
てもどってくるよ」と。

 いろいろな意見があるようだ。

 しかし、酒を一滴も飲めない私からの意見。

 酒など、なければないで、すむものですよ!
(はやし浩司 飲酒 酒を飲めない人)

(参考資料)

【飲酒(ビール、ワイン)、許可年齢】

16歳から     オーストリア、イタリア、スペイン
18歳から     ノルウェー、フィンランド、オーストラリア、チェコ、デンマーク
           ブラジル、シンガポール、インドネシア
           マレーシア、イギリス(ただしビールなどで食事は、16歳)
19歳から     カナダ
20歳から     日本、ニュージーランド、スウェーデン
21歳から     アメリカ

その一方で、年齢制限なし(ポーランド)のような国もあれば、イスラム教国のように、飲酒自体
を禁止している国もある。
(はやし浩司 世界の飲酒 制限年齢 飲酒 年齢)


●無神経な人々

 世の中には、無神経な人というのは、多い。

 他人の家の中まで、ズカズカと入りこんできて、用もないのに、また、何かを助けてくれるわけ
でもないのに、あれこれと、口を出してくる。

 そういう人にとっては、他人の不幸話は、酒のサカナにすぎない。つまりは、興味本位。

 私はいつしか、そういう人とのつきあいを、やめた。時間のムダというより、そういう人とつき
あっても、何ら、得るものはない。むしろ、こちらの人間性まで、腐ってしまう。

 しかしそういう人ほど、しつこく、あれこれ理由を並べて、近寄ってくる。

 W県のT町に住んでいる、M氏(男性)から、そんなメールが届いた。W県のT町というところ
は、地域がら、そうした人間関係が濃密なところだという。

 「うるさいから、そういうつきあいを断ると、そのあと、何を言われるかわからない。そこで適
当につきあっているのだが、そうすると、いつまでも、あれこれと詮索(せんさく)してくる」と。

 私が住む浜松市は、幸いなことに、街道の宿場町として発展したところである。だから、そう
いう意味では、人間関係は、サバサバとしている。だからつきあいをやめるのも、簡単。

相手からの連絡を、1,2度、無視していれば、それですむ。そういう意味では、気楽な町だ。

 が、こういうことは言える。

 人も、50歳を過ぎたら、つきあう人を選ぶべきではないか。時間には、かぎりがある。人生
も、いつ終わるかわからない。

 読むべき本も、見るべきテレビも、選ぶべき。どこかの哲学者も、こう言っていた。

 『人間関係は、質と、深さによって決まる』と。広く、浅く、社交的に生きるというのは、若いと
きの生き方としては、正しいかもしれない。しかし50歳を過ぎてからの生き方ではない。……と
思う。ときにはそういうつきあいも必要かもしれないが、芸術にたとえるなら、50歳からは、そ
の奥義を窮(きわ)める年齢ということになる。

 駄作など、いくら描いても意味がない。

 そんなわけで、できれば世俗的な影響は、最小限におさえたい。そういう意味でも、つきあう
人を選びまちがえると、かえって自分自身が、後退してしまう。

 だからといって、周囲の人たちをランク分けする必要はない。パソコンの名刺整理ソフトや、
住所録ソフトには、そういうふうに、あえてランク分けするのがある。つまり知人や友人をランク
分けして、「年賀状を毎年出す人、暑中見舞いを出す人、盆暮れのつけ届けを送る人」と。

 が、そんなことをわざわざしなくても、「心」がそれを決めてくれる。

 つきあいたい人は、すなおな気持ちで、会うことができる。そうでない人は、ザワザワとした心
の騒音を感ずる。あとは、その心に従えばよい。無理をすることはない。

 ためしに、あなたの周囲の人たちを、順に、頭の中に思い浮かべてみたらよい。思い浮かべ
たとたん、すなおな気持ちで、「会いたい」と思う人もいれば、ふと不快感が心をふさぐ人もい
る。

 その会いたい人というのは、(あなたも、心の美しい人でなければならないが)、心の美しい人
である。清らかというか、純粋というか、サラサラと流れる澄んだ水のような人である。

 あとは、そういう人たちと親交を深めていけばよい。

 ……と思う。なかなかむずかしいことかもしれないが、その方向に向っての努力だけは、怠っ
てはいけない。

 M氏へ、あまりよい回答になっていなくて、すみません。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男と女

 オーストラリア人の夫妻を見ていて、いつも感心するのは、そこに、「男が上」と「女が下」とい
う、いわゆる日本式の上下意識が、まったくないということ。

 これはアメリカ人の夫婦についても、そうである。「男が上で、女が下」などと言おうものなら、
それだけで、猛反発を食らう。

 もちろん、オーストラリアにもアメリカにも、亭主関白(ショウブニスト)というのは、いる。しかし
同じ割合で、反対に、妻が夫を尻に敷いている(アンダー・ザ・サム=妻の親指で押さえつけら
れる夫)ケースもある。男と女が、まったくの平等というわけではない。

 しかし全体としてみると、その意識は、日本人のそれとは、大きくちがう。オーストラリアでもア
メリカでも、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などと、叫んでいる姿は、見たことがない。(日
本では、よく見られるシーンだが……。)

 今回も、我が家に2組のオーストラリア夫婦が滞在している。1人の夫は、有名なドクターだ
が、それでも食事のあとには、妻より先に立って、食器を洗ったり、ふいたりしている。もちろん
洗濯もしている。

 しかし、それが、世界の常識。男尊女卑思想を美化し、それが日本の伝統と考えている人
は、それだけで世界の異端児とみてよい。

 が、この日本でも、いわゆる封建時代の権威主義は、急速に音をたたて崩れ始めている。そ
れはそれで歓迎すべきことだが、意識というのは、そんなに簡単には変えられるものではな
い。とくに60代、70代の人にとっては、そうである。

 いまだに、男尊女卑思想にこだわっている人は、多い。女性自身が、それを受け入れてしま
っているケースも、少なくない。が、問題は、夫婦の上下意識だけには、とどまらないというこ
と。

 ときどき、ワイフのところに、親類の人たちから電話がかかってくることがある。そういう人た
ちの中には、私のワイフを、私の付録、あるいは付随物のような扱い方をする人がいる。(だ
からといって、そういう人たちを、責めているのではない。誤解のないように……。)

 バカげた意識だが、本人たちには、それがわからない。日本人の体質として、しっかりと、心
の底まで、しみこんでいる。こんな事件もあった。

 ある男性が、何かの病気で急死した。子どもはいなかった。

 そのあとのこと、その男性の実母が、その男性が残した財産は、すべて自分のものだと主張
し始めた。法律的には、その男性の残した財産は、すべて、その男性の妻のものである。が、
その実母は、「息子の財産さから、私のものだ」と。

 その母親にしてみれば、息子の妻など、息子の財産(?)か、モノ(?)のようなもの。「息子
は、私のモノ」「だから息子が稼いだものだから、私の財産」と。その母親は、最後の最後ま
で、一歩も譲らなかったという。

 こうした母親の意識の根底にあるのが、まさしく、権威主義に基づいた、上下意識ということ
になる。男尊女卑の思想は、その流れの中にある。つまりその母親は、(自分も女性であるに
もかかわらず)、妻という女性の人権をまったく、認めていなかった。

同じような経験を、私もしている。(だからといって、母を責めているのではない。これも、また、
誤解のないように!)

 私は、結婚してからずっと、収入の何割かは、実家の母に仕送りしていた。しかし私の母です
ら、私のワイフに、感謝の言葉を口にしたことは、ほとんど、ない。母にしてみれば、私という息
子が稼いだお金だから、息子のものイコール、自分のものということになる。

 現代の常識で考えれば、おかしな話だが、しかしそれは昔の人の常識ではない。

(補記)

 習慣のちがいといえば、それまでだが、オーストラリア人たちをホームステイさせてやると、彼
らは、出て行くとき、部屋のあと片づけから、掃除まで、していく。

 食事のあとも、そうだ。まず席を立って、食器を洗い始めるのが、夫たちである。洗濯にして
も、夫たちが、半分は、負担している。

 「そこまでしてくれなくてもいい」と、かえって、私たち日本人のほうが、恐縮するほどである。
しかし彼らは、そういう形で、感謝の念を表す。だから、それ以上の深い、意味はない。つまり
それをするほうが、彼らにとっても、居心地がよいのだ。

 だから、迎える私たちも、「悪いから……」とかそんなふうに考える必要はないし、反対に、彼
らがしたいようにさせてあげることこそ、重要。

 一方、日本人の客を迎えると、疲労感が何倍もになるのは、つまりは、その負担がすべて、
私たちにのしかかってくるから。何もしない。何も手伝ってくれない。ただ座って、私たちのサー
ビスを待っているだけ。「客」というのは、そういうものだと、本人も、また私たちも、ヘンに納得
してしまっている。

 しかしこれは世界の常識ではない。

 みなさんも、世界のどこかの国へ行き、どこかの家庭で世話になることもあるだろう。が、そう
いうときでも、絶対に、「客」になってはいけない。とくに食事のとき、寝具の用意をするとき、シ
ャワールームをつかうとき、トイレを汚したときなどは、家族の1人として、手伝ったり、掃除をし
なければならない。

 言いかえると、子どもを育てるときは、そういう基本的な(しつけ)もしておかねばならないとい
うこと。

 いつか、「あと片づけ」と、「あと始末」は、ちがうという原稿を書いた。それを、ここに添付す
る。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●あと片づけとあと始末

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」は、あ
と片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」は、あと始
末。

日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。これは日本人の国民性のようなも
の。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよりも、ものごとをナーナーですまそ
うとする。

 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。子ども部
屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。冷蔵庫から出
したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひどく叱られる。

そうそう以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「ヒロシ、日本の子どもたちは、
皆、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子化している」という意味だ。そこ
で私が「君はどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。

 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせているのだ
が、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャワーを浴び
ても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしないのだよ」と。

 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界になってしま
う。アメリカの作家のソローも、こう言っている。

「ビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャンの頭に座るほうが、休まる」と。しかしあと
始末は別。子どもにはどんどんとあと始末をさせる。そういう習慣が、責任感の強い子どもをつ
くる。
(はやし浩司 あと始末 後始末 あと片づけ 後片付け 後片づけ あと片付け)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛されていないと不安

 いつもだれかに、愛されているという実感がないと、不安でならない。言いようのない孤独感
に苦しむ。そういう人は、多い。タイプとしては、自己中心的な自己愛者に多い。が、自分自身
は、他人を愛することができない。

 つまりは、一方的に、相手に愛を求めるだけ。自分が、相手に、よい人だと思われている間
は、安心感を覚える。そのため、そのための努力だけは、怠らない。

 適当に、あいさつだけは繰りかえす。適当に、贈り物だけは、届ける。しかしそれらはすべ
て、計算されたもの。いわゆる「真心」をこめて、そうするのではない。(あなたの周囲にも、こう
した「ネコだまし」のようなことを、平気でする人は、多いはず。)

 最近でこそ、少なくなったら、夫と妻の関係においても、そういう人は多い。ある夫は、こう言
った。

 「オレは、家族を養っている」「食わせてやっている」と。だから「オレは、家族に感謝されてい
るはず」「家族は、オレを愛しているはず」と。

 しかし実際には、自分が、不安だから、仕事をしているだけ。「家族のため」を口にしながら、
結局は、自分のために仕事をしているだけ。(仕事をしている)ということだけが、その夫の立
場を守る。だから仕事をする。中には、家族の心を犠牲にしてまで、仕事ばかりしている人が
いる。

 もちろん仕事は重要である。お金で、幸福は買えないが、お金がなくて、不幸になるケース
は、いくらでもある。

 しかし、お金を稼ぐことを、家族をしばる道具にしてはいけない。このことは、反対の立場で考
えてみるとわかる。

 ある大学生は、こう言った。「大学へ通いたかったら、オレの言うことを聞けと、オヤジは、と
きどき、言外ににおわす。しかしそれくらい、不愉快な言い方はない」と。

 同じように、もしあなたが、だれかに、「食わせてやる」「養ってやる」などと、恩を着せられた
としたら、それを感謝するだろうか。

 夫としては、自分の存在感を示すために、そう言うのだろうが、それはかえって家族の心をバ
ラバラにしてしまう。

 そこで最初の話にもどるが、心のどこかで、理由もなく、不安感や、孤独感を覚えたら、自分
自身が、その自己愛者でないかどうかを、疑ってみるとよい。そこで教訓。

(1)夫たるもの、家族に恩を着せるな! (もちろん働いている妻も、同じ。)
(2)夫たるもの、お金で、家族をしばるな! (もちろん働いている妻も、同じ。)
(3)夫たるもの、「仕事」を口実にすれば、すべてが免除されると思うな! (もちろん働いてい
る妻も、同じ。)
(4)夫たるもの、一度は、冷静に、本当に自分が愛されているかどうか、自分を静かにみつめ
なおしてみろ! (もちろん働いている妻も、同じ。)

 かなりきびしいことを書いたが、これは私自身に向けて書いたもの。どうか失礼を許してほし
い。
(はやし浩司 夫の心構え 心構え 家族の和 自己愛者 自己中心性)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●2・5x4=……?

 小学5年の「上」で、小数掛ける、整数の掛け算を学習する。その計算で、たとえば2・5x4の
ばあい、積(答)は、10・0となる。しかしそれは、まちがい(?)。

 今、このあたりの学校では、10・0と書くと、(×)になる。正解は、「10」。有効数字は、上か
ら2けたということになるから、「10」のほうが、答えとしては、正しいということになる。それは
わかる。

 しかし……。

 では、「2・50x4」は、どうなるのか。有効数字は、上から3けたということになるから、正解
は、「10・00」ではなく、「10・0」となる。

 で、「2・5x4」について、小5の子どもに、「10・0でも、いいと思うけど……」と話すと、「10・0
と書くと、バツになるから、ダメ」と。

 教科書の中でも、わざわざ、「・0」を消すように指導している(教育出版、小5上、46P)。だ
からやはり、正解は、「10」である。

 が、どうも、私には、納得できない。有効数字という概念がわかっているなら、問題はない。
(以前は、有効数字について、小学校で教えた。)しかし、その概念もない子どもに、「正解は、
10で、10・0ではない」と教えることに、どれほどの意味があるというのか。

 そこで話を一歩進めて、では、「25x4」はどうなるかということになる。

 正解は、「25x4=100」である。このばあいは、「100」である。一の位の「0」は、実に「?」
な数字ということになる。それについては、子どもたちに、どう説明するのか。

 まあ、重箱の底をほじくりかえすような話になってしまったが、「算数」という科目ひとつとって
も、どこかしこに、息苦しさを感ずる。「正しいことを教えよう」という意図はよくわかるが、しかし
その「正しさ」にこだわりすぎるのも、どうかと思う。何も、みながみな、数学者になるというわけ
でもない。

 その一方で、中学の入試問題が、このところ、大きく、様がわりしてきている。一例をあげよ
う。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【問】2ケタの整数で、10の位の数字と、1の位の数字をかけあわせる計算を続け、答えが、1
ケタになるまでくり返します。(たとえば下のようにです)。

 最後に3になる2ケタの数は、13と31しかありません。

 最後に□となる2ケタの数も、□と□の2つしかありません。


86なら  
 8x6=48
   ↓
 4x8=32
   ↓
 3x2=6
              (類題:洛星中学校・「頭がよくなるパズル」PHPより)

+++++++++++++++++++++++

 あなたは、この問題を何分くらいで解けるだろうか? 10分以上もかかるようであれば、この
中学校への入学は、かなりむずかしい。

 しかしこんな問題は、教科書には、ない。もちろん解き方など、どこをさがしても、ない。これ
からの入試問題は、こうした方向に向かって、どんどんと変わっていく。(まじめに教科書だけ
勉強していれば、できる)問題から、(自ら、その場で考えて答を出す)問題へと、である。

 そういう流れの中で、「10は、正しいが、10・0は正しくない」と教えることに、どれほどの意
味があるというのか。たとえて言うなら、子どもが懸命に書いた小説を読みながら、トメ、ハネ、
ハライのまちがいを指摘するようなものである。

 日本の教育は、おかしな袋小路に入ってしまっている……と感じているのは、はたして私だけ
であろうか。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

アリストテレスは、つぎのように言っている。「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられ
る。なぜなら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与え
るから」と。

この訳は正確ではないと思う。そう思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」
と訳すべきかで、意味がまるで変わってくる。

「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな
る」と解釈できる。

 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正
しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではない」と思う。

 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標
は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう
教えてくれた。

 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい
くことができるように、それを教え伝えることだ」と。

 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ
ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系
をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる
子どもは、いったい何%、いるというのか。

 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系
をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、30年前
に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ
るようになったが、それにしても、30年とは!

 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど
もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。
 
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

ほかにも、世界の賢者たちは、教育について、つぎのように語っている。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【参考】

★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed 
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and 
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was 
that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ
た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)

★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよく知る必要がある。それは、過去が何か神秘的であ
るからということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・
ルイス)

★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン)

★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)

★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)

★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)

★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ)

★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau)

★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)

★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)

★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut)

★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)

★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle)

★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)

★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)

★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな
く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」
(プラト)

★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン)

★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and 
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or 
we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン)

★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)

★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(720)

【近況・あれこれ】

●ビワが、どっさり!

 山荘の畑で、ビワが、どっさりと取れた。大収穫! 大きなゴミ袋に、3杯。しかしそれでも全
体の4分〜5分の1。

 もいでは食べ、ほんの少しでもすっぱかったら、ポイ。おかげで、あっという間に、腹の中は、
がぼがぼ。

 翌日、教室へもってきて、子どもたちに、わけてやる。見栄(みば)えはよくない。おまけに乱
暴な取り方をしたので、キズまるけ。最初はとまどっていた子どもたちも、「無農薬だから、安心
して食べていいよ」などと説得したら、おもむろに食べ始めた。

 店で売っているビワは、美しい。大きい。それをベッカム選手にたとえるなら、山荘で取れる
ビワは、はやし浩司。ハハハ。それくらいの差はある。

 今年は、梅はできすぎ。もったいないとは思ったが、ほとんどを捨てた。


●デジタルカメラ

 オーストラリアの友人が、近くのカメラ屋で、デジタルカメラを買った。S社のT7という最新機
種。厚さが、9・8ミリ! すごい!

 が、肝心の英語表示ができない。それを店の人に話すと、「取りかえます」とのこと。親切! 
やはり行きつけの店は、大事にしなければいけない。今度買うときも、その店に決めた。

 ありがとうKカメラ屋さん! 

 で、今は、私は、C社のExを使っている。HTML版のマガジンの写真は、そのカメラでとった
もの。使い勝手もよいし、色も悪くない。たいへん気に入っている。S社のカメラもよいが、T7
は充電するとき、バッテリーをいちいち取り外さなければならない。

 それがめんどう(?)。

 だから今しばらくは、このカメラを使うつもり。やがてすぐ新製品が出るはず。それが出てか
ら、どうするか決める。

 (旧製品の値段が、さがりはじめたら、新製品が出る前ぶれ。私のカメラも、買ったときは、4
万6000円だったが、2万8000円になったところで、つぎの機種が発売になった。そしてその
機種も、今、安い店で、2万8000円で売りに出されている。新製品の発売が近いということ。)

(補記)

 好みもあるだろうが、これからのデジタルカメラは、ますます薄くなると思う。上着のポケットに
入れておいて、撮りたいりたいときに、さっと、写真を撮る。その簡便さに一度なれてしまうと、
厚手のカメラが、使えなくなってしまう。

 薄いカメラと言えば、S社のT7、それにC社のEXxx。


●心の抵抗力

 体に抵抗力があるように、心にも抵抗力がある。

 たとえばバイ菌に接したとき、すぐ感染するする人もいれば、そうでない人もいる。私のばあ
いは、ダイエットをして、食事の量を減らしたとたん、目や鼻の粘膜がやられる。

 同じように、心にも抵抗力がある。「悪」に接したとき、その悪に、すぐ染まる人もいれば、そう
でない人もいる。

 私は、もともと優柔不断な性格の持ち主。人に頼まれると、「いや」と言えなくて、そのままそ
れに応じてしまう。犬にたとえるなら、だれにでもシッポを振る。つまりは、イヤ〜ナ性格の持ち
主。

 たとえばこんなことがある。

 しばらく私の家に、頭のボケた兄がいた。3か月、いっしょに生活をした。その兄は、いわゆ
る(同情型)プラス(依存型)の人間。他人の目をそこに感じたとたん、わざと倒れてみせたり、
フラフラと弱々しく歩いて見せたりする。

 そういう兄を見ていたせいか、このところ、私にも、おかしな性癖が生まれてきた。たとえばワ
イフの視線を感じたとたん、わざと弱々しくして見せるなど。とくに、そんな必要はないのだが、
「どうしたの?」と声をかけてもらうのを、心のどこかで期待しているのかもしれない。

 イヤ〜ナ性癖!

 で、すかさず、自分の心を奮(ふる)いたたせる。「馬鹿メ〜!」と。

 実は、私の母もそうで、知りあいや、親戚の人の前では、フラフラ、ヨボヨボと歩いて見せる。
しかしひとりでいるときは、結構、サッサと歩いている。これは、母というより、老人特有の性癖
ではないか。

 そういう話は、たいへんよく聞く。もちろん同情を集めるためである。もともと依存性の強い人
が、そうなる。

 ただ、この種の性癖は、エスカレートしやすい。

 ある老人の例だが、人の視線を感じたとたん、バタンと、そのまま地面に倒れたりする。しか
しそれもたび重なると、だれも相手にしなくなる。そこでその老人は、つぎに、自転車に乗って
いて、車の前で倒れるようになったという。

 しかしそれもたび重なると、だれも相手にしなくなる。

 で、最近は、ころびかたもはげしくなってきた。まず、頭を柱かどこかに自分で打ちつけて、血
を流す。流したとことろで、だれかの前で倒れてみせる。つまりそういうふうにして、エスカレート
していく。

 だからそういう老人を見かけたら、適当なところで、「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と声をか
けてやるのがよい。

 人間関係をうまく結べない人(子ども)にとっては、「無視」という行為は、強烈なインパクトを
与える。何かのことで、返事をしなかっただけでも、「無視された」と怒りだす。

反対に自分に自信のある人は、無視されても、平気! つまり老人になると、何かにつけて、
自信がなくなる。気が弱くなる。

 で、最初の話にもどる。

 そういう老人と接していると、私まで、老人ポクなってしまう。自ら、「老人というのは、こういう
ものだ」というモデルをつくり、それに合わせようとしてしまう。これも役割形成の一つということ
か。ちょうど、成長とともに、男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしくなっていく。それと同
じように、老人は、老人らしくなっていく(?)。

 しかし、それはおかしい! まちがっている!

 老人という「形」はない。あるはずもない。が、ふと気がつくと、自分が、その老人になりつつ
ある。ボケた兄を介護したおかげで、兄のもつ、老人臭さが、いつの間にか、自分のモデルに
なってしまった! ああああああ!

 心の抵抗力というのは、それをいう。私は、こと、老人については、心の抵抗力がなかったと
いうことになる。(だからといって、軟弱な人間ということでもない。誤解のないように! たとえ
ば私は35年近く、もっぱら母親たちとつきあってきたが、女性ポクなったということはない。)

 そこで教訓。

 これからは「老人」というワクの中で、その人を見るのではなく、より完成された人間として、そ
の人を見る。つまりは年齢に関係なく、すばらしい人はすばらしい人として、評価して、自分の
中に取り入れていくということ。

 心の抵抗力の弱い私には、とても重要なことだと思う。


●老人という「形」をつくらない

 私やあなたの身のまわりには、たくさんの老人がいる。今に人口の3分の1が、65歳以上の
老人になるとも言われている。

 老人のサンプルには、こと欠かない。

 そういう老人を見ていて、気がつくことは多い。

 まず、服装だが、中には、(いかにも老人です)というような服装をしている人がいる。そういう
人は、全体の50%くらいではないか。あるいはもっと多いかもしれない。

 ものの考え方、話し方まで、(いかにも老人です)というような考え方や、話し方をする。歩き
方も、動作も、そうだ。

 しかし、これはおかしい! 絶対に、おかしい!

 これは日本人特有の性癖のようなもの。日本人は、子どものときから、男は男らしく……、女
は女らしく……、という子育て方を、徹底的に受けている。その延長線上で、老人は老人らしく
……という「形」を、自ら作ってしまう。

 たとえば私が子どものころは、何か、赤色系のものを見につけただけで、みなに、笑われた。
バカにされた。しかし今は、そういう時代ではない。男だって、赤いTシャツを着る。ピンクのジ
ーパンをはく。

 が、こうした性癖が、完全に消えたわけではない。その亡霊が、今でも、残っている。それ
が、「老人の世界」である。

 で、私は最近、息子たちのおさがりの、服を着ている。最初は抵抗感があったが、このとこ
ろ、気にならなくなった。

 「心」については、毎日、幼児に接しているから、問題はない。「ない」とは断言できないが、自
分の年齢を、あまり感じない。ただこのところ、子どもたちの前で、自分のことを「じいさん」と言
うことが多くなった。

 それは、今日かぎりで、やめる。自分で自分を、「ジジイ」とは! 

 みなさん、絶対に、自ら、ジジ臭くなるな! ババ臭くなるな! 老人になっても、シャキッとし
た服装を着こなそうではないか! シャキッとした話し方をしようではないか! そして若者たち
に負けないよう、最新の話題を口にしようではないか! 他人の前では、背筋をのばして、まっ
すぐ前を向いて歩こうではないか!

 絶対に、絶対に、自ら、老人臭くなってはいけない! 


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老人は、なぜ老人臭くなるか

 老人が、なぜ老人臭くなるかについては、主に、4つの要素があると思う。

(1)体力の衰え
(2)気力の衰え
(3)知力の低下
(4)社会的環境

 歩き方や、姿勢が、特有の症状を示すようになるのは、これはしかたのないこと。また体力と
気力は、密接に連動している。

 体力が衰えてくると、気力も衰え、好奇心や、探究心も薄れてくる。

 知力については、「老人だから、衰えて当然」と考える人は多い。認知症という恐ろしい病気
もないわけではない。しかしそれなりの訓練をすれば、知力の老化は、かなり防げる。そのこと
は、大脳生理学の分野でも、証明されている。

 ある女性(83歳くらい)は、何か、自分にとってつごうの悪いことがあると、決まって、「私も年
だからねえ」「覚えていないねえ」と、何でも、年(とし)のせいにしてしまう。しかしそれは、ズル
いというより、卑怯(ひきょう)。卑怯というより、自ら人生の敗北を認めるようなもの。しかしこ
れほど、見苦しい生き方もない。

 子どもが、「ぼくは子どもだから、料理の手伝いはできない」と逃げるのと同じである。

 で、問題は、(4)の社会的環境。

 老人は老人になるのではなく、環境の中で、自ら、自分を老人に仕立てていく。

 私たち日本人は、「老人はこういうものだ」と、あまりにも安易に、その「形」をつくりすぎている
のではないだろうか。そして自ら、その「形」にあてはめることにより、(生きる活力)そのもの
を、そいでいく。

 しかし人生には、「区分」はない。だいたいにおいて、「区分」などというものは、人間が勝手に
頭の中でつくりあげたもの。とくに日本(東洋)では、青年期とか、壮年期とか、そういうふうに
年齢を区分して考える傾向が強い。それをさらぬ細分化したものが、つぎ。

60歳……(十干(10)と十二支(12)の最小公倍数)還暦
70歳……(人生70古来希なり)古希
77歳……(喜の崩し字が七七七)喜寿
80歳……(傘の崩し字が八十)傘寿
88歳……(米の崩し字が八十八)米寿
90歳……(卒の崩し字が九十)卒寿
99歳……(百引く一が99より)白寿

さらに……

15歳……(15にして学に志し)志学
30歳……(30にして立つ)而立
40歳……(40にして惑わず)不惑
50歳……(50にして天命を知り)知命
60歳……(60にして耳に従う)耳順
70歳……(70にして心の欲するところに従えども矩を越えず)従心
(以上、「飛行船数学」HPより、抜粋)

 何かの理由なり、目的があって、こういう(こじつけ)をするようになったのだろうと思う。しかし
こういう考え方があるから、こんな母親が現れる。

 私が、「お母さんも、お子さんといっしょに、何かの勉強をしたらどうですか?」と声をかけたと
きのこと。その母親は、こう言った。「私は、もう終わりましたから」と。

 大学も卒業し、勉強する時期も過ぎたから、「終わった」と。しかし勉強に年齢制限はない。あ
るはずもない。

 その結果として、老人特有の、「発達心理(?)」が、生まれる。「退化心理」と言うべきか。過
去の自分にぶらさがるという、回顧性もその一つ。

 60歳になっても、70歳になっても、過去の学歴にぶらさがって生きている人は、いくらでもい
る。ものの考え方が、すべてうしろ向き。これでは、若者たちに嫌われて当然。バカにされて当
然。

 若者が何か意見を言ったら、「世界の賢者の中には、こんなふうに言っている人もいるよ」
と、そんな話ができる老人にならなければならない。「老いては、子に従え」は、これからの老
人の生きマザではない。またそんな見苦しい依存性を、美徳としてはいけない!

 社会制度としての(年齢)は、必要かもしれない。しかしそれとて絶対的なものではない。たと
えば満6歳で小学校へ入学することになっている。

 しかし満7歳でも、8歳でもようではないか。あくまでも、その子どもを見て、判断する。

 同じように、定年だってそうだ。あくまでもその人の様子を見て、判断する。

 ……と考えていくと、年齢による差別というのは、アメリカにおける人種差別と同じように考え
てよいのではないか。男女差別と同じように考えてよいのではないか。つまり、まちがってい
る!

 そうだ、まちがっている!

 ……と力んだところで、この話は、おしまい。
(はやし浩司 老人 老人の心理 老後 老後の問題)

【追記】

 そこで最近、とくに言われるようになったのが、「プロダクティブ・ジジング」(ロバート・バトラ
ー)。

 老人も、より生産的に生きようという考え方をいう。しかしいろいろな統計を見るかぎり、日本
の老人たちは、外国の老人と比べても、生きザマが、うしろ向き(?)。

 たとえば日本の老人たちは、概して言えば、「老後を孫の世話や、庭いじりでもしながら生き
るのが理想」と考える。しかし欧米の老人たちは、概して言えば、「子どもや孫から解放され
て、自分の好きなことをして生きるのが理想」と考える。

 何かの調査で、そういう結果が出たのを覚えている。

 が、だからといって、日本の老人の過ごし方が、まちがっているというのではない。またその
部分だけを見て、老後のあり方を決めつけてはいけない。それぞれの国には、そのれぞれの
事情と、時代的背景がある。

 しかし今のままでは、日本の将来は、真っ暗。先にも書いたように、やがて人口の3分の1
が、65歳以上の老人になる。つまりは、老人だらけ。

 そのとき、今のような手厚い介護制度や医療制度を、期待できるだろうか? もちろん、答
は、ノー。できない。

 だからこそ、私たちの年代は、ここでいう「プロダクティブ(生産的)」な生き方をしなければな
らない。そしてそのためにも、自ら「老人」というラベルを、はがさなければならない。

 以前、こんな原稿を書いた。
 
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)

私自身の記憶をたどってみる。20代、30代の記憶は、それなりに残っている。しかし40代な
ることからの記憶が、ほとんど、残っていない?

 これはどうしたことか?

 そこでワイフに相談してみると、ワイフも、「そう言えば、ないわね」と。そしてこう言った。「そ
のころは、子育てで夢中で、自分の思い出をつくるヒマなど、なかったからよ」と。

 そのとおり。

 私たち夫婦の思い出は、ほとんどない。が、息子たちとの思い出は、ある。つまり私たちとい
うより、親は、子育てをしながら、子どもとの思い出を、自分自身の思い出として記憶する。わ
かりやすく言えば、子どもの思い出イコール、親の思い出ということになる。

 息子が幼稚園へ入ったとき。息子が小学校に入ったとき。卒業したとき。息子といっしょに、
プールへ行ったとき。旅行したとき。いつもそこには、息子たちがいる。つまりそれが、そのま
ま、そのころの記憶となる。

 しかし肝心の、私や、ワイフとの記憶が、ない! 私は何をしてきたのだろうとさえ思うことが
ある。

 そこで今、子育てがほとんど終わってしまった今、何をしてきたのかと聞かれても、ハタと困っ
てしまう。これといった思い出が、何もないからだ。何かをしてきたはずなのに、思い出という
と、一気に、自分たちの青春時代にまでもどってしまう。

そこでしかたないから、息子たちとの思い出にしがみつこうとするが、その息子たちは、もう巣
立ってしまった。三男にしても、身分はまだ大学生だが、休みになっても、ほとんど、家にはい
ない。アルバイトにしても、東京や横浜でしている。

 ポッカリと、心の中に穴があいたような気分である。

 本来なら、私たちは私たちで、自分たちの思い出をしっかりと作っておくべきだった。それは
たとえて言うなら、明けても暮れても、仕事ばかりしていたようなもの。仕事をしたという記憶は
あるが、それ以外は、ほとんど、ない。あまりよいたとえではないかもしれないが、それに近
い。

 そのころというのは、いつもそこに息子たちがいて、その息子たちのために、毎日生きていた
ような気がする。少年野球の応援に行った。少年野球の付き添いで、キャンプにも行った。登
山もした。旅行にも行った。

しかし私たちが、そうしたいからそうしたというよりは、いつも心のどこかで、ある種の義務感を
覚えたから、そうした。犠牲になったとは思わないが、もう少し、今から思うと、別の生き方も、
あったのではないかと思う。

 たとえば私たち夫婦だけなら、ひょっとしたら、30歳の半ばには、オーストラリアへ移住して
いたかもしれない。移住は無理だとしても、数年間は、オーストラリアで、好き勝手なことをした
かもしれない。

 しかし息子たちのことを考えたとき、それができなくなってしまった。「学校は?」「進学は?」
「勉強は?」と。そんなことを考えているうちに、そうした夢や希望は、しぼんでしまった。

 そこで今、私たち夫婦が第一に考えることは、老後を、晩年ととらえるのではなく、子育てか
ら解放された、第二の人生ととらえること。自分たちらしい、心豊かな老後である。そうした生き
方を、英語では、「サクセスフル・エイジング」というらしい。「楽しい老後」という意味か。

 しかし、たとえば毎日、庭いじりをしながら、孫の世話をして、のんびりと暮らすというのが、本
当に、あるべき老後かというと、どうもそうではないような気がする。「サクセスフル(成功)」と言
葉からは、そういう生活を思い浮かべるが……。

そこで最近では、さらに一歩進んで、「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」という言葉が
使われるようになった。年齢を考えることなく、老後であっても、さらに前向きに生きるということ
をいう。

 もちろん体力的な衰えや、知力的な衰えについては、どうしようもない。しかしだからといっ
て、ゼロになるわけではない。私は私だし、あなたは、あなた。60代になっても、70代になって
も、そして80代になっても、だ。

 だいたいにおいて、老いるという言葉がおかしい。日本人は、「老人」のイメージを自らつくり
あげてしまい、それに合わせて、自分を作ろうとする。つまり日本人は、老いるのではなく、自
ら老いを、自分の中に作っていく。

 中には、ひとりで部屋にいるときは、スイスイと歩いているクセに、人の目を気にしたとたん、
弱々しい歩き方をする人もいる。「私も、年をとりました」を、口ぐせにしている老人も、多い。

 そこで大切なことは、こうしたまちがったというか、ゆがんだ、老人観を、今、ここでたたきつ
ぶしておくということ。そして死ぬまで、その死を意識することなく、ただひたすらに、前向きに生
きていく。

 それがここでいう「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」ということになる。

 そうでなくても、やがて、日本人の人口の約25%が、65歳以上という時代になる。4人に1
人が、高齢者という時代である。さらにその先では、人口の約3分の1が、65歳という時代に
なる。そういう時代が確実にやってくるのに、私たちは、若い人たちに甘えているわけには、い
かない。

 だからこそ、ますます「プロダクティブ」な生き方が、重要ということになってくる。社会に対し
て、前向きにかかわりあっていく。

 そこで私なりの結論。昔の人の言い方を借りるなら、こうなる。

「今どきの、若いものに負けていられるものか!」と。
(はやし浩司 エイジング プロダクティブ エイジング 生産的な老後)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(721)

●闘争心

 これから、タイのバンコクで、日本対K国戦が、始まる。今、時刻は、午後6時50分。7時35
分、キックオフ。

 しかしこの心のザワめきは、何か? またどうして、こんなザワめきが起きるのか?

 その一方で、今夜も、プロ野球のナイトゲームが、ある。あちこちで、ある。しかし、プロ野球
のほうは、まったく気にならない。どこで、どんな試合があるのかさえ、知らない。

 そこでこうしたザワめきは、(1)その試合への関心から始まるということになる。関心がなけ
れば、ザワめきは、そもそも起こらない。関心が、累積されて、ザワめきが始まる。

今回のK国戦は、ワールドカップへの出場権を決める、重要な試合である。が、それだけで
は、ない。

 相手が、日本に対して、異常なまでに敵意をもっている国であること。が、もともと私は、それ
ほど、サッカーに興味があるわけではない。が、ここ数年は、ちがう。私の生徒の親が、代表メ
ンバーになっていることもある。どうしても、気になる。

 で、こうしたもろもろの要素が、複雑にからみあって、私の心をふさぐ。そしてそのふさいだ心
を打ち破るために、闘争心がわいてくる。そこで改めて、「闘争心」について、考えてみる。

(闘争心)

 闘争心の基本にあるのは、人間が生物としてもつ、生存本能。この生存本能が、危険を察知
すると、脳は、その危険を回避するために、体の各部に信号を送る。

 たとえば、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにそ
の結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になったりする。

 それはわかるが、サッカーの試合は、人間の生存本能とは、関係ない。負けたからといっ
て、死ぬとか、そういうことはない。そこで登場するのが、(思いこみ)。もう少し言えば、思いこ
みによる、擬似生存本能。この擬似生存本能を、人間は、自分の中に自分でつくりあげてしま
う。サッカーの試合を、自分の命とからめてしまう。そしてその擬似生存本能に基づいて、危機
感を覚える。

 が、みなが、みな、そうなるわけではない。多くの人は、(疑似)は(疑似)として、そこで自分
の心にブレーキをかける。

 「たかがゲームではないか」「負けても、どうということはないではないか」と。もともとスポーツ
というのは、楽しむためのもの。しかしより深く楽しむためには、条件がある。そのスポーツが、
真剣なものであればあるほど、そのスポーツや選手に、自分自身を注入することができる。

 で、(疑似)は(疑似)なのだが、その間に、一定のハバがあれば問題はない。しかしそのハ
バが狭くなると、現実と疑似の区別がつかなくなってしまう。つまりその時点で、本来なら楽しむ
べきはずのスポーツが、生存をかけた、闘争へと変化する。

 まさに、「殺せ!」「殺せ!」(先のアジアカップ杯で、中国側サポーターたちが叫んでいた言
葉)といった、状態になる。

 心のザワめきは、こうして説明される。つまり疑似生存本能と、それにブレーキをかけようと
する理性との戦いといってもよい。

 もしこの段階で、理性を取りはずしてしまうと、サッカーに、ハマってしまう。試合に、自分の命
すらかけてしまうこともある。選手自身はともかくも、サポーターが、そこまで進んでしまうのは、
現実認識という点でも、あまり好ましいことではない。

 入れこみや、思いこみが強すぎると、そのまま現実を見失ってしまうことがある。方向性こそ
ちがうが、カルトを信仰する信者と、精神構造は、それほど、ちがわない。

 ……で、この部分を書いているのは、試合から、翌日の6月9日。昨夜の試合では、日本が
K国に2−0で、勝った。よかった。新聞やテレビは、そのニュース一色といった感じだが、しか
しふと振りかえると、曇った空の向こうでは、カラスが鳴いている。

 たった今、何かの配達のバイクが通りすぎた。

 まったく、いつもと同じ朝である。ただ、おかげで、気分は悪くない。とくに2点目のゴールは、
気持ちよかった。相手のキーパーを、反対側に倒しながら、大黒選手が、ゆっくりとゴールを決
めた。気持ちよかった。

 そんなことを思い出しながら、昨夜の試合が、記憶のどこかへと、ぼんやりと消え去っていく
のを感ずる。と、同時に、「今日」という現実が、始まる。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●極東情勢

 最近の極東アジア情勢を見ていると、まさに、キツネとタヌキのだましあい。そんな感じがす
る。

 まずアメリカだが、6か国協議など、開くつもりは、毛頭ない。開いたところで、どう、協議を進
めていくのか? K国のことだから、ささいな言葉ジリをつかまえては、そのつど、ああでもな
い、こうでもないと、いちゃもんをつけてくる。それにウソばかり!

 せっかく何かを決めても、いつ何時、180度、ひっくりかえるか、わからない。

 が、一応、開く意思があるということは、示しておかねばならない。中国に責任を転嫁するた
めである。「K国の核兵器は、中国の責任だ。お前のほうで何とかしろ。それができなければ、
K国の核問題を国連安保理に付託することに、賛成しろ」と。

 その中国は、K国の盟主。いまさら「K国とは関係ありません」とは言えない。かといって、アメ
リカの言いなりになることもできない。K国問題が解決すれば、そのあと待っているのは、米中
問題である。

 米中問題を考えたら、K国の核問題など、取るにたらない。ささいな問題……ということにな
る。

 が、中国は、本音として、K国の核問題を解決したがっている。やがてK国が手にする、莫大
な戦後補償金が、横取りしたいからだ。その額、4兆円とも10兆円とも言われている。もちろ
んそのお金は、日本が、補償金として、K国に支払う。

 状況は、ロシアも同じ。

 しかし日本は、そんなバカではない。今のK国に補償金を払えば、まるで敵に塩を送るような
もの。K国は、その金で、中国やロシアから武器を買いあさる。はっきり言えば、金xx体制がつ
づくかぎり、日本は、1円たりとも、お金を渡すことはできない。

 で、肝心の韓国。N大統領ほど、「?」の大統領もいない。

 大統領に就任すると同時に、アメリカに特使を送った。そして「韓国からのアメリカ軍の撤退」
と訴えた。

 が、アメリカがそれに反対すると思いきや、そのアメリカは、「はい、わかりました。アメリカ
は、望まれない地域には、アメリカ軍を置きません」と、あっさりと、同意じてしまった。

 これにあわてたのが、むしろN大統領。アメリカ軍の撤退計画が公表されると、反対に「延期
してくれ」の大懇願。が、その一方で、「同胞、同胞」と、K国に向かっては、太陽政策(融和政
策)。

 そこでとうとうアメリカの堪忍袋の緒が切れた。

 ローレス米国防副次官が、こう言った。「言うことを聞かなければ、アメリカ軍は、韓国から撤
退する※1」(6・9)と。

 しかしこれを、韓国のメディアは、「脅迫」と報道した。しかしどうして脅迫なのか?

 アメリカの言うことなすこと、ことごとく反対しておきながら、軍隊だけは置いてくれ、と。つまり
人質として、アメリカ兵を置いてくれ、と。パトリオットの配備については、デモ隊まで組織して、
計画そのものまで、つぶしてしまった。

 韓国は、K国と、ゆくゆくは、中国寄りの共和制を敷くことをもくろんでいる。わかりやすく言え
ば、中国の経済圏の中に自分を置いて、生き残りをはかろうとしている。

 では、日本はどうか?

 日本は、アメリカ同様、6国協議には、もう興味はない。一刻もはやく、K国の核問題を国連
安保理に付託して、K国に経済制裁を加えることである。すでに国内世論は、その方向でかた
まりつつある。つまりか金xx体制の崩壊である。

 その崩壊によって、韓国や中国が迷惑を受けるとしても、日本には関係ない。あと始末は、
盟主である中国と、同胞である韓国がすればよい。日本の知ったことではない。もちろんある
程度の戦後賠償金は、覚悟しなければならないが、相手が頼んできてからでも、遅くはない。
こちらから先に、「お金を出します」などと言う必要は、ない。

 もうそういう(お人よし外交)は、やめよう!

 仮に平和裏に、K国の核問題が解決したとしても、K国の経済を立てなおすためには、7兆
円(※2)ものお金がかかるそうだ(アメリカ某経済シンクタンク試算)。

 7兆円だぞ!

 韓国や中国は、その大半を、日本に負担させるつもりらしい。すでに中国側から、何度も、日
本政府に打診をしてきている。

 では、日本は、どうしたらよいのか?

 韓国、中国とは、事務的に、つきあう。淡々とつきあう。こちらからけんかする必要はない。相
手にしない。ロシアも同じ。

 韓国や中国の動きをうまくかわしながら、K国の核問題は、国際社会に引きずり出すのがよ
い。幸いなことに、アメリカも、まったく同じように考えている。緊密にアメリカと意見を合わせな
がら、行動をともにする。

 いろいろな考え方あるが、ここは日本の安全だけを考えて、それを最優先させる。韓国や中
国は、K国の矛先(ほこさき)を、日本に向けさせようと躍起(やっき)になっている。K国もそれ
に呼応するかのように、「核兵器は、日本向けのもの」と、たびたび公言している。

 この際、韓国の平和と安全は、考える必要はない。またそんなヒマはない。仮に日朝戦争と
もなれば、韓国は、K国をウラで支える。今の韓国に甘い期待感をいだいていはいけない。

 しかし何よりも重要なのは、今、ここでは、K国はもちろん、韓国、中国を刺激しないこと。K
国には、日本攻撃の口実を与えないこと。この3つの国が団結させるような反日感情を、刺激
しないこと。(日本のK首相、それがわかっているのか?)

 Y神社問題、歴史認識問題もある。よく「国のメンツ」とか、「威信」という言葉を先頭に、好戦
的な意見を口にする人がいる。中には、「Y神社を参拝するのは、国会議員の義務」と主張す
る人もいる。

 しかし本当にそうか?

 正義を守り、平和を守り、自由と平等を守るのは、国会議員の義務。しかし宗教的儀式をす
るかしないかは、義務の問題ではない。またそうであっては、ならない。

 日本が、偉そうなことを口にし、好き勝手なことができるのは、バックに、アメリカがいるから
……と、中国も、韓国も、K国も、そう思っている。

 事実、そのとおりだから、何とも反論のしようもないが、何よりも大切なのは、戦争といって
も、日本は、大義名分のない戦争など、してはならないということ。相手がまともな国ならまだし
も、そうでないから、なおさらである。

 日本は、K国と心中する必要はない。もともと本気で相手にしなければならないような国では
ない。

 それよりも重要なのは、日本に、ミサイルが飛んでこないようにすること。一発で、核兵器で
あるにせよ、化学兵器、さらいには細菌兵器であるにせよ、約20万人の死傷者が出ると言わ
れている。ふつうの爆弾とは、ワケがちがう!

 第二次大戦当時とくらべても、規模も、被害範囲も、数ケタ以上、ちがう。

 それぞれの国は、こうした思惑をたくみに隠しながら、今、まさに、だましあいを演じている。
国際政治というのは、そういうものだが、日本にとっての最善のシナリオは、K国の金xx体制
が、自然崩壊すること。つまりは、これが日本政府の本音ということになるのだろうが、そのあ
とのことは、そのあとで、また、みんなで考えればよい。

(注※1)6月9日付の韓国紙ハンギョレは、ローレス米国防副次官(アジア・太平洋担当)が今
月4〜6日に極秘訪韓し、外交通商省や国防省の高官に対し、「(米韓同盟の懸案で)米国側
の要求を受け入れない場合、在韓米軍を撤退することもある」などと発言していたと報じた。

 在韓米軍の朝鮮半島以外への展開問題や、北朝鮮の崩壊に備えた軍事作戦計画策定など
をめぐり、米韓は意見が一致していない。発言が事実なら、米側の要求受け入れを韓国側に
強く求めた一種の「脅し」とも受け取れる。同副次官は「韓国の戦略的価値は終わった」とも述
べたという。(時事通信)

(注※2)韓国と北朝鮮の統一に500億ドル(約50兆ウォン)から、6700億ドルの費用が費
やされるという研究結果が出た。米ランド研究所は、米国防長官室(OSD)の要請によって最
近作成した報告書、「北朝鮮の逆説−韓半島統一の環境・費用・結果」を通じて、このような見
方を示した。(T日報)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(722)

●「私」論、3つの条件

 「私」とは、何か? つまりそれぞれの人には、「私」がある。しかしそれぞれの人は、いつも
「私」とは何か、それを知りたくて、悩んでいる。とくに、若い人ほど、そうだ。

 そこで「私」論。その私をつかむためには、3つの条件が必要である。

(1)私は「私」であるという自覚。(自己自信性)
(2)私はいつも私であるという連続性(一貫性)。
(3)私は、他者と、良好な人間関係をもっているという、3つの条件、である。

 しかしこの「私」は、いつも、不変なものとはかぎらない。そのつど、状況に応じて、変化する。
とくに青年期においては、そうである。ゆれ動く。そのため多くの青年たちは、「私とは何か」と
いうテーマについて、思い悩む。

(1)私であるという自覚

 「私であるという自覚」は、(私が考える私)と、(現実の私)が、一致したとき、自分のものにす
ることができる。

 たとえて言うなら、結婚がある。好きで好きでたまらなくて、その人と結婚したというのであれ
ば、結婚生活を、そのまま自分のものとして、受けいれることができる。

 しかし反対に、いやな相手と不本意なまま結婚したとしたらどうであろうか。(自分のしたかっ
た結婚)と、(現実の結婚)が、大きくズレていることになる。こうなると、その結婚生活は、ギク
シャクとしたものになり、その結婚生活をそのまま自分のものとして、受けいれることはできなく
なる。

 同じように、(本来の私)と、(現実の私)が、一致していれば、その人は、「私は私である」とい
う自覚をもつことができる。そうでなければ、そうでない。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 あなたは、こう心の中で、願っている。容姿もよく、頭も聡明でありたいと。人気者で、どこへ
行っても注目される。資産家の子どもで、何一つ不自由のない生活をしたい、と。

 しかし現実には、そうでない。容姿は悪い。学校での成績も悪い。みなに嫌われ、ときには、
いじめも受けている。両親は離婚状態で、家計も苦しい。このままでは大学進学も、おぼつか
ない。

 そこであなたは、(現実の私)を、(本来の私)に、近づけようとする。

 勉強面で努力する。あるいはスポーツマンになるべく、努力する。服装や、身だしなみにも、
注意を払う。(こうあるべき)と思う「私」に、あなたは自分自身を近づけようとする。

しかしそこにも、限界がある。努力しても、どうにもならないことはある。それについては、あき
らめ、受けいれる。

 が、それは決して、たやすい道ではない。あきらめることは、若いあなたにとっては、敗北以
外の何ものでもない。それにまだ、あなたには、無数の可能性が残されている。そういう思いも
ある。だからあなたはいつも、こう悩む。「私は、いったい、どこにいるのか?」と。

 が、この段階でも、うまくいかないことが多い。努力しても、それが報われない。せっかく新し
い服を買ってきても、みなに、「あなたには似あわない」と笑われる。あなたは自信をなくす。そ
れが高じて、自暴自棄になり、自分を否定するようになるかもしれない。

 が、あなたの心の奥底に住む、「私」は、それを許さない。そこでその心の奥底に住む、「私」
は、自分を防衛しようとする。自分が崩壊していくのを、防ごうとする。

 もっとも手っ取りばやい方法は、攻撃的になること。みなに、暴力を振るって、みなに、恐れら
れればよい。あるいはさらに自虐的になって、めちゃめちゃな勉強や練習をするようになるか
もしれない。

 これらをプラス型というなら、他人に服従的になったり、依存的になったりするのを、マイナス
型という。さらにその程度が進んで、逃避型になり、他人との接触をこばむようになるかもしれ
ない。引きこもりも、その一つである。

 私が「私」であるためには、私がそうでありたいと思っている私、あるいは自分が自分で描く
自己像(自己概念)と、現実の私(現実自己)を一致させなければならない。

 なぜ、青年期に、私であるという自覚が混乱するかといえば、えてして、青年期には、現実の
自分とは、かけ離れた理想像をもちやすいからと考えてよい。夢や目標も、大きい。そのギャッ
プに悩む。「こんなはずではなかった」「もっと別の道があるはずだ」と。

 (私が考える私)と、(現実の私)が、一致すること。これが、私が「私」であるための、第一の
条件ということになる。

(2)私はいつも私であるという連続性

 あまりよいビデオではなかったが、こんなビデオがあった。

 ある女性捜査官が、ギャングにつかまってしまう。その捜査官は、イスにしばられたまま、拷
問を受ける。そのとき、ギャングが、「仲間のいる場所を言え」と迫る。が、その捜査官は、敵
意をさらにむき出しにして、そのギャングに、ペッとつばをかける。

 その女性捜査官は、気の強い女性ということになる。で、そのシーンを見ながら、私は、こん
なことを考えた。

 「映画だから、そういうことができるのだ。現実に、そういう場面に置かれたら、ふつうの人な
ら、そこまで、私を押しとおすことはできないのではないか」と。

 とくに私は優柔不断な人間である。その場、その場で、だれにでもシッポを振ってしまう。人間
的なモロさをもっている。だからイスにしばられ、命の危険を感じたら、友人のいる場所を、ペ
ラペラとしゃべってしまうにちがいない。

 が、それでは、ここでいう「連続性」がないということになる。優柔不断であるということは、そ
れだけで、「私」がないことになる。つまりはいいかげんな人間ということ。

 そこで私が「私」であるためには、連続性がなければならない。「一貫性」ともいう。カメレオン
が自分の色を変えるように、いつも私を変えていたのでは、「私」は、そもそも、ないということ
になる。

 どんな場所でも、またどんな状況でも、一貫して、「私」がそこにいる。私が「私」であるため
の、これが第二の条件ということになる。

(3)他者との良好な人間関係

 私ひとりで、「私」を認識することはできない。他人の間にあって、はじめて、私たちは、「私」
を認識することができる。つまり「私」というのは、相手があってはじめて、「私」でありえる。

 世俗的なつきあいをすべて断ち切り、山奥で、ひとりで生活を始めたとしよう。が、何もしない
わけではない。文章を書いたり、絵を描いたりすることもある。何かの工芸物を作ることもあ
る。

 しかしいくらひとりで生活をしていたとしても、その文章や絵を発表することによって、他者と
のかかわりをもつ。作品を売ることによって、他者とのかかわりをもつ。本気で、他者とのかか
わりを切るつもりなら、そうしたかかわりすらも、やめなければならない。

 たとえばひとり穴の中にこもって、原始人のような生活をする、とか。まったく他人の目を感じ
ない世界で、だ。

 こういう世界の中で、果たして私たちは、「私」を認識することができるだろうか。もう少しわか
りやすい例では、チャールストン・ヘストンが演じた『猿の惑星』がある。

 あとでわかったことだが、あの映画のモデルになったのは、日本人だそうだ。それはともかく
も、ある宇宙飛行士が、ある惑星にロケットで不時着する。が、そこは猿の惑星。が、猿といっ
ても、知能は高く、言葉も話す。

 しかしそこがもし、本当に猿の惑星だったら、どうだろうか。猿といっても、映画の中に出てく
るような猿ではなく、日光の山奥に住む猿のような、本物の猿である。

 あなたははげしい絶望感を覚えるにちがいない。言葉も通じない。気持ちも通じない。あなた
がもっている文化性や道徳性は、猿たちの前では、何一つ、意味をもたない。つまりいくら「私
は私」と思ったところで、その私は、その絶望感の中に、叩き落されてしまう。

 私が「私」であるためには、他者との良好な人間関係がなければならない。その上で、はじめ
て、私は「私」でありえる。これが第三の条件ということになる。

 ほとんどの若い人たちは、それが一つの関門であるかのように、一度は、「自分さがし」の旅
に出る。「私は何か」「自分はどこにいるのか」「私は、何をすべきなのか」と。

 その一助になればと思い、この「私」論を書いた。
(はやし浩司 私論 私とは何か 自分さがし 自分探し 自我 自我の確立 青年期の悩み 
自我の一貫性 自我の連続性 自我の社会性 自我の一致 現実自己 自己概念 はやし浩
司)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

私も、「私」について、若いとき、悩みました。
それについて書いたのが、つぎの原稿です(駐日新聞掲載済み)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【反動形成と、シャドウ、はやし浩司のケース】

●若い母親と不倫

 みなさんは、「はやし浩司」という名前に、どのようなイメージをもっているだろうか。「はやし浩
司」という人間について、でもよい。教育評論をしているのだから、多分、そういう「人間」である
と、思っているだろう。……と思う。

 まじめで、カタブツで、面白みのない男、と。

 実際、それに近いので、私としては、何とも反論できない。しかしこれについては、言いたいこ
とが、山ほど、ある。

 先日も、ワイフが、どこか遠慮がちに、私にこう聞いた。

「あなた、若い母親と、不倫したいと思ったことはないの?」と。

 それに答えて、私は、こう言った。「いくらでも、ある」と。「……あった」というほうが、正しいか
もしれない。今の私は、母親たちの年齢の人から見ると、許容年齢というワクの外にいる。わ
かりやすく言えば、ジジイ。そういうふうに私を見ている母親たちの思いが、私の目を通して、よ
くわかる。

●不倫願望

 女性だって、不倫願望を秘めている人はいくらでもいる。週刊誌などの統計(あてにならない
が……)、セックスレスの夫婦が、30%近くもいるという(週刊J・0506)。そういう女性は、
悶々とした状態で毎日を過ごしているという(同)。そういう女性たちはみな、程度の差こそあ
れ、不倫願望をもっているという。

 夫婦でもセックスレスになると、女性の方が、先に、自己嫌悪におちいるそうだ。「女性である
ことを否定されたような気分になる」と。

 で、そういう女性、つまりは母親が、では、私のような人間を選ぶかというと、それはありえな
い。ここに書いたように、私は、そのワクの外にいる。年齢も年齢だが、職業がら、母親たちか
ら見ると、私は、僧侶か牧師のような立場の人間に見えるらしい。(多分?)

 つまりセックスには、まるで関心のない人間に見えるらしい。加えて、先にも書いたように、私
は、もうジジイの仲間!

 30代の女性が不倫をするとしても、相手に選ぶ男性は、せいぜい、45〜50歳どまり。20
代の女性なら、せいぜい、30〜35歳どまり。50歳をすぎた私など、そのワクの外。番外。

 そうまで自分を卑下することはないと思うが、そういうことも、この年齢になるとわかってくる。

●私が聖人?

 で、その私だが、では、本当に、聖人かと聞かれたら、はっきりと、こう答える。「バカめ!」
と。

 この世の中に、聖人など、いない。そういうフリをしているだけ。セックスや不倫に興味がない
フリをしているだけ。本当は、みんな、ある。性的エネルギーは、すべての生きる原動力の原
点になっている。あのフロイトも、リピドー論の中で、そう説いている。

 思想や思考、哲学を少しくらいもった程度で、その性的エネルギーを消すことは、不可能。コ
ントロールすることさえむずかしい。

 が、私は、一応、若い母親たちの前では、聖人らしく振る舞わねばならない。職業がら、スケ
ベそうな顔を見せることはできない。しかし私は、もともとスケベな人間。スケベであることが悪
いなどと、思ったこともない。

 このスケベが、この世の中を明るく、楽しくしている。生きる原動力にもなっている。無数のド
ラマもそこから生まれる。

 そこで私は、そうしたスケベな部分を、自分から切り離して、別のどこかに隔離する能力を身
につけた。恐らく、僧侶や牧師と呼ばれている人も、そうではないか。学校の教師や、医師も含
めて、先生と呼ばれている人も、みな、そうではないか。たとえば、若い女性の胸をいじりなが
ら、ニヤニヤしていたのでは、医師の仕事は、勤まらない。

●反動形成

 しかし、ここで、心理学の用語を使うなら、「反動形成」という症状が生まれる。反動形成とい
うのは、本当の自分をおおいかくしているうちに、その反動として、正反対の自分を演ずるよう
になることをいう。

 僧侶や牧師が、ことさらセックスの話を嫌ってみせるのが、それ。

 が、この反動形成でできた部分は、まさにニセの(自分)ということになる。で、そのニセの部
分に、自分で気づいている間は、問題ない。「今の自分は、本物ではないぞ。仮面をかぶって
いるだけだ」と。

 しかしニセの自分を長く演じていると、どれが本ものの自分で、どれがニセものの自分かが、
わからなくなる。さらに仮面をかぶっていることすら、わからなくなってしまうこともある。

 こうした人は、外見上は、すばらしい人に見える。「神様」「仏様」と呼ばれるようになることも
ある。

 しかしそんな人間は、いない。人間ならだれしも、食事をし、クソを出す。オナラも出す。もしそ
の人を、高邁(こうまい)な人物に変えるものがあるとすれば、それは、(苦労)である。苦労こ
そが、その人を、高める。しかしそれにも、限界がある。

 さらにいくら苦労をしたからといって、ここでいう性欲が消えるわけではない。仮に、どこかの
教団に入って、10年や20年、修行したくらいで、神様や仏様などに、なれるわけがない。種族
存続のためにもっている、動物の本能は、それほどまでに強力なものである。

 が、反動形成の恐ろしさは、ここで止まらない。

●シャドウ

 反動形成をつづけていると、いつしか、別の心のどこかに、そのカスがたまり始める。これが
シャドウである。よくある例としては、人前で、無理に善人ぶっている人が、まったく正反対の別
の人格をもつことがある。

 ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)のような、病的な二重人格者は別として、それを薄
めたような人なら、いくらでもいる。あなたのまわりにも、1人や2人くらいはいる。あなた自身
が、そうである可能性も高い。

 で、私のこと。

 私がそういう二重人格性に気づいたのは、30歳くらいのことではなかったか。職場での自分
と、家庭の中に入ってからの自分が、まるでちがうのに気づいた。ワイフや子どもたちへの接し
方も、明らかにちがっていた。

 たとえばセックスは好きだったから、30歳をすぎるまで、朝晩、2回ずつは、毎日ワイフとセ
ックスをしていた。(ウソじゃ、ないぞ!)

 40歳になるころまでは、毎日のように、若い母親たちの裸を頭の中で、想像しながら、眠り
についた。そのため、40歳をすぎるころまで、ティシュペーパーは、枕もとの必需品だった。

 今でも、ときどき、秘めた思いを切々を感じながら、その母親と会話することは多い。しかし、
今は、その切なさが、これまた楽しい。恋くらいは、したいが、しかし相手も私をそういう目で見
てくれなければ、どうしようもない。相手にだって、男を選ぶ権利がある。私の一存だけで決め
ることはできない。

 いや、仮に相手のその気があっても、それを確かめる術(すべ)はない。まさか、「私と不倫し
てみたいと思いますか?」と、聞くわけにもいかない。

●行動までの距離

言い忘れたが、(思い)と、(行動)との間には、大きな距離がある。

 「不倫をしてみたい」と思うのと、それを実行することの間には、大きな距離がある。その距離
感が、倫理であり、道徳ということになる。私には、かろうじてだが、距離を保つだけの倫理観
や道徳観がある。(本当に、かろうじてだが……。)

 が、こんなことは考える。

 近くに、私のことをあまり好きでない女性がいたとする。私もその女性を、あまり好きではな
い。そういう関係なら、たがいに割り切って、セックスフレンドには、なれるのではないか、と。

 どちらかが一方を、本気で好きになってしまったら、困る。こういう問題は、一度、こじれると、
たがいの家庭を破壊する。

 で、話を少し戻すが、私は、自分の仮面に気づいた。そして自分の反動形成にも、気づい
た。邪悪なシャドウができつつあることにも気づいた。

 そこで私は、どうしたか?

●自分をさらけ出す

 もうお気づきのここと思う。自分自身を、赤裸々に語ることによって、仮面をぬぐ。そしてシャ
ドウを消す。

 聖人ぶることだけは、やめたい。つまり、わかりやすく言えば、そのために、この原稿を書い
ている。この文章を読んで、「林も、バカだ」「何も、ここまで自分のことを告白することもあるま
い」と思っている人も多いかもしれない。

 しかし、私は、あえてありのままの自分を語ることで、その仮面をぬぐことができることを知っ
た。このエッセーは、そういう目的をもって、自分のために書いた。

 で、もしあなたも、本当の自分を隠し、その反動として、仮面をかぶっているようなら、そんな
仮面など、一度、脱ぎさってみたらよい。ありのままの自分を、そのままさらけだしてみたらよ
い。

 そうすることは、自分を知り、自分を取りもどすためには、とても重要なことだと思う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ 反動形成 シャドウ 偽の私 本物の私)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ワイフの誕生日プレゼント

 今日は、ワイフの誕生日。「いやだ」「いやだ」と言いながらも、とうとうその日がやってきた。

 長男とワイフと私の3人で、昼食をかねて、ささやかな誕生日パーティ。小さなショートケーキ
を買ってきた。

 で、そのケーキを買いに行くとき、ワイフが、ふと、「私、ネックレスがほしい」と言った。

私「ネックレス?」
ワ「うん……」と。

 めったにものを、「ほしい」と言ったことがないワイフが、そう言った。私の胸にビンと響いた。

 で、その日の午後はいつものように、仕事。その仕事から帰るとき、駅前のEデパートに寄っ
た。家への方向とは逆。かなりの寄り道になる。もちろん、ネックレスを買うためである。

 こういうとき、私は、ほとんど、迷わない。最初に目についた店で、最初に目についたものを
買う。Eデパートでも、そうだった。ドアをあけると、そこに宝飾品の店があった。いくつかの宝
石が、ウィンドウの中で、キラキラと輝いていた。

 その中の一つ、アクアマリンのネックレスが、目についた。透明の澄んだ水色をしていた。そ
れを買うことにした。値段は、x万円。人造宝石で、本物ではない。チェーンは、メッキ。「高いか
な?」と思ったが、店員は、すでに、それを箱につめはじめていた。

 カードを添えてくれたので、「A子、誕生日、おめでとう」と書いた。

 が、そのデパートから帰るとき、自転車のペダルをこぐ自分が、いつもより慎重なのを知っ
た。おかしな気分だった。

 家に帰って、プレゼントを渡すと、ワイフは、いつもになく喜んでくれた。

私「ぼくね、今日、いつもより、ゆっくりと帰ってきたよ」
ワ「どうして?」
私「だってね、もし、交通事故か何かで死んだらどうする?」
ワ「どうするって?」

私「ぼくのカバンの中に、プレゼントのネックレスが入っていることを知るよね」
ワ「そうよね」
私「そしたら、お前は、きっとこう思うよ。『ネックレスがほしいと言ったばかりに、ヒロシさんは、
死んでしまった。私のせいだ』と」
ワ「そうね。いつものように、まっすぐ家に帰ってくれば、そうは思わないわよね」
私「そうだろ。だから、いつもより、慎重に、ゆっくりと帰ってきた」と。

 ワイフはそれをさっそく首に巻いた。「似あう?」と聞いたので、「とってもよく似あう」と答えた。
それ以外の言い方は、こういうばあい、できない。

 で、箱の中の説明書を、ワイフは、懸命に読み出した。

ワ「ねえ、あなた、材質のことが何も書いてないわ」と。

 さすが、スルドイ!

 一抹の気まずさを感じた。まさか人造宝石とも言えないし、メッキとも言えない。ただし、人造
宝石といっても、高価。ガラスとは、ちがう。メッキにもいろいろある。プラチナの厚手のメッキ
である。

 「ちょっとパソコンをのぞいてくるわ」と言って、私は、その場を逃げた。

 私の小遣いは、1日、2000円。そういう夫が、懸命に、お金をひねり出して買ったネックレ
ス。まあ、しかたないね、と、自分に言って聞かせて、書斎のイスに座った。

 今日は6月x日。ワイフは、満xx歳になった。

 おめでとう!!!!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(723)

●金沢へ

 今日は、金曜日。May(メイ、Bob君の奥さん)に電話をすると、「今、高山(岐阜県の高山)
にいる」と言った。「明日は、富山を回って、金沢へ行く」と。

 それで私も、金沢へ行くことにした。

私「ぼくも、行っていいか?」
メ「来てほしいわ」
私「わかった」と。

 たがいに携帯電話の番号を確認する。高山から金沢までは、2時間ほど。浜松から、金沢ま
では、4時間。

 Bobに、「ぼくは、金沢で4年間過ごした。金沢のことは、すべて知っている。ぼくが案内する
よ」と言うと、「ガイド料はいくら?」と聞いた。

 さっそく、時刻表を調べる。朝、6時半ごろの新幹線で出れば、10時前後には、金沢へ着く。
Bobたち一行は、12時ごろ金沢へ着くようなことを言っていた。

 電話を切ったあと、「ひょっとしたら、ぼくも、一泊してくるかもしれない」と言うと、「してきたら」
と喜んでくれた。「お前も行きたいか?」と聞くと、「行きたいけど、今度は、がまんするわ」と。

 今月は、何かと出費が重なった。家計のこともある。ワイフは、どうやら、それを心配している
ようだ。

 そんなわけで早く床につくつもりだったが、ビデオを見て、シャワーを浴びたら、もう午前0時
を過ぎていた。明日は新幹線の中で、眠っていくつもり。

 金沢のみなさん、6月11日、12日は、金沢にいます。よろしくお願いします。

●6月11日(土)

 その日は、11時ごろ、金沢に着いた。Bob君たち一行は、午後1時すぎに、金沢へ着くとい
う。

 私は、その間の2時間で、ホテルの選択などをすることにした。

 日本には、公営のホテルや旅館がいくつかある。民宿もあるが、料金のことを考えるなら、公
営のホテルや旅館がよい。料金も割安だし、施設もよい。

 駅の案内書で、ガイドマップをもらう。

 JR西日本荘……清川10−19  一泊2食付 7300円
 郵便貯金会館……玉川町9−15  一泊、5600円〜
 NTT・ラポート……兼六2−5    一泊、6000円(S)、1万円(T)
 石川県厚生年金会館……石引4−17−6 一泊、5500円(S)、9900円(T)
 兼六荘……尾山町6−40     一泊、5900円(S)、9700円(T)ほか。

 百万石祭りの当日(土曜日)ということもあり、ダメかなと思いつつ電話をすると、兼六荘(尾
山町)があいていた。独断で、予約する。尾山町と言えば、金沢城跡の、すぐ下。学生のころそ
のすぐそばの坂をくだって、よく、みんなと、街へくりだした。そんな思いが、ふと、脳裏をかす
める。

 金沢は、カンペキなほどまでに、観光地化されていた。これといった産業もなく、駅構内にして
も、みやげもの屋一色という感じがした。

 けばけばしいライティング。華やかな宣伝用のサインボードなど。35年前には、どこかうらぶ
れた北陸の町といった感じがしたが、今は、もう、その面影は、ない。

 駅前には、豪華な、高層ホテルが、いくつか並んでいた。

●電車の中で……

 通路をはさんで、隣の席に、母親と、子ども(4歳くらいの女児)が座った。私は、名古屋から
特急に乗ったが、その母親と子どもは、米原(まいばら)から乗りこんできた?騒々しい声で目
をさますと、そこにいた。その女の子は、明らかに、ADHD児であった。

 間断なく、キャッキャッと奇声をあげたり、しゃべっていたりした。母親に抱きついたり、イスの
上に寝そべっていたり……。しかも声が大きい。静まりかえった車内で、その子どもの声だけ
が、ひときわ大きく、響いた。

 が、たまたま通路のドアが、ガラス張りになっていて、私の座っている位置から、そのガラス
に反射して、母親の顔がよく見えた。

 母親は女の子を、もてあましているようだった。暗く、しかめた顔は、完全に、その女の子を
無視しようとしている雰囲気だった。

 が、その女の子は、容赦しない。そういう母親に向って、これまた間断なく、ちょっかいをかけ
る。そのつど、母親は、うるさそうに女の子を払いのけたりする。

 ウトウトと眠りかけていた私には、つらい。

 が、ときどき母親は、人の目を盗んで、強く叱ったり、折檻(せっかん)したりするらしい。その
たびに、その女の子は、これまたひときわ高い声で、「ゴメン」「イタ〜イ!」「イヤッ!」と声をあ
げる。

 この繰りかえし。

 私は、指定席を離れて、自由席に、移ることにした。

 もちろんその母親に責任があるわけではない。女の子にもない。ただ重要なことは、できるだ
け早い時期に、母親が、それに気づくこと。そして適切な対処をして、症状をこじらせないこと。

 こじらせると、あとあと、立ちなおりが、むずかしくなる。あるいは症状が長引く。あいにくと、
私が見たところ、その母親は、自分の娘がなぜそうなのかについて、気がついていないようだ
った。

 視線を一方的に窓の外の方に向け、冷たく、沈んだ目つきをしていた。

●友を迎える

 午後1時4分の列車で、Bobたちはやってきた。「遅かったね」と声をかけると、「途中、道路
や鉄道が洪水で寸断されていた」と言った。私は知らなかった。

 で、さっそく、ホテルへ。

 が、タクシーの運転手が、いやがった。百万石祭りのコースの内側に入ってしまうと、外に出
られなくなってしまうという。一か八かで、行こうということになった。

 沿道には、すでに多くの見物人たちが、ビニールシートを敷いて、パレードがやってくるのを
待っていた。私たちは、10分足らずで、ホテルについた。

 金沢という町は、もともと、活気のある町ではない。人口(46万人)こそ多いが、産業らしい、
産業は、ない。私が学生のころは、「金沢は、学生たちが落す、下宿代でもっている町」と言わ
れた。

 事実、そんな感じの町だった。

 が、今は、ちがう。金沢大学は、金沢城跡にあったが、どこか遠くに移転させられてしまった。
そしてそのあとに、当時の城の外郭(がいかく)らしきものが、再現された。兼六園も、いつしか
有料化された。

 それはわかるが、そのため、かえって、観光客には、居心地の悪い町になってしまった?

 駅前に観光客を見おろすように並ぶ、高層のホテルがそれである。場違いなほどに豪華で、
それに金沢の雰囲気にまったく、合っていない。何かの催しごとがある日ならともかくも、はたし
てそれだけの需要があるのだろうか。

 そのため、値段が、すべて高い! それに事務的! 

 金沢は、変わった! たしかに変わった! どこへ行っても、料金、料金、また料金!

 ……と悪口を書いてしまったが、ときどき金沢へ行くたびに、その思いは、ますます強くなる。

●近江町から大学構内へ

 ホテルで一休息すると、大通りへ出て、近江町市場に向って歩いた。昔から露天商が並ぶ一
角である。

 そこでいくつかの食べ物を、立ち食い。それから金沢城内へ向って歩く。

 Timが聞いた。「ここは、どんな町だ?」

私「百万石(one million bags of rice)の町だ。つまりそれだけの力のある町だったとい
うこと」
T「封建領主は、力があったのか?」
私「あった。一番下級の武士が、通りを歩くだけで、庶民たちは、道の側に寄り、そこで頭を地
面にこするつけてすわって、行きすぎるのを待たねばならなかった」と。

 金沢の人たちは、親愛の念をこめて、「加賀の殿様」と言うが、実情は、決して、そんな甘い
ものではなかったようだ。

 そのことは金沢の文化を見ればわかる。精緻(せいち)というか、精緻すぎる。文化そのもの
が、内へ内へと萎縮してしまった。

 今に残る、「近江町」とか、「尾張町」という町名にしても、当時の人たちが、それぞれの地域
から、強制的に移住させられてきた人たちがつくった町である。

 もちろん現在の百万石パレードには、そんな面影は、どこにもない。それぞれの団体が、派
手な衣装を着て、音楽に合わせて、踊ったり、何かの芸をしながら、歩いている。

 私たちは、石川橋の上から、そのパレードを見つめていた。

●オーストラリア人の休暇

 日本人とくらべて、オーストラリア人というのは、どこへ行っても、そこで時間をたっぷりとかけ
るようにして、歩く。ときに、1時間前後、足を止めることもある。

 彼らは、「急ぐ」という言葉を知らないようだ。もちろん休暇だから、急ぐ必要はない。が、放っ
ておけば、そのまま、1時間でも、2時間でも、パレードを見ている。そんな雰囲気である。

 そのオーストラリア人とつきあうときのコツは、ただ一つ。かれらのあとをついて行く。ときに
先導することもあるが、彼らのしたいようにさせる。そのせいか、彼らは、旗をもったガイドにつ
いて、ゾロゾロと歩いていく日本人を見るたびに、驚きとも、侮蔑(ぶべつ)ともわからないような
声をあげる。そして、笑う。

 多分、彼らは、私にこう言いたいのだ。

 「あんなふうに、旅行して、何になるのか?」と。

 兼六園に入り、金沢市のシンボルともなっている、琴灯篭の前で、足を止めた。二本足の、
石でできた、灯篭である。

 それを見て、メイ(Bobの妻、女医)が、こう言った。

 「ヒロシ、わかった!」と。

 「金沢の『沢』が、その形だ」と。彼女は、中国系マレーシアンだったが、幼いころオーストラリ
アに孤児として、移住。漢字はまったく知らない。中国語(マンドリン)も、まったく話せない。

私「何のことだ?」
メ「ほら、金沢の『沢』の右側の形よ」と。

 つまり「尺」の形をしているというのだ。それでメイは、「金沢を『金沢』と呼ぶようになった」と。
そう勝手に、解釈したらしい。

私「ぼくも、気がつかなかった。恐らく、それに気がついている人は、金沢にもいないだろうね。
君の言っていることは正しくないけど……」と。

●ハプニング

その琴灯篭から、少しゆくと、若い女性が、台の上に乗って、記念撮影をしていた。細い通路
で、私たちは、一瞬、そこで足を止めた。

 そこへ50歳くらいの男が突然、割りこんできて、こう怒鳴った。

 「おい、あんたら、その台を何だと思っているんだ! それは記念撮影用の台だ。そんな台の
上に、平気で乗るなんて、そんなヤツは、中国人か、朝鮮人だア!」と。

 ちゃんとした許可をとっているのか、とっていないのかは知らないが、兼六園の中には、記念
撮影をしてくれるカメラマンが、いつも、5、6人いる。その人たちが、狭い通路の中に、2、3段
になった台を置いて、商売をしている。

 私は、この「中国人」という言葉に、カチンと来た。すかさず、言いかえした。

 「いいじゃないですか、少しくらい台の上に乗ったからといって。そんなに、目くじらを立てるよ
うなことでもないでしょう」と。

 すると、その男は、それまでのにこやかな笑みを急に消して、私に食ってかかってきた。

男「だれが、この公園を整備しているか、知っているか?」
私「あなたではないでしょう?」
男「オレたちが、こうして商売をしているのに、そのジャマをするのか」
私「みんな、遠くから、わざわざ観光に来ているのだから、そんなことで不愉快にさせることもな
いでしょう」と。

 男はさらに私を追いかけてきて、怒鳴った。

男「オレたちが、この公園を守っているんだ」
私「ウソつくな。税金と、入場料だ。お前たちは、それで金をもうけている」と。

 さらにその男は、私を追いかけてきた。私は無視した。ただ英語の勢いを借りて、「FUCK 
OFF!(消えうせろ!)」と叫んでやった。

 少しあとで、メイが心配そうな顔をして、「何を言ったの?」と聞いた。

 私は、「中国人」という言い方が気にさわったと言った。事実、その瞬間、メイのことを考え
た。

私「メイ、ぼくはね、日本では、日本人と言っているけど、一歩、日本を出たら、日本人とは言
わないよ。アジア人と言っているよ。だけど、あいつは、人種差別をした。人種差別というの
は、それをされたものではいとわからないだろ。それで怒った。本当はね……」
メ「そうね」と。

●紫外線

 オーストラリアでは、10年ほど前から、徹底したエイズ対策を始めた。Tim(医師)の話では、
それは、まさに徹底したキャンペーンだったという。連日、連夜、繰りかえし、繰りかえし、エイ
ズ予防のための運動を、テレビやラジオを使って、展開したという。

 で、その結果、一応、エイズ、つまりHIVの感染者数の増加を食いとめることができた。が、こ
こ数年、また増加に転じたという。

 「日本でもしているか?」と聞かれたので、「日本では、していない」と私は答えたが、HIVの感
染者は、今の今も、この日本では、爆発的な勢いで、伸びている。日本という国は、こうした問
題については、恐ろしいほど、無関心な国といってよい。

 ついでに、紫外線の話にもなった。
 みな、顔や体に、UV(紫外線)カットのクリームを、そのつど、塗っている。「オーストラリアで
は、常識だ」という。

私「そう言えば、数日前、紫外線が非常に多いという警報が、日本でも出た」
T「日本でも、警報が出たのか?」
私「とくに多い日は出る」
T「で、対策はしているのか?」
私「見ればわかるだろ」

 道行く子どもたちで、帽子をかぶっている子どもは、ほとんどいない。薄いシャツ1枚という子
どももいる。中には、もうすっかり赤く日焼けした子どももいた。

 「皮膚ガンを心配しないのか」と、Timは、驚いていた。

 「そうなんだ。ぼくの住んでいる浜松でも、対策らしきしている学校は、3分の1くらいかな。あ
との学校は、何もいていない。しかし問題は、幼稚園なんだ。幼い子どもほど、あぶない」と。

 ちょうど、その少し前、ある懇談会で、その話をした。そしてその席で、「みなさんのお子さん
が通っている幼稚園で、紫外線対策をしている幼稚園はありますか」と聞いたところ、「ある」と
答えた母親は、1人もいなかった!

 「日本では、これは親の問題ということになっている。そのうち、皮膚ガンの青年が、あちこち
で死ぬようになる。そうなってから、あわてて対策を始めるのだろう」と。

 エイズにせよ、紫外線にせよ、こうした子どもの健康にかかわる重大な問題について、日本
の政府や、親たちは、あまりにも、無関心すぎる。

 オーストラリアの友人に言わせれば、「アンビリーバブル(信じられない)」という状態。オース
トラリアでは、その時期になると、子どもたちは、首までかかる、つばの長い帽子をかぶって、
サングラスをかける。これは、もう子どもたちの世界では、常識になっている。

●セックス

 南オーストラリア州では、15歳未満の子どもと、性的関係をもつと、即、逮捕、投獄されると
いう。問答無用である。

 が、それだけではない。

 「南オーストラリア州には、インフォームド・コンセント法(告知義務法)というのがあって、それ
を知った人は、それを当局に通報しなければならない。それを怠ると、その人も、逮捕される」
と。

 たとえば友だちが、15歳未満の女の子とセックスをしているのを知ったら、その人は、警察
に通報しなければならない。もし通報しないでいると、それが明るみになったとき、その人も、
逮捕される。

 「日本では、野放しだ」と話すと、またまた彼らは、あきれた顔をした。「自由なのか?」と聞い
たので、「援助交際というバカなものまである」と教えてやった。

T「おとなたちは、逮捕されないのか」
私「逮捕はされることはあるが、投獄まではされない。たいした罪にはならない」
T「援助交際と、売春とは、どうちがうのだ」
私「同じだ」
T「子どもが売春をしていて、政府は、何もしないのか」
私「しない。日本の政府は、金儲けには関心があるが、子どもを守るということについては、ま
るで関心がない」と。

 いろいろ話しているうちに、だんだんと自分が、なさけなくなってきた。ついでに、文化とは何
かとか、先進性とは何かとか、そこまで考えさせられてしまった。

 さびれた昔からの町並み。その中にあって、公的な建物は、どれも、びっくりするほど、豪
華。立派。まるで虫歯だらけの中の金歯のように、目立つ。「日本では、地方でも、予算の23
〜5%が、土木建築費に使われている」と教えてやると、彼らは、またまた驚いていた。
 
●公園から町へ

 私にとっては、なつかしい通りである。いろいろな思い出がぎっしりとつまっている。その一つ
一つをかみしめながら、香林坊(こうりんぼう)のほうへ。たまたま最後の行列が、沿道の庶民
のアンコールに答えて、合戦時の馬の動かし方を披露しているところだった。

 名前は忘れたが、映画スターの男が、赤い鎧をつけて、右に、左に、走り回っていた。

 私とメイは、角のところに立って、それをながめていた。

 うしろを振りかえると、Bobたちは、オーストラリア人を見つけて、なにやら、話しこんでいた。
オーストラリア人は、すぐわかる。緑地に黄色の文字のTシャツ。そのTシャツには、オーストラ
リアをに感じさせる文字が、何かしら、必ず、書いてある。

 そのオーストラリア人は、金沢の学校で、英語を教えているという。小さな女の子もいっしょだ
った。あとで聞いたら、奥さんは、交換学生で、高校のとき、一度、七尾(ななお・能登半島にあ
る町)という町に来たことがあるという。それが縁で、日本びいきになり、今は、夫とともに、日
本に住んでいるという。

 やがて私たちも、その会話に加わった。

 「日本の生活は、どう?」と私が聞くと、「すばらしい」を何度も言った。夫はビクトリア州から来
ているいったが、町の名前は、私の知らない町だった。

●手を2度たたく

 市内には、尾崎神社という、よく知られた観光名所がある。どこかキリスト教会風、しかしやっ
ぱり和風という、神社である。そこに向う。

 無数の露天が並んでいた。私はありきたりの説明を、みなにした。

 ちょうど祭りが終わって、何やら白装束の男たちが並んで儀式をしているところだった。私た
ちは、しばらくそれを見たあと、裏手に回った。が、そこにも、小さな神社があった。

私「日本で、こうして神様に祈るんだよ」
T「やってみせてくれないか?」
私「いいか、2度、手をたたくんだ」
T「どうして?」

私「神社の神様は、一応、生きているということになっている。だから手をたたいて、合図する。
『コラッ、居眠りしてるんじゃ、ない。起きろ』とね」
T「ハハハ」
私「本当は、手には何ももっていないということを知らせるためだ。そのあと頭をさげるのは、
首を切られても、文句は言いませんという合図さ」

T「手は、2度、たたくのか?」
私「そうだ。2度だ。ドアのノックも、2度だ。日本人は、どういうわけか、ドアをたたくときは、2
度だ」
T「3度では、ダメか?」
私「カトリック教会の牧師たちは、(小便をしたあと)、2度しかチンチン(プリック)を振ることが
できないだろ。それと同じだ」

 Timはゲラゲラと笑った。が、それを横で聞いていたメイが、「2度で、じゅうぶん?」と聞い
た。

 すかさず、私は「どうして、そんなことを、(女性の)あなたにわかるの?」と。

 すると夫のBobが割りこんできて、「ぼくは、いつも、2度で、じゅうぶん。3度もしてもらった
ら、射精してしまう」と。

 どこか静かになりかけた境内が、私たちの笑い声で埋まった。と、そのとき、Timの奥さん
が、近くのトイレから出てきた。

 メイに小声で何かを、言ったらしい。どうやら和式のトイレの使い方に苦労しているようだ。

T「ヒロシ、日本のトイレは、おかしい。男性用も、女性用も、スペース(面積)が同じだ。女性用
には、ボックスが2つしか、ない」
私「……」
T「女性は、男性より、時間がかかる。だからその分、ボックスの数は多くなくてはならない」

私「いや、本当は、女性だって、早くできる」
T「……?」
私「昔の日本の女性は、着物を、パッと上にめくって、おしりを便器のほうに突き出して、それ
で小便をした。その方法なら、女性だって、早くできる。そういう方法で、すればいい」
T「ズボンをはいていたら、困る」

私「どうして?」
T「じゅうぶん、足を開けないだろ……」
私「そうだな。それは問題だ。昔の日本の女性は、下着をはいていなかった」
T「そうだ、下着を下にさげたら、ますます、そのポーズではできなくなる」と。

 そこへまたメイが割りこんできた。

メ「いい考えがあるわ。下に丸い穴を掘って、まっすぐ下へ落すというのは、どう?」
T「それはまずい。落とし穴(トラップ・ホール)になってしまう。小便をするたびに、女性が、そこ
へはまったら、たいへんだ」と。

 私たちは笑った。ふだんは静かなサンディも、笑った。大声で笑った。

 で、ちょうど、笑いつかれたところで、ホテルについた。

 夜は、夜で、あちこちを散策するつもり……ということで、今日の記録はここまで。(6月11
日、土曜日。午後は、やや小雨。しかし気持ちのよい、一日だった。)

【補記】

 金沢駅前から兼六園に行くとき、「兼六園行きのバス停ははどこですか」と聞いたら、窓口の
女の子が、「西口の4番」と教えてくれた。

 金沢駅は、東口と西口に別れている。西口というのは、兼六園側から見ると、反対側。しかも
4番乗り口は、一番、離れている。

 つまり一番、不便なところにある。しかたないので、タクシーを使うしかない。が、そのタクシー
乗り場は、東口の正面。一番、よい場所に、それを構えている。

 金沢へやってきた観光客は、みな、兼六園をめざすはず。その兼六園行きのバス停が、西
口の一番遠くの4番とは!

 こんなところにも、私は、何かしら醜い商魂主義を感じてしまう。観光客のことを考えるなら、
駅前の東口の正面の、一番目立つ位置に、「兼六園・金沢城行き」のバス停をつくるべきでは
ないのか。大きな掲示板とともに……。

 それに物価の高いのには、驚いた。とくに飲食店の料理が高い。町の大きさにしては、飲食
店の数が多すぎる。その飲食店が、客をとりあって、高額な料金をふっかけあっている。私に
は、そんな感じがした。

 悪口ばかり書いたが、これも金沢を心配するからこそのこと……というのは、どうも、ウソ。

 市は、我ら母校の金沢大学を、城内から立ち退かせ、はるか遠くの郊外へ追いやってしまっ
た。そのうらみも、私の心のどこかにある。つまりその立ち退かせた時点から、私の母校への
思いは、消えた。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ】

●子どもの紫外線対策は、しっかりとしましょう!

(1)幼児には、肩まで隠れる、つばの広い帽子をかぶるように指導しましょう。
(2)UVカットのクリームを、肌にぬるように指導しましょう。
(3)警報、警告が出たら、外出をひかえましょう。
(4)過度な日焼けには、とくに注意しましょう。日光浴などは、避けましょう。

●紫外線対策を早急に

 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着すぎる。

オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚がんの発生率は四〜
六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアでは、一九九二年まで
の七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふえている。日光性角
皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人
は、こう言った。「何も対策を講じていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾ
ンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。子どもの世界は、先手、先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体的に出
るようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫
外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

以前、同じような視点で書いた原稿が、
つぎの原稿です。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●オーストラリアの教育

 ワイフと長島ダム(静岡県大井川鉄道上流にあるダム)まで行き、帰りにまたトロッコ列車に
乗って、千頭(せんず)駅に戻った。そのトロッコ列車に乗ったとき、オーストラリアから来た鉄
道マニアの一行と一緒になった。

私が「マニア」という言葉を使うと、苦笑いをして、「エンシュージアシスト(熱心なファン)だよ」と
言って笑った。一行は二〇人ほどだったが、その中に、ブリスベーンの州立小学校(State S
chool)で校長代理(デピュティ・プリンシパル)をしている人がいた。名前をホプキンズと言っ
た。話は当然、教育の話になった。
 
 私が「日本には教科書の検定制度がある」と話すと、「何かの本で読んだことがある」と言っ
たあと、「アンビリーバブル(信じられない)」と言った。「日本のような国が、教科書の検定制度
をすることは考えられない」と。

そこで私が「日本を旅行していて、驚いたことは何」と聞くと、逆にいくつかの質問をしてきた。
「どうして日本の子どもたち(小学生)は、夜九時ごろになっても、制服を着て、町の中を歩いて
いるのか」と。私が「それは多分、塾へ行くところを見たのではないか」と言うと、「塾とは何か」
「学校が終わってから行くのか」「何を教えるのか」と、つぎつぎと質問をしてきた。

 私もいろいろ聞いた。「南オーストラリア州では、テキストすら使っていないと聞くが、クイーン
ズランド州ではどうか」「学校の教師は親に、住所や電話番号を教えるか」「虐待を見たらどう
するか」と。

 その答はこうだった。「テキストはあるが、ほとんどの教師は、ほとんど使っていない。自分で
くふうして、自分で用意している」「教師の電話番号は電話帳には載せないことになっている」
「精神的虐待や肉体的虐待を見たら、州政府に通報する義務はあるが、それ以上の責任は教
師にはない」と。

 おもしろいと思ったのは、オーストラリアほど自由な国はないと思っていたが、ホプキンズ氏
はこう言った。「私は教育の自由化のための運動をしている」と。「今、教育は連邦政府と州政
府と地方政府の三つの監督下に置かれている。これはおかしい。教育は学校独自のベース
(基礎)で、すべきだ」と。

具体的には、教師の任命権、カリキュラムの設定など、すべて学校独自がすべきだと。私が
「日本では、北海道から沖縄まで、すべて同じ教育をしている」と話すと、再び、「アンビリーバ
ブル」と言った。たまたま横で私たちの話を聞いていたオーストラリア人まで、「アンビリーバブ
ル」と言って、たがいに顔を見合わせた。国が違うと、教育に対する意識も、天と地ほど違うよ
うだ。

 ただオーストラリアでも、学力の低下が問題になっているとのこと。「お互いに情報を交換しよ
う」と約束して別れた。彼らの屈託のない陽気な様子を見ていると、ふと「ああ、私もオーストラ
リアに移住すればよかった」という思いが、胸を横切った。「どうして私は、この日本にいるの
か」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(724)

●読者の方からの相談

宮城県M市のKMさんから、子どものことについて
こんな相談が届いています。

++++++++++++++++++++++++++

今日参観日でした。
娘を含む5人が、今日の当番で、1日、クラスのお世話をする日でした。

当番さんはまず始めに、「当番ニュース」と言って
一人ずつ何かをお話しなければならず、順番に話していきました。

が、娘だけが、蚊が鳴くような小さな声で話し、
極度に緊張している様子が見受けられました。
その後は、いすに両手を組んで座り先生の言葉も
あまり耳に入って来ていない様子。

授業に参加しているものの、一人だけ、かなり緊張していて、見ている私の方が
辛かったほどです。

どうにかならないものでしょうか。
先日の運動会の徒競走でも、緊張のせいか、途中転んで
しまいました。すぐに起きて最後まで走りきったのですが・・・。

特別厳しく育てたつもりもありませんが、何かいけなかったのでしょうか。
その後のお外遊びの時は、いつもの笑顔一杯の彼女にもどっていたのですが・・・。
よろしくお願いします。

+++++++++++++++++++++++++++

【KMさんへ】

 まったく、問題はありません。よくあることであり、むしろ、緊張して、小声になるということは、
子どもの反応としては、「正常」です。

 反対に、ADHD児などは、自分のおかれた立場、周囲の環境などを、適切に判断できず、無
頓着で、勝手に騒いだり、はしゃぎ回ったりします。

 問題は、お子さんにあるというよりは、あなた自身の考え方にあります。

 あなたは「声が小さい」と書いていますが、そう判断したのは、まさにあなた自身です。子ども
自身は、声が小さいとは、思っていません。まだそのように、客観的に自分を判断する力は、
ありません。

 自分の声は、頭の中で、ガンガンと響いているはずです。

 幼児を指導するときの、大鉄則は、『欠点を見つけたら、ほめろ!』です。

 このばあいも、お母さんがすべきことは、「声が小さいから、大きな声で話しなさい」ではなく、
「あなた、じょうずだったわよ。この前より、声も大きくなったし、お母さんは、うれしかったわよ」
です。

 お子さんは、あなたの神経質な反応を、直接、肌で感じてしまい、その瞬間、つまり視線があ
ったその瞬間、萎縮してしまったものと思われます。そういう意味では、子どもは敏感ですよ!

 キリキリとした緊張感を、あなたのお子さんは、あなたの中に感じてしまったと、私は判断しま
す。

 つぎにそういう機会があったら、おだやかに、にこやかに! そしてレッスンが終わったら、す
かさず、「あなたは、じょうずでしたよ」とほめてあげます。

 恐らくあなたは、お子さんが小さいときから、神経質で、心配先行型の子育てをしてきたもの
と思われます。長女ということもあり、なおさらです。今、ここで、子育てのリズムを変えておか
ないと、こうした子育てのリズムは、これから先も、ずっとつづきます。たがいの不協和音は、
そのままつづきます。ご注意!

 私のばあいは、指導する側ですから、たとえば小さい声だったとしたら、かえって反対に、み
なの前でほめてしまいます。

 「みんな、○○さんは、今、とてもじょうずに、意見を言えましたね。みんな、手をたたいてあげ
てください!」(パチパチ)と。

 数回、これを繰りかえすと、子どもの表情は、みちがえるほど、明るくなります。

 私の経験では、かえってこのタイプの子どものほうが、教えやすいです。声が小さく、おとなし
いからではなく、繊細な感覚をもっているからです。あとは笑わせながら、伸ばしていきます。

 私の三男も、小6のとき、野外学習のリーダーになり、最初にみなの前であいさつをしなけれ
ばならなくなったときがあります。

 はたで、見ていても、かわいそうなほど緊張し、2、3日前から、食事もとらなくなってしまし
た。見るのもつらいほどでした。が、当日は、何とか、うまくできたようで、そのあとは、ずっと、
高校を卒業するまで、何かにつけて、リーダーとして、活躍しました。

 みな、一度は、通らなければならない関門のようですね。

 あなたが、今、お子さんに言うべきことは、そしてすべきことは、「あなたは、じょうずでした」
と、にこやかに、心底、それを喜んでみせることです。それとも、あなたは、あのY興行のお笑
いタレントたちのような、ペラペラとよくしゃべるものの、中身のない、軽薄な人間に、あなたの
子どもをしたいですか?

 雰囲気にもよりますが、お子さんは、緊張した。その緊張感に負けずに、がんばった。それだ
けのことです。

 私のHPに、ママ診断(トップページ)がありますので、そこから、一度、ご自身を診断してみて
ください。そしてもしあなたが、心配先行型の子育てをしているようなら、改めるべきは、お子さ
んではなく、あなた自身ということになります。

 きびしいことを書きましたが、あなたのお子さんは、よいお子さんのようです。自信をもって、
前に向って進んでください。

 マガジンの購読、ありがとうございます。

 相談をそのまま掲載してよいということだったので、そのまま使わせていただきます。ありが
とうございました。(私も、そういう了解をあらかじめいただくと、気が楽です。ありがとうございま
した。)
(はやし浩司 静かな子 声の小さい子ども 声の小さい子供 伸ばし方)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●Y神社問題、いろいろな意見

 週刊S潮、6月16日号は、「K首相、Y国神社参拝、私はこう考える」を特集している。いろい
ろな人が、投稿している。それらを、まとめてみる。(カッコ)内は、私のコメント。

★小N田氏(元陸軍少尉)

 国が靖国を護持しないというのなら、それは私たちに対する、借金を返さず、未納のままだと
いうことです。また別の施設をつくるということは、私たちに対する、裏切り行為です。

 (何も、Y神社を取り壊そうとか、護持しないでおこうとか、そんなことを言っているのではな
い。K首相の、Y神社参拝が、問題だと、言っているだけ。中国も韓国も、それを問題にしてい
るだけ。氏は、どうやらそのあたりを、誤解しているようである。)

 日本では、亡くなった人に対して、それ以上の罪を憎まないという習慣がある。しかし中国で
は、死んだあとでも、墓まであばかれてしまいます。その価値観を、われわれが、受けいれな
ければならないのでしょうか。

★城Y氏(作家)

 加害者と被害者は違う……戦争に賛成した人(=加害者)も、反対した人(=被害者)も、Y
神社にいっしょに、祀(まつ)られています。おそらく祀られている人の多くは、命令されること
で、そうせざるをえなかったので、同様に、被害者なのです。私自身も以前、Y神社に個人的に
よく参拝に行きました。

 (戦争に賛成した人は、加害者だということは、わかる。しかし反対した人が、被害者というの
は、どういう論理によるものなのか、私には、理解できない。本当の被害者は、日本人によって
殺された、外国の人たちではないのか?

 戦争に賛成する人は、いないはず。私は、そう信じたい。日本の国土に、だれかが侵略して
きて、一発でも爆弾を落としたというのなら、『戦争、賛成!』と叫ぶ人もいるだろう。しかし日本
の国土には、ただの一発も、爆弾が落とされたという事実はない。その事実がないまま、日本
は、外に向って、戦争を始めてしまった。

 また反対したから、被害者という論理も、私には理解できない。城Y氏は、『反対したにもかか
わらず、戦場に送り出され、殺された。だから被害者だ』と考えているようだが……。)

★H氏(歴史学者)

 K首相のY神社参拝は支持します。外国からしつこく言われて、やめるべきではありません。
……Y神社は、戦場で死んだ人だけをまつる神社です。……中国は、ホンネの部分では、K首
相に参拝をやめられると、困るんじゃないですか。責め道具がなくなりますから。要するに、中
国のいいがかりなんですから。参拝をやめるべきでじゃありません。

 (この論理で考えていくと、では、反対に、日本が、中国に逆のことをされても、日本は、文句
を言えないことになる。いつか、中国の大軍が、日本へやってきて、日本を占領したとしても、
日本は、それについて、文句を言えない。

 知りたくはない。見たくはない。そういう気持はよくわかるが、その日本軍が、戦地で、どんな
虐殺行為をしたかを、もう少し、冷静に知る必要があるのではないだろうか。

 先日も、テレビを見ていたら、80歳を過ぎた老人がこう言っていた。彼はフィリッピンのどこ
かの激戦地で、アメリカ軍と戦った経験がある。

 『私たちは、若い兵隊の肉を食って生き延びました。肉を食っておけば、その肉が私の体の
一部となって、その若者は、日本へ帰れると、おかしな論理をこじつけてね。現地の人を虐殺し
たかって? はっきり言いますが、みんな、しましたよ。虐殺していない兵隊など、いませんでし
た』と。

 その老人は、長く細い涙を流していた。それが戦争なのだ!)

★デープ・S氏(TVプロヂューサー)

 (K首相の)Y神社への参拝には、反対します。Y神社は、軍国主義を美化しているでしょう。1
4人が、分祀されれば、別ですが……。第二次対戦は、神道による侵略(戦争)そのものです。
神道は、戦争に利用されたんですからね。Y神社にある、『遊S館』なんて、戦争賛美、そのも
のじゃないですか。

 (アメリカ人のS氏が、ここまで堂々と意見を言ってのける。私は、むしろ、こうした言論の自
由が保障されている日本こそ、私の日本だと思う。日本も変わった。こういう事実こそを、中国
や韓国の人に、知ってもらいたい。よく言ってくれた、S氏。)

★徳O氏(ノンフィクション作家)

 日本が、目障りなだけ。

★橋M氏(作家)

 これは管轄の問題

★黒T氏(漫画家)

 困るのは中国

★池D女史(哲学者)

 霊魂観をまず示せ……K首相は、Y神社に参拝する理由を、戦死者を弔(とむら)うためと言
っているが、ウソである。本当は、死者をほっておくと、祟(たた)ると思っているからである。

 (私は、『祟(たた)る』という漢字があることを、ここではじめて知った。それにしても、祟ると
は……?)

★江M氏(野球解説者)

 日本人よ目を覚ませ……総理のY神社参拝には、賛成に決まっているでしょう。

★野D氏(評論家)

 Kさんは、やめなさい。……ここで参拝を取りやめたとしても、中国側は、自分たちの主張に
沿っと思うだけで、中国の日本に対する評価が変わるわけではない。

★佐T氏(元外務官僚)

 外務官僚は、腹を切れ。……今年8月に総理がY神社を訪問すれば、おそらくこれまでで、
最大規模の反日攻勢が起こるでしょう。

★長S川女史(S大学教授)

 日本を滅ぼしてはならない。

★木D氏(哲学者)

 私は反対です。私は、昭和3年生まれで、満州で育ちましたので、Y神社参拝に中国や韓国
の人が、嫌悪感を抱くのが、よくわかるのです。日本人が戦争でやったことは、決してほめられ
ることではないのです。満州でも、かなりのことをしていました。

 多くの民を殺し、略奪し、搾取していたのです。私が小学生のとき、日本人の巡査が、クーリ
ーと呼ばれる中国人の労働者を、サーベルで殴ったり、蹴とばしているのを目撃しました。そ
のときのことが目について、離れません。

 K首相がY神社を参拝すれば、当時のつらく苦しい記憶を、(中国の古い世代の人たちは)、
必ず、思い出してしまうでしょう。

 K首相は、『罪を憎んで、人を憎まず』と言いますが、支配された側の中国や韓国の人たちの
気持ちを、そんな簡単な言葉で、すませてよいものでしょうか。

(以上、日本人の投稿者、11人の中で、この木D氏のみ1人が、K首相のY神社に反対してい
る。しかも、相手の立場で、ものを言っている。)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 以下、「靖国を外交カードにせよ」(弘K氏)、「なぜ、今ごろ、揉(も)めるのか」(佐T氏)、など
という、どこかトンチンカンな、意見がつづく。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 結局21人の識者の中で、K首相のY神社参拝に反対しているのは、D氏(アメリカ人)と、木
D氏(哲学者)、「参拝していいのは、せいぜい都知事まで」(森M氏)、「皮肉をこめて、首相の
Y神社は賛成」(小Z女史)の、4人だけということになった。つまり20%。

 これが日本の現状であり、現実である。20%という数字は、そのまま日本人の世論を表して
いる数字と見てよい。

さらに中には、「日本人の敵は日本人」(石D氏)などと、「Y神社参拝に反対する日本人こそ
が、日本人の本物の敵である」と説く人もいる。

 となると、私は、日本人の敵なのか?

 ほかにも「K首相は、英霊を冒涜している」(田J女史)、「小泉首相よ、説明が足りねえよ」
(大S氏)、「中国の思う壷」(佐N氏)など。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 実のところ、私は、この「20%」という数字に、少なからず、ショックを受けている。これではま
るで、戦前のあの、日本がした戦争は、正しかったと、日本が、世界に向って公言しているよう
なものである。

 もしそうなら、反対に、日本が日本がしたことと同じことを、中国や韓国の人にされても、日本
人は、文句を言えないことになる。つまりそういう口実を、彼らに与えてしまうことになる。

 私は、1967年に、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。ソウルのミョンドン(一番の
繁華街)でさえ、通りの中央に、まだ裸電球がつりさげられていた時代である。その韓国から見
た、日本は、まるで異質の日本だった。

 私は、韓国へ渡ってすぐ、「日本の教科書はまちがっていない。しかしすべてを教えていな
い」と実感した。それについて、帰国後、多くの人は、「あの林は、韓国に洗脳された」と言っ
た。しかし洗脳されているのは、本当は、どちらなのか?

 私が印象としてもつことは、これら残りの80%の人たちは、現在の反日感情を基本に、K首
相のY神社問題を考えているように思う。

 たしかに、今の中国や韓国の人たちの反日感情というか、意識を思い浮かべると、あまりに
も露骨であるがゆえに、不快ですら、ある。その不快感を基本に、K首相のY神社問題を考え
ている?
 
 しかし私にはもう一つ、特殊な事情がある。親類の中には、あの7xx部隊の教授だった人が
いる。さらにA級戦犯として、処刑されている人もいる。K首相のY神社参拝問題を考えるとき
は、そうした事実が、いつも、重く私の心の上に、のしかかってくる。

 その上で、私は、まさに少数派の意見として、あえて言う。

 「戦争は、被害者の立場で考えよう」と。

 そういう視点を、心のどこかに置かないと、日本は、進むべき日本の道を見失うのではない
か。が、それでも、「日本は、正しかった」と主張するなら、今の今でも構わないから、在日アメ
リカ軍に対して、ゲリラ戦でもしかけたらよい。

 Y神社問題とからめて、「日本を滅ぼしてはならない」と説く、長S川女史(S大学教授)、さら
には、「なぜ、今ごろもめるのか」と説く、佐T女史。自分たちの無関心、不勉強をタナにあげ
て、堂々と、K首相によるY神社参拝を支持している。

 今さら言うまでもないが、戦前の日本は、アメリカ軍の原爆によって、「滅びた」ではないか。
そして、この問題は、何も、「今ごろ、もめている」のではない。私が韓国へ行った1967年当
時ですら、韓国では、日本への反日感情は、燃えさかっていた!

 いろいろまだ書きたいことはあるが、この問題はここまで。

 悲しいかな、日本は、戦後、一貫して、各国に対して、戦争責任を認めていない。「責任」とい
う言葉を使うと、その責任は、天皇にまで、およんでしまう。そのため、「賠償」という言葉を使
わず、「補償」もしくは、「経済援助」という形で、つまりは、ナーナーですませてしまった。

 今、そのツケが、回ってきたということ。そしてそのツケが、K首相による、Y神社参拝問題に
集約されているということ。

 もし戦後、バックに、アメリカ軍による駐留がなければ、日本は、まちがいなく、毛沢東中国、
李承晩韓国、金日成K国によって、繰りかえし、報復戦争を受けていたはず。今の今でも、K
国は、日本への報復戦争を、もくろんでいる。「日本人は、平和を愛する民族」だとか、「平和を
守ったのは私たちだ」などと言うのは、その人の勝手だが、世界は、そんなに甘くない。

 勇ましい、民族主義、好戦争はさておき、みなさん、ここはもっと、冷静に考えよう!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●隣人のR氏の死を悼む

 昨夜、隣人のR氏が、死んだ。満80歳だったという。

 先ほど、ワイフと、お別れに行くと、奥さんが、一枚の写真を見せてくれた。R氏が、その腕に
抱いているのは、私の二男のSだった。

 「こんなときもあったのですね?」と話すと、R氏の奥さんが、「そうですねえ……」と。

 いろいろあった。ありすぎて、ここには、書ききれない。何しろ、ほぼ30年のつきあいである。
仏壇に手を合わせていると、目頭が熱くなった。

 ふつう、隣人同士というのは、仲が悪いそうだ。人は、よく、そう言う。しかし私たちは、大声で
けんかもしたが、しかしそれが尾を引くということはなかった。つまりは家族ぐるみのつきあいと
いうことで、仮に私とR氏がけんかをしても、私のワイフと、R氏の奥さんとは仲がよく、そういう
関係までは、影響を受けなかった。

 模型が好きな人で、その点では、私と趣味が一致していた。仏壇の周辺には、無数の模型
が飾ってあった。

 それを見ながら、「私が死んだときも、こうだろうな」などと、おかしなことを考えた。

 ただ何度も、生死の境をさまようような病気を繰りかえしていたので、「なくなった」と聞いたと
きも、それほど、ショックは受けなかった。しかし急だった。おとといまでは、元気で、電動の車
イスで、あちこちを動き回っていた。

 死因は、心筋梗塞らしい。以前にも、心筋梗塞で、何度か倒れている。それが今度は、本物
になってしまった。朝方、R氏が、ドスンとベッドから落ちる音を、奥さんが聞いている。で、救急
車を呼んだが、救急車の中では、もう息がなかったという。

 心より、ご冥福をお祈り申しあげます。Rさん、いろいろありがとうございました。

【健康論】

 これはあくまでも、ワイフの説だが、数日前、6月だというのに、気温が、突然32度を超え
た。私はそのとき、金沢に行っていたので、知らなかった。

 「急に暑くなって、それで心臓に悪い影響が出たのよ」と。

 暑さというのは、心臓によくないらしい。そこで改めて、元気そうな老人を何人か頭の中で思
い浮かべてみる。で、わかったことは、どこかポテリと太った老人ほど、暑さに弱いのではない
かということ。

 骨と皮ばかりでは困るが、そういう体型に近い人ほど、健康そうで、キビキビと動き回ってい
る。

 だから私はワイフにこう言った。「これからは、体重にもっと、注意しよう」と。R氏は、太って
はいなかったが、ここでいうポテリとした体型をしていた。

 そう言えば、昨年の夏だったか、例年にない猛暑で、郷里のG県では、葬式のラッシュだった
という。火葬場が満杯で、中には、一週間待ちの人もいたという。今年もどうやら、その猛暑に
なりそうである。

 冬ならよいが、死んだまま、一週間も放置されたどうなるか……? 私も死ぬなら、夏を避け
たい。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「私」

 私が「私」であるためには、

(1)自分のしたいことと、していることが一致していること。
(2)いつも、自分が一定し、どんなばあいにも、一貫していること。
(3)他者と、いつも良好な人間関係を結んでいること。

 ……と、少し前に書いた。この3点をなしとげたとき、私は、「私」となる。力強く、前に向って
進むことができる。そうでないときは、その「私」は、ぐらつき、不安定になる。自信をなくし、キ
ズつきやすくなり、ばあいによっては、自己嫌悪から自己否定へと進む。

 そこで自分に問いかけてみる。

(1)私は自分のしたいことを、しているか。
(2)私は、いつも一貫性をもっているか。
(3)私は、他者と、いつも良好な人間関係を築いているか。

 したいことをするというのは、つまりは(生きがい)の問題と重なる。一貫性は、(信念)の問
題、そして良好な人間関係とは、(社会性)の問題ということになる。

 で、私は、これからの(生きがい)について、考えてみたい。

 しかし(生きがい)というのは、向こうからやってくるものではない。自分で、作りだすものであ
る。(「創りだすもの」と書いたほうがよいかもしれない。)が、それには、10年単位の長い時間
がかかる。何かに向って懸命にがんばっていたら、それが(生きがい)になっていたということ
は、よくある。

 で、私のばあい、その(生きがい)とは何か。

 今は、とにかく、マガジンを1000号まで出すこと。あとのことは、あまり考えていない。で、そ
れが(生きがい)になるかどうかは、本当のところ、私にもわからない。何かしらムダなことをし
ているような気分にもなることも多い。あるいは、ひょっとしたら、その先に、何かがあるのかも
しれない。(多分、何も、ないだろう……。もうすぐ600号になるが、何もなかった……! 今、
ここでマガジンをやめてしまっても、何も、変化は起きないだろう。)

 大切なことは、期待しないこと。今すべきことをすればよい。結果はあとからついてくる。……
とまあ、自分で、そう慰めながら、原稿を書いている。

 つぎの一貫性だが、もともと私は優柔不断な性格。いいかげん。チャランポラン。主義主張な
ど、あってないようなもの。だからこれからは、心して、一貫性をもつようにしたい。

 最後の(良好な人間関係)だが、これについては、努力するしかない。が、ウソや仮面では疲
れる。そこでありのままの自分で生きるということになる。

 が、その前提として、(ありのままの自分をさらけ出しても、他人を不愉快にしない自分)でな
ければならない。

 そこで登場するのが、私の持論。『一事が万事論』。身のまわりの、ほんのささいなことから、
始める。約束を守る、ルールを守る、など。それが積み重なって、その人は、善人になる。

 そこで私は、最後に自分に問いかけてみる。私は「私」か、と。

 結論を言えば、かろうじてだが、私は「私」のような気がする。多分? 自信はないが……。こ
の問題は、おそらく死ぬまでつづくだろうと思う。
(はやし浩司 自我同一性 一貫性 良好な人間関係)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

●羊のクソ

 Tim君は、デジタルカメラの中でも、最高級品の、昔の一眼レフカメラタイプのカメラを買っ
た。値段は、12万円と少し。それに交換レンズとか、フィルターをつけた。

 そのカメラで、Tim君は、おかしなものばかり、とる。

 くもの巣のようにからんだ電線や、ゴミのたまった用水路など。一度は、民家のほうにカメラ
を向けていたので、「何が、君をひきつけているんだ?」と聞くと、こう言った。「家と家の間に、
すきまがないのが、おもしろい」と。

 そして細い路地にくると、その路地をとり始めた。そばには、道路標識が立っている。「ハバ、
1・3メートル」と。

 オーストラリアには、ハバが1・3メートルの道は、ないそうだ。

 で、こうして、おかしなものばかりとる。

私「君は、いいカメラをもっているのだから、美しい景色をとったら、どうだ?」
T「あまり、おもしろくない」
私「しかし、日本人が隠したいものばかりを、君はとる」
T「いけないか?」
私「わかった。今度、ぼくがオーストラリアへ行ったら、羊のクソや、ウサギのクソばかり、写真
にとってやる」
T「それは、いい」と。

 Tim君は、ありふれた観光写真には興味はないようだ。そのかわり、あとでみんなで見て、笑
いあうような写真をとりたいようだ。

私「ほかに、どんなのをとった?」
T「(和式)トイレに旅館の風呂。それに……」と。

 美しい景色ということになると、オーストラリアには、かなわない。もちろん日本にも日本の美
しさがある。彼らは、「日本の緑は美しい」という。入り組んだ山々に折り重なるように緑は、美
しい。「山々からたちのぼる、モヤが美しい」とも言った。

 ただオーストラリアは、広い。北部は亜熱帯。東海岸には、グレートバリヤーリーフがある。タ
スマニアの気候は、日本の気候ににている。「木の種類はちがうが、よく似ている」と、タスマニ
ア出身のサンディーは、そう言った。

 彼らとつきあっていると、バチバチと、脳みそが刺激を受ける。それが楽しい。


【宇宙大戦争】

 今度、S・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の、「宇宙大戦争」という映画が、封切られ
る。今日は、6月14日。まだ私は、その映画を見ていない。あらすじも知らない。こういうとき、
そのあらすじを、勝手に想像して書くのは、楽しい。

 かいま見た予告映画では、高架式の高速道路が、バリバリに壊れていくシーンがあった。そ
れが民家に倒れ、その民家も、つぎつぎと壊されていく……。

 今度の「宇宙大戦争」という映画は、そういう映画らしい。

 しかし宇宙人という、きわめて高度な知能をもった生物が、地球を攻撃するとき、そういう攻
撃方法を使うだろうか? つまり破壊的な武器を使うだろうか?

 私が宇宙人なら、生物兵器かと化学兵器とかを使う。時間は、たっぷり、ある。仮に宇宙人
の寿命が800歳ということなら、10年かかって、ゆっくりと、地球人を滅ぼせばよい。10年と
言っても、彼らの時間にすれば、瞬時だ。

 核兵器のような武器を使って、地球を攻撃するほうがおかしい。……と思って、「宇宙大戦
争」のあらすじを、勝手に想像してみる。

 なお。これはあくまでも、私の勝手な想像によるもの。ストーリーが、万が一、偶然一致してい
ても、それはあくまでも、偶然。どうか、そういうことを承知おきの上、楽しんでいただきたい。

+++++++++++++++++++++

【宇宙大戦争】byはやし浩司(勝手な空想小説)

 宇宙人どうしがつくる、宇宙会議で、評決が下された。場所は、木星の衛星、イオの地下基
地。「地球人を抹殺すべし」と。強硬にそれを主張したのは、X星のX星人たちだった。中には、
反対する宇宙人たちもいたが、会議では少数派だった。

 「地球人は、邪悪で、このまま宇宙へ飛び出してくるようなことがあると、自分たちの生存が
危険にさらされる。だから抹殺すべし」と。これが、その会議の結論であった。

 そのころの地球では、退廃的な文化が、はびこっていた。暴力、麻薬、売春、殺人、戦争、殺
しあい、奪いあい、テロなど。

 そこでその役割を、X星に住む、X星人が担(にな)うことになった。X星と、地球は、環境がよ
く似ていた。

 X星人たちは、まず月に前進基地をもうけ、そこから、地球を攻撃することにした。主要な空
港や施設を破壊する。それがすんだら、地上を、攻撃機でしかけ、そのあと、生物兵器で、人
間を、全滅させる。

が、その情報を、たまたま月を周回していた、アメリカの宇宙ステーション、ハイスター号が、キ
ャッチする。それはまさに、偶然によるものだった。

そのハイスター号には、何組かの技術者家族が常駐していた。その中に、トム・クルーズが演
ずる、デニスという名前の技術者と、その妻と娘のサリーがいた。そのサリーのもっていた、人
形が、未知の信号をキャッチして、共鳴振動を起こし始めたのだ。

 サリーは言った。「お父さん、私の人形が、おかしな声を出すの……」と。人形は、精巧にでき
た、ロボット人形だった。

最初は、人形の故障と考えていたが、その規則性から、父親のデニスは、信号と判断する。そ
してその信号を解析すると同時に、その発信元を、特定する。

が、信号の解析は、容易なことではなかった。そこでためにし、月の数か所で、人工地震を発
生させてみる。と、同時に、信号量がふえ、その解析から、それが宇宙人どうしの交信であるこ
とを、デニスは、つきとめる。

デ「今度は、月の223−43に向けて、レザーX光線を発射してみる」
管制官「ラジャー。それで彼らの数字を解読できる」
デ「……5,4,3,2,1、照射!」と。

 こうしてナゾの信号の解析が繰りかえされた。

その報告は、すぐ、地球のIASA(国際宇宙連盟)に送られ、そこで超高速コンピュータを使っ
て、信号の本格的な解析が始められる。が、結果は、恐るべきものだった。地球時間になおし
て、2週間後に、宇宙人たちが、地球に向けて、攻撃を開始するというものだった。

 時間的な余裕はない。世界から集まった政治家たちの緊急会議では、つぎのことが決まる。

信号の発信先に向けて、使者を送る。同時に、地球防衛のための攻撃態勢を整える。そまた
核兵器とそれを運搬するロケット技術をもつ国々は、万が一のために、月の前進基地を攻撃
するための準備を整える。

 地球の大気圏外に、核兵器を積んだ小型の宇宙ステーションが並べられた。同時に、月に
向かって、間断なく、和平希求の信号が送られた。が、応答はない。そこで別の宙ステーション
にいた2人の宇宙飛行士が、使者として、月に向かうことになった。デニスの友人と、もう1人、
中国人飛行士の、2人が選ばれた。

 が、その使者が月に着く前に、その連絡船は、こつ然と姿を消す。強力な熱線銃によって、
蒸発してしまったものと思われた。それをX星人からの攻撃と早合点した中国は、核兵器をX
星人の基地にめがけて、発射してしまう。もちろん、その核兵器も、蒸発してしまう。

 X星人たちは、態度を硬化させた。それが、デニスにも、よくわかった。

危険を察知したデニスは、妻と娘のサリーを、地球へもどすことを決める。が、サリーは、スキ
をみて、発射直前に、連絡船から逃げ、父親のデニスのところに残る。しかしその連絡線は、
宇宙ステーションから切り離されたとたん、蒸発してしまう。宇宙ステーション、ハイスター号に
残された連絡船は、残り1隻となった。

月の基地にレザー砲を設置したX星人たちは、着々と、地球攻撃の準備を進めていた。デニス
は、攻撃開始まであと1週間であることを知る。そこでデニスは、自らハイスター号を爆発さ
せ、その混乱にまぎれて連絡線で、地球へもどる計画を立てる。

 連絡線1隻で、離脱すれば、目だってしまう。

X星人たちのレザー砲は、強力なものだった。数百分の1秒の放射で、巨大なビルをこなごな
に破壊できる能力をもっていた。そのレザー砲を、まるで嵐の雨のように、地球に向けて、発
射する。数時間で、南北アメリカの主要建物、道路、空港、電力施設は、灰になってしまう。デ
ニスは、ハイスター号からの脱出の機会をうかがう。

 連絡船だけで飛び出せば、その瞬間、連絡船は、X星人の攻撃によって蒸発してしまう。デニ
スは、それをよく知っていた。ハイスター号そのものの運命も、時間の問題だった。

そこでハイスター号を自ら爆破する時刻は、刻一刻と、迫りつつあった。

 X星人の攻撃、5日前のこと。連絡船が宇宙ステーション、ハイスター号から飛び出すと同時
に、宇宙ステーション、ハイスター号を爆破……しかし、失敗。その爆風による破片で、連絡船
は、反対に、月の方向に向ってしまう。

 デニスとサリーは、死を覚悟する。が、あと10数秒で、月に激突というところで、Y星人の宇
宙船に救われる。Y星人は、地球攻撃にもともと反対の立場をとっていた宇宙人である。

 デニスとサリーは、Y星人の月基地へ、強制着陸させられる。そして彼らは、DNAレベルか
ら、徹底的に、調べあげられる。が、その過程で、サリーが、Y星人の子どもと知りあいにな
る。

 その女の子は、まれにみる美しい心の持ち主であった。その女の子と、Y星人の子どもは、
親しくなる。子どもといっても、地球人の年齢になおすと、68歳ということになる。

 が、ちょうどそのころ、X星人による、地球攻撃が始まる。地球連合は、多少の反撃らしきこと
はできたものの、まるで歯がたたない。ことごとく失敗する。X星人には、さしたる損害を与えな
い。力の差は、歴然としていた。

 X星人たちは、ひと通りの攻撃がすむと、第二段階として、小型の飛行隊を組んで、地球攻
撃をしかけ始める。逃げまどう人々を、容赦なく、攻撃。熱戦を当てられた人々は、そのまま空
気のように、蒸発していく……。

 一方、女の子と親しくなった、Y星人の子どもは、地球攻撃がまちがっていることを、宇宙会
議に知らせようとする。「人間は、決して邪悪な生物ではない」と。

 こうしてY星人の子どもと、女の子が、宇宙会議のある、木星のイオに向かう。が、それを知
ったX星人たちが、追いかける。サリーとY星人の子どもは、懸命に逃げる。

 それを追う、X星人の追撃隊。そしてそれを阻止しようとするY星人の父親たち。この三つども
えの追撃と防衛戦。

 Y星人の子どもと、女の子の乗った宇宙船は、命科ながら、火星に不時着。が、そのころ地
球では、大きな変化が起きつつあった。攻撃を逃れた人々が、山奥に入り、そこでたがいに励
ましあい、助けあいながら、生活を始めていた。それはX星人たちが、予想もしなかった光景で
あった。

 子どもをかばって、レザー光線の前にたちはだかる親。恋人を守るため、決死の覚悟で、X
星人に戦いを挑む、勇敢な若者。中には、X星人に向かって、ベートーベンの第九交響曲を演
奏するグループまで現れた。X星人たちは、やがて地球人を殺すのをためらい始める。

 X星人といっても、本来は、平和的で、おだやかな知的生物(ET)であった。
 
 同じころ、火星でも、Y星人の子どもが、女の子をかばうため、女の子を殺そうとする追撃隊
の前にたちはだかる。こうしてX星人たちは、地球人が、以前知られていたほど、邪悪な生き
物でないことを知る。

 そこへY星人の親たちも追いつく。そしてY星人の助言を受けて、宇宙会議が、再び、召集さ
れる。

 X星人の司令官は、地球攻撃を一時、中止する。地球では、喜びの声が、こだまする。

 が、完全な平和がもたらされたわけではない。地球人たちは、それまでの自分たちの行いを
改め、より完成された生物になることを誓う。そしてそれが、宇宙会議の宇宙人たちが、地球
人に出した条件でもあった。

 地球人を代表して、その会議で、スピーチをしたのは、その女の子であった。

 「1年間の時間をください。その間に、私たち、地球人は、変わります」と。それは宇宙人たち
の心を大きく動かした。

 こうして地球人に、1年間のモラトリアム(猶予期間)が与えられる。「1年間で、平和な地球を
つくりあげろ」と。

 地球人、つまり人々は、それまでの邪悪な心を改め、善にみちあふれた世界をめざして、前
に進み始める。破壊されつくした地球の瓦礫(がれき)の中から……。

++++++++++++++++++

 以上が、映画を見る前に、私が勝手に想像した、この映画のストーリーである。はたして、ど
こまで合っていることやら。しかしこういう想像をするのは、本当に楽しい。あとは、その映画を
見てからの、お楽しみ!

 もし万が一、ストーリーが一致していても、それは私の責任ではない。念のため!
(05年6月15日記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(725)

●葬儀

 隣人の葬儀が終わった。私がしたことは、香典の受付だけ。小雨が降っていたので、それな
りにたいへんではあったが、しかしそんなことは何でもない。

 静かな葬儀だった。

 ただ少し驚いたのは、こうした一連の葬儀が、今では、完全にシステム化されているというこ
と。ワイフの話では、「まるで流れ作業みたい」と。

 生き方は、人それぞれ。死に方も、人それぞれ。しかし死んでしまえば、あとは、みな、同じ。
そういうことか?

 いろいろと思い出のある隣人だっただけに、友の死とまではいかないが、それに近い、さみし
さは残った。覚悟はしていたが、意外と早く、その時は、やってきた。「もう、あの人は、消えてし
まったんだな」と思うにつけ、ふと、心の中を、湿った風が吹きぬける。

 死んで消えた人の世界のほうが、本物なのか。それとも、生きてこうして文を書いている私の
世界のほうが、本物なのか。私の世界から見れば、当然、私の世界のほうが、本物ということ
になる。しかしそう言いきってよいのか。言いきれるのか。

 あなた自身が、(私でもよいが)、死んで、灰になってしまったあとのことを想像してみればよ
い。その(私)は、どうやって、この世界を、認識することができるのか。目もない。耳もない。脳
みそもない。何もない。そのとき、あなたは、無を超えた、「無」の世界に入ることになる。

 隣人は、体がやや不自由になってからも、懸命に生きた。電動の車イスを買った。電気で充
電しながら動く、車イスである。それを収納する、車庫も、自分でつくった。充電するための電
気コードの工事も自分でした。器用な人だった。

 その懸命さの中に、私は、いつも(生きる力)を感じた。が、今は、もう、その人はいない。

 どこかへ消えたにしても、どこへ消えたのか? 消えたとしたら、今までのその隣人は、何だ
ったのか。となると、今、生きている私は、何なのか。

 そこで多くの人は、「霊」という言葉を使う。死んでも、その人の霊は残る、と。灰となって消え
てしまうという考え方は、あまりにも合理的。さみしい。自分が心を許した人の死なら、なおさら
だ。

 だから信ずるか、信じないかということになれば、霊の存在を信ずる方が、よほど、気が楽。
あえて否定して、自分を、孤独の絶壁に立たせることもない。

 隣人は、形としては消えたが、どこかにいる。そう考えることによって、このさみしさを、まぎら
わすことができる。

 29年前、私は、この地に自分の家を建てた。それから数か月後に、隣人が家を建てた。私
の思い出イコール、隣人の思い出ということになる。少なくとも、この地にまつわる思い出のほ
とんどを、ともに共有した。

 数10億年というこの宇宙の歴史の中で、かつ数10億人という人間の中で、ともに暮したとい
う、(ありがたさ)。このありがたさは、それ自体が、尊いもの。かけがえのないもの。隣人の死
は、つまりは、私の死の一部でもある。

 流れ作業のように、事務的な葬儀。いつか私も、あなたも、そうして死の儀式を終える。私に
は、どうしても、それが納得できない。「そんなものでいいのかなあ……?」と。


●悲しき小学生vs前向きな小学生

私「君は、何をしたい?」
小「何も、ない」
私「何をしているときが、一番、楽しいの?」
小「友だちと、遊んでいるとき」

私「おとなになったら、何をしたいの?」
小「何もない……」
私「してみたい仕事はないの?」
小「あんまり、ない。考えてない」

私「だけど、何か、しなければいかんだろう?」
小「……わからん」
私「もうすぐ、おとなになるよ。目標をもたなくちゃあ……」
小「まだまだ、だよ」

私「じゃあ、なぜ、勉強しているの?」
小「一応、やらなくちゃ、いけないから……」
私「したい勉強は、ないの?」
小「ふん……」と。

 小学6年生のK君(男子)との会話である。

 K君に、問題があるというのではない。夢も、希望もない。もちろん目的もない。今、そういう
小学生が、ふえている。全体の、半数以上が、そうではないか。

 が、親は、「勉強しろ」「いい学校へ入れ」と、子どもを追いたてる。つまり親自身が、子どもの
進路を混乱させている。それに気づいていない。

 一方、今、小説を書くことに、熱中している小学生がいる。5年生のOさん(女子)である。毎
週、何かの小説を書いてきて、私に読ませてくれる。

 そういう小学生は、生き生きしている。目も輝いている。

私「おとなになったら、何になるの?」
小「お医者さん」
私「じゃあ、うんと勉強しなくちゃいけないね」
小「でも、花が好きだから、花屋さんでもいい」

私「また小説、書いてきてよ。読みたいから……」
小「今度は、冒険の話でもいい?」
私「いいよ。ハリーポッターのようなのを、ね」
小「わかった……」と。

 このタイプの子どもは、つぎつぎと、自分のしたいことを、決めていく。多芸多才。ひとつの目
標を決めると、自らコースを設定して、その中に自分を置く。あとは、自身の力で、前に進んで
行く。

 ここに書いた、K君も、Oさんも、実は、架空の子どもである。今までに、私の前を通りすぎた
何人かの子どもを、まとめて書いた。

 で、その分かれ道というか、どうして子どもはK君のような子どもになり、またOさんのような子
どもになるのか。また、いつごろ、その分かれ道はできるのか。

 私は本当のところ、0〜1歳児については、よくわからない。しかしそのころ、すでにその分か
れ道はできると思う。4歳や5歳ではない。2歳や3歳ではない。その前だ。

 となると、そのカギをにぎるのは、母親ということになる。母親が、子どもが進むべき道を決め
る。むずかしいことではない。

 子どもというのは、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、Oさんのようになる。しか
しそうでないとき、子どもは、K君のようになる。

 あるべき環境というのは、心暖まる親の愛情に包まれ、安定し、信頼関係のしっかりした環
境ということになる。そういう環境の中で、静かに、どこまでも静かに育てる。

 それを、生まれた直後から、ほら、英才教育だ、ほら、早期教育だ、ほら、バイリンガルだ…
…とやりだすから、話がおかしくなる。子どもは、親に振りまわされるだけ。振りわされながら、
子どもは、自分が何をしたいのかさえ、わからなくなってしまう。

 子どもがK君のようになると、親は、あせる。そして無理をする。あとは、この悪循環。子ども
はますます、やる気のない子どもになっていく。

 「友だちと遊んでいるときだけが、楽しい」と。

 そうなってしまってからは、もう手遅れ。子どもの心というのは、そうは、簡単にはできない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 子供 子供のやる気 積極的な子供 消極的な子ども)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●国家公務員の人件費、1403万円!

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億
円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表されてい
るが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも紛れ込んで
いる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403
万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算。)そして
社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、たと
えば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方の出先機
関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受給できる」
(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカラクリが
わかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料を
手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、官僚
主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%を使
っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知らない。お
まけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全国津々浦々、
どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤字国債
(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約40倍! それでも
足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護保険制度に例をみるまで
もなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をもとに、
計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということになる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆2829億
円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出になることが6
月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明ら
かにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してき
た形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだが、省庁側の抵抗は激し
さを増しそうだ(産経新聞)。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)

【補記】

 が、なぜか、日本は、崩壊しない?

 そのカラクリを説明すると、おおむね、こうだ。

 日の丸家には、10人の息子や娘がいる。みな、勤勉な子どもたちで、それぞれが、毎年、5
00万円を稼ぐ。計、5000万円。で、それぞれが、毎年、100万円の貯金をしているから、
計、1000万円。

 が、当のおやじは、息子や娘の貯金をアテにして、(=担保にして)、借金まるけ。毎年、100
0万円の借金をして、家を増改築したり、庭を整備したりしている。そんなことばかりしている。

 「いやあ、うちの息子や娘が勤勉で、助かっておりますわ。いざとなったら、借金は、そいつら
に払わせますから……」と。

 それを知らずして、今日も、息子や娘は、懸命に働いている。それが今の日本の現状という
ことになる。

 一般庶民は、もう、青息吐息。日本崩壊の序曲は、もう始まったとみてよい。ウソだと思うな
ら、あなたの近くに住む、民間労働者や、個人商店、公的補助や援助のワクの外で働く人たち
を見ればよい。貧乏などという、なまやさしいものではない。極貧に近い、生活を強いられてい
る。日本は、その底辺から、崩壊し始めている。

 「行政改革(=官僚制度の是正)」を口にしながら、日本は、すでに15年以上も浪費してしま
った。むしろ、この15年間で、国の行政は、硬直化してしまったのではないのか。政府は、公
務員の給料を、5%カットするという方針を打ち出した。

 しかし、たったの5%? 50%でも、おかしくない。今の日本の現状を考えるなら……。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【ポケモンカルト】

 私は、7、8年ほど前、『ポケモンカルト』という本を出版した。かつて『人間の条件』という本を
出して話題になった、三一書房から、である。

 が、この本は、今でも、その世界の人たちには、(トンデモ本)と呼ばれている。「とんでもない
ほど、バカげた本」という意味である。

 なぜ、そういう評価をもらったか? ……それには理由がある。

 私は、この本をとおして、カルト教団と呼ばれる、宗教団体を攻撃した。宗教団体というより、
カルトそのものを、攻撃した。だから身に覚えのある団体は、この本に、猛反発した。

 しかしこの本は、決して、(トンデモ本)ではない。ないことは、良識ある人に読んでもらえば、
すぐわかる。全部を紹介するわけにはいかないので、その一部を、紹介する。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎の集団自殺事件(ポケモンカルトより)

 九七年の三月下旬。巨大なすい星が地球に接近してきた。ヘール・ボップすい星である。今
世紀最大のすい星とも言われ、春が終わるころには、巨大な尾を北西の空に見せるようにな
った。

 このすい星はその前後、数か月にわたって、地上でも観測されたが、そのすい星が去るのに
時を合わせて、アメリカで奇妙な集団自殺事件が発生した。第一報は、九七年三月二七日に
もたらされた。毎日新聞は、次のように伝えている。

大邸宅で集団自殺?

【ニューヨーク二六日】

●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外で、二六日午後三時一五分(日本時間二七日午前八
時一五分)ごろ、集団自殺とみられる多数の遺体が発見され、地元のシェリフ(保安官)事務所
は、少なくとも、三九人の男性の遺体を確認したことを明らかにした。

●男性は一八歳から二四歳で、宗教関係者とみられる。カナダのケベック州でも、二二日、宗
教関係者ら五人が集団自殺しており、警察当局は、二つの事件の関連を調べている。

●現場は、サンディエゴの北、三二キロの高級住宅地ランチョ・サンタフェにある豪邸。地元テ
レビ局によると、邸宅は牧場に囲まれ、プールやテニスコートもついている。昨年一〇月から
グループが借りて暮らしていたという。近所の人の話によると、邸内には、五〜一〇人程度の
白人の中年男女が暮らしていたという。

●死亡した男性らは、いずれも黒っぽいズボンに、テニスシューズ姿。外傷はなく、手をわきに
そろえ、うつ伏せに倒れていたという。

 続く翌二八日の毎日新聞には次のようにある。

(ヘール・ボップとともに旅立つ)

インターネットに"遺書"(米の集団自殺)

●米カリフォルニア州サンディエゴ郊外のランチョ・サンタフェで二六日発見された、宗教カルト
グループ三九人の集団自殺事件で、グループがインターネットに「遺書」のような声明を残して
いたことが二七日、わかった。

●声明は、「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つヘ
ール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」という内容で、空
想科学的色彩の強い同グループが、すい星の接近に触発されて、集団自殺をはかった可能
性が強くなった。

●地元の報道などによると、グループは、『ハイアー・ソース』という名で、ホームページのデザ
インなどを行う、インターネットサービス会社を経営。自分たちも『天国の門』と名づけたホーム
ページをもち、教義を詳述していた。

●グループはこの中で、「ヘール・ボップすい星の接近は、我々が待ち望んだ標識だ」と述べ、
あの世へ旅立つ喜びを独自の教義で説いていた。

●一方、警察当局は、同日夕までに、三九人の死者のうち、二一人が女性。一八人が男性で
あったと発表。全員、男性とした前日の情報を訂正した。年齢も二〇歳から七二歳までと幅広
く、メンバーには黒人二人や、ヒスパニック系の人々、カナダ人一人も含まれていた。

●集団自殺は三つのグループに分け、順番にアルコール(ウオッカ)と睡眠薬の服用で行われ
た。いずれも死体の足もとに、スーツケースが置かれ、旅立ちを示唆していた。

 この事件について、読売新聞も同じように報道しているが、毎日新聞の記事にない部分を補
足しておく。

●不動産業者によると、いつも宗教的な儀式のようなものが、行われていたという。ランチョ・
サンタフェは、太平洋を見おろす丘陵地帯にあり、「サンディエゴのビバリーヒルズ」とも呼ばれ
ている。現場の邸宅はヤシの木に囲まれ、広大な敷地には、テニスコートやプールがあり、ワ
ゴン車三台と、トラック一台が止めてあった。(二七日)

●遺体の三九人は、頭から胸にかけて、紫の布をかけて横たわっていた。遺体には女性も含
まれている。邸宅所有者の弁護士は、「借り主は、天使として米中西部に送りこまれたと信じて
いる宗教団体で、『WWWハイアー・ソース』と名のっていた」と語った。

●NBCテレビによると、この集団は、二二年前から活動。脱退したメンバーに、二五日、送ら
れたビデオテープの中で、地球を離れ、ヘール・ボップすい星の陰に隠れている宇宙船(UF
O)に乗るという別れのあいさつをしている。(二八日)

 この事件の特徴は、たいへん科学的な側面をもったカルト教団によって引き起こされたという
ことだ。インターネットを使って、信者を集めたり、教義を説くという点も、今までの方式とはち
がうし、すい星とともに、宇宙への旅に出るという発想も、SF的である。新聞記事によれば、
「ヘール・ボップすい星とともに現れる宇宙船とランデブーして、あの世に旅立つ」とある。

 この新聞記事だけで、彼らの教義の内容を判断することはできないが、この記事からだけで
も、彼らの教義が、いくつかの点で常識に、はずれていることがわかる。

たとえば、宇宙船という「物体」とランデブーするという発想。しかもその宇宙船は、すい星の陰
に隠れているという発想。死体の足もとに、スーツケースが置かれていたという事実。宇宙船
(UFO)とともに、「あの世」へ行くという発想、などなど。私はこの記事を読んだとき、「どうし
て、UFOが、隠れなければならないのだ!」と、思わずつぶやいてしまった。

あの世へ行くこともできる宇宙の生命体が、地球人に隠れてコソコソする必要はないし、仮に
霊となって行くのなら、スーツケースは必要、ない。自分たちでスペースシャトルでも買い取っ
て、その宇宙船に行くというのなら、まだ話はわかるが、「死んで行く」という発想は、どうにもこ
うにも理解できない。

 この事件で、三〇数名もの、アメリカ人の若者が、狂った指導者の犠牲者になった。アメリカ
のABC放送は、その教団の周辺の人たちからもインタビューを集めていたが、どの人たちも、
「会えば、感じのいい若者たちでした」と言っていたのが印象的であった。

つまりこういう不可思議な集団自殺事件を引き起こすような連中だから、日ごろから、挙動が
おかしかったかといえば、「そういうことはなかった」という。「会えば、軽くあいさつもしてくれまし
たし、教団の内部も案内してくれたこともあります」と、一人の納入業者は答えていた。

 この種の事件が起きると、たいていの人は、「頭のおかしな人たちが起こした事件だから」と
いうことで、自分の頭の中を整理してしまう。そして「自分たちは正常だ」と思いなおした上で、
事件があったことそのものを忘れてしまう。事実このヘール・ボップすい星にまつわる集団自殺
事件は、すい星が西の空に消えると同時に、人々の脳裏から消えた。

 が、本当に私たちは正常と言えるのだろうか。この種の事件と、無関係と言えるのだろうか。
あるいはこの種の事件は、日本では起きないと言えるのだろうか。また子どもたちはそういうカ
ルト教団と、無縁でいられるのだろうか。答えは「ノー」。

すでにこの日本でも、世界を驚愕させるような事件が起きている。地下鉄サリン事件もその中
に、含まれる。小さなカルト教団がからんだ、小さな事件となると、無数にある。「日本だけは別
だ」とか、「日本だけは正常だ」と考えるのは、あまりにも早計である。となると、もう一度、この
集団自殺事件について、考えてみなければならない。

よく知られた事件としては、七八年の一一月一八日に、南米のガイアナで起きた、人民寺院信
徒による集団自殺事件がある。この事件では、何と九一四人もの信者が、集団自殺をしてい
る。なぜ、こんな忌まわしい事件が起きたのか。あるいは起きるのか。なぜか?

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●はびこる暴力(ポケモンカルトより)

 このところ子どもたちの遊びが変わってきた。これは憶測でも何でもない。明らかに変わって
きた。幼稚園でも昼休みになると、子どもたちがそれぞれ相手の子どもをキックしたり、殴りあ
ったりしている。スキがあれば、先生に頭つきしたり、飛びかかってくる子どももいる。

この傾向は、ドラゴンボールが流行したときから続いているが、今は、原因はもちろんポケモ
ン。子どもたちが身がまえるポーズを見れば、それがわかる。「超能力!」とか「特殊能力!」
と叫ぶ子どももいる。瞬間移動とか、サイコキネシスという言葉も出てくる。

サイコキネシスというのは、特殊能力の一つで、精神的遠隔操作のことをいう。わかりやすく言
えば、念力でものを動かす力のこと。が、何といっても気になるのは、「殺す」「殺せ」という言葉
が、頻繁に出てくることだ。ポケモンどうしの戦いも、たいていは、相手を殺すところまでする。
相手の力を弱まらせて、自分のポケモンとして取り込むという方法もあるが、たいていは殺す。

私「何も殺さなくてもいいのでは」
子「でも、殺すんだよ」
私「殺さなくても、仲間にしたら……」
子「でもね、ポケモンセンターへ連れていけば、生き返る」

私「だったら、はじめから殺さなくてもいいじゃない」
子「でも、戦いだから……」
私「だったら、戦わなければいいじゃない」
子「それじゃ、おもしろくない」

私「おもしろいから戦うの?」
子「そうだよ」

 正確には「半殺し」というのだそうだ。死んでいるけど、死んでいない状態をさすが、こういうわ
けのわからない会話が延々と続く。子どもたちは、「戦う」「殺す」という言葉を使うことに、何の
疑問ももっていない。少なくとも、私にはそう見える。そしてその前提で、すべてを考える。

もっとも私が子どもたちに、「君たちの遊びが、ポケモンの影響を受けていると思わないか?」
と聞いても、子どもたちは「ちがうう!」と言う。子どもたちには、影響を受けているという意識
が、まるでない。

 サトシが自分では戦わないことについても、子どもたちはこう言う。

私「サトシはずるいと思うよ。自分で戦えばいいのに」
子「サトシはトレーナーだよ。自分では戦わないよ」
私「でも、自分のポケモンが負けると、涙をこぼすよ。涙をこぼすぐらいなら、最初からそんな
戦いをさせなければいいのに」
子「でも、戦わなければ、強くなれない」
私「強くなれなくてもいいじゃ、ない。みんなで仲良くすれば」

 この会話は、小学三年生の男児とのものである。ポケモンの中を一貫して流れているのは、
「敵は殺せ」という冷徹な哲学である。ポケモンの中では、サトシも、また相手も、勝つために
は、手段を選ばない。ありとあらゆる武器と超能力を駆使して、相手を殺す。とにかく相手をや
っつければよい。

 ふつう宗教がからむと、戦争は陰湿かつ執拗なものとなる。相手を絶滅させるところまです
る。ともにあるところで妥協するということができないためだ。日本でも、「俺はこの信仰に命を
かける」と豪語する、カルト教団の信者はいくらでもいる。カルト信仰というのはそういうものだ
し、カルト教団はその上に成り立っている。

 子どもたちも日常的に「殺す」「殺される」という言葉を使っていると、考え方が狂信的になっ
てくる。狂信的にならざるをえなくなってくる。もし子どもが途中で、戦うことに無意味さを感じた
ら、その子どもはゲームそのものができなくなってしまう。理性や常識は、あればかえってじゃ
ま。あるいは心のどこかで「おかしい」と思ったとしても、それを打ち消してしまう。これがその子
どもをますます盲目にする。

私「信仰に命をかけるということはどういうことですか」
信者「御教導様を否定するヤツは許さない」
私「許さないというのは、どういうことですか」
信者「許さないというのは、許さないということだ」
私「……具体的には、どういうことですか。相手を殺すということですか」
信者「あんたがそうとるなら、そうとればよい。そういう意味も含まれる」

 カルト教団の信者も、ある一つの前提を作ると、そこから一歩も譲ろうとしない。そのがんこさ
が、信者をますます盲目にする。そしていつの間にか、とんでもないほど常識はずれのことをし
ながら、それが常識にはずれていることすらわからなくなってしまう。彼らは彼らの常識の中で
生きている。

あるカルト教団では、子どもの結婚相手すら、教祖に決めてもらっているし、また別のカルト教
団では、敵対するカルト教団の指導者が倒れるようにと、毎晩のように、病気祈願の祈祷会を
開いている。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤立する疎外感(ポケモンカルトより)

 「ポケモンなんか、しない」という子どももいるにはいる。しかし全体からみると、きわめて少数
派。しかも目立たない。一人静かにひっそりとしている。だからよけいに少数派に見える。

ほかの子どもたちがワーワーとポケモンの話をしているときでも、うつむいたまま、その『時』が
過ぎるのを待っている。へたに「ポケモンなんか、くだらない」とでも言おうものなら、袋だたきに
あってしまう。

 こうした集団意識は、どの時代にも、またどの世界にもある。戦前の日本は、そういう集団意
識の中で、軍国主義へと突っ走った。日本の受験制度も、学歴信仰も、その一つと言える。長
い物に巻かれていると、安心だし、その上、居心地がよい。

もっと言えば、それは人間が動物としてもっている本能によるものかもしれない。猿も集団で群
れをつくって生活している。たいていの哺乳類も群れをつくっている。さらに魚や虫も、群れを
つくっていることが多い。人間だけが例外ということはありえないし、そういう本能があるという
前提で考えると、人間がもつ集団意識というものが、よくわかる。

 その集団からはずれるというのは、たいへん勇気のいることである。特に、この日本ではむ
ずかしい。群れからはずれただけで、「変わり者」のレッテルをはられてしまう。この私も、ある
商社をやめて、幼稚園の講師になったとき、そのレッテルをはられた経験がある。

高校時代の担任の教師までもが、「お前だけは、わけのわからない生活をしているな」と私を
冷やかに笑った。ライバルだった連中は、「はやしは気が狂った」と、はやしたてた。そんなわ
けで同窓会に出るのをひかえていたら、今度は、「はやしは、行方不明だ」と勝手に騒ぎだし
た。世間というのは、そういうものだ。

 ブームというは確かにある。私の時代にも、ダッコチャンブームやフラフープブームというの
があった。だから今、ポケモンブームだからといって、それが始まりでもなければ、また終わり
でもないと思っている。

しかし日本中のある一定の世代が、ある時期、ある一つのものに熱中してしまうというのは、異
常なことではないか。あるいはそういうブームから離れて生きることについて、居心地悪く感ず
るというのも、異常なことではないか。ブームといえるようなものならまだよいが、もしこれがま
た、あの戦前の集団意識のようなものにつながったとしたら、異常などと笑ってすますことはで
きない。いわんや少数派の人たちが、発言権をなくしたら、それこそたいへんなことになる。

 私はその少数派の子どもとこんな会話をしてみた。

私「どうして、君は、ポケモンに興味がないのかな」
子「ママが、(ゲームを)してはいけないというから……」
私「テレビのアニメはどうかな」
子「ママが、見せてくれない」
私「でも、皆から仲間はずれにされないかい」
子「……いいんだ……」

 少数派といっても、子どもの場合、自らの意思でそうしている子どもは、少ない。少数派の子
どもは子どもで、内心では「仲間に入りたい」と思いつつ、そういう思いと必死に闘っている。あ
るいはそれ以上に、強い、疎外感を味わっているのかもしれない。

 私の悪夢の一つに、こんなのがある。その夢の中では、ゾロゾロと高校時代の友人が一方
向に歩いていく。多分、修学旅行か何かの光景だが、皆は、これから観光バスに乗り込むとこ
ろだ。

しかし私は、まだ旅館に残っていて、カバンのチェックをしている。が、そのカバンがどこかへい
ってしまっていて、ない。私はあわててあちこちをさがし回るのだが、時間だけは刻々と過ぎて
いく……。たいていそのころになると、目がさめる。全身が汗びっしょりになっていることが多
い。少数派の子どもが感じている疎外感も、それに近いものかもしれない。

 ここまで書いて思い出したが、以前、ある男性(四〇代はじめ)からこんな相談を受けたこと
がある。その人の妻には、六人の兄弟(男三人、女三人)がいるのだが、全員、BG会というカ
ルト教団の信者だというのだ。その人の妻は、一応、その信仰から離れたところにいるのだ
が、兄弟たちが集まるたびに、彼らは彼らの儀式を始めるという。

「私はその間、家内と二人で、隣の部屋で、新聞を読んだり、タバコを吸ったりしているのです
が、本当のところ、身の置き場がありません。いつものことですから、もう慣れたとはいえ、自
分もその中に引きずりこまれていくようで、不安です。

本当は引きずりこまれてしまったほうが、気が楽になるのかもしれません。そのほうが家内も
喜ぶと思います。でも、どうしてもできないのです。思想といってもたいしたものではありません
が、自分には自分の思想というものがあります。それをこの年齢になって捨てろと言われても、
簡単に捨てられるものではありません。

家内はふだんは温厚な女性ですが、宗教の話になると、顔色を変えます。だから結婚以来、
宗教の話をしたことがありません。宗教の話はできないのです。夫婦の間に、できない話題が
あるというのは、それだけでも苦痛なものです」と。

 集団から疎外されたものでなければ、その疎外感は理解できない。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ポケモン現象(ポケモンカルトより)

 ポケモンファンの子どもをもつ母親たちに直接会って、いろいろな話を聞いた。子どもたちの
間に起こりつつあうことを知るには、まず母親に聞くのが一番である。その意見をまとめてみる
と……。

●中毒化

 子どもたちは、今、ポケモンのカードやシールを夢中になって集めている。子どもによって
は、数百枚単位で、それをもっている。そのカードやシールを入れる専用のケースも発売され
ている。それについて、ある母親は、こう言った。

 「お小づかいをやたらとほしがって困っています。テストの点数がよかったりすると、『小づか
いをくれ』などと、せがんだりします。そしてお金をもつと、一目散に、カードやシールを買いに
行きます。たいした額ではないので、今はおおめに見ていますが、どうしてああまでほしがるの
でしょうかねえ」と。

●険悪化

 ポケモン攻略法を解説したテレビ番組もある。朝の七時台に放映されているが、ポケモンフ
ァンたちはこの番組を欠かさず見ている。その番組の中では、どうすればカードゲームで相手
に勝てるかなどの必勝法を紹介しているが、この番組を見て、子どもたちの間で、論争が起き
ることもしばしばあるそうだ。

あるいは攻略法をめぐって、口論や喧嘩に発展することもあるという。さらに「教えろ」「教えな
い」の言い争いの中で、たがいの友だち関係そのものがおかしくなることもあるという。

 別の母親はこんなこともあると、話してくれた。「裏ワザを教えてあげるから、○○をよこせ
と、うちの子は、ものを要求された」と。もっともこういうことは、何もポケモンに限らず、子ども
の世界ではよくあることだが、それが今、過剰になりつつある。

●退化

 ある母親はこう言った。「あの歌(『ポケモン言えるかな』)が嫌いです。呪文みたいで不気味
です」と。「(ほかの)お母さんによっては、記憶力の訓練にはいいと言っている人もいますが、
私は嫌いです」とも。

 また絵についての評判もすこぶる悪い。「うちの子は、ポケモンの絵をすごくこって描くのです
が、ああいうのが絵だと思ってしまうのは残念です。立体性もありませんし、絵としては、とても
見られたものではありません。絵がますますへたになっていくようで、心配です」と。私が「以前
は、女の子が皆、リカちゃん人形の絵を描いたものです」と説明すると、「あれもいやな絵です
ね」と、その母親は笑った。

●画一化

 「うちへ遊びにくる子どもが、皆、同じことを言うのには驚きました」という報告もあった。「好き
なゲームは、ポケモン。好きなキャラクターは、ピカチュウというように、皆、同じことを言うので
す。そしてテレビのアニメの時間になると、あのアニメを、皆が、食い入るように見ているので
す。声をかけても誰も返事をしません。

子どもたちが、皆、画一化されていくようで、心配です」と。「ある特定の年代だけとはいえ、そ
の年代の子どもが、ほとんど皆、同じものに興味をもち、同じことをするというのは、危険なこと
ではないでしょうか」という意見もあった。

●集団性

 その画一化と同じような意見だが、「ポケモンを知らないと、(子どもたちの間で)、仲間はず
れにされるのでは」という意見もあった。

「お兄ちゃんのときは、うちへ遊びに来た子どもで、『何だ、お前のうちには、テレビゲームもな
いのか』と言った子どもがいましたが、今は、それがポケモンなんですね。弟の友だちが来て、
『お前のうちには、何もないのか』って。

そこでポケモングッズをいくつか買って並べておいたら、今度は、ワーワーと喜びました」と。ほ
かに「子どもたちの話を横で聞いていると、まさにポケモン一色。本当にあれでよいのでしょう
か」という意見もあった。

●小粒化

 たまごっちブームと前後して、ポケモンブームがやってきた。そのことについて、たがいの間
に何かの関係があるのではと指摘した母親もいた。「ともに小さいですよね」と。「小さいという
ことは悪いことではないのですが、何かしら、子どもたちの世界がどんどん小さくなっていくよう
で心配です。子どもにはもっと大きなものに興味をもってほしいですね」とも。

 小さなゲーム機器と、小さなキャラクター。この組み合わせは、ますます子どもの世界を小さく
しているというわけであるが、子どもたちは、今、そういうものを求めている。自分の手の中に
入り、自分の思うようになるものを求めている。そういう意味でも、子どもたちの世界は、たしか
に小さくなりつつある。

 ポケモンについて、否定的な意見が多いのは事実で、ポケモンを好意的にとらえている母親
はほとんどいなかった。「できればああいうのは見せたくありません」と言いつつ、「しかたあり
ませんから」と。私は一連の調査をしながら、母親たちの間に、あきらめというか、ある種の無
力感が漂っているのを感じた。

 これは母親たちに限らない。私たちは、たとえばテレビ文化についても、意見を言えるよう
で、言えない。言っても、その意見は、制作の現場には届かないしくみになっている。

たとえば今、低俗なバラエティ番組が毎晩のように東京から流れてくるが、一地方人の立場で
言うなら、私たちは、あまりにも無力でしかない。私たちがせいぜいできることと言えば、テレビ
局に電話で抗議することぐらいでしかない。

が、そういう意見は、まずとおらない。テレビ局は視聴率で動いている。低俗であろうがなかろ
うが、視聴率さえよければ、それでよい。どうもそういうことらしいが、最近でもこんなことがあっ
た。

 BT氏の番組だったが、こういうのがあった。「人間の反応をみる」というふれこみだったが、
通行人が仮設トイレへ入ると、そのトイレの床が突然上昇し、便器もろとも、トイレの屋根へ押
しあげられるというものだった(九七年秋)。

いわゆるドッキリ番組の種類だが、しかしそのトイレに入ったのは、ごく一般の通行人であっ
た。トイレの中にも、またそのトイレの周囲には、それを取り囲むように、いくつかのアングルか
ら隠しカメラもセットされていた。私はすぐそのテレビ局に電話をした。

私「トイレの中にカメラがありますが、入った人が女性だったら、どうしたのですか」
テ「知りませんが、女性は使いませんでした」
私「トイレの中にカメラをしかけるということが、どういうことだか、あなたは知らないはずはない
でしょ」
テ「ちゃんと了解をもらっています」

私「前もってですか、それともあとで、ですか」
テ「ここではわかりませんが、当然、了解をもらって放映したと思います」
私「しかもうんちスタイルの男性を、屋根の上まで押しあげて、それを撮影するということについ
て、あなたたちは良心に恥じませんか」
テ「はあ、やりすぎだとは、私も個人的に思いますが、しかしBTさんの番組ですから」

私「知っています」
テ「B国際映画祭で賞をとった方です」
私「だからどうなんです。だからといって、何をしてもよいというわけではないでしょ」


 私にはこういうレベルでポケモンが制作され、そして子どもたちの世界にタレ流されているよ
うにしか思えない。そして今回のような事件が起き、全国で一万人以上もの子どもたちが被害
にあった……!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●疑似体験(ポケモンカルトより)

 たまごっち旋風が、世界をかけぬけた。たわいもない飼育型ゲームだが、一体このゲーム
は、子どもたちにどのような影響を与えたのだろうか。

それがわかるようになるには、もう少し時間がかかるが、この小さなゲーム機の中の、黒い点
の集まりでしかない「電子の生き物」に、子どもたちは夢中になった。誰が見てもぶかっこうな、
どうみても生き物には見えない小さな点の集まりを、子どもたちは「かわいい、かわいい」と、ほ
おずりをしていた。そして宝物であるかのように、それを胸に抱き、夜にはふとんをかぶせて休
ませた。

「夜中に食事をほしがったら、どうするのか」と私が聞いたら、「しつけがよいから、夜は静かに
寝る」と。タイマーで、そうセットされているのだから、当然といえば当然だが、しかし子どもに
は、それがわからない。

 で、それで、つまり、こういう擬似的な生き物を飼育することによって、生き物に対する別の生
命観が生まれたかといえば、そういうことはまったく、ない。子どもたちは、相も変わらず小さな
虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回っている。あるいはたまごっちが終わって、自分で、別
の本物の生き物を飼い始めたという話は聞かない。ポケモンは、このたまごっちと姉妹関係に
ある。

 こうした疑似体験は、それがよいとか、悪いとか、そういう議論をとおりこして、子どもたちの
みならず、おとなの世界も支配している。いまさら疑似体験をなくすこともできないし、またその
害悪を説いてもしかたない。自動車と同じで、いくら環境破壊の原因になるからといって、自動
車のもつ害悪性を説いても意味がない。私たちがせいぜいできることと言えば、自動車を改良
するとか、できるだけ自動車に乗らないでおくということでしかない。

 子どもたちは、ゲームの中であるにせよ、その中で戦い、そしてレベルをあげる。そして自分
が強くなったように感ずる。……らしい。そして一抹の充足感を味わう。

しかし疑似体験は疑似体験。ふつうの常識のある普通の人なら、疑似体験は疑似体験とし
て、現実の世界と区別して考えることができる。が、子どもはそうではない。時に疑似体験の世
界に取り込まれてしまう。そして現実の世界と区別できなくなってしまう。

嘘だと思うなら、一言でよいから、子どもにこう言ってみることだ。「ポケモンなんて、いくらやっ
ても無意味だよ」と。子どもたちは、その一言だけで、興奮し、ムキになって反論してくるだろ
う。そしてその様子は、教組を否定されたカルト教団の信者の様子と、たいへんよく似ている。

たいていのカルト教団では、教組や指導者の批判をするだけで天罰があたると教えている。こ
んな手紙をもらったことがある。

何でもその女性の夫が、天罰が当たると、毎日、おびえているというのだ。つまりその人が、こ
とあるごとに、夫の宗教を批判するため、夫は、「そういう女房のために、天罰があたる」と。私
は、一度、その女性と会ったことがある。

私「深刻なようですね」
女性「深刻ですが、はたから見ていると、こっけいでならないのです」
私「しかしあなたの夫は、真剣なんでしょ」
女性「そうです。だから私には、理解できないのです。ほかの面では立派な知性もあると思わ
れるような人が、天罰があたるのではないかと、毎日、ビクビクしています」

私「カルトというのは、そういうものです。教団を批判したり、その教団から離れると、天罰があ
たると、徹底的に信者を洗脳します」
女性「教団の利益のために、ですか」
私「そうです。だいたい、ですよ。心が無限無量に広いから『仏』と言うのです。そういう仏が、批
判されたり、あるいは自分から信者が去ったことぐらいで、相手に天罰など、与えると思います
か」
女性「思いません」

私「天罰をあたえるとしたら、その『仏』というのは、仏のツラをした、悪魔です。勇気をもって、
その教団を批判することです」

 自分の立場で考えると、それがよくわかる。たとえばあなたが、その仏であったとしよう。絶対
に正しい、仏であったとしよう。そこでもし、そのあなたを理解できない人がいて、あなたを批判
したり、あなたから去ったとしよう。そのとき、あなたはその人に対してどうするだろうか。天罰
を与えて、制裁を加えるだろうか。

 あなたは天罰など与える必要もないし、またそんなこと、考えもしない。むしろあなたを理解で
きない相手を、あわれみ、相手の幸せを願って、静かに相手を見守るにちがいない。私は仏で
はないが、同じような体験を、教育の場でよく経験する。

いくらこちらが誠意をつくしても、その誠意の通じない生徒がときどきいる。そればかりではな
い。中には、私に悪態をついて、椅子を蹴っ飛ばして、教室を出ていく生徒もいる。そういうと
き、いくら経験をつんでいるとはいえ、相手が子どもであることを忘れて、瞬間、「このヤロ
ウ!」と思うこともある。

しかしそれはあくまでも瞬間。次の瞬間には、「どうぞご勝手に」という心境になるし、さらにそ
の次の瞬間には、「かわいそうなヤツだ」と思うようになる。しかし絶対に、その子どもの不幸は
願わない。「苦労はするだろうな」とは思っても、「苦労すればよい」などとは思わない。

 ゲームの中で疑似体験をし、その疑似体験を、現実と区別できない子どもと、カルト信仰の
中で、自分を見失い、天罰があたるのではないかとビクビクしている人とは、たいへんよく似て
いる。そういう人は、「天罰」という空想の世界と、「今」という現実の世界との区別がつかなかく
なってしまったのだ。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 この本を書いてから、もう7、8年になる。それ以後、子どもたちを包む環境は、よくなったの
だろうか。あるいは、悪くなったのだろうか。もっと言えば、親たちは、当時と比べて、より賢くな
ったのだろうか。それとも、そうではないのだろうか。

 私の印象としては、ここ10年、ものを考えない人が、ますますふえているように感ずる。あく
までも、私の印象だが……。
(050616)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(726)

【新・子育て格言byはやし浩司】

●子どもに、子どもの育て方を教える

 子どもに子どもの育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、
子育てをするのですよ」「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。

 教えるだけでは足りない。身にしみこませておく。「幸せな家庭というのは、こういうものです
よ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「家族というのは、こういうものですよ」と。そういう「し
みこみ」があってはじめて子どもは、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができ
るようになる。


●自分の過去をみる

 一般論として、不幸にして不幸な家庭の育った人(親)は、子育てがへた。どこかぎこちない。
自分の中に親像のない人とみる。

 ある父親は、ほとんどその母親だけによって育てられていた。(父親の父親は、今でいう単身
赴任の形で、名古屋に住んでいた。)そのため父親がどういうものであるか知らなかった? 
何か子どもに問題があると、子どもを、容赦なく、殴りつけていた。このように、極端にきびしい
親、あるいは反対に極端に甘い親は、ここでいう親像のない人とみる。

 また不幸な家庭に育った人は、「いい親子関係をつくろう」「いい家庭をつくろう」という気負い
ばかりが強くなり、結果として、子育てで失敗しやすい。

 もしあなたが自分の子育てのどこかで、ぎこちなさを感じたら、自分の過去を振りかえってみ
る。この問題は、自分の過去がどういうものであるかを知るだけで、解決する。まずいのは、そ
の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされること。


●「育自」なんて、とんでもない!

 よく「育自」という言葉を使って、「育児とは、育自」と言う人がいる。しかし子育てはそんな甘
いものではない。親は子育てをしながら、子どもに、否応なしに育てられる。

 子育てはまさに、山や谷の連続。その山や谷を越えるうちに、ちょうど稲穂の穂が、実るとた
れてくるように、親の姿勢も低くなる。もし「育自」を考えるヒマがあるなら、親は親で、子育てを
忘れて、一人の人間として、外の世界で伸びればよい。そういう姿勢が、一方で、子どもを伸ば
す。自分を伸ばすことを、子育てにかこつけてはいけない。


●カプセル化に注意

 家庭という小さな世界に閉じこもり、そこで自分だけの価値観を熟成すると、子育てそのもの
がゆがむことがある。これをカプセル化という。

 最近は、価値観の多様性が進んだ。また親たちの学歴も高くなり、その分、「私が正しい」と
思う人がふえてきた。それはそれで悪いことではないが、こと子育てに関しては、常識と経験
が、ものをいう。頭で考えてするものではない。

 そのため子育てをするときは、できるだけ風通しをよくする。具体的には、ほかの親たちと交
流をふやす。が、それだけでは足りない。いつも「私はまちがっているかもしれない」という謙虚
な姿勢を保つ。そして子どもを、自分を通して見るのではなく、別個の一人の人間としてみる。
「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私の子どもは、私と同じように考えているは
ず」と過信している親ほど、子育てで失敗しやすい。

 このカプセル化のこわいところは、それだけではない。同じ過保護でも、カプセルの中に入る
と、極端な過保護になる。過干渉も、過関心も、極端な過干渉や、過関心になる。いわゆる子
育てそのものが、先鋭化したり、極端化したりする。


●親の主義に注意

 よく「私は○○主義で、子どもを育てています」などという人がいる。しかし「主義」などというも
のは、無数の経験と、試行錯誤の結果、身につくもの。安易に主義を決め、それに従うのは、
危険ですらある。いわんや、子育てに、主義などあってはならない。よい例が、スパルタ主義、
完ぺき主義、徹底主義など。

 これについては、以前、こんな原稿を書いたので、ここに張りつけておく。

++++++++++++++++

●子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ
を読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

 要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけな
い。

「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

 子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理
に順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四
気調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子
育てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

 子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。

子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、など。少しこじつけの感じがしないでも
ないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

++++++++++++++++

●あなたは神経質ママ?
雑誌「ファミリス」に掲載済み

●『まじめ七割、いいかげんさ三割』
 子育ては『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなも
の。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。

たとえば参観授業のようなとき、親の鋭い視線を感じて、授業がやりにくく思うことがある。とき
にはその視線が、ビンビンとこちらの体をつらぬくときさえある。そういう親の子どもは、たいて
いハキがなく、暗く沈んでいる。

ふつう神経質な子育てが日常的につづくと、子どもの心は内閉する。萎縮することもある。(あ
るいは反対に静かな落ち着きが消え、粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、神経
質な子育てをやり返した子どもと考えるとわかりやすい。)

●子育ての三悪

 子育ての三悪に、スパルタ主義、徹底主義、それに完ぺき主義がある。スパルタ主義という
のは、きびしい鍛練を主とする教育法をいう。また徹底主義というのは、やることなすことが極
端で、しかも徹底していることをいう。

おけいこでも何でも、「させる」と決めたら、毎日、そればかりをさせるなど。要するに子育ては
自然に任すのが一番。人間は過去数一〇万年もの間、こうして生きてきた。子育てのし方にし
ても、ここ一〇〇年や二〇〇年くらいの間に、「変わった」と思うほうがおかしい。心のどこかで
「不自然さ」を感じたら、その子育ては疑ってみる。

●こわい完ぺき主義

 完ぺき主義もそうだ。このタイプの親は、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に無理やり
子どもをあてはめようとする。こまごまとした指示を、神経質なほどまでに子どもに守らせるな
ど。

このタイプの親にかぎって、よく「私は子どもを愛している」と言うが、本当のところは、自分のエ
ゴを子どもに押しつけているだけ。自分の欲望を満足させるために、子どもを利用しているだ
け。

●子育ての基本は自由

 子育ての基本は、子どもを自立させること。そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはも
ともと、「自らに由(よ)る」という意味。つまり子どもには、(1)自分で考えさせ、(2)自分で行動
させ、そして(3)自分で責任を取らせる。過干渉や過関心は、子どもから考えるという習慣を奪
う。

過保護は自分で行動するという力を奪う。また溺愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の子
ども(中三男子)が万引きをして補導されたときのこと。夜中の間にあちこちを回り、事件その
ものをもみ消してしまった母親がいた。「内申書に書かれると、進学にさしさわりがある」という
のが、その理由だった。

●家庭はいやしの場に

 子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」へと
変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あまり
こまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの上に
座るよりも、気がねせず、カボチャの頭のほうがよい』と書いている。このテストで高得点だった
人ほど、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。

●子どもには自分で失敗させる

 また子どもに何か問題が起きたりすると、「先生が悪い」「友だちに原因がある」と騒ぐ人がい
る。しかしもし子どもが家庭で心をいやすことができたら、そのうちのほとんどは、そのまま解
決するはずである。

そのためにも「いいかげんさ」を大切にする。「歯を磨かなければ、虫歯になるわよ」と言いなが
らも、虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。痛い思いをしてはじめて、子どもは歯をみがくよ
うになる。「宿題をしなさい」と言いながらも、宿題をしないで学校へ行けば、先生に叱られる。
叱られれば、そのつぎからは宿題をするようになる。そういういいかげんさが、子どもを自立さ
せる。たくましくする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ズル休みのすすめ

 不登校児をもつ親などと話していて、いつも気になるのは、「学校とは行かねばならないとこ
ろ」という観念で、頭がガチガチにかたまっていること(失礼!)。ときには、「どうしてそこまで学
校にこだわるのか」とさえ思ってしまう。

昔、毛沢東は、『造反有理』と言った。「反抗するものには、理由がある」という意味だが、既存
のコースに反発する子どもには、必ず、それなりの理由がある。頭から、「おかしい」とか、「ま
ちがっている」とか決めつけないで、ときには、子どもの言い分にも、耳を傾けてやる必要があ
るのではないだろうか。

 もちろん勤勉であることは、それ自体は悪いことではない。しかし日本人は、勤勉であること
を美徳とするあまり、もっと大切なものを、見失っているのではないだろうか。そういう思いをこ
めて書いたのが、つぎのエッセーである。

+++++++++++++++++++
 
常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

★学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年
調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日
本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職
するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に
話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで
はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」

「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
 

●自意識を育てる
 
小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかりや
すく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれ
ば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。

 たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうこ
とをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い
(自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためであ
る。

 ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意
識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎる
と、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようにな
る。

 そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。A
DHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指
導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそ
れまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。

 子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意
識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年
生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつ
ぶさないように指導する。


●幸福な家庭環境で包む

 「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのでは
なく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てがで
きる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験であ
る」と。

 つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわ
りあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形
で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子ど
もを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格
言は正しい。

 まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というの
は、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。
そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。


●親の心は、子の心

 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ
方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。

 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か
って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、
娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。

 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。

 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の
経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。

言いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいも
のと悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、
自分自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というよ
り、あえて伝える必要はない。

あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生きザマになる。親子という
のは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと

いうことになる。

●家庭の緊張感を大切に

 ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子
どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビ
キビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよい
とか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子ども
の目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切
にする。

 しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへ
んのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族
全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。


●温もりのある園を

 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。

 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため
に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す
といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子
どもをやらないほうがよい。

●園は、先生を見て選ぶ

 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって
いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ
うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという
ような園は、さける。

 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、
よい。

●男児は男児
 
男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル
のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取
っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって
いる。

 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ
とと決めてかかってはいけない。

●負けるが勝ち

 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、
「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるよう
に見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。

 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ
れなりに深刻なケースと考えてよい。

さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほかの世界でのことなら、ともかくも、あ
なたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子どもにとって、すみやすい世界を、何よ
りも優先する。だから、『負けるが勝ち』。

●我流に注意
 子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」
「他人の育児論は役にたたない」と。

 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と
思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない…
…」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。

 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。

その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。

●二番底、三番底に注意

 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの
世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち
るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを
繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。

 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?

 そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす
るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。

●信仰に注意

 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。

 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊
状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ
マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、
行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。

 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集
団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始
めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした
りする。

 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。

●機嫌を取らない

 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない
ことは、言うまでもない。)

 そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの
親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子
どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育
児観は、捨てたほうがよい。

 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた
と子どものパイプを太くする。

●いつも我が身をみる

 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。

 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって
ほしいです」と。

 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て
をするときの、コツ。

●本物を与える
 子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」
というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそ
うする」。

 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ
のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた
ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。

こうした低俗、軽薄文化が、今、この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかとい
うこと。このままでよいかということ。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれ
ば、子どもには、できるだけ本物を与えたり、見せたり、聞かせたりする。

●親が生きがいをもつ
 
子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。

 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは
結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言
える。

 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。

それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。

●仮面に注意

 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見
られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。

 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト
レスをためやすい。

 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。

 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。

●聞き上手になる

 子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ
レーションする。そうでない親は、そうでない。

 親と話していて、(教える立場で)、何がいやかといって、すぐカリカリすること。

私「最近、元気がありませんが……」
 親「うちでは元気があります」
 私「何か、問題がありませんか?」
 親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。

 子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ
になる。

●親の悪口は言わない

 あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい
けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結
果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。

 父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って
はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家
族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。

●無菌状態に注意

 子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、
つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学
ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ
も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。

 子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も
身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま
ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。

●子どもは削って伸ばす

 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。

たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。

 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。

 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。

●「偉い」を廃語に

 日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い
人。わかるかな?」と言っていた。

 しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ
る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま
り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、
ほとんど問題にならない。

 この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。

そこでどうだろう。もう「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かって
は、「偉い人になりなさい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのよう
だが、こうした小さな変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることが
できる。

●訓練(指導)と教育は別

 この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、
教育ではない。

 訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い
込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教
育の最大の悲劇がある。

 一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも
訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり
えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す
ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。

 教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。

私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。
むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。

●アルバムは見せよう

 子どものいつも手や目が届くところに、アルバムを置いておく。アルバムというのは、楽しい
思い出がつまった、宝石箱。子どもはそのアルバムを見て、心をいやす。それだけではない。
おとなは、過去をなつかしんでアルバムを見るが、子どもは、未来を知るためにアルバムを見
る。ある子どもは、父親の子ども時代の写真を見て、「これはお兄ちゃんだ」と言い張った。自
分が成長していく、喜びを、その中に見る。

 アルバムには、不思議な力がある。どう不思議かは、あなた自身が発見してみればよい。

●ベッドタイムゲームを大切に

 子どもは毎晩寝る前に、同じ習慣を繰りかえして眠りにつくという習性がある。これを英語で
は、「ベッドタイムゲーム」という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ること
に恐怖心をいだいたりする。ばあいによっては、情緒不安の原因ともなる。

 コツは、毎晩、同じことを繰りかえすようにする。本を読んであげたり、軽く添い寝をしてあげ
たりするなど。まずいのは、いきなり子どもをベッドに押し込め、電気を消すような乱暴な行為。

子どもは眠ることそのものに、恐怖心をもつようになる。

●冷蔵庫をカラにする

 子どもの小食で悩んでいる親は多い。食が少ない、遅い、好き嫌いがはげしいなど。そういう
ときは、まず冷蔵庫をカラにする。身の回りから食料を片づける。徹底して、それをする。とくに
菓子類、甘い食品など、俗に言うジャンクフードなどは、思い切って捨てる。「もったいない」と
思ったら、なおさらそうする。その「思い」が、つぎからのまちがった買い物習慣を改める。

 そして母親が料理で作ったもの以外、食べるものがないという状態にする。これを数か月〜
半年、つづける。たいていの小食は、それでなおる。

●カルシウムを大切に

 子どもの食生活では、カルシウム分、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。要する
に、海産物を中心とした献立にする。

 とくに子どもの情緒が不安定になったら、まずカルシウム分の多い食生活にする。ちょっとし
たことでピリピリしたり、怒ったり、反対にわけもわからないままぐずったりするようなとき、効果
がある。戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていたという。

●歩かせる

 子どもは、何かにつけて、歩かせる。歩くことが、体力をつける基本と考える。

 昔、オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。「旅は、歩け」と。つまり歩くことにより、もちろ
ん健康になるが、それだけ印象も深くなる。まわりの景色や状況が、より鮮明に記憶に残る。

ウソだと思うなら、あなた自身の記憶の中をさぐってみればよい。あなたの記憶の中には、無
数の思い出があるが、その中でも、そういうときの思い出が、より印象強く残っているかを、知
ればよい。歩くことにより、五感(見る、聞く、感ずる、かぐ、考える)全体が、より強く刺激される
ためである。
(はやし浩司 子育て格言 育児格言 格言集)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(727)

【近ごろ・あれこれ】

●日本の執行猶予制度は、おかしい!

 「懲役3年、執行猶予5年」……というような、裁判所の判決を、みなさんも、お聞きになった
ことがあると思う。

 これは「有罪だが、5年間、静かにしていれば、実刑を受けることもなく、罪も消える」という意
味の判決をいう。

執行猶予(しっこうゆうよ)というのは、3年以下の懲役もしくは禁錮または5000円以下の罰
金の刑を受けた者について、情状によって、1年以上、5年以下、刑の執行を猶予するという
制度をいう。しかし、考えてみれば、これほど、おかしな制度はない。

 たとえば贈収賄(ぞうしゅうわい)や、談合を考えてみる。

 一度、贈収賄で逮捕されれば、ふつうは、収賄側は解雇。その役職から離れるわけで、ほっ
ておいても、二度と同じような贈収賄を起こす可能性はない。贈賄側にしても、つぎに同じよう
なことをしたいときには、役者をかえれば、それですむ。

 こうした犯罪を犯したものは、たとえ短期でも、実刑を受けるべきである。たとえば「懲役3
年、執行猶予5年」というような判決であっても、その中の1年程度の実刑は、当然ではないの
か。つまり最初から執行猶予をつけるのではなく、実刑を受けさせ、受刑者の様子を見なが
ら、あとから執行猶予をつける。

 「あなたは、この1年間、模範囚だったから、残りの2年分については、執行を猶予しましょう」
と。

 これに合わせて、よく聞かれる言葉に、こんなのがある。「被告は、職場を失うなど、すでにじ
ゅうぶんな社会的制裁を受けているので……うんぬん」と。

 しかし職場を失うのは、これまた当然のことであって、それでもって、「社会的制裁を受けた」
というのは、どうか? もともとその(職場=立場)にあるからこそ、こういう事件を起こす。

 たとえば公務員がワイロを受け取ったとする。公務員だからこそ、ワイロを手にすることがで
きる。公務員でなければ、ワイロは、もらえない。で、それが発覚して、その公務員は、職場を
追われる。つまりそれを、裁判所は、社会的制裁を受けたことになるという。だから執行猶予
がつく。

 どう考えても、おかしい。

 むしろ、自分の立場や特権を利用して、私利私欲のために犯罪を犯した人のほうが、罪は、
重い。で、その収賄罪にしても、よほどのことがないかぎり、実刑判決を受けることはない。た
いてい、執行猶予がつく。

 私は、こうした事件で、執行猶予のついた判決がくだされるたびに、「ナ〜ンダ!」と思ってし
まう。日本の刑罰は、甘いところでは、本当に、甘い。たとえばオーストラリアでは、15歳未満
の少年、少女と性交渉をもったら、即、逮捕、裁判、刑務所へ送られるという。例外は、ないそ
うだ。そのきびしさが、犯罪の数を、減らしている。

 最近も、何かの談合疑惑で、大手のゼネコン関係者が多数逮捕された。有罪にはなるのだ
ろうが、どうせ、初犯だから……というような理由で、執行猶予がつくに決まっている。

 そういう贈賄側で有罪になった関係者は、ほとぼりがさめるまで、地方のどこかで静かにして
いればよい。もちろんその間、会社からは手厚く保護を受けるはず。何といっても、会社のた
めに罪をかぶったのだから……。つまりこういう甘いことを繰りかえしているから、談合は、い
っこうになくならない。

 贈収賄にせよ、談合というのは、国民を相手にした、詐欺(さぎ)そのものなのである。しかも
同じ詐欺の中でも、悪質。そういう認識が、国民にも、裁判所にも、まるでない。

 みなさんも、これから「執行猶予」という言葉を聞いたら、ふと立ち止まって、考えてみてほし
い。そしておかしいと思ったら、「おかしい」と声をあげてみてほしい。その一言が、これからの
日本を変えていく。

(注)30年前には、収賄罪しかなかった。つまりワイロをもらったほうだけが、罪を問われた。
だからワイロをもらう側にしても、ハラハラだったにちがいない。しかし今は、贈収賄罪にかわ
った。ワイロを贈ったほうも、罪を問われる。だからたがいに、口がかたくなった。その分だけ、
犯罪が発覚しにくくなったと言える。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●オーストラリア人の金持ち

 現在、我が家にホームステイしている、オーストラリア人たちは、その地方でも、けた外れの
金持ちである。

 しかしそういうオーストラリア人を見ていて、「アレッ?」と思うことが、しばしばある。

 その第一。生活が、実に質素。ジミ。ハリウッド映画に出てくるような、ああいった派手さは、
まるでない。

 カバンも衣服も、中国製を思わせる、すり切れた安物。買い物も、ほとんどしない。ただとき
どき、「なるほど」と思うことはある。レストランへ入って、ワインを注文するときなどは、1本、2
〜3万円もするワインを、平気で注文する。ブランドにうるさく、こまかいところまで確かめなが
ら、注文する。

 「日本のワインは、ライオンの小便(ピス)のようだから……」と。

 で、さらに話を聞いてみると、今回の日本の旅行は別として、オーストラリアでは、たとえば数
週間をかけて、内陸部の荒野(アウトバック)へ旅をするとか、軽飛行機で、山岳地方を飛び回
るとか、そういう旅行をしていることがわかった。

 お金のかけかたがちがうというか、スケールが、ちがう。それがどうやら、オーストラリア流、
金持ちの旅行のし方のようである。

 それに前にも書いたが、美術館へ行っても、どこかの名所へ行っても、そこでたっぷりと時間
をかける。日本人のように、セカセカと動き回らない。気がすむまで、そこでぼんやりと時間を
つぶす。したいままにさせておくと、1時間でも、2時間でも、そのままでいる。つぎの計画(予
定)など、まったく考えていない。

 だから案内する私のほうも、彼らのうしろについていくだけ。たまに、「そろそろ出ようか?」と
声をかけると、すなおに従ってくれる。

 そういう点では、(考える)という習慣が、自然な形で身についているように思う。一つの仏像
を見ながら、何やら一生懸命、考えている。そして「どうして?」「なぜ?」と、子どもがするような
質問を、つぎつぎとぶつけてくる。

 あくまでも、日本人の旅行のし方との比較だが、オーストラリア人は、日本人のように、情報
を記憶に残すということには、あまり興味がないようである。その場、その場で、その時間と場
所を、楽しむ。そういったような旅行のし方をする。

 繰りかえすが、実に質素。ジミ。

 「○○へ行きたい」と言うので、「どうする?」と聞くと、「歩いて行く」とか、「バスで行く」とか言
う。「タクシーを呼んでくれ」とは言わない。どうやら私の家の生活ぶりを見ながら、それに合わ
せているようである。

 つまりことさら、私たちに、金持ちであることを見せつけるようなことをしない。遠慮深く、私た
ちをキズつけないように配慮している。礼儀正しい。そんな感じさえする。(私のほうが、「タクシ
ーを呼んであげようか」と言いそうになるが……。)

 旅行のし方にも、いろいろあるようだ。私は、今、それを彼らから、学んでいる。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●心の豊かさvs心の貧しさ

 K府に住んでいる、Rさん(女性)から、こんなメールが、届いた。題して、「悲しき笑い話」。

 「私の母は、今年、82歳になります。頭もしっかりしています。が、昔から、異常なまでに虚栄
心が強く、見栄を張ります。

 収入は、わずかな年金だけ。あとは私の兄が、毎月、いくらかの小遣いを送ってくれるので、
それで生活をしています。

 たとえばサイフの中には、いつも、10万円近いお金を入れて歩いています。スーパーでお金
を払うときも、わざとそのお金が、店員さんに見えるようにして払うのです。で、私が「そんな人
にまで、見栄を張ることはないでしょう」と言うのですが、私の言うことなど、まったく聞いてくれ
ません。

 が、ときどき、お金が少なくなるときもあるようです。そういうときは、一番上と、一番下に、1
万円札を置き、中に1000円札を、10枚くらいはさんで、あたかも、お金があるように見せか
けます。

 そういう母を見ていると、ときどき、『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』
と、娘として、さみしくなります」(以上、要約)と。

 見栄を張る人は多い。しかもそれが人生観の基本になっているから、始末が悪い。また人生
の途中でそれに気がついて、改めるということもしない。だから80歳をすぎても、そのまま。

 が、この年代の人には、こういったタイプの人が多い。見かけはともかくも、心は貧しい。貧乏
な人の家にやってきて、ことさら金持ちであることを、吹聴してみせる。そして相手に対して、優
越感を覚え、それを楽しむ。

 そう言えば、バブル経済のこと、東南アジアの貧しい国々へでかけていって、札や、コインを
バラまいていた日本人がいた。やはり、心の貧しい人たちである。体中に、キンキラキンの宝
飾をぶらさげ、ブランド品で身を包んで、得意になっている人たちもそうだ。

 話はそれたが、それたついでに、もうひとつ。

 よく東南アジアやアフリカへでかけていって、その国や、その国の人々を紹介するテレビ番組
がある。そういう番組の中で、レポーターが、相手の国の貧しさや不便さに、ことさら驚いてみ
せたりすることがある。場違いな服装に、派手な装飾品。いかにも、リッチな、日本からやって
きましたというふうな様子をしてみせる。

 そのレポーターの心が貧しいというよりは、日本人全体の心が、まだそのレベルにあると考
えてよい。

 相手の人が貧しい生活をしていたら、その貧しさに、自分を合わせる。合わせた生活をす
る。相手がどういう感情をもつかを、相手の立場で思いやる。相手が、あなたに対して、羨望
(せんぼう)を覚えたとしたら、それはあなたの責任。決して、自分たちの優越性を見せつけて
はいけない。それがその国の人たちに対する、礼儀と言うもの。

 さて、冒頭の女性の話にもどる。Rさんの母親は、たいへん心の貧しい人と考えてよい。ある
いは心の豊さというものがどういうものか、わかっていない。Rさん自身が言っているように、
『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』ということになる。

 で、そうならないための、いくつかの教訓を考えてみた。

(1)あるがままの自分をさらけ出して、生きる。
(2)「私は私」をつらぬき、他人の目を気にしない。
(3)心の豊かさを追求し、世間体、見栄、体裁を気にしない。
(4)いつも、ともに(生きている)という原点において、自分を見つめる。

 が、油断すると、ふと見栄を張ることがある。自分が自分でなくなるときがある。自分の中に
潜むそういう邪悪性を知るための、一番、手っ取り早い方法としては、あなたの周辺にいる人
の中から、そういう人をさがすというのがある。その人の愚かさを、しっかりと認識する。あなた
のまわりにも、必ず、1人や2人はいるはず。

 そういう人を反面教師として、自分を高めるために、利用する。その人には悪いが、その人
の愚かさがわかったら、それを自分の生きザマの中に、生かしていく。

【補足】

 相手に羨望感をもたせて(=うらやましがらせて)、優越感にひたるというのは、愚劣な人間
だけがなしうる、軽率な行為である。

 金持ちであることを、見せびらかしたり、得意になったりする。昔、私の近所にも、そういう男
がいた。和服の呉服店を経営していて、ことあるごとに、「今日は、x10万円、もうけたよ」「これ
で今月は、x100万円だ」と言っていた。

 「オレは、それだけ力のある男だ」と言いたかったのだろうが、私には、ただのノーブレインに
しか見えなかった。

 玄関中に、高価な、鎧やトラの皮を飾っている人もいた。借金だらけのくせに、外車を乗り回
している人もいた。根底に、何か、大きな劣等感がある人ほど、そういう行為に走りやすい。つ
まりは、「私」がないから、そうする。

 20代や30代の若い人ならともかくも、50代、60代になっても、「私」がつかめきれていない
人というのは、それだけで、人生の敗北者(失礼!)と考えてよいのでは……? こう言いきる
のは危険なことかもしれないが、今の私は、そう思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子育て・新格言】

++++++++++++++++++++

注、以下の原稿は、もう20年近く前に書いたものです。
それを書き改めて、みなさんにおとどけします。が、
現状にどうしても合わない部分もあります。

その現状に合わなくなった部分こそが、つまりは、子どもたち
を包む環境が変わった部分ということになります。
どうか、そういうことも、お考えの上、お読みください。

++++++++++++++++++++

●クーラーを避ける

 都会ではそうはいかないかもしれない。しかしクーラーは、できるだけ避ける。私の家は、ク
ーラーなしで、やってきた。そのためか、息子たちも、かえってクーラーの不自然な冷気を嫌う
ようになった。ああいうものは、なければなくても、すむものか?

 反対に、夏など、クーラーがないと、苦しそうにハーハーとあえぐ子どもが多いのには、驚か
される。胸をかきむしる子どもさえいる。話を聞くと、家では、一日中、クーラーをつけっぱなし
だという。

 子どもの健康もさることながら、こういうぜいたくな生活に慣れきってしまった子どもは、将来
どうなるのか? そんなことも少しは、考えたほうがよい。


●子育ては楽しむ

 子育ての最大のコツは、子育てを楽しむ。「育てよう」「育ててやろう」と考えるのではなく、「い
っしょに楽しむ」。そういう姿勢が、子どもを伸ばす。

 もしあなたが子育てをしていて、それを負担に感じたり、不愉快に感じたら、親子断絶の第一
歩と考えてよい。それだけではない。長い時間をかけて、あなたの子どもの表情は、確実に暗
くなる。

 どうせ育てなければならないのだったら、はじめから、楽しむ。それだけのこと。


●外で遊ばせる

 子どもは、外で遊ぶのが、基本。しかし今、外で遊ぶ子どもは、ほとんどいない。田舎に住む
子どもほど、そうで、原因は、テレビゲーム。

 こうした現状を嘆いてもしかたないが、しかし、それでも子どもは、できるだけ外で遊ばせる。
努めて、そうする。子どもは外で遊ぶことにより、……。

この部分を書き始めたら、とても数行ではすまないが、ともかくも、そうする。あなたの子どもが
日曜日になると、外へ元気よく遊びに行くようなら、それだけでも、あなたの子どもの心は、まっ
すぐ伸びていることになる。


●ウソはていねいにつぶす

 子どものウソにもいろいろあるが、子どものウソは、ていねいにつぶす。叱ったり、威圧した
り、さらに脅したりすれば、そのときは効果(?)があるかもしれないが、それは一時的。子ども
は、ますますウソがうまくなる。

 子どもがウソをついたら、「なぜ」「どうして」だけを聞きかえしながら、それですます。子どもが
親のお金を盗んだようなときも同じように対処する。そういう意味で、子育ては、まさに根くら
べ。その根くらべに、親は負けてはいけない。


●子どもは使う

 子どもは使えば使うほど、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、それで養われる。
が、それだけではない。勉強もできるようになる。もともと勉強には、ある程度の苦痛がともな
う。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力ということになる。

 もっとも使うといっても、親がソファに寝そべっていて、「新聞をもってこい」は、ない。生活自
体がもつ緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。「これをしなければ、家族のみんなが
困る」という意識をどこかで、もたせるようにする。

●「いいかげんさ」を大切に


 子育てでは、「いいかげんさ」を、大切にする。そのいいかげんな部分で、子どもは羽を休
め、そして心をいやす。

 たとえば「歯をみがきなさい」とは言いながらも、適当にすます。虫歯になれば、歯医者へ行
けばよい。痛い思いをして、子どもははじめて歯磨きの大切さを知る。子育てには、こういうい
いかげんさが大切。先日、ある大学の教授(国立)がこう話してくれた。

「うちの大学へくる学生は、たしかに頭はいいが、自活する力がない。三食を、コンビニ食です
まし、健康を害する学生はいくらでもいる」と。


●親は外に伸びる

 子育てじょうずな親と、そうでない親の違いは、親自身の社交は範囲によって決まる。社交範
囲の広い親は、それだけ人間関係の許容範囲が広いということになる。つまり子どもに対して
も、度量が広い。反対に、社交範囲の狭い親は、許容範囲が狭く、どうしても子どもにギクシャ
クしてしまう。それが、親子関係をゆがめる。

 子どもはあなたから生まれるが、同時にそのときから、一人の人間である。一人の人間であ
る以上、無限の可能性をもっている。決してあなたの世界だけで、子どもを見てはいけない。
育ててはいけない。


●互いに別世界

 親どうしの会話を聞いていると、互いに別世界というような会話をしていることがよくある。「あ
あら、信じられませんわ」「いえ、私だって……」と。

 子どもが親に向かって反抗するのを絶対許さないという親もいれば、反対に、まったく平気な
親もいる。反抗するのを許さない親からみれば、反抗する子どもというより、それを許す親がい
ることが信じられない。反対に、平気な親からすれば、子どものことでカリカリする親がいること
が信じられない。つまりたがいに別世界。

 こういう「別世界」を感じたら、一度、あなた自身の子育てを謙虚に反省してみるとよい。たい
ていあなたの子育てのほうが、ふつうでない。とくに「私が絶対、正しい」と思っている人ほど、
要注意。


●生活の音を大切に

 大根を切る音。味噌汁がにえる音。風の音。ドアの音。一見何でもないように見えるかもしれ
ないが、「音」には、不思議な力がある。少し前、何かの調査で、「あなたは二一世紀に何を残
したいですか」という質問を、インターネットで募集したことがある。そのとき、この「音」に関する
ものが、一番多かった。「水車の音」「ヒグラシの声」など。

 子どもには、「何の音かな」「どんな音かな」と、語りかける程度でよい。子どもが、音に関心を
もち、興味をもつようにしむける。ほかに、味や臭いもある。私もよく教室で、子どもたちに、い
ろいろな葉の味や臭いを調べさせる。子どもたちは、「臭い」とか、「いいにおい」とか言うが、そ
うした新発見が、子どもの知能をかぎりなく刺激する。


●叱っても、威圧しない

 『威圧で閉じる、子どもの耳』と覚えておく。威圧すれば、子どもの耳は閉じてしまい、一度、
その状態になると、あとは叱っても意味がない。

よく親や先生に叱られて、しおらしくしている子どもがいる。しかし反省しているからそうしている
のではなく、こわいから、そうしているだけ。中には、叱られじょうずな子どもがいる。先生が何
か叱りそうになると、パッと土下座して、「すみません」と、床に頭をこすりつけるなど。多分、親
の前でもそうしているのだろう。が、このタイプの子どもほど、何も反省していない。その場をの
がれたいがため、そしているだけ。

 子どもを叱るときは、恐怖心を与えてはいけない。言うべきことを淡々と言い、あとは時間を
まつ。


●「核」攻撃はしない

 子どもを叱るときでも、その子どもの人格の根幹、つまり「核」にふれるような攻撃はしてはい
けない。「あなたはやっぱりダメな子ね」「あんたなんか、いないほうがよい」など。

 子どもにもよるが、核に近ければ近いほど、子どもはキズつく。親は、励ましたり、自覚させる
ためにそう言っているだけと思っているかもしれないが、受け止める子どものほうは、そうでは
ない。私も子どものころ、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」とよく言われた。しかしその言葉
ほど、私を追いつめる言葉はなかった。つまりそれが私にとっては、「核攻撃」だった。


●恐怖感は禁物
 恐怖感、とくに極度の恐怖感は、子どもの心をゆがめる。はげしい夫婦げんか、暴力、虐
待、育児拒否など。親は「たった一度」と思うかもしれないが、そのたった一度で、大きな心の
キズを負う子どもは、いくらでもいる。

 ある女の子(二歳)は、はげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役のひとりごとを言うよう
になってしまった。母親は「気味が悪い」と言ったが、その女の子は、精神そのものが、分裂し
てしまった。

 また別の男の子(四歳児)は、お湯をこぼしたことを、祖父にはげしく叱られた。それが原因
で、その男の子は、自閉症を誘発してしまった。

 こうしたケースで共通しているのは、「恐怖」である。親や祖父は「叱っただけ」と思うかもしれ
ないが、子どもは、それを「恐怖」ととらえる。あくまでも子どもの立場で考える。


●引き金を引かない

 インフルエンザは、インフルエンザの菌が原因で起こる。同じように、心の病気は、ショックが
原因で起こる。だれでも、その条件さえ整えば、風邪をひく。同じように、どんな子どもでも、ショ
ックを与えると、心の病気を引き起こす。つまり心の病気にかからない子どもは、いない。そう
いう前提で、子どもの心は考える。

 先生に叱られたのが原因で、チックや夜尿症になる子どもは、いくらでもいる。迷子を経験し
たあと、分離不安になってしまう子どもも多い。そんなわけで子どもに与えるショックには、注意
する。とくに満四・五歳前の子どもには、注意する。

 ほとんどの親は、ショックを与えながら、その与えたことにすら気づかないでいる。よくある例
は、泣き叫ぶ子どもを無理に車に押し込め、学校へつれていくケース。親は「不登校児になっ
たらたいへん!」と思ってそうするが、そのたった一度のショックこそが、子どもを本物の不登
校児にしてしまう。そしてそのあと、「A君が悪い」「先生が悪い」と言い出す。(もちろんそうでな
いケースも多いが……。)

 どんな子どもにも、心の問題は潜んでいる。問題のない子どもは、いない。だから引き金は
引かない。


●親の情緒不安定は、百害のもと

 何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。長い時間をかけて、子どもにさ
まざまな影響を与える。もっとも、親自身が、それに気づいていれば、まだよい。大半の親は、
自分がそうであることに気がつかないまま、それを繰り返す。

 子どもの側からみて、とらえどころのない親の心は、子どもの心を、かぎりなく不安にする。そ
の不安がつづくと、子どもは心のよりどころをなくす。「よりどころ」というのは、絶対的な安心感
を得られる場所のこと。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。子どもは、この絶
対的な安心感のある場所があってはじめて、やさしく、おだやかな心をはぐくむことができる。

 もしあなたが自分自身の不安定さを感じたら、基本的には、子育てから遠ざかるのがよい。

「今の私は、おかしい」と感じたら、なおさらである。これは子育ての問題というよりは、親自身
の問題ということになる。 


●家庭教育は、心づくり

 子ども(幼児)にものを教えるときは、何をどう教えたかではなく、また何をどう覚えたかでは
なく、何をどう楽しんだかを考えながら、する。そういう意味で、子どもの家庭教育は、すべて、
「心づくり」と考える。「楽しい」「楽しかった」という思いが、やがて子どもを伸ばす原動力とな
り、子どもを前向きにひっぱっていく。

 よく子育ては、「北風と太陽」にたとえられる。北風というのは、威圧、強制、無理などが日常
化した育て方をいう。一方、太陽というのが、ここでいう「心づくり」をいう。家庭学習では、太陽
がよいに決まっている。

 こう書くと、「それではまにあいません」という親がいる。「心づくりをしていると、遅れてしまう」
と言うのである。しかしそれも子どもの「力」のうち。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。子ど
もの学習には、ある程度の無理はつきものだが、コツは、無理を加えるにしても、そのおおら
かさを、食いつぶしてしまわないこと。ほどほどのところで、あきらめ、ほどほどのところでやめ
る。

 子どもがあなたと勉強らしきことをしたあと、「ああ、楽しかった」と言えば、それでよし。そうで
なければ、勉強のやり方そのものを、反省する。


●神経疲労に注意

子どもは、神経疲労には、たいへんもろい。それこそ、昼間、一〇分程度神経をつかわせただ
けで、ヘトヘトに疲れてしまう。五分でも、疲れる子どもは、疲れる。病院で診察を受けただけで
疲れる子ども、おけいこ塾の見学に行っただけで疲れる子ども、先生にきつく叱られただけで
疲れる子どもなど。決して、安易に考えてはいけない。

 子どもは神経疲れを起こすと、わけもなくぐずったり(マイナス型)、暴言を吐いたり、暴れたり
する(プラス型)。吐く息が臭くなったり、腹痛や下痢などを繰り返す子どももいる。どちらにせ
よ、そういう形で、自分の中にたまったストレスを発散させようとする。だからそれを悪いことと
決めてかかって、子どもをおさえつけるようなことはしてはいけない。

 もし子どもが神経疲れの症状を見せたら、ひとり、のんびりとくつろげるような環境を用意す
る。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果になるので注意する。あとはスキンシップを多く
して、CA分、MG分の多い食生活に心がける。


●あきらめることを恐れない

 子どもというのは、親が何かをすれば伸びるというものではない。しかし何もしなくても、伸び
る。しかし親があせればあせるほど、実際には、逆効果。かえって伸びる芽をつんでしまうこと
もある。しかし親には、それがわからない。「まだ何とかなる」「うちの子はやればできるはず」
と、子どもを追いたてる。で、結局、行き着くところまで、行く。また行かないと、親も気がつかな
い。

 こわいのは、子どもには、二番底、三番底があるということ。たとえば進学希望校にしても、B
中学からC中学へレベルを落としたとする。そのとき、親は、C中学へレベルを落としたことで、
子どもを責める。しかしこの状態で、子どもを責めれば、今度は、D中学、E中学へと落ちてい
く。実際、こういうケースは、多い。

 が、親が、「まあ、こんなものだ」とあきらめたとたん、その時点を起点として、子どもは伸び
始める。だから、子どもの勉強では、あきらめることを恐れてはいけない。もちろんだからとい
って、子どもに好き勝手なことをさせろとか、子育てを忘れろということではない。「あきらめる」
ということは、「受け入れる」ということ。つまりその度量の広さこそが、親の「愛」の深さというこ
とになる。


●緩慢(かんまん)行動に、注意

 私が最初に、子どもの緩慢行動に気づいたのは、三〇年近くも前のこと。

 ある日A君(小三)が、忘れものをしたので、近くにいたB君(小三)に、「これをもっていってあ
げて!」と叫んだ。私はB君が、パッと行動するものだとばかり思っていた。が、B君の行動
は、意外なものだった。ゆっくりと腰をあげ、まず自分のものを片づけ、おもむろに、イスを引い
て立ちあがった。それではまにあわない。そこで私は「おいおい、A君は帰ってしまうぞ。急
げ!」と号令をかけた。が、B君は、とくに気にするようでもなし、これまたゆっくりと歩き始めた
……。ノソノソと……。

 親はそういう子どもを見ながら、「うちの子はグズで」とか、「のろい」とか言う。ふつうは、親子
のリズムがあっていないだけと考えるが、しかしもう少し深刻なケースもある。それがここでいう
緩慢行動である。

 一般的に、子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。腹痛、下痢、頭痛
などの体の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指
しゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強
迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、夜尿症、頻尿症な
ど。緩慢行動も、その一つということになる。

わかりやすく言えば、心をふさぐ抑圧感が、慢性化すると、子どもの行動は鈍くなる。さらにそ
の行動そのものが長期化すると、それがその子どもの特性(特質?)そのものになってしまう。
こうなるとなおすのがむずかしくなるだけではなく、一生つづくことにもなりかねない。

 あなたの子どもは、あなたが何かを頼んだり、号令をかけたとき、機敏に行動できるだろう
か。もしそうなら、それでよし。しかしどこか重く、ノソノソしているなら、一度、この緩慢行動を疑
ってみたらよい。


●イライラゲームにご注意

 最近、ゲームに没頭している子どもの脳について、いろいろな報告が出されている。脳の機
能的CTスキャンが発達し、脳の活動部を、リアルタイムで観察できるようになったこともある。

それによっても、ゲームに没頭している子どもの脳は、ある特異な部分だけが興奮状態にな
り、それ以外の部分は休眠状態になることがわかってきた。つまり子どもがゲームに没頭した
ところで、それが子どもの脳を、正常に発達させるということは、大脳生理学の分野で考えて
も、ありえない。

 一人、ゲーム狂いの子ども(小一)がいた。道を歩いていても、ゲーム機を手にして、指先で
カチャカチャとそれを動かしていた。両親が共働きで、その子どもに目が届かなかったこともあ
る。その子どもはまさに、四六時中、ゲームをしていた。

 その子どもだけを見て判断するのは、正しくない。しかしその子ども特有の、ふつうでない症
状がいくつかあった。たとえばゲームをしていないときは、燃え尽きたようにボンヤリしている
が、何かのことで、突発的に興奮状態になった。ギャーというものすごい声をあげて騒いだりし
た。そのときの様子が、ふつうでないため、あれこれ抑えると、今度は一転、またボンヤリして
しまう。

慢性的な睡眠不足児の症状や、かんしゃく発作の症状とも違う。キレる子ども特有の、いわゆ
る錯乱(さくらん)状態とも違う。過剰行動児とも違う。どこかふつうでない。心の緊張状態が、
短い時間の間に大きく乱れ、緊張しているときに何かあると、突発的に興奮状態になるといっ
たふうだった。もちろん静かな思考力は、ほとんどなかった。

 そこで母親に会って話を聞くと、「夜中でも、ガバッと起きて、ゲームをしていることもありま
す」とのこと。

 こうなったら、もちろんゲームを遠ざけるのがよいが、無理にゲームを取りあげたりすると、
今度は、禁断症状が現れる。これは別の子ども(小五男児)のケースだが、母親が、無理にゲ
ームを取りあげたとき、その子どもは、母親を殺す寸前までのことをして、暴れまくったという。

 ゲームにもいろいろあるが、反射運動型の、やればやるほど、イライラがつのるようなゲーム
は、子どもには避けたほうがよい。とくに、就学前の幼児には避けたほうがよい。本当は、「そ
んなバカなゲームを、子どもに与えるな!」と言いたいが、立場上、そこまでは書けない。あと
はみなさんの、判断ということになる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●BW教室から……

 子どもたち(小4)が騒いだ。そこでいつものように、「ママのおっぱいをのんでいる人は、騒い
でいていい」と言ってやった。

 ふだんは、それでパッと静かになるはずだった。が、ここでハプニングが起きた。

子「先生は、のんでいるの?」
私「のんでない」
子「奥さんのを、のんでいるくせに……」
私「どうして、君が、そんなことを知っているんだ?」
子「やっぱり、のんでいるんだア!」

私「あのなあ、そういうことを、子どもが、言うんじゃ、ない! ぼくに聞く前に、君たちのお父さ
んに聞いてこい」
子「パパは、ママのおっぱいは、のんでない」
私「そんなこと、わかるか! 君たちに隠れてのんでいるかもしれない」
子「ああ、いやらしい」

私「いやらしくないよ。ふつうのことだよ」
子「じゃあ、先生は、のんでいるんだア」
私「のむって、もう梅干みたいで、おっぱいは、出ないよ」
子「梅干だってエ? 今度、言いつけてやろう」

私「今の発言は、取り消す。忘れろ」
子「梅干だってエ……」
私「忘れろ」
子「私、ちゃんと、ここに書いておく。『先生が、奥さんのおっぱいを、梅干って言った』と」

私「そんなこと、書くな! 女性はだれでも、子どもを産んで、おっぱいをあげると、梅干になる
んだ。君たちのお母さんだって、そうだ」
子「お母さんにも、言いつけてやろう」
私「だから、忘れろ」
子「ママに、言ってやろ。ママ、きっと、怒るから……」と。

 結局、騒がしさは、そのまま残った。

 もう、この言い方では、子どもたちは、静かにはならないようだ。今度は、別の言い方を考え
よう。


●自分で気づく

 ADHD児の出現率は、全体の5%と言われている。

 この比率は、世界的なもので、アメリカでも、日本でも、ほぼ同じである。ただ、ADHD児とい
っても、軽重がある。何とか、ふつうの指導になじむ子どももいれば、そうでない子どももいる。

 ……というようなことは、何度も書いてきた。ここではその先、つまり、おとなになってからの
問題を書きたい。

 実は、この5%という比率は、おとなになってからも、変わらない。つまりこの原稿を読んでい
る親の中にも、子どものころ、ADHD児だった人は、20人に1人はいることになる。あなたが
母親なら、20人に1人は、かつてADHD児だった夫をもっていることになる。

 もちろんADHD児であったことが問題ではない。この問題は、私やあなたという個人を超えた
問題である。遺伝子の問題である。私やあなたに責任は、ない。あなたの夫や妻にも、責任は
ない。子どもにも、ない。

 が、問題がないわけではない。

 ほとんどの親は、かつてそうであったとしても、それに気づいていない。気づいている親は、
ほとんど、いない。ADHD児といっても、小学3、4年生くらいを境にして、急速にその症状が落
ちついてくる。自分で、自分をコントロールするようになるからである。

 が、症状がまったく、消えるわけではない。たとえば女性のばあい、もちまえの多弁性(間断
なく、よくしゃべる)や、ソワソワとした落ちつきなさなどは、そのまま残ることが多い。

 そこで重要なことは、かつてそうであったとしたのなら、おとなとなり、親となった今、「私はどう
であったか?」ということを、自問してみること。

 こんなことがあった。

 幼児〜小学校の低学年のころ、そのADHD児だった子どもがいた。その子どもが中学3年
生になったとき、その子どもに、こう聞いた。

私「君は、小さいころ、騒々しくて、みなに、迷惑をかけたけど、そのことを覚えているか?」
中「覚えていない」
私「覚えていない、だって? 先生たちに、よく叱られただろ?」

中「それは、覚えている。ぼくは、何も悪いことをしていないのに、先生たちは、ぼくだけを目の
カタキにして、よく怒った」
私「どうして先生たちが、君を怒ったか、君には、わからないのか。ぼくだって、よく怒ったよ」
中「ぼくが、何をしても、みんな、怒るんだ。ぼくは、何も悪いことをしていないのに……」と。

 この中学生の例を見るまでもなく、ADHD児には、その自覚はない。おとなになってからも、
そのため、そうであったという自覚は、残らない。

 が、ここにも書いたように、問題がないわけではない。

 ADHD児であったがゆえに、当然、その時期に発達すべき部分が、欠落することがある。た
とえば、他人の心を思いやる、繊細さなど。結果として、独断的で、強引な子どもになることが
多い。

 そしてそれが、親になったとき、今度は、自分の子どもに対して、そうなりやすい。たとえばこ
こでいう多弁性は、その人をして、口うるさい親にしやすい。こまごまとした指示を、始終、ペチ
ャペチャと子どもに与えたりする。その騒々しさが、子どもから静かな環境をうばうこともある。

 一般論としては、ここにも書いたように、ペチャペチャと間断なくよくしゃべる親、とくに母親と
いうのは、かつてADHD児であった可能性が、きわめて高い。意味のないことを、一方的に、し
ゃべりつづけたりする。(もともと、女性は、おしゃべりなものだが……。)

 ふつうのおしゃべりとちがう点は、制止がきかないということ。それに考えてしゃべるというよ
りは、思いついたことを、そのままペラペラとしゃべるということ。話している内容が、たいへん
浅い。話しているうちに、それが止まらなくなり、内容が、どんどんとこまかくなっていく。(男性
のばあいは、多弁性というより、少し、ちがった症状で、ADHDが残る。)

母親「乾燥機は便利ね。雨の日でも、洗濯物は、かわくから。かわかないと、困るわよね。あっ
という間にたまってしまうから。たまると、置き場所に困るでしょう。ネコが、その上で、寝そべっ
ていたりして。雨ね。いやね。ツユだし。洗濯もたいへんよ。息子なんか、毎日のように、ぼくの
シャツがないって、さわぐのよ……」と

 そこで重要なことは、もしあなたが自身が、そうであったと思い当たるようなら、その影響を子
どもに与えてはいけないということ。つまり自分で自分に気がつき、セルフコントロールを強化
する。

 幼児のばあい、異常なまでに口うるさい母親をもつと、過干渉児に似た症状をもつことがあ
る。依存性が強くなり、自立心に欠ける、など。ばあいによっては、過干渉児のように、性格が
萎縮したり、内閉したりすることもある。

 ただ誤解してはいけないのは、繊細さがないことイコール、鈍感ということではないというこ
と。ここでいう「繊細さがない」というのは、「他人の心の動きに鈍感」ということ。意外と、気が
小さかったり、あるいは、ささいなことでビクビクするということはある。そのため、自分勝手で、
わがままになりやすい。

 ADHDの問題は、決して、子どもの世界だけの問題ではない。
(はやし浩司 ADHD ADHD児 おとなの問題 おとなのADHD 口うるさい親)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もううんざり、K国問題

 今、拉致被害者のSさんと夫のJ氏が、アメリカにいる母親に会いに行っている(6・16現
在)。

 J氏は、日本を去る前、「アメリカでは静かにさせてほしい。マスコミの取材は、ひかえてほし
い」と、何度も懇願していた。

 にもかかわらず、日本のマスコミ……というか、フリーのカメラマンや、自称レポーターが大
挙、J氏を追いかけた。

 恥を知れ!

 またそういう人間から、写真や映像の提供を受けて、テレビに流すマスコミも、マスコミだ!

 ニュースを見ながら、何ともやりきれない気持ちになる。ただ、マスコミも、そういう事情をよく
知っているのか、ときどき、申しわけ程度に、「この映像は、J氏の許可を得て撮影したもので
す」とか何とか、そのつど断りを入れている。

 J氏のことだから、一応、許可を求めれば、「NO!」とは言わないだろう。そういうことも承知
の上で、わざとらしい弁解を重ねる。

 どうして、そっとしておいてやらないのか? あとで、事後報告でもよいではないのか? この
自制のなさこそが、日本の文化のレベルを表している。そこで大切なことは、私たちは、そうい
う報道に対しては、目を閉じること。そして、こう叫ぶこと。

 恥を知れ!、と。

 日本のマスコミのレベルというか、モラルの低さには、本当に驚く……ということで、K国問
題。

 K国は、人権問題で追いつめて、自然崩壊させるのが、一番よい。やっとアメリカのブッシュ
大統領も、それに気づいた。(私は、数年以上も前から、そう書いている。)

 K国が、核兵器開発を放棄するなどということは、原理的に、ありえない。日本に、官僚制度
を放棄しろと言うのと、同じである。

 また仮に協議が、道筋にのったとしても、そのつどK国は、ゴネにゴネて、無理難題をつぎつ
ぎとふっかけてくる。拉致問題が今までどう伸展してきたかを知れば、それもわかるはず。

 月刊雑誌「S」の中で、評論家のO氏は、こう書いている。

 K国に、ここまで核開発を許してしまったのは、韓国の金前大統領と、N現大統領。統一後
は、新韓国は、核兵器をもつことになる。また労働力の安い、K国を、韓国は、半ば植民地化
できる。経済的にも有利、と。

 その韓国は、誇大妄想というか、「ビッグ・コリア」構想をもち始めている。統一すれば、人口
は7000万人近くになる。日本を追い越せるというわけである。そしてとうとう、「G8には、韓国
も加えろ」とまで言い出した。

 もう、私は、知らない。どうぞ、ご勝手に!

 ところで先日、ブッシュ大統領と、N大統領の会談が、ホワイトハウスでなされた。表面的に
は、「強固な米韓同盟」を歌ったが、内実は、その逆だった。N大統領は、ブッシュ大統領に、
「もう、これが最後だぞ」と脅されたにちがいない。

 「やれるものなら、やってみろ。しかしそれでできなければ、アメリカの言うことを聞け」と。「K
国の説得ができるというのなら、やってみろ。少しだけ待ってやる」と。

 そのため、韓国は大挙して、使節団をK国に送りこんでいる。そのうち結果が出るだろうが、
K国が、韓国の言うことなど、聞くわけがない。おめでたいというか、まるで国際常識がわかっ
ていない。

 それをヤユして、インターナショナル・トリビューンのソウル特派員を務めた経歴のあるコラム
ニストのドナルド・カーク氏は、15日、香港紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストに寄稿し、つ
ぎのように皮肉っている。

「韓国の政治指導者たちは、米政府と政策協力するよりは、平壌(ピョンヤン)に頭を下げる
(kowtowing)ほうがうれしいようだ。彼らは北朝鮮のプロパガンダを認めてやることに情熱を傾
け、(K国の核)問題を、限りなく悪化させている」と。 

そして、「北朝鮮の最大の応援団(North Korea's biggest cheerleaders)」と。

 まったく同感である。ホント!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(728)

●おとなのADHD

 昨日、「おとなのADHD」について書いた。それをR天日記に掲載した。それについて、3人の
人から、メールをもらった。

 「私の叔母がそうだ」「たいへん役にたった」「もう少し詳しく」と。

 おとなのADHDは、別として、幼児期から小学校の低学年児にかけて、ADHD児と言われた
子どもで、そののち、中学生や高校生になっていった例については、私は、たくさん知ってい
る。

 主な特徴としては、

(1)制止のきかない、あるいはききにくい、多弁性。
(2)ソワソワとどこか、落ちつきがなく、つかみどころがない。
(3)相手を思いやる繊細に欠ける。(気は小さく、おく病なところがある。)
(4)勉強については、鋭いヒラメキを示すこともあるし、反対に、そうでないこともあって、一定
していない。
(5)手や体の一部を、せわしなく動かす、など。

 その中でも、とくに女子に多く見られるのが、異常なまでの多弁性である。とにかく、よくしゃ
べる。間断なく、よくしゃべる。意味のない話を、つぎつぎとつなげていく。

女「今日、高校のプール開きがあって……」
私「静かに!」
女「静かにって?」
私「だまっていろ」

女「だまっていればいいの?」
私「そうだ。何も話すな」
女「何も話すなって、つまんない」
私「だから、口を閉じて」と。

 そこで強く制すると、瞬間だが、その場だけの効果はある。

 こうした多弁性は、そのまま、おとなになってからも、残る。結婚して、母親になってからも残
る。先日も、新幹線に乗ったら、2時間近く、ペチャペチャと話しつづけていた女性(60歳くら
い)がいた。

 どうでもよいような、ささいなことを、ことこまかく、ときには、同じ話を繰りかえしていた。あま
りうるさいので、私は、席をかえたが、とにかく、うるさい。となりの席に、友人らしき女性がいた
が、その女性には、ほとんど、しゃべらせなかった。

 何か一言、となりの女性がうなずいたりすると、その、百倍は、説明するといったふう。

 もちろんその女性が、子どものころADHD児だったというのではない。しかしその話し方の特
徴から、私は、その女性が、子どものころは、ADHD児ではなかったかと思った。

 こうした妻や母親をもった、夫や子どもは、どうなるか?

 それについては、また別のところで考えてみたい。
(はやし浩司 大人のADHD 多弁性 異常な多弁性 おとなのADHD)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(729)

●歳・相応の人生

 このところワイフが、「歳(とし)相応の人生」という言葉をよく使う。人間は、歳をとれば、それ
なりに体力も、気力も、減退する。だからそれに応じて、生活のハバも、質も、変わってくる。
「それが、歳相応の生活よ」と。

 いつもながら、ワイフの楽観主義には、驚く。

 言われてみれば、そのとおり。とくに私のような自営業者は、そうだ。活動範囲もせまくなって
くる。当然、収入も減ってくる。若いころのような無茶は、もう、できない。

 言うなれば、現状維持ができるだけでも、感謝しなければならない。ジリ貧でも、しかたない。
つまりは、今までの価値観を、少しずつ、変えるしかない。

 たとえば、生活そのものを、ダウンサイズ(小型化)する。不必要なものは、極力、買わない。
ムダなものは、残さない。

 そう言えば、先日、隣のR氏がなくなったあと、奥さんが、ふと、「ガラクタは、どうしたらいいん
でしょう?」と、こぼした。R氏は、模型作りが趣味で、いろいろなものを作っていた。部屋中、い
ろいろな模型が、ところ狭しと並べられている。

 私も、よく模型を作る。しかしその趣味のない人には、ガラクタでしかない(?)。……というこ
とは、私が死んだあと、いろいろなものを残すというのも、考えものである。できるだけ早く処分
して、身軽にしておかねばならない。

 しかし同時に、それがガラクタであれ、何であれ、最後の最後まで、自分の人生は、自分の
人生として、楽しみたいし……。まあ、いろいろ考える。


●権威主義

 権威主義が、どういうものであるか、それを知りたければ、アメリカとK国のちがいを見れば
わかる。

 アメリカのブッシュ大統領が、K国の金xxを、呼び捨てにした。それだけで、P放送は、激怒。

 つぎに今度は、アメリカのブッシュ大統領が、MR(ミスター)をつけて、金xxを呼んだ。それ
を、K国内では、「ブッシュが、金先生と呼んだ」と、おおはしゃぎ。(「MR」を、「先生」と翻訳する
のも、どうかと思うが……。)

 で、今度の南北会談(6・17)では、金xxは、ブッシュ大統領を、「閣下」と呼んだとか(?)。

 呼称、一つで、あっちに揺れ動いたり、こっちに揺れ動いたり……。こうした権威主義は、もう
世界のほとんどで、姿を消した。いわゆる水戸黄門の、葵三つ葉の紋章である。ああいうもの
を見せつけられて、ハハーと頭をさげる時代は、もう終わった。

 が、K国では、まだそれが生きている。

 スウェーデンの首相は、自分の執務室まで、自転車通勤をしていた。しかもその話を知った
のは、私が学生時代のときだったから、今から37年前ということになる。「〜〜だから、偉い」
という価値観の愚劣さというか、おかしさというか、もうそろそろ日本も、それらから決別すると
きにきていると思うのだが……。

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水戸黄門について、もう、5、6年前に書いた
原稿です。

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教育者が教育カルトにハマるとき 

●教育カルト 

 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信
奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。この教育カルト
にハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても「右脳教育」と言いだ
す。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。

 親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋
章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。

「○×式教育法」などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうす
る。宗教だってそうだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。

 教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教
育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわから
ない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけよう
とする。これがこわい。

●自分勝手な教育法

 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、
小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性
など。

これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てくる。自
分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはまちがっ
ている」と言う。

はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしながら、それにすら気づ
かなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法
で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと思います」「この方式が日本の教
育を変えます」と。

あるいはこんなのもあった。「私たちの方式で学んだ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門
をくぐることになるでしょう」(ある右脳教育団体のパンフレット)と。自分の教育法だったら、お
こがましくて、ここまでは書けない。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさに教育カルト
の特徴と言ってもよい。

●脳のCPUが狂う?

私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、
「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや
すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。

進学校や進学塾は、この方法を使う。それはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから
抜け出ることは容易なことではない。脳のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題は、
先にも書いた攻撃性だ。

一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白がで
きると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗す
る。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみるとよい。「S方式
の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、あなたの意見に反論する
というよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。

 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こ
うした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台
なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争い
なら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐すると
いうのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り
出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく
質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●権威主義の象徴・水戸黄門

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。

側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげ
る。日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。が、欧米では通用しない。

オーストラリアの友人はこう言った。「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。フランス
革命以来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。Mさん(男性)の家もそうだ。長
男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。別居も何度
か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。

「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。
一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。一度、私も間に入って二人の
仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。長男のもっているわだかまりは、想像
以上のものだった。問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。特に冠婚葬祭については、まったくと言
ってよいほど妥協しなかった。しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもら
った。長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。

そしてことあるごとに、先祖の血筋を自慢した。Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占め
るほどの大地主であった。ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。そして
その勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつ
だが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明で
きる人はいるだろうか。あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われ
る。もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。命令と服従、保
護と依存の関係と言ってもよい。そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがな
い。

権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。権威、つまり「私
は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なもの
になる。そのため子どもは心を閉ざす。

Mさん親子は、まさにその典型例と言える。「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさ
ん。しかしそれをそのまま黙って無視する長男。

こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。権威主義的で
あること自体が、その人の生きざまになっている。それを否定するということは、自分を否定す
ることになる。が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を
築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。

『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●「花田家の過ち」by渡辺J一

 渡辺J一氏が、「週刊新潮」(6・16)に、「花田家の過ち」と題して、なぜ花田家が、こうまでお
かしくなってしまったか、その分析をしている。

 そしてその理由の第一として、「『だめだ、相撲以外にやり甲斐のある仕事は、沢山ある。力
士は俺1人でこりごりだから、お前たちは別の道を歩め』そうはねつけていたら、悲劇は起きな
かった」(以上、原文のまま)と。

 つまり親方が、息子2人を、力士にしたのが、まちがいのもとだった、と。

 兄弟の確執(かくしつ)はともかくも、花田家は、バラバラになってしまった。それを渡辺氏は、
「悲劇」と位置づけている。が、いまどき、そんな家庭は、珍しくも、何ともない。親子、兄弟、み
なバラバラという家庭など、いくらでもある。

ただ忘れてならないのは、そもそも、この話は、花田家という、庶民感覚からすれば、超特権
階級の、いわば雲の上の人たちの、「悲劇(?)」であること。

 明日の生活費をどうしようかと苦しんでいる人も多い。そういう人たちから見れば、(年寄株)
を、3億円で売買しているような人は、やはり、雲の上の人! 悲劇といっても、私たちの悲劇
とは、質がちがう。

 で、私は昔から、花田家にかぎらず、相撲界というのは、権威主義のかたまりのような世界と
思ってきた。上下意識もきわめて強い。当然、男尊女卑社会。こうした権威主義は、親子関係
を、破壊しやすい。

 たがいの(心)よりも、(権威)のほうが先行する。「父親の言うことは、絶対」「兄は、弟より
上」「妻は、夫にさからうな」など。こうした権威主義は、一度身につくと、一生、その人にまとわ
りつく。よほどのことがないかぎり、その人が、新しい価値観に目ざめることは、まず、ない。

 花田家も、そういう家庭ではなかったか?

 前にも書いたが、子どもが複数いるときは、名前で呼ぶ。「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」という言
い方は、避ける。「さとし」「あつし」でよい。「はな子」「さき子」でよい。そのほうが、統計的にも、
兄弟関係がうまくいくことがわかっている。

 「あなたは兄だから……」「あなたは弟だから……」という、『ダカラ論』による位置づけは、ま
さに封建時代の亡霊そのもの。弟はともかくも、兄のほうが、その『ダカラ論』で苦しむケースが
多い。したいこともできず、「家」の犠牲になることも少なくない。

 渡辺J一氏のエッセーの中にも、「兄は……」「弟は……」という文字が、たくさん出てくる。2
頁のエッセーだが、数えてみたら、そういうか所が、10か所ほどあった。渡辺J一氏も、かな
り、「兄」「弟」という位置づけにこだわっているようだ(?)。

 渡辺J一氏は、こう書いている。

 「とくに兄が強いならともかく、弟の方が強かった。それだけに兄は弟にコンプレックスを抱
き、『弟は横綱だけど、俺はよく負ける横綱だった』と、自嘲気味にいっているし、弟は、『兄は
相撲道に対して甘かった』と批判している」(同)と。

 兄にコンプレックスがあったかどうか? そんなことは、だれにも、わからない。そのように決
めてかかるのは、兄の若乃花に対して、少し、失礼ではないかと思う。それはひょっとしたら、
渡辺J一氏自身の空想ではないのか。あるいは仮にあったとしても、そのコンプレックスは、ま
さに『ダカラ論』の中で生まれたもの。

 この点、オーストラリアや、アメリカで、そういった上下意識から生まれた、コンプレックスの話
など、聞いたことがない。兄が貧乏で、弟が成功者であったとしても、それはそれとして、だれ
も、話題にすらしない。もちろん当人たちも、気にしない。

 「兄」「弟」、あるいは「姉」「妹」にこだわるのは、極東の儒教の影響を受けた民族だけであ
る。

 花田家の話を聞いていると、「親方」だの、「兄・弟子」「弟・弟子」だの、「今どきねえ……?」
という言葉が、ポンポンと飛び出してくる。昔の徒弟制度そのまま(?)。もう少し、合理的にも
のを考えることができないものなのか。

 あるいは相撲の世界ではそうであっても、その相撲から一歩離れたら、おかしな上下意識は
もたない。そういうふうには、考えられないものなのか。

 人間は、人間を見て、その人間を決める。そんな当たり前のことが、平気でできるようになる
までには、まだまだ道は遠い。渡辺J一氏の書いたエッセーとは、まったく関係ないことだが、
私は、別のところで、ふと、そう感じた。


●N先生のお宅

 今日、K市にあるN先生のお宅へ、おじゃました。昔からのお寺で、心底、くつろぐことができ
た。ワイフも、「すてきなところ」を連発。静かで、近くの山々の緑が、美しかった。

 もっとゆっくりしたかったが、あれこれすることがあって、1時間ほどで、失礼した。N先生、あ
りがとうございました。また今度、ゆっくり、おうかがいします。今日は、ごめんなさい!
(050618)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(730)

【新子育て格言】

●いいかげんさの勧め

 子育ては『まじめ七割、いいかげん三割』と覚えておく。いいかげんであることが悪いのでは
ない。子どもはそのいいかげんな部分で、息を抜く。伸びる。

たとえば「毎日手を洗いなさいよ」と言いながらも、言うだけにとどめる。仮に病気になったら、
病院へ行けばよい。虫歯だってそうだ。「歯をみがきなさいよ」と言いながらも、適当にしてすま
す。虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。子どもは虫歯になって、「痛い」ことを知る。痛いこ
とがわかれば、自分でみがくようになる。

 ……こう書くと、「何て、いいかげんなことを!」と思う人も多いかもしれない。しかし今、あまり
にも、親たちは子育てに神経質になりすぎている。そしてその神経質さが、子育てをゆがめ、
ついで子どもを萎縮させてしまっている。そういう現状を私は知っているから、あえて、常識
(?)に抵抗してみた。

 これはずっと先の話だが、今、自己管理ができない大学生がふえている。子どものときから
ずっと勉強しかしてこなかったような、優秀な(?)子どもほど、そうなる。大学生になり、ひとり
で生活を始めたとたん、生活が乱れる。三食はすべてコンビニ食。炊事、洗濯はしない。でき
ない。睡眠時間も乱れる。そのため、精神そのものを病むようになる子どもも多い。

 子どもを自立させるということは、子育てからいかにして、手を抜くかということ。手を抜けば
抜くほど、子どもは自立する。子どもというのは、そういう意味でも、皮肉なもの。たとえば子ど
もは使えば使うほど、たくましい子どもになる。生活力も、それで身につく。

一方、子どもは、かわいがればかわいがるほど、スポイルされ、ドラ息子、ドラ娘になる。同じ
ように、親が手を抜けば抜くほど、もっと言えば、いいかげんになればなるほど、子どもは自立
する。

 とくに日本では、「子どもをかわいがる」ということは、「子どもをかわいい子どもにする」という
ふうに考える人が多い。無意識のうちにも、そう育てる。そして「子どもに楽をさせること」、「子
どもにいい思いをさせること」が、親の愛の証(あかし)と考えている人がいる。しかし、これは
誤解。まったくの誤解。

 あなたが自分の子育てをしていて、心のどこかで、「いいかげんかなあ」と迷ったら、すかさ
ず、「これでいい」と、思いなおす。そういう思いが、子どもを伸ばす。
(02−12−19)


●成長は段階的

子どもの成長は、段階的なもの。何かを教えても、一次曲線的になだらかに伸びるのではな
く、段階的(あるいは階段的)に、トントンと伸びていく。とくに「はじめの一歩」のときは、そうで、
子どもはしばらく(観察)→(蓄積)を繰りかえし、それが一定の臨界点にきたとき、つまりある
日を境に、爆発的に伸び始める。

たとえば何かのおけいこをさせるとき、子どもによっては、最初の数か月は、ほとんど反応を示
さないことがある。教えても教えても、教えたことが、そのままどこかへ消えていくような感じに
なる。

 よく短気な親は、この(観察)→(蓄積)の段階で、子どもを叱ったりする。しかし叱れば、子ど
もの興味そのものを、そいでしまうことがある。動機そのものを、つぶしてしまうこともある。こ
の時期は、一見、伸びが停滞するかのように見えるが、じっと、「待つ」。待って、子どもの中
で、「力」が臨界点に達するのを待つ。待ちながら、一方で、子どもを励ます。ほんの少しでも、
あるいはどんな小さなものでも、進歩が見られたら、ほめる。そういう姿勢が、子どもを伸ば
す。


●成長を喜ぶ

 子どもを伸ばすコツは、いっしょに成長を喜ぶ。「もうこんなことができるの!」「どんどんいい
子になるわね!」「今度は、もっとすごいことができるわよ!」とか。そこでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、そのつど、あなたに報告にくる
だろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、家庭教育のあり方を、かなり反省したほう
がよい。今は小さなキレツだが、やがて断絶ということにもなりかねない。

 ある家庭には、四人の男の子がいたが、どの子どもも明るく屈託がない。ふつう下の子が、
上の子のおさがりをもらうのを、いやがるものだが、その家庭ではそうでなかった。下の子が、
お兄ちゃんのズボンをもらったりすると、みんなに「見て!」「見て!」と言って、走りまわるの
だ。秘訣はすぐわかった。

母親が、そのおさがりを下の子どもに与えるとき、母親はこう言っていた。「ああら、すごい! 
あんたもお兄ちゃんのが、はけるようになったのね。すごい、すごい!」と。


●名前を大切に

 子どもの名前は大切に。ことあるごとに、「あなたの名前は、いい名前」を口グセにする。子ど
もの名前が、新聞や雑誌にのったら、それを大切にする。切り抜いてアルバムにしまったり、
高いところに張りつけたりする。

そういう姿勢の中から、子どもは名前を大切にするようになる。そしてそれがやがて、転じて、
子どもの自尊心となる。この自尊心が、子どもを前に伸ばす。

 何かのことで、道からはみ出しそうなとき、自尊人が、それを踏みとどまらせる。私とて、本当
は、邪悪な人間かもしれない。が、「はやし浩司の名前を汚したくない」という思いが、いろいろ
な場面で、ブレーキとなって働く。たとえばこうしてものを書くときも、「はやし浩司」の署名を入
れるときは、その文には、大きな責任を感ずる。決していいかげんな気持にはなれない。

ためしに、あなたの子どもに、こう聞いてみてほしい。「あなたは、自分の名前が好き?」と。
「どう思う?」と聞くのもよい。そのとき子どもが、うれしそうに、「好きだよ」と言えばよし。そうで
ないなら、ここに書いたことを参考に、子どもの名前の扱い方について、もう一度、よく考えて
みてほしい。


●喜ばす喜びを

 子どもをやさしい子どもにしたかったら、子どもには、喜ばす喜びを教える。たとえばスーパ
ーでいっしょに買い物をするときも、「これがあるとお兄ちゃん、喜ぶわよ」「これを妹の○○に
分けてあげると、○○は喜ぶわよ」と。そのつど、だれかを喜ばすように、しむける。

 やさしい子どもというのは、だれかを喜ばすことを知っている子どもということになる。こんな
子どもがいた。

 幼稚園でみると、いつもだれかを三輪車に乗せ、そのうしろを押していた。見ると、その三輪
車に乗りたいため、ほかの子どもたちが列をつくって待っていた。そこである日、私はその子ど
も(年長児)に、こう言った。「たまには、君の乗った三輪車を、だれかに押してもらったら?」
と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼく、このほうが、楽しいもん」と。

 実はその子どもというのは、私の二男だが、二男は、本当に心のやさしい子どもだった。今も
そうだ。そういう二男のことを思い出すと、親の私でさえ、心が洗われる。またそういう思い出
が、私の心を豊かにしてくれる。


●スキンシップを大切に

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。これから先、
科学的研究がさらに進み、やがてスキンシップのもつ、不思議な力が解明されていくだろうが、
しかし現象としては、すでに証明されている。

 よく「抱きグセ」が問題になるが、抱きグセは、問題ではない。抱くことによって象徴される、依
存心が問題なのである。しかしその依存心は、スキンシップが多いからつくものでも、また少な
いからつかないものでもない。スキンシップと依存心は、まったく別のもの。少なくとも、分けて
考える。

 日本人は、もともとスキンシップの少ない(少なすぎる)民族である。南米などを旅するとわか
るが、向こうの親子は、(夫婦も)、本当にいつも、しかも日常的にベタベタしている。こちらが
見ていても、恥ずかしくなるほど、ベタベタしている。で、何か問題があるかというと、そういうこ
とはない。

 むしろ、スキンシップを受けつけない子どものほうが、心配。心のどこかに大きな問題をかか
えているとみてよい。たとえば心の緊張感がとれないタイプの子どもは、親が抱こうとしても、心
を許さない。許さないだけ、抱かれようとしない。

反対に、心を開き、心を許している子どもは、抱くと、そのまま体を親のほうに、すり寄せてく
る。この話を、ある会合の席で話したら、一人の父親が、こう言った。「子どもも女房も、同じで
すなあ」と。

 つまり夫婦でも、たがいの心が親密なときは、妻でも抱きごこちがよいが、そうでないときは、
そうでない、と。「夫婦げんかのあとなどは、妻でも、丸太のように感ずるときがあります」とも言
った。不謹慎な話だが、どこは的(まと)を得ている。

 そこであなたも一度、子どもを抱いてみてほしい。しばらくして子どもが、あなたの体と一体化
するようなら、それでよし。ふつう一体化すると、呼吸のリズムまで同じになる。が、そうでない
なら、スキンシップをふやし、どこかに何かのわだかまりがないかをさぐってみる。


●口グセに注意する

 あなたは日ごろ、子どもに向かって、どんなことを言っているだろうか。口グセにしていること
を、少しだけ、思い浮かべてみてほしい。長い時間をかけて、あなたの子どもは、その口グセ
どおりの子どもになる。口グセを、決して軽くみてはいけない。理由が、ある。

 子どもの心は、カガミのようなもの。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、
あなたを思う』というのがある。つまりあなたがあなたの子どもを、「いい子」と思っていると、あ
なたの子どもも、あなたのことを「いい親」と思っているもの。そうでなければそうでない。そして
こういうたがいの思いが、長い時間をかけて、たがいの心をつくる。

 口グセというのは、まさにあなたの「心」ということになる。そしてその口グセが、よいものであ
れば、それでよし。そうでなければ、今からすぐ、その口グセを改める。とくに、子どもをマイナ
スに引っぱるような口グセには注意する。「あなたはダメね」「いつになったら……」「どうしてこ
んなことができないの」は、タブー。


●ペットを飼う

 もしあなたにその余裕があれば、子どもにはペットを飼わせる。子どもはペットをとおして、多
くのことを学ぶ。犬やネコが代表的なものだが、ウサギ、小鳥、ハムスターなどもある。ペットを
ていねいに飼い、心をかよわせている子どもは、どこかほかの子どもと違う。ほっとするような
温かさを感ずる。

 が、そのペットが無理なら、温かい素材でできた、ぬいぐるみを与える。私の調査でも、約八
〇%の子どもが、(男女の区別なく、年中児〜小学高学年児)、日常的にぬいぐるみと親しん
でいることがわかっている。が、それだけではない。

 子どもに母性が(父性でもよいが)、それが育っているかどうかを知るためには、ぬいぐるみ
をもたせてみればわかる。心豊かな環境で、親の愛情をしっかりと受けて育ったような子ども
は、ぬいぐるみを見せると、さもいとおしいといった様子で、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せた
りする。そうでない子どもは、そうでない。

同じく私の調査だが、約八〇%の子どもは、ぬいぐるみを見せると、心温かい反応を示す。し
かし二〇%の子どもは、ほとんど反応を示さない。中には、ぬいぐるみを見せたとたん、キック
したり、放り投げる子どももいる。


●上の子教育を大切に

 子どもの心の中でも、嫉妬心と攻撃心は、できるだけいじらないほうがよい。これらのもの
は、原始的な感情であるだけに、扱い方をまちがえると、そのまま子どもの心をゆがめること
にもなりかねない。よくある例が、赤ちゃんがえりという現象。

 下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よく知られ
ている。それまでしなかった夜尿症を再び始めたり、あるいは話し方そのものまで、赤ちゃんぽ
くなったりするなど。

これは下の子への嫉妬心が、本能的な部分で、子どもの脳をいじるためと考えられる。そうい
うとき、親は、よく、「上の子どもも、下の子どもも、平等にかわいがっています」と言うが、上の
子にしてみれば、平等ということが、不満。それまで一〇〇%受けた愛情が、半分に減ったこ
とが問題なのだ。

 本来は、そうならないよう、下の子どもを妊娠したときから、少しずつ、上の子教育を始める。
コツは、下の子が生まれるのを、少しずつ、楽しみにさせるようにしむける。「あなたの弟か
な? 妹かな?」「生まれたら、いっしょに遊んであげてね」と。まずいのは、いつの間にか、下
の子が生まれたというような状況にすること。

 ある母親は、下の子の出産のとき、上の子を立ちあわせたというが、それも一つの方法かも
しれない。参考までに。


●はだし教育を大切に!

 子どもを将来、敏捷性(びんしょうせい・キビキビとした動き)のある子どもにしたかったら、子
どもは、はだしにして育てる。敏捷性は、すべての運動の基本になる。子どもがヨチヨチ歩きを
始めたら、はだし。厚い靴底のクツ、厚い靴下をはかせて、どうしてその敏捷性が育つというの
か。もしそれがわからなければ、ぶ厚い手ぶくろをはめて、一度、料理をしてみるとよい。あな
たは料理をするのに、困るはず。

 子どもは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。その敏捷性は、川原の石ころの
上、あるいは傾斜になった坂の上を歩かせてみればよい。歩行感覚のすぐれている子ども
は、そういうところでも、リズミカルにトントンと歩くことができる。あるいは、階段をおりるときを
見ればよい。敏捷性のある子どもは、数段ずつ、ピョンピョンと飛び降りるようにして、おりる。
そうでない子どもは、一段ずつ、一度、足をそろえながらおりる。

 またあなたの子どもが、よくころぶということであれば、今からでも遅くないから、はだしで育て
る。
 

●言葉教育は、まず親が

 親が、「ほれほれ、バス! ハンカチ、もった? バス、くる、バス、くる! ティッシュは? 先
生にあいさつ、ね。ちゃんと、するのよ!」と話していて、どうして子どもに、まともな(失礼!)言
葉が育つというのだろうか。

そういうときは、多少、めんどうでも、こう言う。「もうすぐ、バスがきます。あなたは外でバスを
待ちます。ハンカチは、もっていますか。ティッシュペーパーは、もっていますか。先生に会った
ら、しっかりとあいさつをするのですよ」と。

 こうした言葉教育があってはじめて、その上に、子どもは、国語能力を身につけることができ
る。子どもが乳幼児期に、親がだらしない(失礼!)話し方をしていて、どうして子どもに国語力
が身につくというのか。

ちなみに、小学校の低学年児で、算数の応用問題が理解できない子どもは、約三〇%はい
る。適当に数字をくっつけて、式を書いたり、答を出したりする。そのころ気がついても、手遅
れ。だから子どもには、正しい言葉で話しかける。つまり子どもの言葉の問題は、親の問題で
あって、子どもの問題ではない。


●正しい発音を大切に

 文字学習に先立って、正しい発音を子どもの前でしてみせる。できれば一音ずつ区切って、
そのとき、パンパンと手をたたいて見せるとよい。たとえば「お父さん」は、「お・と・う・さ・ん」。
「お母さん」は、「お・か・あ・さ・ん」と。ちなみに、年長児で、「昨日」を正しく「き・の・う」と書ける
子どもは、ほとんどいない。

「きお」「きのお」とか書く。もともと正しい発音を知らない子どもに向かって、「まちがっているわ
よ!」「どうして正しく書けないの!」は、ない。

 地方によっては、母音があいまいなところがある。私が生まれ育った、G県のM市では、「鮎
(あゆ)を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ、エジ」と発音する。だから「この鮎はよい味
ですね」を、「このエエ、エエ。エジヤナモ」と発音する。そんなわけで、私は子どものころ、作文
が、大の苦手だった。「正しく書け」と言われても、音と文字が、一致しなかった。

 子どもに正しく発音させるときは、口を大きく動かし、腹に力を入れて、息をたくさん吐き出さ
せるようにするとよい。テレビ文化の影響なのか、今、息をほとんど出さないで発音する子ども
もいる。言葉そのものが、ソフトで、何を言っているかわからない。

 なお子どもの発音について、親はそれなりに理解できたり、親自身も同じような発音をしてい
ることが多い。そのため親が子どもの発音異常に気づくことは、まずない。そういうことも頭に
入れながら、子どもの発音を考えるとよい。


●同年齢の子どもと遊ばせる

子どもは、同年齢の子どもと、口論をしたり、取っ組みあいのけんかをしながら、社会性を身に
つける。問題解決の技法を身につける。子どもどうしのけんかを、「悪」と決めてかかってはい
けない。

 今、その社会性のない子どもが、ふえている。ほとんどが、そうではないかと思われる。たと
えば砂場で遊んでいる様子をみても、だれがボスで、だれが子分かわからない。実にのどかな
風景だが、それは子ども本来の姿ではない。あるべき姿ではない。

こう書くと、「子分の子どもがかわいそう」「うちの子を、子分にしたくない」と言う親がいる。が、
子どもは子分になることで、実は、それと平行して親分になる心構えを学ぶ。子分になったこと
がない子どもは、同時に、親分にもなれない。子分の気持ちを、把握できないからである。

 またここ一〇年、親たちは、子どものいじめに対して、過剰反応する傾向がみられる。いじめ
を肯定するわけではないが、しかしいじめのない世界はない。問題はいじめがあることではな
く、そのいじめを、仮に受けたとき、その子どもが自分でどう処理していくかである。

ブランコを横取りされたら、「どうして、取るんだ!」と抗議すれば、それでよい。ばあいによって
は、相手をポカリとたたけば、それでよい。「取られた、取られた……」とメソメソと泣くから、「い
じめ」になる。

 子どもをたくましい子どもにしたかったら、できるだけ早い時期から、同年齢の子どもと遊ば
せる。(だから早くから保育園へ入れろということではない。誤解がないように!)親と子どもだ
けの、マンツーマンの子育てだけで、すませてはいけない。


●ぬり絵のすすめ

 一時期、ぬり絵は、よくないという説が出て、幼児の世界からぬり絵が消えたことがある。し
かしぬり絵は、手の運筆能力を養うのに、たいへんよい。文字学習に先立って、ぬり絵をして
おくとよい。

 子どもの運筆能力は、丸を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズな
きれいな丸をかく。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。もしそうなら、ぬり
絵をすすめる。小さなところを、縦線、横線、曲線をうまくつかってぬらせるようにする。

ちなみに、横線は、比較的簡単。縦線は、それだけ手の動きが複雑になるため、むずかしい。
実際、一度、あなた自身が鉛筆をもって、手の動きを確かめてみるとよい。

 また年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは、約五〇%とみる。(別に正しいもち方というのは
ないが……。)鉛筆を、クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残り、二〇%の子ども
は、たいへん変則的なもち方をするのがわかっている(はやし浩司・調査)。鉛筆をもち始めた
ら、一度、鉛筆をもつ練習をするとよい。コツは、親指と人さし指を、ワニの口にみたてて、鉛
筆をかませる。その横から中指をあてさせるようにするとよい。


●色づかいは、なれ

ぬり絵は、常識的な色づかいの練習にも、効果的。「常識的」というのは、色づかいになれてい
る子どもは、同じぬり絵をさせても、ほっとするような、温もりのある色づかいをする。そうでな
い子どもは、そうでない。

 たとえば同じ図柄の景色(簡単な山と野原、家と木)の絵を、四枚子どもに与えてみる。そし
て、「夏の絵、冬の絵、夜の絵、雨の絵にぬってごらん」と指示する。そのとき、夏は夏らしく、
冬は冬らしく色がぬれれば、よしとする。そうでない子どもは、まだ色づかいになれていないと
みる。

 なおこの段階で、色彩心理学の立場で、いろいろなことを言う人がいる。が、私は、過去三〇
年以上、色の指導をしてきたが、今ひとつ、理解できないでいる。たとえばこの時期、つまり満
四歳から六歳までの幼児期というのは、子どもによっては、周期的に、好きな色が変化するこ
とがある。ある時期は青ばかり使っていた子どもが、今度は、黄色を使ったりするなど。

しかしそういう子どもでも、色づかいになれてくると、だんだん常識的な色づかいをするようにな
る。今、色づかいがおかしいからといって、あまり神経質になる必要はない。

 ただし、色の押しつけはしてはいけない。昔、「髪の毛は黒よ! 肌は肌色よ!」と教えてい
た絵の先生がいたが、こういう押しつけはしてはいけない。髪の毛が緑でも、何ら、おかしいこ
とではない。


●ガムをかませる

 アメリカの『サイエンス』という研究雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」という記事がのっ
た。で、その話をすると、Nさんという母親が、息子(年長児)にガムをかませるようになった。
で、その結果だが、数年後には、その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。

 その後、いろいろな子どもに試してみたが、この方法は、どこかぼんやりして、勉強が遅れが
ちの子どもに、とくに効果的である。理由は、いろいろ考えられる。ガムをかむことで、脳への
血流が促進される。かむことで、脳が刺激される。眠気がとれて、集中力がます、など。

 コツは、言うまでもなく、菓子ガムは避ける。また一枚のガムを、最低三〇分はかませるよう
に指導する。あとは、マナーの問題。かんだガムは、紙に包んで、ゴミ箱へ捨てさせる、など。

 またあまり多量の大きなガムは、口に入れさせてはいけない。咳きこんだようなとき、ガムが
のどに詰まることがある。年少の子どもにかませるときは、注意する。


●マンネリは知能の敵

 人間の脳細胞の数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど変わらない。しかしその一個ずつの
脳細胞は、約一〇万のシナプスをもっている。このシナプスの数は、成長とともにふえ、老化と
ともに、減る。そのシナプスの数と、「からまり」が、頭のよし悪しを決める。

 このシナプスは、子どものばあい、刺激を受けて、発達する。数をふやす。ほかのシナプスと
からんで、思考力をます。刺激がなければ、そうでない。つまり子どもの教育は、すべて「刺激
教育」と言ってもよい。子どもには、いつも良質の刺激を与えるようにする。もう少しわかりやす
く言えば、「アレッと思う意外性」を大切にする。つまり、マンネリは、知能発達の大敵。

 ……と言っても、お金をかけろということではない。日々の生活の中で、その刺激を容易す
る。たまたま昨日も、年長児のクラスで、こんな教材を使ってみた。

(1)カタカナで「ヒラガナ」と書いた紙を見せ、子どもたちに「これは何?」と聞いた。子どもが、
「ひらがな!」と言ったら、すかさず、「これはカタカナだよ」と言う。つづいて、今度は、ヒラガナ
で「かたかな」と書いた紙を見せ、「これは何?」と聞く。すると今度は子どもたちは、「ひらが
な!」と言う。またすかさず、「何、言ってるんだ。よく読んでごらん。か・た・か・なって書いてあ
るだろ!」と。

(2)子どもたちに「君たちは、ひらがなが読めるか?」と聞くと、みなが、「読める! 読める!」
と。そこで私はつぎのように書いたカードを、見せ、子どもに読ませた。「はい!」「いや!」「よ
めない!」「しらない!」「みえない!」と。それらのカードを見せたとき、子どもがどんな反応を
示したか、多分、みなさんも容易に想像できると思う。やがて子どもたちは、「先生は、ずるい、
ずるい」と言い出したが、それが私が言う「良質な刺激」である。

 家庭では、いつも、何らかの変化を用意する。部屋の模様がえはもちろん、料理にしても、休
日の過ごし方にしても、そこに何らかの工夫を加える。ある母親は、おもちゃのトラックの荷台
の上に、寿司を並べた。そういったことでも、子どもには、大きな刺激になる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(731)

●良き隣人vs悪しき隣人

 隣のR氏が亡くなって、もう、5日になる。はやいものだ。そのときは、それほど、さみしくはな
かったが、この数日、R氏のことをよく思い出す。

 良き隣人だった。葬儀の日に、R氏の奥さんが、一枚の写真をくれた。R氏が、私の息子を抱
いて、笑っている写真だった。

 「もらっていいですか?」と横からワイフが声をかけると、「いいよ」と、奥さんは言ってくれた。

 そんな話を、今日、Aさん(女性、40歳くらい)に話すと、Aさんは、こう言った。「あら、林さん
とこは、いいですね。うちなんか、隣人が亡くなって、その隣人が、とんでもない人だったことが
わかりましたよ」と。

 話を聞くと、こうだ。

 Aさんは、3匹のネコを飼っていた。そのネコがある時期、つぎつぎと、ケガや事故にあうよう
になったという。一匹のネコは、尻のところに、大きな腫れ物をつくって、そのまま死んでしまっ
たという。

 あとで病院で見てもらったら、鉄の、さびた玉が出てきたという。医師は、「パチンコか何かで
撃たれたのでしょう」と言ったという。

 が、それだけではない。朝、Aさんの夫が自動車ででかけようとすると、空気が抜かれていた
り、タイヤに穴があけられていたりしたこともあったという。ほかに、植木鉢が荒されたり、ガラ
ス窓が割られたり……。

 で、だれのしわざかわからなかったという。警察に相談すると、「子どものいたずらではない
か?」とのこと。しかしそういう事件が、つぎつぎと、10年にわたってつづいた。

 が、Aさんの隣人が、突然、亡くなった。その数年前にガンをわずらい、それは治ったのだ
が、ある日風邪がもとで、肺炎になり、そのまま死んでしまった。

 それが、ちょうど、2年前のこと。

 が、不思議なことに、その隣人が亡くなったあと、その日を境に、例のいたずらが、ピタリと止
まってしまったという。それでAさんは、気がついた。「今までのしわざは、隣人によるものでは
なかったか?」と。

 Aさんは、こう言った。「私のほうは気がつかなかったのですが、何かあると、腹を立てて、私
の家に向って、いたずらをしていたのでしょうね。何か物証があるわけではありませんが、この
2年間、何ごともなかったのが、その証拠です」と。

 Aさんの隣人は、ほとんど近所づきあいをしなかったという。書き忘れたが、ひとり住まいの
女性だったという。死んだとき、76歳だったという。どこか心のゆがんだ人だったにちがいな
い。

 その話を聞いたら、R氏が、ますますよい人に思われてきた。この29年間、何ごともなく、無
事、交際できたというだけでも、ありがたいこと。

しかし世の中には、いろいろな隣人がいるものだ。改めて、R氏のご冥福を、お祈り申しあげま
す。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【虐待と非行】

●非行の子ども、3割虐待経験(駐日新聞)

 全国の児童相談所で非行相談を受けた子どもの30%は、親などから、虐待されたことがあ
り、ほぼ半数は、育つ途中で、養育者が代わり、親や家族らとの愛着関係を建たれる経験をし
ていたことが、6月13日(05)、犬塚峰子、東京都児童相談センター治療行政課長らの、厚生
労働省研究班の調査で分かった(以上、中日新聞の記事より)。

++++++++++++++++++

 非行の内容

 男子……63%
 非行内容……盗み、家出、外泊
 
 こうした非行問題を起こした子どものうち、

 虐待を受けた子どもは、全体の30%。複数の種類の虐待を受けた受けた子どもが目立ち、
殴るなどの身体的虐待が、78%、ネグレクト(養育放棄)が、73%で、心理的虐待が50%、
性的虐待が32%。

 親が離婚したり、施設に預けられたりして、養育者が途中で代わった子どもは、47%で、うち
約4分の1は、3歳未満で経験。代わった回数は、1回が、66%、2回が、18%、3回は、1
1%いた。

 ドメスティックバイオレンス(DV)のある家庭で育った子どもが、全体の10%いることも判明。

 攻撃性が高い、情緒不安定などの何らかの心理的・精神的問題をかかえる子どもは、85%
おり、虐待経験のある子どもだと、92%に上昇した(以上、同新聞、6・14、朝刊)。

+++++++++++++++++

●虐待は好ましくないが……

 子どもは、絶対的な安心感と、親子の信頼関係のある家庭でこそ、その心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。

 虐待にかぎらない。育児拒否、放棄、冷淡、家庭騒動、夫婦不和、暴力、貧困など。子ども
の側から見て、「不安」を覚えたとき、子どもの心は、大きく、ゆがむ。キズつく。離婚にしても、
離婚そのものが子どもの心に影響を与えるのではない。離婚にいたる、家庭騒動が、子ども
の心に大きな影響を与える。

 子どもがいる夫婦のばあい、離婚をどのように進め、離婚後も、どのようにして、子どもの心
を守るか。この日本では、そうした問題については、ほとんど、考えられていない。

 ただ、この調査で、「?」と思ったのは、つぎのこと。

現在、子どもに体罰を加えている母親は、全体の50%近くはいる。そしてそのうち、約70%
(全体の35%)は、虐待に近い、体罰を加えているのがわかっている(筆者、調査)。

 つまり虐待イコール、非行ということではないのではないかということ。虐待を受けながらも、
子どもの側で、ふんばりながら、がんばっているケースは、いくらでもある。この記事を読むと、
(あくまでも記事を読んでの印象だが)、非行の原因のすべては、虐待にあるような印象をもっ
てしまう。)

 また虐待といっても、肉体的虐待、精神的虐待のほか、間接虐待もある。はげしい夫婦げん
かを見て育った子どもも、虐待を受けたのと同じような症状を示すことがある。

 結論から先に言えば、子どもは、心豊かで、愛情に満ちた、静かな環境で、両親によって育
てられるのがよい。その年齢は、2歳まで(WHO)だが、実際には、満3歳まで。この時期に、
子どもは、親との(とくに母親との)、基本的信頼関係を結ぶ。

 この基本的信頼関係が、そののちの、子どもの精神的発達の基盤となる。が、この時期に、
その信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、精神的に大きな影響を受け、慢性的な不安感
を覚えたりするようになる。生涯にわたってつづくため、「基底不安」という。

 さらに精神的未熟性が、残ることもある。50歳、60歳をすぎても、親離れできず、そのため
自立そのものができず、親に依存して生きる子どもも少なくない。

 もちろん情緒的な問題も起きる。ここに書いてあるような、「攻撃性」もその一つだが、情緒が
不安定になるから攻撃性が生まれるのではなく、他者との良好な人間関係が結べなくなり、そ
の結果として、攻撃性が現れる。もっと言えば、このタイプの子どもは、他者に対して、心を開く
ことができない。

 その結果として、仮面をかぶって、いい子ぶったり、同情を求めたり、依存的、服従的になっ
たりする。内へ引きこもってしまうこともある。攻撃性は、あくまでも、その一部でしかない。

 全体としてみると、この調査は、その前提として、虐待と非行を、どこかで無理に結びつけよ
うとしているのではないかという印象をもった。図式としては、わかりやすいが、かえって、親た
ちに、誤解を生じかねない。つまりこれだけでは、近年ふえている、そうでない家庭(見た目に
も恵まれ、裕福で、家庭円満な家庭)での非行については、説明できない。

●非行の原因は、別の角度から考える

 むしろそうではなくて、家庭的な不協和音が、子どもの自我の形成に影響を与え、その結果
として、子どもは、たとえば非行問題を起こすと考えたほうが、よいのでは……。

 同じ虐待を受けても、自我の同一性のしっかりしている子どもは、自分の目的に向って進ん
でいく。虐待を受けなくても、同一性の確立に失敗した子どもは、さまざまな形で、その自我を
補修しようとする。その一つが、非行ということになる。

 最後に一言。

 非行イコール、即、「悪」ではないということ。今どき、「盗み」や「家出」など、珍しくも何ともな
い。そこには、当然、社会全体がもつ、社会的価値観が混入する。極端な例としては、体に爆
弾を巻いて、自爆することを美徳する社会も、ないわけではない。

 さらに、最近、こんなことも聞いた。

 南アフリカの日本人学校から帰任した小学校の先生が、こう言った。「(日本で)朝礼が終わ
って、子どもたちが二列に並んで教室へもどる姿を見て、ぞっとした」と。

 あなたはその先生が、どうしてゾッとしたか、その理由がわかるだろうか。

 この話をオーストラリアの友人(ドクター)に話すと、そのドクターも、そう言った。

 どこかの駅で列車をまっているときのこと。駅前が運送会社になっていて、そこに10台近いト
ラックが並んでいたという。そのとき、上司らしき人が、トラックの前に運転手を並べ、朝礼をし
ていたという。

 その友人も、それを見て、ゾッとしたという。

 なぜか?

 こうした感覚は、日本人として、日本に長く住んでいるとわからない。そこで私は、オーストラ
リアの友人に、こう聞いた。

 「オーストラリアでは、どうしているのか?」と。

 すると、そのオーストラリア人は笑いながら、「(朝の集会のあと)、みな、バラバラに教室へ入
る。ぼくは、いつも、窓から、入っていた」と。

 またトラックの運転手たちについては、みな「ロボットみたいだった」と。

●サブカルチャ(下位文化)

 「非行」ということを考えるとき、では、非行を経験しない子どものほうが理想的かというと、そ
うでもない。今の日本の子どもたちを見ていると、(決して、非行を奨励するわけではないが)、
キバを抜かれた動物のようで、かえって不気味ですらある。

 男児でも、たいはんが、ナヨナヨしている。おとなしい。やさしい。自己主張も、弱い。ブランコ
を横取りされても、文句一つ、言えない。よく子どもの攻撃性が問題になるが、その攻撃性そ
のものが、まるでない。そういう子どもを、はたして、(いい子)と言ってよいのか。

 むしろ子どものころ、サブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから、
常識豊かな子どもになることが知られている。反対に、子どものころ、優等生であった子どもほ
ど、あとあと、何かと問題を引き起こしやすいこともわかっている。外部に対して問題を引き起
こすこともあるが、内々で、悶々と苦しんでいる子どもとなる、たいへん、多い。)

 「非行」といっても、程度の問題もある。ハバもある。どこからどこまでが、許される非行であ
り、どこから先が、許されない非行なのかということを、一度、明確にしておく必要もあるのでは
……。

 盗みくらいなら、だれだって、する。家出にいたっては、みな、する。虐待が好ましくないことは
言うまでもないが、虐待イコール、非行という短絡的な発想には、私は、どうしても、ついていけ
ない。
(はやし浩司 子供の非行 虐待と非行 虐待 子供の攻撃性 ネグレクト 養育放棄)

(追記)

 日本の子どもたちは、全体としてみると、おとなしすぎる。先日も、アメリカ人の小学校の教師
と話したが、アメリカでは、シャイ(shy)な子どもは、問題児だそうだ。

 日本では、シャイな子どもは、問題児ではない。むしろ、控えめないい子と考えられていると
話してやったら、その先生は、本当に驚いていた。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●二男がサーバーを、廃止

 二男は、自分でサーバー(プロバイダー)を運営していた。以前、友だちのために、作ったと
言っていた。が、所詮(しょせん)無料サーバー。先日、パソコンがこわれたのを機会に、シャッ
トダウン。

 「もうやらないのか?」と聞いたら、「めんどうだから、やめた」と。

 しかし明日は、我が身。この世界、無料のものは、安かろう、悪かろうという先入観だけが、
先行する。私自身も、他人のHPを、そういう目で見ているから、偉そうなことは言えない。

 が、このところ、私のHPを、評価してくれる人が、少しずつだが、ふえてきた。一般の方から
はもちろん、その仕事を専門にしている人からのメールも、ふえてきた。そういう人たちが、私
のHPを支えてくれている。

 が、二男のHPは、もちろんのこと、サーバー運営について、私は今まで、あまりにも、無頓着
だった。今となっては、もう遅いが、もっと、しっかりと見てやったり、コメントを書いたりしてやる
べきだった。そういう(励まし)を、私は、まったくと言ってよいほど、してこなかった。

 インターネットの世界は、まだまだ未知の世界である。マナーも、確立していない。これから少
しずつ、整備されていくのだろう。たとえば、(すべて無料)という考えかたは、是正されていくと
思う。仮に無料ではあっても、そこには、何らかの礼儀のようなものが、生まれてくると思う。

 そうでないと、結局は、長つづきしない。


●『スカイ・キャプテン』を見る

 ビデオ『スカイ・キャプテン』を見る。奇想天外。メチャメチャ。しかも内容は、「スターウォー
ズ」あり、「インディジョーンズ」あり、「ジュラシックパークあ」あり、「ゴジラ」あり、まさに、何でも
ござれの、娯楽映画。

ワイフは、「いいの?」を連発していた。いつかどこかで、別の映画の1シーンを思わせるシー
ンがつづいたからだ。

 そのメチャメチャなところが、おもしろかった。★は、★★★★半の、4つ半。飛行機やSFが
好きな人には、たまらないだろう。(私自身がそうだが……。)

 ただ脇役の技術者が、少し、弱かった。それに、悪党がなぜ、悪党なのか、その目的が、
今、一つ、はっきりしなかった。加えてキャプテンを演ずる俳優に、ハリソン・フォードに感じたよ
うな知性を感じなかった。それで★を半分、減らした。始終、腕のよい、どこかスケベなパイロッ
ト。それで終わってしまった。

 しかしおもしろかった。ああいう映画が、自由に制作できるところがすごい。全体に、どこかセ
ピアカラー的。日本的に言えば、まさに夢幻の世界。

 先にも書いたが、戦闘場面は、スターウォーズより、はげしく、冒険は、インディジョーンズより
過激。もちろん恐竜も出てくる。二足歩行のロボットとの対決シーンは、まさに「ゴジラ」!

 アハハ、アハハで、あっという間に、見終わってしまった。それに最後の最後のオチが、すば
らしい。ハハハハと笑って、おしまい。おもしろかった!


●パチスロ・パチンコ依存症

 今、全国に、約450万人程度の、パチスロ・パチンコ依存症(マニア、ヘビーマニア)の人が
いるという。ほかに、その予備軍として、100万人がいるそうだ(「週刊P誌」5・27)。

 先日も、近くのパチンコ屋へ、フラリと入ってみたが、今では、最低でも3000円。それでない
と、券が買えない。(少し前までは、1000円で楽しめたが……。)1時間やって、3〜10万円
の損得は、当たり前だという。すごい世界である。

 こうした依存症は、何も、パチスロやパチンコだけにかぎらない。

 最近では、パソコン(インターネット)依存症や、携帯電話依存症などもある。ほかに買い物
依存症や、セックス依存症など。

 依存症の基本にあるのは、心のすき間。そのすき間を埋めるために、人は、何かに依存しよ
うとする。そしてそれが過度になり、中毒性をもったとき、ここでいうような依存症となる。

 もともと何らかの原因で、情緒が不安定であったり、精神的な欠陥のある人が、依存症にお
ちいりやすい。

 言いかえると、それだけ、この世の中、心の満たされない人が多いということ。夢や希望な
ど、とっくの昔に消えた。生きる目的もなければ、目標もない。享楽的な楽しみに身をひたして
いる間に、気がついてみたら、依存症になっていた!

 みんな、さみしいのだ。楽しそうには、振る舞ってはいるが、その下では、不安や心配が、ウ
ズを巻いている。パチスロやパチンコに依存する人にしても、それをしている間だけ、不安や
心配を忘れることができる。

 どうすれば、こうした不安や心配から、自分を解放することができるのか。心のより所をどこ
に求めたらよいのか。

 それにしても、450万人+100万人とは! 
 

●マガジンをどうしよう?

 この2日間、書いた原稿は、「パチスロ・パチンコ依存症」の1作だけ。

 ものを書く気分になれなかった。そのかわり、教室の案内書を作ったり、ラジコンを飛ばして
遊んでいた。

 電子マガジンの原稿を書かねばならないのだが、その原稿が、そんなわけで、たまっていか
ない。もうすぐ600号になるところだし、1000号までの折り返し点は、過ぎた。

 しかしこの無力感は、いったい、どこからくるのか? 先日、二男が、自分で運営していたサ
ーバーを、停止した。理由を聞くと、「めんどうだから」と。

 今は、その気持ちが、痛いほど、よくわかる。と、同時に、それがそのまま、私の気持ちにな
ってしまった。

 若いころ、まだ幼稚園に勤めていたときのこと。見た感じ、自閉症の子ども(年中児)がいた。
まだ自閉症の診断基準が確立されていなときことで、私も、「そうではないかな?」と思う程度
だった。

 その子どもを、母親が幼稚園へやってきては、ガミガミと叱ってばかりいた。当時は、参観は
自由だった。私の目を盗んでは、体をたたいり、頭をたたいたり……。

 「お母さん、何も言ってはだめですよ」と、何度制しても、効果はなかった。

 この世界、親の無知と無理解、無学が、充満している。それが子どもの症状を悪化させる。
で、ある日、とうとう私は、こう言った。「無理をすると、かえって、症状がこじれてしまいますよ」
と。

 するとその母親は、キリッと表情を変えて、こう言った。「この子は、生まれつき、こうです。
(私の責任ではありません)!」と。

 多くの親は、自分の子どもに何か問題があると、「生まれつき」という言葉を使う。そして自分
の育児方法には、問題がないと主張する。いわば責任のがれの論法だが、たしかにそういう
問題をもった子どももいないわけではない。しかし……?

 今、私が感じている無力感は、それに近い。

 書いても、書いても、反応のない世界。それが電子マガジンの世界。「これは自分のためだ」
「自分のために書いているのだ」と、何度も、自分に言って聞かせる。が、その声は、むなしく、
そのまま空に消えていく。

 「マガジンをどうしようか?」と悩んだ瞬間、書きたいという気力が、消えうせる。何かしら、時
間をムダにしているような気分になる。あるいは、私は、自分の人生そのものを、ムダにしてし
まったのかもしれない。

 どこかでだれかが、こう笑っている。「林、どうせ、ムダだからやめろ!」と。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブン
ソン)と。

 何度も、その言葉を繰りかえしながら、自分をなぐさめる。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●無知、無理解、無学

 親の世界には、無知、無理解、無学が、充満している。それはそれとしてしかたのないことか
もしれないが、その無知、無理解、無学が、子どもがもつ、心の問題を悪化させることが、よく
ある。

 ある子ども(小2)は、幼児期に読んでいた本を、片時も放さず、手にもっていた。全国の電車
の写真が載っている、小さな本だった。ボロボロだった。

 その子どもは、その本をいつも大切そうに、こっそりと見ていた。だれにも、さわらせなかっ
た。その本は、その子どもにとっては、宝物だった。

 親や、5歳離れた兄たちは、そのことをよく知っていた。それでその本については、アンタッチ
ャブル(絶対に、さわってはいけないもの)と理解していた。

 そこへ車で1時間ほどのところに住む、叔母がやってきた。若いころ、幼稚園で教師をしてい
た。そういうこともあって、ある日、その子どもを、近くの書店へ連れて行った。

 「おばちゃんが、もっといい本を買ってあげる」と。

 叔母は、書店へ着くと、新しい電車の図鑑をその子どもに、買い与えた。大きな、立派な図鑑
だった。

 無知、無学、無理解というのは、恐ろしい。

 そこでその叔母は、その子どもから、ボロボロになった先の本を、強引にとりあげると、その
ままその本を、書店の中にあった、ごみ箱に捨ててしまった。

 異変が起きたのは、その直後からだった、しかし叔母は、「この本のほうが、いいでしょう」
「今度から、これを読むのよ」と。

 家へ帰ってからも、その子どもは、ただオロオロするばかり。そして「字が読めない」「絵が見
えない」「手が痛い」「息が苦しい」と言い出した。

 あわてて母親が、書店へ行き、ボロボロになった本をさがしたが、すでに、その本は、どこか
へ処分されたあとだった。

 こういう失敗(まさに失敗だが……)、幼児教育の世界では、めずらしくない。とくに、子ども
が、何かのことで、強いこだわりを見せるときは、要注意。ある子ども(園児)は、列車の車種
や形に、また別の子ども(園児)は、数字や、車のナンバーに、異常なほどまでに、強いこだわ
りを見せていた。全国の列車の時刻表を、ほぼ暗記してしまっていた子どもさえ、いた。

 ものに対してだけではない。生活の順序、食事の時間、生活の秩序が、ほんの少し変わった
だけで、パニック状態になる子どももいる。

 そういうこだわりを見ると、親や周囲のものは、それをなおそう(?)と、無理をする。この無理
が、そのまま、子どもの心の問題の引き金を引いてしまうことがある。

 これらの子どもたちに、どんな問題があったのかは、ここには、書けない。しかし今ではよく知
られた情緒障害の一つである。

 が、もし親や、周囲のものたちが、ほんの少しでも、専門書を読む機会があり、そうした心の
問題に、ほんの少しでも、理解があれば、こうした問題は、起きなかったものと思われる。勝手
な判断と、強引な指導。それが症状を、こじらせる。

 親たるもの、じゅうぶん、注意したらよい。
(はやし浩司 こだわり 無知 無理解 無学)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の
先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ
のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る
のは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の
自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか
しろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、
激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学
指導 詰め込み教育)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(732)

【子育て・新格言】

●抱きながら本を読む
 「教える」ことを意識したら、「好きにさせる」ことを一方で考える。それが子どもを伸ばす、コ
ツ。たとえば子どもの文字を教えようと思ったら、一方で、文字を好きにさせることを考える。日
本でも、『好きこそ、ものの上手(じょうず)なれ』という。「好きだ」という意識が、子どもを前向き
に伸ばす。

 満四・五歳(四歳六か月)を境にして、子どもは、急速に文字に興味をもつようになる。それま
での子どもは、いくら教えても、教えたことがそのままどこかへ消えていくような感じになる。し
かし決して、ムダではない。

子どもは、伸びるとき、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではない。ちょうど階段を登るよう
に、段階的に、トントンと伸びる。たとえば、言葉の発達がある。子どもは、一歳半から二歳に
かけて、急に言葉を話し始める。それまで蓄積された情報が、一度に開花するようにである。

 同じように、文字についても、そのあと子どもがどこまで伸びるかは、それまでに子どもが、
文字に対して、どのような印象をもっているかで決まる。「文字は楽しい」「文字はおもしろい」と
いう印象が、あればよし。しかし「文字はいやだ」「文字はこわい」、さらには「文字を見ると親の
カリカリとした顔が思い浮かぶ」というのであれば、そもそもスタート時点で、文字教育は失敗し
ているとみる。

 もしあなたの子どもが、満四・五歳前であるなら、(あるいはそれ以後でも遅くないから)、子
どもには、抱いて本を読んであげる。あなたの温かい息を吹きかけながら、読んであげる。そう
することにより、子どもは、「文字は温かい」という印象をもつようになる。いつか子どもが自分
で文字を見たとき、そこにお父さんやお母さんの温もりを感ずることができれば、その子ども
は、まちがいなく、文字が好きになり、つづいて、本が好きになる。書くことや、考えることが好
きになる。
 

●何でも、握らせる
 
ためしに、あなたの子どもを、おもちゃ屋へつれていってみてほしい。そのとき、あなたの子ど
もが、つぎつぎとおもちゃを手にとって遊ぶなら、それでよい。(おもちゃ屋さんは、歓迎しない
だろうが……。)しかし見るだけで、さわろうとしないなら、それだけ好奇心の弱い子どもとみ
る。が、それだけではない。

 最近の研究によれば、指先から刺激を受けることにより、脳の発達がうながされるということ
がわかっている。よく似た話だが、老人のボケ防止のためには、老人に何か、ものを握らせる
とよいという説もある。

たとえば中国には、昔から、そのため、石でできたボールがある。二個のボールがペアになっ
ていて、それを手の先でクルクルと回して使うのだそうだ。私も東南アジアへ行ったとき、それ
を買ってきたことがある。(残念ながら、現地の人が見せてくれたようには、いまだに回すこと
はできないが……。)

 それだけではないが、子どもには、何でも握らせるとよい。「さわる」という行為が、やがて、
「こわす」「組み立てる」「なおす」、さらには「調べる」「分析する」「考える」という行為につながっ
ていく。道具を使う基礎にもなる。

 なお好奇心が旺盛な子どもは、何か新しいものを見せたり、新しい提案をしたりすると、「や
る!」「やりたい!」とか言って、くいついてくる。そうでない子どもは、そうでない。また好奇心が
旺盛な子どもは、多芸多才。友人の数も多く、世界も広い。そうでない子どもは、興味をもつと
しても、単一的なもの。何か新しい提案をしても、「いやだ……」「つまらない……」とか言ったり
する。もしそうなら、親自身が、自分の世界を広めるつもりで、あれこれ活動してみるとよい。そ
ういう緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。


●才能は見つけるもの

 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその
子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、二歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、
その子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始め
た。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので
なければならない。この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子
どもを側面から支える。

勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉強でつまずくと、そのまま
ズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見つけ、その才能を用意し
てあげるのは、親の大切な役目ということになる。

 これからはプロの時代。そういう意味でも、才能は大切にする。たとえばM君(高校生)は、ほ
とんど学校には行かなかった。で、毎日、近くの公園で、ゴルフばかりしていた。彼はそのの
ち、ゴルフのプロのコーチになった。またSさんは、勉強はまったくダメだったが、手芸だけは、
だれにも負けなかった。そのSさんは、今、H市内でも、最大規模の洋品店を経営している。


●何でもさせてみる

 子どもには、何でもさせてみる。よいことも、悪いことも。そして少しずつ、様子を見ながら、ち
ょうど、彫刻を削るようにして、よい面を伸ばし、悪い面を削りながら、形を整えていく。まずい
のは、「あれはダメ、これはダメ」と、子どもの世界を狭くしていくこと。

 たとえば悪い言葉がある。悪い言葉を容認せよというわけではないが、悪い言葉が使えない
ほどまで、子どもを押さえ込んではいけない。一応、叱りながらも、言いたいように言わせておく
……、そういう寛容さが、子どもを伸ばす。子どもが親に、「ジジイ!」と言ったら、「何だ、未来
のクソババア!」と言いかえしてやればよい……と私は考えているが、どうだろうか。私は私の
生徒たちに対しては、そうしている。

 威圧的な過干渉、神経質な過関心、盲目的な溺愛、精神的な過保護が日常化すると、子ど
もは一見、できのよい子になる。しかしそういう子どもは、問題を先送りするだけ。しかも先送り
すればするほど、あとあと大きな問題を起こすようになる。この時期、『よい子は悪い子』と考え
るとよい。とくに親や先生に従順で、ものわかりがよく、しっかりとしていて、まじめで、もの静か
な子どもほど、要注意!


●幼児教育は、種まき

 幼児教育は、すべて「種まき」と思う。教えても、すぐ効果を求めない。またすぐ効果が出ない
からといって、ムダと思ってはいけない。実際、ほとんどのことは、一見ムダになるように見え
る。しかしムダではない。子どもの心の奥底にもぐるだけと考える。

 言うべきことは言う、教えるべきことは教える、しかしあとは時間を待つ。が、それができない
親は、多い。本当に多い。こんなことがあった。

 ある日、ひとりの母親が私のところにきて、こう言った。「先生は、うちの子(年長児)が書いた
ひらがなに、丸をつけた。しかし書き順はメチャメチャ。字も逆さ文字(上下が反対)、鏡文字
(左右が反対)になっているところがある。どうして丸をつかたか。そういう(いいかげんな)教え
方では困る!」と。

 その子どもは、たしかにそういう字を書いた。しかし大切なことは、その子どもが一生懸命、
それを書いたということ。私はそれに丸をつけた。字のじょうず、ヘタは、そのつぎ。これも大き
な意味で、種まきということになる。子どもには、プラスの暗示をかけておく。おとなが見たらヘ
タな字であっても、子どもにはそうでない。(自分の字がじょうずかヘタか、それを自分で判断で
きる子どもは、いない。)「ぼくは字がうまい」という思いが、子どもを前向き伸ばしていく。

 要するに、子どもに何かを教えるときは、心の中で、「種まき、種まき……」と思えばよい。


●えびで鯛(たい)を釣る

 『えびで鯛を釣る』という。えびをエサにするのは、もったいない話だが、しかしそのエビで鯛
をつれば、損はない、と。子どもの学習をみるときは、いつも、この格言を頭の中に置いておく
とよい。が、中には、えびで鯛を釣る前に、そのえびを食べてしまう人がいる。いろいろな例が
ある。少しこじつけのような感じがしないでもないが、最近、こんなことがあった。

 A君(小三)は、勉強が全体に遅れがちだった。算数も、まだ掛け算があやしかった。自信も
なくしていた。そこで私はA君を、小二クラスへ入れてみた。A君は、勉強がわかるようになった
ことが、よほどうれしかったのだろう。それまでのA君とは、うってかわって、明るい表情を見せ
るようになった。そして半年もすると、小三レベルまで何とか追いつくことができた。私は、A君
を小三クラスへもどした。

 が、ここで親の無理が始まった。追いついたことをよいことに、親はA君に、ドッサリとワーク
ブックを買い与えた。勉強の量をふやした。とたん、再び、A君はオーバーヒート。以前より、さ
らに気力をなくしてしまった。つまりA君のケースでは、せっかく(えび)を釣ったのに、それで
(鯛)を釣る前に、親が、その(エビ)を食べてしまったことになる。ちょっとわかりにくい例かもし
れないが、その(エビ)をじょうずに使えば、A君はそこで立ちなおることができたはず。

 ついでに……。こういうケースでは、二度目は、ない。しばらくすると、親は、「また一学年さげ
てみてほしい」と言ったが、今度は、A君がそれに応じなかった。子どもの世界では、一度失敗
すると、二度目は、ない。


●やなぎの下には……

 何かのことで失敗したとき、子どもの世界では、二度目はない。子ども自身が、それに応じな
くなる。

 たとえばAさんは子ども(小五男児)のために、家庭教師をつけた。きびしい先生だった。子ど
もとは相性が合わなかった。子どもは、「いやだ」「かえてほしい」と、何度も親に懇願した。が、
親は、「がまんしなさい!」と子どもを叱りつづけた。結果、子どもの成績はさがった。無気力症
状も出てきた。そのため半年後に、親は家庭教師を断った。

 ここまではよくあるケース。が、こうした失敗は、必ず、尾を引く。それから何か月かたったと
きのこと。Aさんは、また子どもに家庭教師をつけようと考えた。「今度は慎重に……」と思った
が、息子が、それに反発した。ふつうの反発ではない。部屋中をひっくり返して、それに抵抗し
た。

 一般論として、何かのことで、一度挫折すると、子どもは同じパターンでものごとが始まること
を、避けようとする。親は「気のもちようだ」「乗り越えられる」と考えがちだが、子どもの心理
は、もう少し複雑。デリケート。いや、時間をかければ、乗り越えられなくもないが、それよりも
早く、子どもは大きくなっていく。乗り越えるのを待っていたら、受験時代そのものが、終わって
しまう。そんなわけで、この時期の失敗や、挫折は、子どもに決定的な影響を与えると考えてよ
い。

 『やなぎの下には、どじょうは……』と言うが、子どもの世界では、『失敗は、二度ない』。この
時期、つまり子どもの受験期には、「うまくやって成功する」ことよりも、「へたなことをして失敗
する」ことのほうが多い。成功することよりも、失敗しないことを考えながら、子どもの受験勉強
は組みたてる。


●航海のし方は、難破したことがある人に聞け

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイと東大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。
本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイと東大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。「こうして私は東大へ入った」とか、な
ど。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、
うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗する。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子
育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分
は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。が、その「知ることができない」
部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての度量が決まる。

「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親ほど、実は、そう思い込んでいるだけで、
子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失う。失敗する。一方、「うちの子のことがわ
からない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようとする親ほど、子どものことを知っている。だか
ら、子どもの姿を正確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。


●読んだら、聞いて、絵を描かせる

 子どもが何かの本を読んだら、(あるいは本を読んであげたら)、そのあとその本について、
絵を描かせるとよい。子どもは絵を描くことで、その本の内容に、自分の考えをつけ加える。批
判力も、そこから生まれる。感想文を書かせるという方法もあるが、年少の子どもには、まだ
ムリ。

 内容を理解した子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかる絵を描く。そうでない
子どもは、印象に残ったところを中心に、部分的な絵を描く。そして子どもが絵を描き終えた
ら、「これは、だれ?」「何をしているの?」と聞いてみるとよい。この方法は、子どもの思考力を
深くするという意味では、たいへん効果的である。


●乱暴な子ども

乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。

(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙
を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を
確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。

(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ
ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども
がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。
してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども
に、よく見られる。

(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ
かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず
るい感じがするのが特徴。

(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから
れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。このタイプの子どもは、その
直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほんの瞬間的で、おさえるとして
も、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからどこかピリピリとした印象を与
えることが多い。

(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ
る。

 乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱
暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ
ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば
あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ
れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。

【S君、小二のケース】

 ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった
く書けない、など。

 そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自
虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる
様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも
のが変わった。

 そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく
らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、
それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。

 今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎
盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その
人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」(PHP
新書)と。じゅうぶん考えなければならない説である。


●理屈は言わせる

 自己主張と、わがままはちがう。自己主張と、がんこもちがう。子どもをみるときは、これら三
つを、ていねいに見分ける。

 その中でも自己主張は、子どもの心の発達には、きわめて重要なものである。(わがままと
がんこについては、また別のところで考える。)子どもが自己主張するときは、(1)言いたいだ
け言わせる、(2)聞くべきことは、しっかりと聞くという態度でのぞむ。「親に向かって何てこと言
うの!」式に、威圧でおさえてはいけない。

 「お兄ちゃんは、三つもらったのに、どうしてぼくは二つなのか?」は、自己主張。
 「僕は、三つでないとだめ。二つはイヤ!」というのは、わがまま。
 「青いズボンでないと、幼稚園へは行かない」とがんばるのは、がんこ。

 「ママは、この前、○○をくれると約束したが、どうして約束を守ってくれないのか?」は、自己
主張。

 「あのおもちゃを、買って、買って」と泣き叫ぶのは、わがまま。
 「おもちゃを、なおせ!」と、こわれたおもちゃに、いつまでもこだわるのは、がんこ。

 「どうしてお父さんだけは、トイレ掃除をしなくていいのか?」というのは、自己主張。
 「お手伝いなんか、いや」と逃げるのは、わがまま。
 「いやだ」と言って、部屋に入ったまま、出てこようとしないのは、がんこ。

 不合理、不公平、不正義に対して、自分の意見を言うというのが、自己主張ということにな
る。子どもは自己主張をすることにより、道理や正義、倫理や理屈を学ぶ。豊かな常識も、そ
こから生まれる。決して、頭からおさえつけてはいけない。

 ときとして子どもは、反抗するが、反抗できないほどまでに、子どもをおさえつけてはいけな
い。よく「うちの子は、親の言うことを何でも、はいはいとよく聞いてくれます」と喜ぶ親がいる
が、そんなことを喜んではいけない。子どもの人格は、(おとなもそうだが)、いろいろな経験を
とおして養われる。生まれつき、あるいは子どものときから、ものわかりのよい子どもなど、い
ない。いるとしても、フリをしているか、ムリをしているだけ。そういう前提で、子どもの心を考え
る。


●子どもの世界

 子どもには、三つの世界がある。家庭を中心とする、家族とのかかわりをもつ世界。これを
第一世界という。つぎに、保育園、幼稚園、さらには学校を中心とする、先生や友人とのかか
わりをもつ世界。これを第二世界という。そして家庭や学校から離れて、同年齢の仲間を中心
とする、友だちとのかかわりをもつ世界。これを第三世界という。

 最近では、これら三つの世界のほか、ゲームやパソコンを中心とする、バーチャル(仮想現
実)の世界も生まれてきた。これを第四世界というが、これについては、ここではふれない。

 子どもがまだ幼いあいだは、第一世界(家庭)が大きく、またそれがすべてである。しかし子
どもが保育園や幼稚園へ通い始めると、やがて第二世界(園や学校)が大きくなり、ついで、外
での第三世界(交友)が大きくなる。と、同時に、相対的に、第一世界が小さくなる。

 子どもというのは、それぞれの世界で、まったく別人を演ずることが多い。どの世界の子ども
が、本当の子どもであるかということを考えても意味はない。また一つの世界だけを見て、その
子どもを判断してはいけない。家庭の中では、だらしなくても、学校という世界では、模範生
(?)ということは、よくある。あるいはさらに学校では模範生(?)でも、友だちの間では、陰湿
ないじめを繰りかえし、嫌われているということもある。

 こうした子どもの特性を理解したければ、あなた自身はどうであったかを思い出せばよい。あ
なただって、親に見せる姿、先生に見せる姿、それに友だちに見せる姿は、それぞれ別の姿
であったはずである。今の今でも、家庭の中で見せる姿、職場で見せる姿、そして友人に見せ
る姿は、それぞれ違っているかもしれない。問題は、こうした違いがあることではなく、そうした
違いを、それぞれの場所で使い分けながら、人は、生活しているということ。

 もっともこうした「違い」は少なければ少ないほど、よい。この私でも、仕事をしているときも、
友だちと会っているときも、家族といっしょにいるように、それが気楽にできたらよいと思う。し
かし現実には、それはできない。できないから、ときには、疲れる。

 ……という話はまたの機会にして、結論だけをここに書く。

(1)一つの世界だけを見て、子どもを判断してはいけない。
(2)子どもが大きくなるにつれて、「家庭」はしつけの場から、心をいやし、心を休める「いこい
の場」になることを忘れてはいけない。
(3)子どもの姿を正しく知るためには、(1)子どもが、どんな友だちとつきあっているかを知る、
(4)先生に対しては、「聞きじょうず」になり、子どもの情報を正しく入手する。

 このうち、(3)に関連して、自分の子どもが、外の世界で、何かトラブルを起こすと、たいてい
の親は、「うちの子は悪くありません。友だちにそそのかされただけです」などという。そういうケ
ースももちろんあるが、そういうときは、まず自分の子どもを疑ってみる。とくに「私の子どもの
ことは、私が一番、よく知っている」という親ほど、そうする。自分の子どもを疑うことはつらいこ
とだが、あなたの子どもについて言うなら、あなたが知っている面より、知らない面のほうが、
はるかに多い。

 また先生に対しては、いつも聞きじょうずになること。先生と自分の子どもについて話すとき
は、自分の子どもでも、他人と思って話す。そういう姿勢があれば子どもを、より客観的に見る
ことができる。そして先生も、そのほうが、いろいろ話してくれる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(733)

●認知症(ボケ)、つぎは、私たち!

 だれしも、私は関係ないと思っている。この文を書いている私も、そしてこの文を読んでいる、
あなたも、だ。

 しかし老いは確実にやってくる。と、同時に、頭も、ボケ始める。程度の差こそあるが、これに
は、例外がない。さらにやっかいなことに、「私は少しボケてきたな」と言う人ほど、ボケていな
い。「私はだいじょうぶ」と確信している人ほど、そのとき、すでにボケ始めている。

 それには理由がある。

 脳ミソの中には、自分自身を客観的に判断する部分がある。私は、このことを、「教える」とい
う立場で、発見した。子どもたちに何かを教えながら、「この程度のことなら、子どもたちにも理
解できそうだから、話してやろう」とか、「しかしこれは無理だから、話すのをやめよう」とか、判
断するときがある。いわば、自分の脳ミソをさらに上部からコントロールする脳ミソがある、とい
うことになる。

 この上部からコントロールする脳ミソこそが、ボケのカギを握る。たとえば自分のボケの進み
具合も、その脳ミソが判断する。が、その部分の脳ミソがボケ始めると、自分の脳ミソを客観
的に判断できなくなる。「私は、だいじょうぶ」と言う人は、(そんなはずはないのだから……)、
すでに、その部分がおかしくなっているということになる。

 で、このところ、私より年配の人と会う機会が、多くなった。中には、5年とか、10年単位で会
う人もいる。そういう人を見ていると、その変化がよくわかる。

 「この人は、若いころと変わらないな」と思うこともあるが、反対に、「この人は、かなりボケ始
めているな」と思うこともある。

 で、そのボケかたには、いろいろな特徴がある。一部の脳障害(アルツハイマー型痴呆症な
ど)を除いて、全体としてみると、つぎのような特徴がある。

(1)繊細さが消える。(どこか、ものの考え方が、大ざっぱ。)
(2)がんこになる。(他人の話を聞かない。冗談が通じない。)
(3)情報が脳みその表面を、上すべりする。(ペラペラと思いついたことをしゃべる。)
(4)静かな思考力、判断力が消える。(こちらの言っていることが、理解できない。)
(5)表情がとぼしくなる。(無表情で、無口。)
(6)生活の許容範囲が狭くなる。(生活そのものが、ワンパターン化する。)

 最後の「許容範囲が狭くなる」というのは、生き方そのものが、我流になり、それ以外の生き
方を、認めなくなるということ。他人に対して押しつけがましくなる。ズケズケとものを言って、相
手の問題に、平気で干渉してくる。

 問題は、こうした変化を、どうすれば、自分で知ることができるか、ということ。それがわから
なければ、ボケを防ぐことができない。ただときどき、おもしろいなと思うことは、明らかにボケ
始めたような人でも、ばあいによっては、「私は、頭が悪いから」と、自分で言うときがある、と
いうこと。

 「本当に自分の頭が悪いとわかっていて、そういっているのかな?」と思う。わかっていて、そ
う言っているなら、ボケてはいないことになる。自分の頭のよしあしは、自分をかなり客観的に
見る目があって、はじめてわかる。

 が、実際には、そう言っているだけで、自分では、何もわかっていない。もちろん自分の頭が
悪いとは、思っていない。周囲の人たちに、「お前はバカ」「アホだ」と言われているうちに、それ
を口ぐせにするようになるだけ(?)。

 このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 子どもたちは、自分より、スイスイとむずかしい問題を解く子どもを見て、その子どもは、頭が
よいと判断する。そしてその返す刀で、「ぼくは、あいつほど、頭がよくない」と思う。

 が、この段階でも、その子どもは、自分では、バカだとは思わない。だれかに、「こんな問題も
解けないヤツは、バカだ」と言われて、はじめて、自分の能力が劣っていることを知る。

 ボケも同じ。ボケ始めている人が、それに気づくことは、まずない。「ものが覚えられない」「す
ぐ忘れる」といった、ボケの初期症状にしても、それを自覚している人は、まだボケていないと
いうことになる。

 自分でものをしまい忘れて、「あいつが盗んだ」と本気で言うようになったら、その人は、ボケ
たことになる。「しまい忘れた」と自覚しているうちは、まだボケていないことになる。

 ……わかりにくい話になってしまったが、私のばあいは、今までに書いてきた文章が、ひとつ
のバロメーターになることがある。

 たとえば5年前に書いた文章を読みなおしてみる。10年前に書いた文章を読みなおしてみ
る。そうして、自分のボケを、自分で知ることができる。そのとき重要なのは、文章や内容より
も、そこから感ずる「サエ」である。

 そのサエが薄くなっていれば、ボケ始めていることになる。反対に、ダラダラとくだらない文章
を書いているなと思えば、ボケは、まだ進んでいないことになる。

 そういう視点でみると、私のばあい、52、3歳を境に、その「サエ」が、鈍くなってきたように思
う。52、3歳ごろに書いた文章を読みながら、「ほほう、結構、いいことを書いているな」などと、
自分で感心することさえある。

(そういう視点で見ると、今、書いているこの文章などは、駄作中の駄作ということになる。)

 ところで、同じボケでも、最後の最後の部分に、「人格」が残っていれば、まだ救われる。しか
し人格そのものが、崩壊してしまうばあいがある。そうなると、ボケの「質」そのものが、変わっ
てくる。ある男性(50歳)は、こう言った。

 「同じボケ老人でも、心が通じあえば、まだ救われます。しかしその心が通じなくなると、介護
をしていても、自分がなさけなくなります」と言った。

 で、「人格の崩壊って、どういうことですか?」と私が聞くと、こう話してくれた。「犬でも、やさし
くしてあげると、シッポを振って喜びますね。しかし人格が崩壊すると、わざとシッポを振りなが
ら、相手を、自分の思いどおりに動かします。そしてその奥で、ニタニタと、『うまくやった』と、喜
んだしまう。そういうような状態になることをいいます」と。

 ナルホド!

 その人が言う人格というのは、その人の(つかみどころ)ということになる。その(つかみどこ
ろ)がなくなってしまったら、その人も、おしまいということ(?)。

 そこで私たちの問題。

 最近、私とワイフは、こんなことをよく話す。

 「人格というのは、簡単にはできない。だから、今、それを一生懸命、かためておかないと、
やがてすぐ崩壊してしまう」と。

 たとえば横断歩道などにきても、私とワイフは、信号を、必ず守るようにしている。他人との約
束については、なおさらだ。こうした日々の積み重ねが、月となり、さらに年を重ねて、その人
の人格となる。

 こうした人格の(核)さえしっかりと作っておけば、仮にボケても、ブザマな醜態だけは、さらけ
出さずにすむ。今は、まさに、その(核)ができるかどうかの、正念場ということになる。

+++++++++++++++++++

この原稿に対して、Mさんという方から、
こんな書き込みがありました。
Mさん、どうも、ありがとうございました。

+++++++++++++++++++

今日、掲示版に書き込みをさせていただいた、Mです。日記初めて訪問しました、「うーん」と思
ったり、「そんなものかしら」と思ったり、参考になりました。ここで亡くなった祖母(97歳没)のこ
とを書きます。

祖母は、孫のアイドルでした。「かわいらしいおばあちゃん」という感じの人でしたが、お嫁さん
との折り合いが悪く、ボケたらすぐに病院に入れられました。

お正月も病院で過さなくてはならない有様で、自分がほったらかしにされていると感じることで
も、ボケを加速させたものと思われます。

(面会には週1くらいのペースで母と私は病院行っていましたが、「家族が会いに来ない」と病院
の職員にグチられるほど、家族愛が希薄でした。)亡くなる前のボケた状態は、祖母が正気だ
った頃には考えもできないほどの、変わり様でした。

わがままで、怒りっぽくなり、病院の職員の方に当り散らしていた様子を見て、自然に涙がこぼ
れました。

祖母はいつも回りの人に気を遣い、ケラケラとよく笑い。冗談を言ってはまた笑い。孫を分け隔
てなく、愛してくれました。あの祖母が・・・ボケの合間に時々顔を出す正気の時には、ちゃんと
わかっているのか、今際の際では、母や私達孫の顔を見て涙を流していました。暗い話で終わ
ってしまい、すみません。

ただ、言いたかったのは、「人間って無数のベールをかぶっているんだな」って思ったことで
す。一番身近な、娘さえ(私の母・たぶん本人も気が付いてない)も知らなかったベールを幾重
にもかぶっていたんだ。ボケというのはそのベールの、どの部分が出てくるかわからない恐ろ
しいものだと思いました。(更に暗くなったので止めます)

+++++++++++++++++++++

【Mさんへ】

 ボケるところまでいかなくても、年齢とともに、自分の内面が、そのまま外に出てくるということ
はよくあります。

 その内面が、よいものであれば、それでよし。しかしたいはんは、そうでない……。それまで
気力でごまかしたり、隠していた部分が、そのままモロに外に出てきてしまいます。

 だから若いときから、かなり意識して、その内面をみがいていかないと、やがてボロを出すこ
とに……。もっと言えば、自分の醜い面をさらけ出すことに……。それがこわいですね。

 私などは、もともとは、ボロボロの人間ですから、どうしようもないです。醜態をさらけ出す前
に、静かに、あの世に行きたいです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●田丸謙二先生より

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


田丸謙二先生からの寄稿文を、少しずつ、紹介していきます。
「教育についての原稿は、転載してよい」という了解をいた
だきました。

田丸先生は、東大副総長(総長特別補佐)、日本化学会会長、国際触媒学会会長などを歴
任。日本学士院賞の受賞者でもあります。日本の教育の原点を知るためには、たいへんすば
らしい原稿です。ぜひ、お読みください。

++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●暗記の化学から探究の化学へ

田丸謙二(たまる・けんじ)

    嫌いな化学から好きな化学へ; 私が旧制の中学で初めて学んだ化学は、文字通り全く
の暗記物であった。なぜ暗記しなければいけないのかも解からずに次々に化合物の名前や性
質などをただただ覚えさせられる嫌いな科目であった。それはてき面に成績に現れて、全ての
学科の中で化学が最低であった。普段成績については何も言わない化学者だった父が、私の
通信簿を見て「化学は何が解からないの?」と尋ねられ、何と答えてよいか、困ったことを覚え
ている。如何にも頼りない息子であった。

    旧制高校の化学は、それまでの化学とは全然違っていた。化学結合やイオン化傾向に
よる電池やメッキの話し、溶液の蒸気圧降下と凝固点の関係、浸透圧で電解質の電離度が測
定できたり、「なるほど、なるほど}と納得し、分析もまた面白かった。(大学入試に2時間で未
知試料を分析する実験があった) こうして目から鱗が落ち、論理的な思考を土台として「もの」
を学ぶ面白さに惹かれて化学を選ぶことにした。

    時代と共に変わる理科: アメリカでは15年ほど前から時代を先取りして理科教育を大
きく変えた。それまでのように鯨の種類を覚えさせるようなことは止めて、知識を削減し、探究
的に考える理科へと改革した(1)。欧州でも同じことが始まった。これからますます変化の速い
時代に適応して、時代をリードして行くには知識よりも自立した柔軟な個性と智慧が求められ
る。

    そこでわが国でもそれを取り入れようとして「ゆとり教育」が始まった。知識を3割削減
し、自立して探究的に考えようというのである。しかし、現実にはどうもうまく行っていない。なぜ
だろうか。欧米ではeducation は各人の優れた点をeduce引き出す作業であり、個性を伸ばす
ように、小学生も「自立して考え」、debateが出来るように訓練されている(2)。しかし、わが国
にはこの種の教育はない。子供だけでなく先生にもない。「学ぶ」は「マネブ」(真似をする)から
来た言葉で、伝統的に知識を偏重して受け入れて来た、つまり、ベクトルが逆なのである。日
本では、「皆一緒、差別なし」の美風(?)で、自立して探究的に考えて、個性を育成することま
で「マネバなかった」のである。暗記することと考えることとは別なものである。「ゆとり教育」がう
まく行かないわけである。

    これからの化学: 私が化学に魅せられた基本は、「なるほど、なるほど」と納得しなが
ら「もの」の本質が明らかになることであった。反応の基本や平衡などを基に考えれば考えるほ
ど新しい理解が拡がり、面白くなる。しかし、現在の高校の化学の教科書を眺めてみると、私
の旧制中学時代の化学を髣髴させる内容で(3)、こんな化学を学ぶ生徒が可愛そうになる。
現在は携帯用のパソコンも出てくる時代である。

 情報が溢れる時代には暗記よりも情報や知識をツールとして考える力が問われる時代が来
ている。この時代の激しい変化に適応するよう、教育を改革する一つの方法は教科書や入試
内容を改善し、しっかりとした基本を基に探究的に考える智慧を育てることである。入試の出
題も当然この線に沿うことになる。探究的に考え、個性を育てることが、コンピュータ時代の教
育であり、「ゆとり教育」を育てることにもなり、化学を面白くさせる。アメリカ化学会から出され
たChemistryという本がこの方向をはっきりと示している(4)。私が旧制高校に入って「なるほ
ど、なるほど」と納得して好きになった化学になって来る。

1 National Science Education Standards, National Research Council(1996), National 
Academy Press. 2. 「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 
(1999) 1149  3 近年私が化教誌にしばしば指摘している 4 本誌、4月号、515(2005) 


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前
でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ
ている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき
は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ
った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも
たせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ
ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか
という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルトチェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルトチェルドレンになるわけではない。ほ
かにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症
状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように
なる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい
母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい
る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た
ちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し
くない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、
男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には
ならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●前向きに生きる

 同じ重荷でも、前向きにとらえるか、うしろ向きにとらえるかで、その重さは、ずいぶんとちが
ってくる。

 わかりやすい例でいえば、仕事がある。

 好きな仕事を、前向きにすれば、楽しくできる。嫌いな仕事を、いやいやすれば、頭も重くな
る。疲れる。それが長くつづけば、うつ状態や、ノイローゼにもなる。

 子育てにしても、そうだ。どうせ育てなければならない子どもなら、どんな子どもであっても、そ
の子どもを受け入れ、前向きに、育てていく。それしかない。

 私は、最近、ほぼ同時に、似たような、2つの話を聞いた。

 ひとつは、こんな話。父親が、1歳をすぎた息子といっしょに、入浴していたときのこと。その
息子が風呂の中で、大便をもらしたという。やわらかい便だったのだろう。母親があわててか
けつけたときには、父親は、体中、息子のウンチまるけだったという。

 それを見て、父親は笑った。母親も笑った。もう1人、5歳年上の兄もいたが、その兄も笑っ
た。前向きに考えるということは、そういうことをいう。

 ところが、こんな例もある。

 同じ大便だが、ある老人が、風呂の中で、大便をもらすという事件があった。その日以来、そ
の家の嫁(息子の妻)が、その老人を虐待するようになったという。無視、冷淡、食事の用意を
しないなど。

 それまでに、たまりにたまった、何かの(わだかまり)が爆発し、その女性をそうさせたのかも
しれない。うしろ向きに考えるということは、そういうことをいう。

 同じようなことでも、視点を逆にすることで、ものの感じ方が、180度変わるということは、よく
ある。同じ大便でも、赤ん坊のものであれば、笑い話になり、老人のものであれば、虐待の引
き金を引く。

 そのちがいは、何かといえば、つまるところ、「寛大さ」ということになる。そしてその寛大さの
基本は何かということになれば、その人に対する、「愛情」ということになる。

 話をもとにもどす。

 楽しく生きるためには、要するに、重荷があることはしかたないとしても、その重荷を、前向き
に背負っていくということ。

 「バカめ!」と笑ってすませば、心も軽くなる。しかし「こんなことでは……」と悩めば、心も重く
なる。

 ……ということで、この話はここまで、ということにあんるが、実際には、ことは、こんな簡単な
ことではない。

つまり心というのは、もっと複雑に作用する。つぎつぎと、いろいろな事情が、重なって起きてく
ることもある。家庭問題、家族の問題、健康問題、経済問題。もちろんその人の、情緒的、精
神的問題もからむこともある。

 そうなると、ときに、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 私のばあい、それは私の個人的な脳ミソの欠陥によるものなのか、それとも、人間の脳ミソ
が共通してかかえている欠陥なのかはわからないが、頭の中で、問題の大小が判断できなくな
るときがある。

 大きな問題も、小さな問題も、同じように悩んでしまう。そしてパニック状態になってしまう。

 そこで私のばあいは、できるだけ、複数の問題を同時にかかえないようにしている。つまり一
つの問題が起きたら、その場で解決するようにしている。この手法は、私が子どものころ、身に
つけた。

 私が小学2年生か3年生のときのことではなかったか。10人前後の仲間といっしょに、畑
へ、大根を盗みに入った。今では考えられないいたずらだが、当時はそういう時代だった。

 遊んでいて、のどがかわくと、みな、そうした。

 が、あるとき、農家の人に、それが見つかってしまった。そしてこう怒鳴られた。「おい、お前
ら、ちょっと来い!」と。

 みなは、てんでバラバラな方向に逃げたが、私ひとりだけは、その農家の人に向って歩きだ
してしまった。ものすごい恐怖感を覚えたが、今でも、なぜ、そうしたか、自分でもよくわからな
い。多分、早めにあやまって、問題を解決したかったからではなかったか。

 以後、そういう場面では、決まって、私はそうしている。気が小さく、おく病なくせに、そういうと
きになると、腹がすわるというか、前に向って進んでしまう。

 このことと、「前向きに生きる」とは、直接関係ないかもしれないが、生きザマとしては、共通し
ている。クヨクヨとあれこれこれ悩むくらいなら、思い切って、ヤブの中に飛びこんでみる。その
あとどうなるかはわからないが、そのあとのことは、そのあとに任せればよい。

 前向きに生きるということは、いつも、心の中を軽くして生きることをいう。


●パソコンと将棋

 最近、パソコンと将棋をして、勝てるようになった。今のところ、10試合中、8勝前後。(以前
は、負けてばかりいた。)

 前にも書いたが、パソコンと将棋をしていて、つまらないのは、パソコンは、ヘマをしないこ
と。パソコンは、それほど強くはないが、ヘマをしない分だけ、スキがない。差すべきところに、
きちんと、コマを差してくる。

 が、こちらは、ヘマをする。そのヘマをしたとき、形勢が、一気に逆転する。

 その将棋。朝起きたときに、1試合。眠くなってときに、1試合。ちょっとヒマがあるときに1試
合……という感じで、ときどきしている。少し前までは、囲碁もしていたが、最近は、もっぱら、
将棋。

 その将棋でおもしろいと思うのは、(1)相手のコマを取ることはあっても、殺さないということ。
(2)取ったコマは、いわば捕虜にすることができるいうこと。(3)そして捕虜にしたコマは、今度
は、自分のコマとして、使えるということ。

 将棋というのは、もともとインドで生まれたもの。それが遣唐使たちによって、中国から、日本
にもたらされたという(「広辞苑」)。昔は、大将棋、中将棋というものも、あったそうだ。日本でし
ているのは、もっぱら、小将棋。

 将棋を差しながら、当時のインドの牧歌的な温もりを感じてしまうのは、決して私だけではな
いと思う。(あるいはひょっとしたら、インドの輪廻転生(りんねてんしょう)の思想が、混入して
いるのかも?)どうであるにせよ、将棋の世界には、「死」はない。

 最後に「王将」を詰めたとしても、勝負はそこまで。試合終了。その王将を取りあげたり、殺し
たりはしない。それに王将1個だけになったら、王将を詰めなくても、それで勝負は、終わり。つ
まりその一歩手前で、パソコンは、「どうもありがとうございました」とあいさつをして、勝負は、
終わる。

 で、こうした試合観というか、戦(いくさ)観は、日本の戦国の時代にも、生きていた。当時の
武将たちは、捕虜を殺すということはしなかった。捕虜をつかまえたら、反対に、自分に忠誠を
誓わせることによって、無罪放免。今度は、自分の家来として、その捕虜を使った。

 当時の人々は、それほどまでに「主君」に従順だったのか。それとも、一部の、出世主義者を
のぞいて、もともと「戦(いくさ)」など、どうでもよかったのか。とくに戦にかりだされた農民たち
にとっては、そうであっただろう。

 勝っても、負けても、(殺されたら、話はおしまいだが、そうでなければ)、農民は農民。将棋
で言えば、「歩」。どうでもよかった。

 その(温もり)が、やがて日本の歴史の中から消えていく。その一例が、「忠臣蔵」である。ア
ホな主君が、短気を起こして、アホなことをした。それで「お家、とりつぶし」。が、忠誠を誓っ
た、47士たちは。復讐劇を展開する。

 1説によると、忠誠心を誇示して、また別の主君のもとで再就職を考えていたとも言われてい
る。が、結果は、全員、切腹。同じ日本人だから、その気持ちは、ヨ〜クわかるが、しかしその
一方で、どうもこの話は、スッキリしない。

 今朝も、パソコンを相手に将棋を差しながら、そんなことを考えた。で、今朝も、112手で、私
の勝ち! 頭が少しスッキリしたところで、何冊かの週刊誌に目をとおす。全国のみなさん、お
はようございます。
(050623)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●Mさんからの相談(R天掲示板より)

R天の掲示板に、こんな相談がありました。

++++++++++++++++++++++

こんにちは、小2と2歳8ヶ月女の子のママです。
最近、小2のお姉ちゃんの宿題で漢字の書き取りが、クラスの中で過熱化しているようです。

書き取りページが多いと、優勝シール(金色)を貼ってもらえるらしく、先日などは18ページも書
いていました。当然時間もかかるし、家族の会話(共働きなので、ただでさえ少ないのに)も減
るので、先生にページ数など制限してもらうように頼もうか? それとも、もともと飽きっぽい(小
2の長女)性格なので、少し様子を見てみようか?、迷って1ヶ月たちました。

 私は、漢字は使ってこそ、意味があると私は思っているのでただ、ただひたすら書いている
長女の姿を見て、「もう少し減らして、丁寧に書く練習したら?」と言っても、聞く耳をもちませ
ん。

集中して机に向かうとか、そういった意味はあるとは思うのですが、あまり考えてないような、手
だけ動いているような気がします。

 はやし先生が、よく書かれているような「自分で考える」ことの苦手な子です。言われたことし
かできません。最近ちょっとしたことでイラつくのは、そういう自分に腹が立ってきているのかも
しれません。

 「自分で考える」ように少しずつ、もっていくのは小学生になってからでは遅いのでしょうか?
 幼児期を少し過干渉状態で育てたことに原因があるとおもうのですが・・・1センチでも、1ミリ
でもいいから、「自分で考える」力を伸ばしてあげたいです。何か、アドバイスをお願いします。

++++++++++++++++++++

【Mさんへ……】

 もう少し気楽に考えたらいかがでしょうか。おそらく一過性のものだと思います。毎日、2時間
とか、3時間、そしてそれを数か月から半年以上もつづけるというのであれば、別の心の問題
を考えますが、今は、気楽に。

 漢字を書くというよりは、(負けず嫌い)の気持ちのほうが、先行しているのでは……? この
ことと、(考える子ども)とは、別のことです。

 (考える習慣)というのは、(教える)のではなく、(見せるもの)。もっと言えば、親自身が、考
えるという習慣で、子どもを包むことを言います。

 たとえば子どもが何かを質問したとします。その瞬間、親が、自分の知っている浅い範囲(失
礼!)で、ペラペラと答えたりしていたのでは、子どもに、考える習慣は、身につきません。

 つまり子どもの考える力は、親の考える力で、決まるということです。

 で、もし余裕があれば、そういう(書く)という力を、たとえば(作文)→(日記)→(小説)という
方向に、ひっぱっていってみてはいかがでしょうか。小学生でも、簡単な指導で、かなりの小説
を書くようになりますよ。

 一度、ためしてみてください。コツは、どんな文章を書いても、ほめることです。「じょうずだね」
「おもしろいね」と。そして親が一生懸命、読んでみせることです。決して、子どもの書いたもの
を、そまつにあつかってはいけません。

 子どもはさまざまな体験をとおして、学習し、たくましくなっていきます。大切なのは、学校の
先生を信頼して、任すところは任すということです。いわば、頭と手の競技会のようなもの。

 冒頭に書いたような、異常性が見られなければ、今しばらくは、様子を見られたらいかがでし
ょうか。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(734)

【子育て新格言】

●幼児の伸びは、階段的

 幼児は成長するにつれて、さまざまな変化を見せる。それは当然だが、しかしその伸び方を
観察してみると、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではないのがわかる。ちょうど階段をの
ぼるように、トントンと伸びる。

 たとえば年中児(満四歳児)をしばらく教えてみる(蓄積期)。しかしすぐには、変化は起きな
い。中にはまったく反応を示さない子どももいる。が、そういう時期(熟成期)が、しばらくつづく
と、ある日を境に、突然、別人のように変化し始める(爆発期)。同じようなことはたとえば、言
葉の発達にも、見られる。生まれてから一歳半くらいまで、子どもはほとんど言葉を話さない。

しかしある日を境にして、急に言葉を話すようになり、一度話すようになると、言葉の数が、そ
のあと、まさに爆発的にふえ始める。

 これをチャート化すると、つぎのようになる。

 (蓄積期)→(熟成期)→(爆発期)

 教える内容にもよるが、たとえば文字にしても、満四・五歳(四歳六か月)までは、教えても教
えても、教えたことがどこかへそのまま消えてしまうかのような錯覚にとらわれることがある。し
かし満四・五歳を境に、急速に文字に関心を示すようになり、そのまま、たいていの子どもは、
とくに教えなくても、ある程度の文字が読み書きできるようになる。
 
 こうした特性を知っていれば問題はないが、知らないと、親はどうしても、無理をする。その無
理が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことがある。文字にしても、満四・五歳にひとつ
のターゲットをおき、それまでは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」ということだけを教えて
いく。具体的には、子どもをひざに抱いてあげ、温かい息をふきかけながら本を読んであげる
とよい。

こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、文字に対して前向きな姿勢をもつよう
になる。

 私も、幼児を教えるようになったころ、こうした特性を知らず、苦労をした。何とか効果を出そ
うと、あせって無理をしたこともある。しかしやがて、そうではないことを知った。(蓄積期)や(熟
成期)には、無理をせず、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時
がくるのを待つ。それがわかってからは、教える側の私も気が楽になったし、子どもたちの表
情も、みちがえるほど、明るくなった。

 このことは家庭教育についても言える。子どもに何かを教えようとするときも、教えるべきこと
は教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。決して、あせってはいけ
ない。決して無理をしてはいけない。その時がくるのを、辛抱づよく待つ。これは子どもの学習
指導の、大鉄則と考えてよい。


●幼児は、音で文字を読む

 文字を覚えたての子どもは、目で見ただけでは、その文字の意味はわからない。この時期、
幼児は、一度、文字を「音」にかえ、その音を自分で聞いて、その文字の意味を理解する。わ
かりやすくいえば、この時期の子どもは、黙読ができない。

 もう少し専門的に説明すると、こうなる。

 右利き児のばあい、約九二%が、言語中枢は、左脳にあるとされる。(右利き児でも、七%
が右脳に言語中枢がありとされ、左利き児のばあいは、五四%が右脳に言語中枢があるとさ
れる。)

 まず耳から入った言葉は、左半球の聴覚野に入って、そこで言葉として認識される。そしてそ
の情報はそのまま、隣にある側頭平面にある言語中枢に送られ、そこで言葉として翻訳され
る。

 一方、黙読として見た「文字」は、網膜から視神経を経て、大脳皮質部の視覚野に送られる。
そこで情報は、一次視覚野、二次視覚野、さらに三次視覚野を経て、必要な情報だけが、大
脳連合野に送られる。

 ここから先は、情報によって、どの大脳連合野が担当するかが分かれる。たとえば空間的な
関係は、頭頂葉連合野、ものの形に関する情報は、側頭連合野などが担当する。文字は、い
わゆる「パターン認識」ということになるから、常識的には、側頭連合野の担当ということにな
る。ここでまず文字の形を分析し、認識する。が、それだけでは、まだ文字として、理解される
わけではない。さらにその段階から、その文字の形に対応する「音」を、記憶の中から拾いだ
し、さらにその音をつなげて、言葉として理解する。

 おとなの脳の中では、瞬時にこうした一連の作業がなされるため、音読も、黙読も、同じよう
なレベルで理解されるが、しかし複雑さということになるなら、黙読のほうが、はるかに複雑な
経路をたどることになる。つまり音読と、黙読は、最終的に大脳連合野で理解されるまでに、ま
ったく別の経路をたどるということになる。さらにわかりやすく言うと、音読と黙読は、まったく異
質のものであるということになる。

 こうした一連の脳の働きは、つぎのような現象によっても、裏づけられる。

 たとえば、算数の文章題を、黙読では理解できない子どもがいる。このタイプの子どもは、足
し算の問題なのか、引き算の問題なのかさえわからないため、勝手に数字をあちこちつなげ
て、メチャメチャな式を書いたりする。しかしそういう子どもでも、「声を出して一度、問題を読ん
でみてごらん」などと指示して、一度、声に出して読ませると、「わかった!」と言って、その問題
を説くことができる。

 そんなわけで、子どもが文字を読めるようになったら、今度は、どこかで黙読の練習を少しず
つ始めるとよい。具体的には、「口を閉じて読んでごらん」と指示すればよい。

 なお、小学三、四年生になっても、まだ音読のクセが残っているようなら、一度、その問題
を、別の紙に書き写させてみるとよい。音読しないと、文字が理解できない子どもも、同じよう
に指導する。


●夢を、子どもに託さない

子どもに夢をもつのは、悪いことではない。この夢があるから、子育ても、また楽しい。しかしそ
の夢が、過剰にふくらんだとき、その夢は子どもを苦しめる。何が苦しめるかといって、親の過
剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。

少し前だが、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。「小学校入学をひかえて、あいさつのでき
る子どもにするにはどうしたらいいか」「学校で友だちと仲よくできるためには、どうしたらいい
か」、それについて書いてくれ、と。

 しかしこんな原稿など、書けない。自分ができないのに、どうして子どもに、それをしろと書くこ
とができるのか。あいさつなど、したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。アメリ
カのある地方では、ニコッと笑うのがあいさつになっているし、オーストラリアでは、顔をややか
しげながらあいさつをする人も多い。

 さらにこんなことを言ってくる親もいる。「子どもには、立派な人間になってほしい」と。

 「立派」というのは、社会的名誉や地位のある人をいうのだろう。そこで私はその親に、こう言
った。「子どもに立派になってほしかったら、お母さん、あなたがまずその立派な人になってみ
せることです」と。

 さらにこんなことを言う親もいる。「夫は、学歴がないため苦労をしています。息子にはそうな
ってほしくないので、何とか学歴をつけさせてあげたいです」と。さらに「私は英語を話せないか
ら、子どもには英語を話せるようになってほしい」と。

 親は、それぞれの思いの中で、子育てをする。しかし『子どもに夢は託さない』が、子育ての
鉄則。もし「夢」があるなら、親は自分で自分の夢を追求する。自分が過去にできなかったこと
を嘆くのではなく、今、できる夢、あるいはこれからできる夢を追求する。そういう前向きな姿勢
が子どもに伝わったとき、子どもは、子どもで自分の夢を追求するようになる。それだけではな
い。

 親が子どもの人生の中で生きようとすればするほど、親は自分の姿を見失う。そして自分の
時間を、ムダにしてしまう。どこまでいっても、子どもの人生は子どものものであるように、親の
人生もまた、親の人生でなければならない。


●「今」を生きる、二つの意味

 「今」を生きるということには、二つの意味がある。一つは、未来のために、「今」を犠牲にして
はいけないということ。もうひとつは、過去を振りかえり、悔やんだり、後悔してはいけないとい
うこと。

 日本人は、無意識のうちにも、未来のために現在を犠牲にしながら生きている。たぶんに仏
教の影響だと思う。子どものときから、幼稚園は小学校へ入るため、小学校は中学校や高校
へ入るため。そして高校は大学へ入るためと教えられている。だから社会へ入ってからも、こ
の考えから抜け出ることができない。たまの休みでも、その休みを楽しむ前に、休みが終わっ
てからの仕事のことを心配する…
…。

 同じように、過去に振りまわされてはいけない。よく「私は、若いとき、もっと勉強しておけばよ
かった」とこぼす人がいる。しかしもし、そう思うなら、今、すればよい。勉強するのに、時期な
ど、ない。早いも、遅いもない。さらに深刻な例としては、「今の夫と結婚しなければよかった」と
言う人もいる。しかし本当にそう悩むのなら、離婚すればよい。が、離婚できないというのであ
れば、現状を受け入れ、その中で生きていけばよい。いつまでも過去をズルズルと引きずって
生きてはいけない。

 どちらにせよ、日本人は、「今」を生きるのが、苦手な民族である。どうしてそうなったかという
ことについては、いろいろな説が考えられるが、そのひとつが、大乗仏教の影響ではないかと
思う。大乗仏教では、いつも「結果」を重んじる。「死に際の様子で、その人の人生がわかる」と
説く宗教団体さえある。

 しかし考えてみてほしい。今、あるのは、「今」だけ。過去など、どこにもない。未来など、どこ
にもない。あなたがどんな過去をもっているにせよ、過去は過去。そんなものに振りまわされて
はいけない。またたとえ結果が悪くても、それが、最後の結果だと思う必要はない。大切なこと
は、それを乗り越えて生きていくこと。あるいはそのときどきを、懸命に生きていくこと。

 ある母親は、息子(中三)が、高校受験に失敗したあと、私にこう言った。「ムダでした」と。
「小さいときから、算数教室や音楽教室へ通わせたりしましたが、すべてムダでした」と。

 そこで私はその母親にこう言った。「あなたは子育てをしながら、人生を楽しんだはずです。
子どもが生きがいを与えてくれたこともあるでしょう。だからムダだったなんて、言わないでくだ
さい」と。

 どちらにせよ、つまり、「(過去に)ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しながら
生きるのも、未来のために現在を犠牲にして生きるのも、愚かなことである。大切なのは、
「今」という時間の中で、精一杯、自分を輝かせて生きること。あなたもそうだし、子どももそうだ
し、子育ても、またそうである。


●今を生きられない人たち

 「今」を生きるということは、簡単なことではない。とくに、そういう生き方を知らない人にとって
は、簡単なことではない。

 こんなことがあった。私の知人が、今度リストラで、それまで勤めていた会社をクビになった。
が、その知人は、その翌週から、仕事さがしを始めた。そこで、私はその知人に、こう言った。

 「失業手当が出るなら、どうしてそれで、目いっぱい、遊ばないのか。ぼくなら、半年ぐらいか
けて、外国を回ってみる」と。

 それに対して彼は、「林君、君はそう言うけど、不安で不安で、家の中で遊んでいるわけには
いかないのだよ」と。

 私も学生時代、テスト週間になると、テストが終わったあと、どうやってその休みを過ごそう
か、そればかりを考えていた。が、いざテストが終わってみると、結局は何もしなかった。できな
かった。

 同じように、社会へ出てからも、仕事に追われているときは、休暇になったときのことばかり
考えていた。しかし休暇になると、今度は、仕事のことばかり考えていた。しかし考えてみれ
ば、これほど、中途半端な生き方はない。最近でも、こんなことがあった。

 昔、いっしょに仕事をしたことのある仲間の知人が、こう言った。「私は、定年退職をしたら、
日本中を、車で、一周してみたい」と。

 しかしその知人は、退職しても、日本中を、車で、一周するなんてことはしないだろうと思う。
退職したらしたで、今度は、再就職の心配ばかりをするにちがいない。生きザマというのはそう
いうもので、ある時点から、急に一八〇度、転換できるものではない。

 そこで私はその知人にこう言った。「車で一周したいなら、今からすればいい。手始めに、紀
伊半島を一周するとか……。定年まで待つのはいいけど、そのとき、今のような健康があると
はかぎらない。あるいは何か不幸があるかもしれない。今、できることは、今、しておけばいい」
と。

 そこであなたの子どものことを、振りかえってみてほしい。あなたの子どもは、月曜日から金
曜日まで、学校に行く。なぜ学校へ行くかといえば、土曜日や日曜日に、自分のしたいことをす
るためである。しかしその土曜日や日曜日に、あなたの子どもが家の中でゴロゴロしていると、
きっと、あなたはこう言うに違いない。「明日の宿題はすんだの?」「今度のテストはだいじょう
ぶなの?」「勉強しなさい!」と。

 こういう生きザマが、子どものころから日本人の基本になっているから、日本人は、それ以外
の生き方を知らない。そしてそれが死ぬまで、つづく。「やっと楽になったと思ったら、人生も終
わっていた」と。しかしこれほど、愚かな生き方はない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++※

最前線の子育て論byはやし浩司(735)

【近況・あれこれ】

●HIV

 昨日、あるところで、この地方で感染症の第一人者と言われている、Yドクターに会った。話
を聞いた。

 「HIVに感染して、エイズを発症したとき、治療費は、月額にして、いくらくらいをみておけばい
いですか」と聞くと、こう話してくれた。

 「月額では、20万円ほどですが、1級もしくは2級の身体障害者手帳がもらえますから、保険
で、全額カバーされます。バス代も半額になるはずです」と。

 立ち話なので、いいかげんな情報かもしれないが、要するに、この日本では、HIVに感染して
も、治療費は、タダということになる。喜んでばかりは、おられない。

 「タダ」ということになれば、エイズに関して、考えが甘くなるのかもしれない。「どうせ感染して
も、タダ」と。が、その治療は、死ぬまで、一生、つづく。治療といっても、「発症をおさえる」だ
け。

 また身体障害者に認定することによって、その「人」の動向を、知ることができる。たとえば歯
科医師が、HIV感染者と知らずして、その人を治療し、HIVに感染してしまうことだってありえ
る。そのための「身体障害者認定」ということになるのか(?)。


●卑怯な言い方

 よく、自分自身の意見としてではなく、他人の意見をそのまま伝えることによって、自分の意
見を代弁させる人がいる。

 地方性もある。私は、この浜松に住んで35年以上になるが、そういう言い方を、耳にしたこと
がない。つまり浜松の人たちは、ものの考え方が、ストレート。それだけ独立心が旺盛というこ
とになる。

 たとえば地方によっては、こういう言い方が、慣習化しているところがある。

A「祭りの、出店の費用はどうしましょうか?」
B「みんなで出しあえばいいのではないでしょうか」
A「でも、となりのCさんは、半額は、Bさんに負担してもらったらいいと言っていますよ」
B「私が、……ですか?」
A「そうなんですよ。この出店の件は、Bさんが言い出したことだからと」と。

 この会話の中で、Aさんは、「出店の費用の半額は、Bさんが負担すべき」と言っている。しか
し自分の意見としてではなく、Cさんの口を借りて、そう言っている。

 気が小さい人や、依存性の強い人、さらに、世間体を気にする人などが、よく使う手法であ
る。さらに巧妙な言い方をする人がいる。

A「私は、みんなで出しあうべきだと思うのですが、Cさんがね、Bさんに出してもらえと言ってい
るのですよ。どうしましょうか?」と。

実にズルいというか、責任のがれな言い方である。

 自分の意見があったら、自分の意見として、堂々と言えばよい。「私はどちらでもいいと思っ
ているのですが、ほかの人たちがねえ……」という言い方は、卑怯(ひきょう)な言い方というこ
とになる。

 子どもでも、中には、そういう言い方をする子どもがいる。そういうとき私は、すかさず、その
子どもを、たしなめる。

 「他人の意見はいいから、あなたの意見はどうなの? 自分の意見を言いなさい」と。

 こういう言い方は、一度身につくと、その人に一生、ついて回る。


●さらに卑怯な言い方

 さらに卑怯な言い方がある。他人(あるいは身内のだれか)を、悪人にしたてて、ものを言う
言い方である。

A「祭の出店のことですがね、私は費用の半分は、Bさんに出してもらえばいいと思うのですが
ね。しかしそれを私の口から言うのも何だし……。ところでDさん、あなたのほうから、一度、B
さんにそう言っていただけないでしょうか」
D「私が……ですか?」
A「あなたとBさんは、親しいようですし、あなたから言っていただければ、Bさんも、納得すると
思いますよ」
D「……そうですかねえ?」
A「でね、この話は、ここだけの話にしておいてくださいね。私からそういう話があったということ
は、Bさんには、内密にしておいてくださいね」と。

 この会話の中では、Aさんは、さらにたくみに責任を逃れながら、自分のよいように、Dさん
と、Bさんを誘導しようとしている。

 実は、こうした言い方は、地方によっては、慣習化されている。ある地方へ行くと、そういう言
い方が、とたんに多くなる。とくに、都会より、田舎のほうでよく聞かれる。

 が、そういう会話のウズの中に巻きこまれると、何がなんだか、さっぱりわからなくなってしま
う。会話をしながら、その会話のウラをさぐらねばならない。いわゆる、タヌキとキツネの化(ば)
かしあいが始まる。

 自分の意見があったら、自分の意見として、堂々と言う。それが人間関係をスッキリさせる、
一番の鉄則だと、私は思うのだが……。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●つげ口

 つげ口ほど、卑怯な言い方はない。私は、子どもの世界でも、子どもが何かをつげ口をして
きたら、すかさず「聞きたくない」と言いかえすことにしている。

 中には、自分の家族のことを、(他人の)私につげ口をしようとする子どもがいる。先日も、こ
んなことを言う子ども(小4男児)がいた。

 「お姉ちゃんねエ、お尻から、血が出てきたんだってエ」と。

 多分、初潮か何かが始まったのだろう。私はその子ども(男児)に向って、激怒した。「そうい
う話は、たとえ相手が先生でも、するものではない!」と。

 あるいは、私が「だれだ! ここに落書きをしたのは!」と聞くことがある。するとすかさず、
「それを描いたのは、A君!」とつげ口をする子どもがいる。

 私はそのあと、A君ではなく、そのつげ口をした子どものほうを、叱る。

 「ぼくは、つげ口が大嫌いだ。つげ口をする子どもも、大嫌いだ。だから君のような子どもの
意見は聞かない。落書きをした本人が、自分でそれを言えばいいことだ」と。

 そして決まって、そのあと、イソップの話をしてやる。

 ……2人の男が山の中を歩いていると、突然、クマが出てきた。1人は、友だちをさておい
て、木の上に隠れた。もう1人は、まにあわず、地面に倒れ、そこで死んだフリをした。

 クマは、倒れたほうの男のそばにしばらくいたのち、どこかへ行ってしまった。

 そこへ木から、もう1人の男がおりてきた。そして地面に倒れて死んだフリをしていた男に、こ
う聞いた。

 「今、クマは、何と言っていた?」と。

 すると、地面に倒れていた男はこう言った。「友だちを見捨てて、自分だけ逃げていくような男
は、友だちではないよとね」と。

 つげ口。……実に卑怯な、いやな言い方である。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●韓国+中国の経済事情

 週刊A誌(7・1)は、拓殖大学教授、呉Z氏の意見を掲載している(29P)。いわく、

「97年のアジア通貨危機で、韓国はIMFの管理下に入った。企業のリストラが進み、失業者が
街にあふれました。これは韓国にとっては、敗戦に近い、ショックを与えました。

 企業は、軒並み「外資」になり、はげしいリストラも行われた。

 起業ブームも起きましたが、大部分は失敗して、借金だけが残った。カード破産が激増し、貧
富の差が広がった。多くの国民は、今も生活苦にあえいでいる。

 こうした資本主義に絶望し、外国資本に反発した人々が、社会主義のK国へ歩み寄り、さら
には熱狂的な民族主義が浸透していったのです。

 今の韓国は、残念ながら、日本にとっては、危険な存在です。6者協議でも、単純に(日米
に)協力できるとも思えない。一刻もはやく、本当のことを知ってください」と。

 韓国出身の評論家であるだけに、説得力がある。ナルホド! そういうことだったのか!

 これでやっとわかった。呉氏、ありがとう!

 ところで、中国からの日本企業の撤退も、加速している。すでに、Aガラスなど、3分の1ほど
の日本企業が撤退したか、撤退を開始しているという(月刊誌「S」)。一見、順調に見える中国
経済だが、中身は、相当、深刻。悪いらしい。

 その不満が、反日運動となって、日本に向けられている面がないわけではない。しかし「反
日」を口にすればするほど、日本の企業、それ見る外国企業が逃げていくだけ。さらに「反日」
に名を借りた、民主化運動が起きるだけ。

 私の知ったことではないが、韓国も、中国も、もう少し、ものごとは、前向きに考えてはどうな
のか。

【付記】

 「週刊S潮」(6・23)号も、中国株の危険性を指摘している(39P)。

 「一瞬、あわてた投資家もいたはずだ。中国株の暴落。上海株式市場の総合株価指数が、
一時、1000ポイントを割り、8年前の株価に急落した。

 (中略)

 欧米では、とっくに、中国の株式市場は、ニセモノだと指摘し、中国株を相手にもしていない。
もともと、まともな株式市場ではありません。

 日本人投資家はいいカモか?」と。

 社会主義国家の中の株式市場。もともと、無理がある。その無理、……というか矛盾が、ここ
にきて、急速に拡大してきたということになる。中国株をもっている人は、ご注意。ついでに、理
不尽な反日運動に抗議するためにも、中国株をもっている人は、どんどんと売りに出したらよ
い。

【付記2】

 「サンデーM」(7・3号、139P)も同様の意見を掲載している。

 「中国新投資家は、株式市場が国有企業改革の手段として、利用されていることを見抜き、
さっさと投資から身を引いている。

 その一方で、日本人投資家の中国株熱は高まるばかり。『まるまる100倍はもうけた個人投
資家』『10万円が1000万円に』といった、株情報が、街にあふれている。

 資本主義の日本。社会主義の中国。……どちらの投資家が賢いのか」と。

 今週は、1冊の月刊誌と3冊の週刊誌を購入した。そしてそれぞれ読みくらべてみたが、その
結論は、一つ。

 中国経済は、あぶない。どうか、投資家のみなさん、ご用心!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●10年単位で考える、20年単位で考える
 
 今日の問題、明日の問題だけに、気を奪われていると、自分を見失ってしまうことがある。自
分で、何をしているかわからなくなってしまう。

 そこで「10年後はどうだ?」「20年後はどうだ?」というふうに、考えていく。よく「広い視野で
ものを考える」というが、「広い視野」というときには、こうした時間的な視野も含まれる。

 が、問題がないわけではない。

 私の年齢(もうすぐ58歳)にもなると、「20年先」というのは、生きているかどうか、それがわ
からない状態をいう。運がよければ、生きている。しかし平均的に考えれば、頭もかなりボケ
て、半分、棺おけに足を入れている状態になっているはず。

 そこで私自身の老後を考えるが、私とワイフは、そのときがきたら、いっしょに、養護施設に
入るつもりでいる。あとは、のんびりと、「恍惚(こうこつ)の人」となって、人生を終える。

 ……という視点で考えていくと、今、何をしなければならないか。それがよくわかってくる。と、
同時に、その反対に、してもムダなことがよくわかってくる。とくに、「時間」が貴重になってくる。

 それはその通りだと思うが、このところ、少しずつだが、その「時間」に対する考え方も、少し
ずつ変わってきたように感ずる。

 私は、若いとき(20代〜30代)は、仕事ばかりしていた。休みが月に1日しかないという状態
がつづいた。で、その結果だが、おかしなことに、「思い出」というものが、ほとんどない(?)。

 とくにワイフとの思い出がない。

 そこで先日、ワイフに、改めて、あやまった。「悪かったね」と。

 だから今は、務めて、ヒマさえあれば、2人で、あちこちに出かけることにしている。あまり遠
出はできないが、とにかく、今は、そうしている。以前の私にすれば、こうして(遊ぶ)ということ
は、時間のムダだった。しかし今は、ちがう。

 もちろん、仕事は大切だし、お金も必要だ。しかし発想さえ、ほんの少し変えれば、仮に仕事
がなくても、またお金がなくても、それなりに楽しく暮らすことはできる。つまり「時間を大切にす
る」ということは、今の私にとっては、ワイフとの絆(きずな)を、より太くするということを意味す
る。

 今、ワイフに心底、あやまらなければならないことは、私たちは、結婚式をしていないこと。そ
のつどワイフは、「一度でいいから、ウェディングドレスを着てみたい」とよく言った。

 私は毎月、収入の半分を実家へ仕送りをしなければならなかったし、母が私のアパートに遊
びに来るたびに、私の貯金通帳はカラになった。結婚式を考えたときも、手元には、10万円の
貯金しかなかった。

 どうして結婚式など、できただろうか。ワイフは、そういう私の実家の事情にもよく耐えてくれ
た。だから、今、心底、私は、ワイフにあやまらなければならない。

 人は、ムダだと笑うかもしれない。しかし私は、決めた。

 今年の10月。結婚記念日に、私とワイフは、写真だけの結婚式をすることにした。が、それ
だけではない。今まで、してこなかったこと。できなかったこと。それを2人でするつもりでいる。

 私たちに残された時間は、それほど、長くはない。もう、今日や明日の問題で、心をわずらわ
せているヒマはない。10年先、20年先を考えれば、なおさらである。
(050625)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●中国経済

 週刊誌の「S」が、『中国禍が日本を襲う』(7・13)と題して、中国経済を特集している。さっそ
く、購入してきて、読む。もともとどこか右派的な雑誌だから、そのまま鵜呑みにすることはでき
ない。が、中国経済は、現在、かなり、「張り子のトラ」らしい(?)。

 その主旨を、箇条書きに並べてみる。

(1)第2次反日暴動の予兆
(2)忍び寄る人民元切り上げショック
(3)中国バブル経済の悲鳴
(4)決断(日本企業の撤退か、残留か)のときが、近づいている

 読みごたえのあったのは、筧(かけい)T氏の「進出企業の75%が黒字に隠された、儲から
ないカラクリを暴く」と、入江H氏の「東芝、日本製紙、藤集工業、日本板硝子ほか、日本企
業、撤退決断の分水嶺」。

 つまり中国経済は、インチキとごまかしだらけ。しかもすでに、「中国進出ブームの陰で、進出
した日本企業の3社に1社が、撤退を余儀なくされている」(P21)という。

 この雑誌を読むと、中国経済の構造というか、中国のしたたかな経済戦略のウラが見えてく
る。

 それをわかりやすくまとめてみると、こうなる。

 中国は、安い人件費を武器に、外国から、どんどんと、企業を誘致する。「うちでモノを作れ
ば、安くできますよ」と。

 が、まったくの自由というわけではない。たとえば進出企業の株式の50%前後は、中国政府
が保有するという。さらに、「経営期限」というものがあって、「中国の土地は、すべて国有また
は集団所有のため、使用期限が到来すれば、土地と建物は、すべて無償で、政府に返さねば
ならない」という。

 つまりは、これは体のよい、「企業乗っ取り策」。まず安い人件費で、外国企業を呼びこむ。
つぎにある程度、その企業にもうけさせたところで、土地、建物はもちろん、そのノウハウま
で、そっくり、中国政府がいただく。

 どうやら、そういう図式らしい。

 株式の50%近くを、中国政府が保有しているから、株価の操作など、自由自在。それをエサ
(ルアー)に、外国の企業(とくに日本企業)を、いくらでもだませる。

 が、「崩壊の時期は近い」(S誌)。

 人民元は、事実上、ドルに対して固定されている(1ドル=8・28元)。これは実際の為替相
場からして、25〜30%程度、安く設定されているという。

 そのため、中国からは、安物の大ラッシュ。現在、日本の100円ショップに並べられている商
品の大半は、こうして中国で作られたものと考えてよい。安いのはありがたいが、ときには、そ
の安さに、驚くときがある。

先日も、日本のスーパーなどでは、1200〜1500円程度で売られている、卓上コンロが、10
0円ショップに並べられていた。私は、あまりの安さに驚いて、買うのを、ためらってしまったほ
どだ。

 そこでここ数か月、急速に浮上してきたのが、「人民元の切りあげ」。

 が、その人民元の切りあげについても、いろいろ問題が起き始めている。

 今なら、人民元を、1ドル(100円程度)で、8元ほどで買える。その人民元が切りあげられれ
ば、人民元の価値は、2割から3割も、上昇する。つまり人民元を8元もっていると、それが、
今度は、120〜130円となって返ってくる。

 こんなウマイ儲(もう)け話はない。

 そこで現在、投資という形で、外国の投資家たちが、どんどんと人民元を買いあさっている。
が、人民元が切りあげられたら、どうなるか?

 とたんに、投資家たちは、今度は、その人民元を売って、もとのドルや円にかえる。即、中国
経済は、大ピンチ! すでにそれを見越して、中国側のほうでは、逆に、資産を海外へ逃避さ
せる動きもあるという。

 人民元を切りあげたくても、その時期を逸してしまった(?)。

 この事情は、隣の韓国も同じで、韓国も、海外送金を、一定額に制限している。が、それで
も、海外への送金ラッシュは、止まらない。中国や韓国の金持ちたちは、自国の通貨が信用で
きず、たとえば師弟の留学費用などと称して、自分の資産を外国へ逃避させている。

 あわれ、中国! そして韓国!

 で、ここで人民元を切りあげたら、さらにたいへんなことになる。

 現在、中国は、安い労働力で、雇用の機会をふやしている。わかりやすく言えば、本来なら、
1人でできる仕事を、2人でさせ、給料を半分ずつにしているということ。もし現在の経済成長
率が、1〜2%もさがったら、とたんに、ちまたには、失業者があふれかえることになる。

 失業者がふえれば、それが引き金となって、社会不安を引き起こす。中国政府にとっては、
これがこわい。へたをすれば、中国政府そのものが、テンプクしてしまうかもしれない。すでに、
「上海経済は、中国政府がコントロールできないほどまでに、肥大化してしまった」(同誌)とも
言われている。

 で、日本への影響だが、「S誌」に寄稿した経済の専門家たちは、口をそろえて、「人民元が
切りあげられても、日本には、さほど影響はない」(何K氏、プリンストン大学客員教授)と書い
ている。

 ただ心配なのは、中国政府のプロパガンダ(ニセ情報)に踊らされて、中国に投資しつづける
一般投資家たち。

 同誌の中で、金B女史(評論家・台湾総統府国策顧問)は、最後にこう書いている。

 「中国でビジネスをすることは、かくも危険であり、たとえ利益を出しても、日本の国益を損ね
るような事態になりかねない。日本企業は、許文龍氏のケースに学び、本当のチャイナリスク
を、肝に銘じておくべきだろう」と。

+++++++++++++++++++++

 日本の国益を考えるなら、中国が、経済力を身につけることは、日本にとって、損になること
はあっても、得になることは何もない。一連の反日暴動を見ればわかるように、(多分に、民主
化運動的色彩が濃いものではあっても)、経済力をもてば、中国は、今度は、キバを向いて、
日本に襲いかかってくる。

 軍事力も、無視できない。

 私の知人の中には、中国人の人も多い。1人ひとりは、みな、よい人だ。親日的で、友好的。
しかし時折見せる、あの不気味な、反日感情は、何か? それを私は知っているから、私は、
今ここで、日本が中国にのめりこむのは、どうかと思う。

 金B女史は、それを「チャイナリスク」という言葉を使って、日本人の私たちに警告している。
目先の利益に、目を奪われてばかりいると、足元から今度は、自分が倒されるということにも
なりかねない。

 だいたいにおいて、今どき、一党独裁による社会主義という体制が存在するということ自体、
おかしい。中国経済が今、かかえる問題の根底には、そういう矛盾が横たわっていることも忘
れてはならない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●幼児性の持続(ネオトニー進化論)

 人間は、ほかの動物たちとくらべても、幼児期から少年少女期までの期間が、著しく長い。鳥
の中には、孵化すると同時に歩き始め、エサを自分で食べ始めるのもいる。

 つまり人間は、未熟なまま、生まれる。そしてその分、親(とくに母親)の手厚い保護を受けな
ければならない。

 ……という話は、常識だが、同じ人間でも、種族によって、その「期間」が違うのではないか。

 私自身も、幼稚ぽいところがあったが、35年前に、オーストラリアの大学へ留学したとき、向
こうの学生たちが、みな、私よりはるかにおとなに見えたのには、驚いた。本当に、驚いた。「こ
れが同じ大学生か!」と。

 で、以来、ときどき、私は、この問題を考える。こうした「違い」は、なぜ生まれるのか、と。

 それについては、いろいろな説がある。欧米と日本とでは、子育てのし方そのものが違うとい
う説。日本では、元来、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子と位置づける。が、欧
米には、そういう考え方は、ない。ないものはないのであって、どうしようもない。

 つまり、欧米では、子どもは、生まれながらにして、1人の人格者として、扱われる。育てられ
る。

 ……というふうに、私は考えてきた。しかしそれだけでも、ないのではないか。

 昨夜も、バラエティ番組なるものを、かいま見た。20〜25歳前後の若い女性が、10〜15
人ほど、そこに並んでいた。私は、その若い女性たちの顔を見て、あ然とした。

 幼稚顔というよりは、まさに幼児そのもの。Sというよく知られた、司会者(お笑いタレント)に
誘われてあれこれ意見を述べていたが、「これが20歳を過ぎた女性の意見なのだろうか」とさ
え、思った。

 一説によると、私たち日本人は、欧米人と比べても、幼児性を残したまま、おとなになる遺伝
子をもっているという。生まれてからおとなになるまでの期間が長いとも解釈できるし、反対に、
精神的におとなになりきれないまま、体だけはおとなになるとも解釈できる。

 前者の説をとるなら、日本人は、それだけ教育期間を長くしなければならないということにな
る。後者の説をとるなら、日本人は、民俗学的(生態学的)に、未熟な人間ということになる。さ
らに恐ろしい意見もある。

 日本人の子どもの前頭連合野の発育が、以前よりも、未熟になりつつあるというのだ(沢口
俊之著「したたかな脳」日本文芸社)。そのため、

「以前は、小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないという
のが、現状です。

 これは状況を判断する力や、自己をコントロールする力が衰退しているということ、すなわ
ち、自分の行動を積極的に制御する脳の機能が未熟になっていることを示しています」(同、P
131)と。

 「小学3年生でできていた課題が、今は、4年生の子どもでも、満足にできないというのが、現
状です」という澤口氏の意見には、「?」を一つ、つけたいが、しかし、年々、子どもたちが幼稚
化しているのは、私も感ずるところである。

 とくに男児の幼稚化が著しい。たいはんが、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 で、こうして、子どもたちは、幼児性(幼稚性)を残したまま、おとなになる。あるいはおとなに
なりきれないまま、おとなになる。

 一般論として、子どもというのは、その年齢になると、その子どもの年齢にふさわしい、「人
格」が育ってくる。「核」というか、(つかみどころ)ができてくる。その年齢に比して、「子どもっぽ
く見える」というのは、日本では、あまり問題視されないが、国際的に見れば、決して、好ましい
ことではない。

 そこで全体として、たとえば高校生や大学生をみると、日本の高校生や大学生は欧米の子ど
もたちと比較すると、かなり子どもっぽいのがわかる。澤口氏の説によれば、つまりその分、大
脳前頭連合野の発達が、未熟(?)ということになる。

 こうした違いが生まれるのは、教育によるものなのか。それとも遺伝子によるものなのか。

 「したたたかな脳」の著者の澤口氏は、「ネオテニー」という言葉を使って、日本人の幼児性を
説明する。

 「ネオテニーとは、(幼児成熟)、つまり幼い時期の特徴をもったままで成熟し、繁殖すること
をいいます。

 その有名な例は、アホロートル(ウーパールーパー)です。アホロートルは、サンショウウオの
一種で、サンショウウオは、両生類です。

 ですから幼生期に水中でエラで呼吸し、成長すると、変態して、肺で呼吸するようになり、陸
上で生活します。

 ところがアホロ−トルは、変態しません。つまりエラをもったまま、つまりは幼生期のまま、水
中で生活します。繁殖も幼生期のままの姿でします。いってみれば、カエルがオタマジャクシの
ままで、卵を産んでしまうようなものです。

 これをヒトにあてはめて考えた進化論が、「ネオテニー進化論」です。(中略)

 ネオテニー化が進むということは、進化の過程で、ヒトがネオテニー的な特徴をより多く、身
につけてきたという意味です。

 ネオテニー的な特徴とは、単純な言い方をすれば、外見的に、子どもぽいとか、未熟だとか
いうことです。このような身体的な特徴から見ると、ヒトの大人は、幼児の姿をとどめたまま成
熟したチンパンジーのようにも見えます。

 そしてアジア人(モンゴロイド)が、年齢よりも若く見えるのは、より多く、ネオテニー的な特徴
を備えているということです。とくに日本人は、幼くみえるようです」(同書、P133〜)と。

(わかりやすく言えば、欧米人は、たとえていうなら、サンショウウオ。アジア人は、幼児成熟な
ままで発育が止まっている、ウーパールーパーということになる。)

 ナルホドと思ったり、そうだったのかと思ったり……。日本人は、極東の島国で生活し、他民
族のように、「血」の交流をほとんどしてこなかった。その結果、モンゴロイドとしての特徴が、そ
のままより色濃く残ってしまったのかもしれない。骨相学的に見ても、日本人の骨相(顔)が、
悲しいかな、世界で一番、貧弱だと言われる理由も、そこにある。

 それはさておき、澤口氏の意見に従うなら、私たち日本人は、日本人のあり方そのものを、
基本的な部分から、考えなおさなければならない。短い足や、貧弱な骨相はともかくも、人格的
な完成度という意味では、考えなおさなければならない。

 そしてそれが教育でカバーできるものであれば、「教育」そのものも考えなおさなければなら
ない。澤口氏の言葉を借りるなら、「状況を判断する力や、自己をコントロールする力」を、どう
やって養うかということにもなる。

 昨日、静岡市での講演に出かけるとき、駅構内で購入した本だったが、おもしろかった。
久々に、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。興味のある方は、どうぞ!
(はやし浩司 幼児性 幼稚性 ネオトニー ネオトニー進化論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ハチに刺される
 
 今日、山荘で、枯れ木を移動していたときのこと。一匹の、小型スズメバチが、私に向って飛
んできた。私は、帽子でそのハチを払った。

 しかししつこいハチ。一度、ひるんだかと思ったら、2度、3度と、攻撃をしかけてきた。そこで
私もつい、本気になって、そのハチを思いっきり、帽子ではたいた。

 ……とたん、ハチの猛攻撃。足元の、雨戸を収納する戸袋の底から、5、6匹が飛んできた。
ハチの巣は、そこにあった。気がついたときには、両足を、何か所か、刺されていた。

 ズキンという痛みをあちこちに感じながら、そのまま部屋の中に。「ハチにやられた!」と叫ぶ
と、ワイフが走ってきた。

 「ナイフ!」と叫ぶと、ワイフは、果物用ナイフをもってきた。「ダメだ、カッターだ!」と。

 緊迫した瞬間が、刻一刻と流れる。私には、ハチアレルギーがある。最悪のばあいには、血
圧低下をともなう、ショック死!

 私は自分でカッターを取り出すと、コンロの熱で、それをあぶる。真っ赤になったのを確かめ
て、ハチが刺したあとに、そのカッターを突き刺す。手加減は、無用。ザリザリと、皮を切る音
と、激痛。

 とたん、血が、ドクドクと、あふれる。それを見てワイフが、コットンとティシュペーパーをもって
くる。消毒薬とエタノール殺菌剤も。

 2か所を切る。両方から、血がポタポタと流れ落ちる。「しぼってくれ。力いっぱい、しぼってく
れ」と。

 ワイフは、両手で、刺された位置を中心に、そこをもちあげるようにしぼる。激痛。しかし耐え
るしかない。

 が、よく見ると、もう一か所、刺されたあとがある。私は再び、カッターを熱したあと、そこへカ
ッターを突き刺す。そのままザクリと切る。

 自分の体を切りきざむのは、気持ちのよいものではない。しかしここで手を抜くわけにはいか
ない。毒を外へ出さねばならない。幸い、3か所とも、ハリは残っていないようだ。

 ワイフは、懸命に血をしぼる。あたりは、あっという間に、血の海。新聞紙を敷いていたが、た
っぷりと血を吸ったティシュペーパーが山のようになっていた。

 5分、10分と時間が流れる。刺された位置を中心に、ピンク色の腫れが、始まった。それが
全身に広がれば、命がない。ドクターからは、今度刺されたら、命があぶないと、警告されてい
る。

 再三、刺された位置に、たて、横と、新しい切り傷を入れる。そのたびに新しい血がポタポタ
と流れ落ちる。最後に切り傷を入れた所が、一番大きく腫れ始めた。「気がつかなかった」と私
がポツリと言うと、ワイフは、何も言わず、そのあたりを手でしぼりつづけた。

 「救急車を呼ぶ?」とワイフ。

 「いや、これだけしぼれば、だいじょうぶだ。血管に毒が入っていなければいいが……。今の
ところ、どうやら入っていないようだ。小型スズメバチでよかった」と私。

 そのあと、エタノール消毒薬のはいった容器を傷口に押しつけて、思いっきり、その容器をつ
ぶす。こうしてまた1分、2分と時間がすぎた。

 最初に切ったところと、2回目に切ったところは、心なしか、腫れがひいていくように感じた。し
かし3か所目のところは、切るのが、遅れた。その分、腫れが、外くるぶしから、ひざのところま
で広がっていた。

 「チクショー、気がつかなかった」と私。ワイフは、まだその所を、手でしぼっていた。血のつい
たティシュペーパーが山のようになった。

 「だいぶ、出たね」
 「そうね。これだけ出せば、だいじょうぶだと思うけど」と。

 あとは、様子を見ることにした。腫れが全身に広がったら、万事休す。アレルギー反応が起き
て、私は、ショック死。

 今度は、傷口を消毒しながら、バンドエイドでそれを押さえる。「今のところ、痛みも治まって
きたようだ。腫れも薄くなってきたようだ」と私。

 ただ私のばあい、ハチに刺されると、子どものころからそうなのだが、その症状が、顔に出
る。理由は、よくわからないが、そうなる。

 カガミを見る。左側半分が、ピンク色になってきた。目の下に、大豆大の腫れも出てきた。「こ
の程度なら、だいじょうぶだ」と、何度も自分に言って聞かせる。不吉な予感。言葉で言いがた
い不安感が、心をふさぐ。

 軽い頭痛が始まった。アレルギー反応が始まったようだ。しばらく横になる。「顔の腫れがひ
どくなったら、あぶないね」と私。ワイフは、心配そうに、私の顔をのぞく。が、どうやら、少し腫
れたところで、腫れがとまったようだ。やや左目がふさいだ感じがするが、以前にも、この程度
のことならあった。

 そう自分に言って聞かせながら、不安感と戦う。「もっと、深くカッターで切ればよかった」と思
った。

 ……で、それから約2時間。今、この原稿を書いている。幸いにも、大事にはいたらなかった
ようだ。小型スズメバチだったからよかったのかもしれない。大型の黄色スズメバチだったら、
今ごろは、ショック死(?)。

 こういうケースでは、ためらわずに、カッターで傷口を大きく切って、毒を外へ出すのがよい。
決してためらってはいけない。

 今回は、その思いっきりのよさが、私の命を救った。しかし今度、ハチに刺されたら、そのと
きは、おしまい。今年は、気をつけよう。とくに、気をつけよう。みなさんも、くれぐれも、ご用心
のほどを!
(050626)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(736)

●『よい魚は、下を泳ぐ』

 『よい魚は、下を泳ぐ』というのは、イギリスの格言。子どももそうで、すぐれた才能や能力の
ある子どもは、どちらかというと、目立たず、静かに成長する。印象に残っている子ども(年中
児)に、D君という子どもがいた。

 最初、D君が教室へ入ってきたとき、そのあまりの「静かさ」に、私は何か問題のある子ども
と誤解してしまった。しかしそれは誤解だった。D君にとっては、まわりがあまりにも幼稚なた
め、やがて、その雰囲気になじめだけということがわかってきた。

 そこで私はD君を年長児のクラスに入れてみた。しかしそこでも、D君にはもの足りなかった
らしい。で、さらに小一のクラスにいれてみた。すると今度は、水を得た魚のように、生き生きと
勉強し始めた。

 そののち、このD君は、小学三、四年生のころには、中学の数学の勉強まで自分で終えてし
まった。教えるといっても、特別なことをしたわけではない。「自分で教科書を読んで、わからな
いところだけもってきなさい」という指導で、じゅうぶんだった。

 実際、こういう子どもがいるのは、事実。「遺伝子そのものが違う」とさえ思ってしまう。私の経
験では、レベルの違いもあるが、その年齢の子どもとの学習が無理と思われる子どもは、一〇
〇〜一五〇人に一人はいる。さらにD君のような子どもも、三〇〇〜四〇〇人に一人はいる。

同学年の子どもを、一〇〇万人とするなら、このタイプの子どもは、全国に一万人はいること
になる。勉強ができなくて苦しんでいる子どももいるが、このタイプの子どもは、勉強がつまらな
くて、苦しんでいる。しかもその苦痛は、想像以上のものである。さらに悲劇的なことは、教師
によっては、そういう子どもの能力が理解できず、「生意気だ」とか、「親が無理に勉強ばかりさ
せている」と、誤解するケースも多い。日本の教育には欠陥がたくさんあるが、これもそのうち
の一つと考えてよい。

 さてその「よい魚」だが、このタイプの子どもには、共通した特徴がある。(1)目つきが静かに
落ちついている。(2)目つきが鋭い、(3)人並みはずれた集中力がある、(4)思考がきわめて
柔軟で、幼児の段階でも、おとなのユーモアが理解できる、など。


●幼児教育は、種まき

 幼児にものを教えるときは、すべからく、『種まき』と思うこと。教えても、その効果をすぐに求
めてはいけない。またここが大切だが、中には芽を出さない種もある。そういう種があっても、
無理をしてはいけない。そういう種もあるという前提で、子育てをするとよい。

 たとえば文字や数にしても、この時期、大切なのは、(できる・できない)ではなく、子どもがそ
れを(楽しんだか・楽しまなかったか)である。楽しめば、それでよしと考える。あとは子ども自
身の「力」を信ずる。そういう前向きな姿勢が育っていると、やがて子どものほうから、「ママ、
字を教えて!」と言ってくるようになる。

 まずいのは、ギスギス教育。中には、たった一時間、カタカナを教えただけで、子どもに、「ど
うしてできないの!」と叱る親がいる。短気といえば短気だが、どこかギスギスしていて、余裕
がない。

 もっともこういうことは、何千人も子どもに接したことがある私にはわかるが、母親にはわから
ない。またそれを理解せよといっても、無理かもしれない。よく『となりの家の芝生はよく見える』
(イギリスの格言)というが、何かにつけて、となりの子どもというのは、よく見えるもの。自分の
子どもに何か問題があったりすると、たいていの親は、「どうしてうちの子だけが……」と悩む。

 しかしこれはまったくの誤解。どんな子どもにも、何らかの問題がある。問題のない子どもな
ど、絶対に、いない。そのため、その家族は、その問題と必死になって戦っている。それがあま
りあなたに伝わってこないというのは、問題が小さいからではなく、その家族が、一方で、必死
になって隠しているからにほかならない。

 話が脱線したが、要するに、子どもに何かを教えるときは、「適当」であるのがよい。一〇教
えても、頭の中に入るのは、そのうちの五くらい。あるいはそれ以下でもよい。そしてやがて身
につくのは、一か二。あるいはそれ以下でもよい。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。子
どもの表情を、明るくする。

*********************************

●指は便利な計算機

 人間がなぜ十進法を使うようになったかといえば、指が十本だったから。もし人間の指が、三
本や四本だったら、三進法や四進法になっていたかもしれない。

 幼児は、ものを計算するとき、指を使う。親が教えるときもあるが、だれに教わるということも
なく、使い始めることもある。これは「数」を、「具象化」するためである。たとえば「2+3」は、
「○○と○○○」と具体的に図形化し、それを数えて計算する。そういう意味では、計算をする
とき、指を使うことは、悪いことではない。むしろ子どもがある程度、ものを数えられるようにな
ったら、指の使い方を教えるとよい。で、そのとき、つぎのような指導をすると、あなたの子ども
は、計算に強い子どもになる。

(1)指を見ないで、数を具象化させる……たとえばあなたが、子どもに「4!」と言い、子ども
に、頭の上で、指を4本のばさせる。このとき、子どもに自分の指を見させてはいけない。なれ
てくると、子どもは、即座に、7とか9をつくることができるようになる。

(2)早数えの練習をする……「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」から、「イチ、ニ、サン……」、さらに
は、「イ、ニ、サ……」と、数えられるように練習する。たとえば1から10までを、「イ、ニ、サ、
シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジ」と、数えさせる。さらにそれができるようになったら、数を信号化させ
るとよい。「ピッ、ピッ、ピッ……」と。具体的には、手を早くパンパンと叩かせて、それを数えさ
せる。

(3)年長児になったら、指から、今度は、丸を描かせるようにして、計算させる。たとえば「2+
3」は、丸を二つと、三つを描かせ、それを数えさせる。少しめんどうだが、めんどうだと思うか
ら、今度は、子どもは頭の中で数え始める。それをねらう。

 なお計算力があるからといって、算数の力があるということにはならない。計算力と、算数の
力は、まったく別のものである。計算力は訓練で伸ばすことができるが、算数の力を伸ばすの
は、容易ではない。

●『やけどをした子どもは、火を恐れる』

 これはイギリスの格言。子どもというのは、何かのことで、一度失敗すると、自分では、なかな
かその失敗を克服することができない。とくに幼児期はそうで、この時期のつまずきは、そのあ
と大きな影響を与える。

 たとえば今、年中児でも、「名前を書いてみよう」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、一〇人中、二人はいる。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。原因は、家庭での無理な
学習が考えられる。しかしそれで問題が終わるわけではない。このタイプの子どもは、そのあ
と、(逃げる)→(ますます苦手になる)の悪循環の中で、文字からますます遠ざかってしまう。
そして一度、こうなると、その悪循環を断ち切るのは容易ではない。

 日本でも昔から、『坊主、憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』という。もともとの意味は、坊主が
憎いと、その袈裟まで憎くなるという意味だが、この格言を裏から読むと、こうなる。「袈裟をみ
ただけで、坊主への憎しみがわく」と。こうしたつまずきが原因で、そのあと、「文字を見ただけ
で、勉強が嫌いになる」ということもありうる。そういう意味でも、幼児期の学習は、慎重にす
る。


●山には登らせる

 低い山だと思っていても、登ってみると、意外に遠くが見えるもの。登る前に、その山に登る
ことがムダだとか、そういうふうに考えてはいけない。いわゆるマイナス思考の人は、何でもや
るまえに、「あれはダメだ、これはダメだ」と逃げてしまう。

 同じように、子ども自身が、いろいろな山に登りたがるときがある。もう二〇年近くも前のこと
だが、ある母親からこんな相談を受けた。その息子(高二)が、アメリカで夏休みを過ごして帰
ってきた。そのあと、その息子が「高校を中退して、アメリカへもどる」と言い出したというのだ。
そこで私に、「何とか、思いとどまらせてほしい」と。

 その高校生は、ホームスティをしたことで、「山」に登った。そして遠くの景色を見た。その結
果、「アメリカで高校生活を送りたい」と。今のように、まだ海外留学がポピュラーな時代ではな
かった。学歴信仰も、根強く残っていた。高校を中退するということが、考えられない時代だっ
た。その母親は、さかんに、「このままでは、うちの子は、中卒になってしまいます」と泣いてい
た。

 しかし山に登るのも、子ども。そこで子どもがどんな景色を見るかは、本当のところだれにも
わからない。親にもわからない。だからその段階で、親は子どもの人生は、子どもに託すしか
ない。親としてはつらいところだが、そういう「つらさ」に耐えるのも、親の役目ということになる。
また子どもが大きくなればなるほど、一方で、そういうつらさがふえる。

 先の子ども(高二)だが、親の言うことを聞いて、そのまま日本の高校に通った。私が説得し
たわけではない。直接、面識があった子どもではないので、そのあと、その子どもがどうなった
かは知らない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(737)

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

 あああ! 
(はやし浩司 意思 自由意思) 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●言語能力

 ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●スパムメール

 私は、母親たちとつきあうようになって、もう35年になる。しかしそういうところで会う女性のイ
メージには、独特のものがある。気高く、尊い。少なくとも、街角で見る女性たちとは、雰囲気そ
のものが、違う。

 しかしスパムメールなどで紹介される女性は、「これが本当に同じ女性?」と思えるほど、違
う。

 「セレブな奥様が、即、あなたの欲求不満を解消」「やりたがりの若奥様、紹介」とか。件名し
か読まないので、内容はわからない。しかし「そんな女性がいるのかなあ?」と思ってしまう。そ
こでワイフに聞く。

 「男で、スケベな男ならいくらでもいる。セックスをさせてくれるというのなら、多少の努力なら、
いとわないだろう。しかし女性にも、そんな女性がいるの?」と。

 するとワイフは、「いるんじゃ、な〜い?」と、これまた意外な答え。

私「いるの?」
ワ「いると思うわ」
私「どこに?」
ワ「近くのマンションに、そういうクラブらしいものがあると聞いたことがあるわ」

私「ヘエ〜、あるの?」
ワ「女性だって、スケベな人は、いくらでもいるわよ。セックスが好きな人がね。そういう人なら、
条件さえ整えば、セックスをさせてくれるわよ」
私「条件って?」
ワ「まあ、その人、それぞれだけどね。……そう言えば、私の知っている人に、夫、公認で、浮
気している人がいるわ」

私「夫、公認だってエ?」
ワ「だって、その人(女性)、みんなの前で、平気で、そうしゃべっているもん。夫の耳に入らな
いわけないでしょ」
私「入っていないよ」
ワ「だってね、その浮気相手というのは、夫の友人なのよ。家も近いし……」と。

 私には、ややマザコン的なところがある。だから、どうしても、女性を偶像化する傾向が強
い。生徒の母親として会うときは、とくにそうだ。しかし考えてみれば、男も、女も、それほど、違
わない。あるいは、同じ(?)。

 多少、発情にいたるまでのメカニズムが違うということはあるが、一度、発情してしまえば、同
じ。そう考えれば、スパムメールに書いてあることは、ウソばかりということにもならないのかも
……。

 しかし、そう思うのは、危険。(危険だぞ!)

 そう思った、私のようなアホが、へたに返信しようものなら、そのまま、スケベサイトの餌食(え
じき)に! 彼らは、多分、1回につき、数10万通〜程度のメールを、いっぺんに送る。

 スケベ心を出す男が、1000人に1人としても、100人がカモになる。1万人に1人としても、
10人がカモになる。

 数日前の新聞によれば、こうしてカモになった人で、85万円も、ふんだくられた人がいるそう
だ。(10人なら、850万円!)

 つまりは、こうしたスパムメールは、ことごとく、無視。即、削除。1000回に1度でも、1万回
に1度でも、スケベ心を起こしてはいけない。「1回くらいなら、のぞいてみようか」などと思って
はいけない。たった1回でも、その油断が、その人を破滅させる。

 ……しかし、それにしても、あの手、この手と、スパムメールの多いこと、多いこと。何とか、な
らないものか!


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

【静かな朝】

●6か国協議

 湿った、それでいて、どこか、初夏のさわやかさを感じさせる風。空は曇っている。梅雨(つ
ゆ)に入ったというのに、このところ雨不足。水不足。

 スズメたちが、庭の木々の上で、チュンチュンと、ときおり、鳴いている。その声が、あたりの
静けさを誘う。

 私は、ぼんやりと、壁に張られたカレンダーを見やる。今日は、6月28日、火曜日。ふと、今
日は、何をしようかと考える。頭の中は、いつものように、モヤモヤとしている。書きたいこと
は、山のようにある。が、それがうまく言葉となって、出てこない。

 先ほど、少し、あちこちのニュースサイトを、のぞいてみた。気になるのは、やはりK国問題。

 韓国のC統一相は、「7月中に、6か国協議ができる」と、さかんにはしゃいでいるが、さてさて
どんなものか? 「可能性がある」というだけなのに、韓国内のテレビでは、2時間にわたって、
その成果(?)を、披露したという。

 まるで腫れ物にでも触れるかのように、K国に気をつかう韓国。その一方で、そのつど、ささ
いなことで、日本には、つかかってくる韓国。昨日(6・27)、天皇は、サイパン島を慰霊訪問し
た。それについても、「日王(=天皇)は、戦争責任に沈黙」「韓国人慰霊碑は、訪問対象から
除外された」※と。否定的な記事ばかりを、まさに意図的に流している(「東亜N報」)。

そのK国に、韓国は、さらに15万トン肥料の援助を約束した。先の援助と合わせると、35万ト
ンになる。

 それに呼応するかのように、アメリカも、5万トンの食糧援助を決めた。

 こうした流れをみると、「いよいよ6か国協議か」と、だれしも思う。報道機関による解説も、そ
うなっている。

 しかし私は、その逆だと思う。韓国の肥料援助は、ともかくも、アメリカの食糧援助は、違う。
6か国協議が流れたあと、さらにK国を悪玉にする、その布石にすぎない。「アメリカはこれだ
けのことをしてやったのに、K国は、それを裏切った」と。つまりアメリカは、6か国協議など、も
う考えていない。日本も、考えていない。

 仮に協議を開いたところで、何が決まるのか? 仮に決まったとしても、K国は、いちいちあ
あでもない、こうでもないと、つぎつぎと、言いがかりをつけてくるだろう。拉致(らち)問題の経
緯を見れば、それがわかる。

 そこで今朝の産経新聞は、こう伝えている。

 「六カ国協議再開への展望がなお見えてこない中、米国内で、議長国の中国に対する不満
が高まりをみせている。ブッシュ大統領、ライス国務長官をはじめ政府高官が、いずれも、北
朝鮮に対する中国の影響力行使が不十分だとの厳しい認識を表明。中国に北朝鮮に対する
経済圧力強化を求める声を強めている」と。

 中国政府に、責任をかぶせながら、アメリカはこう言いたいのだ。「アメリカや日本が、国連
安保理に事案を付託したときには、もうこれ以上、反対するなよ(=K国制裁の拒否権を行使
するなよ)」と。アメリカの真意は、そこにある。

 そのK国だが、この7月から、配給食糧(米、トウモロコシなど)が、1人、1日、200グラムに
減らされるという。人口の約3分の1の、650万人の貧困層が、その影響をモロに受けるだろ
うという(韓国K大学N教授)。

 200グラムというのは、どんな量なのか。あまりにも少量すぎて、ピンとこない。

 が、今、本当に追いつめられているのは、K国自身。K国というより、金XXその人。このマガ
ジンが、配信されるころ(7月29日号予定)には、その結果が出ていることだろう。

 で、今、拉致被害者たちが、K国への経済制裁を訴えて、国会議事堂の前で座り込みをつづ
けているという。気持ちはよくわかるが、ここは、冷静に。K国は、もともとまともな論理のとおる
国ではない。だからまともな論理で考えてはいけない。そのことを忘れてはいけない。

 ……今、ワイフが寝室から、起きてきたらしい。台所で、食器がガチャガチャと音をたて始め
た。私は、座右にある、(本当は座左にある)、お茶を口に含む。含みながら、あれこれ頭の中
をさぐる。

●ハチとマムシ

 ……おとといは、ハチに刺されて、ひどいめにあった。自分で切ったキズ口が、心なしか、ヒリ
ヒリと痛む。そのハチだが、頭のよさには、いつもながら、驚かされる。

 今回も、一匹のハチだけが、私に向って2度、3度と、攻撃をしかけてきた。そこで私は帽子
でそれを払った。最後に、思いっきり、そのハチを帽子でたたいた。そのとたん、ハチの群れ
が、私を襲ってきた。

 どこかでハチどうしが、何かの信号で、やりとりをしたらしい。幸い、巣は、まだ小さかった。お
となの握りこぶし程度しかなかった。だからハチの数そのものが、少なかった。

 そのことを、昨日、生徒たちに話すと、生徒たち(小3)は、こう聞いた。「先生、そのあと、どう
したの?」と。

 私はこう言った。「殺虫剤を、バンバンかけて、みんな殺したよ。そのあと、巣を取って、足で
つぶしたよ」と。

 ところで今から、ちょうど1か月前、私は、大きなマムシを殺した。夏前のマムシは、大きい。
そのマムシも、60〜70センチほどあった。体も、丸々と太っていた。

 マムシは、体の模様からもそれがわかるが、地面を這(は)うときには、クネクネと、独特の這
い方をする。山荘の庭の中央にいて、私たちを見ると、そこで体を止めた。

 私はすかさず、マムシを中心に、時計とは反対回りに、マムシの左側に走った。そこには畑
で使う、クワがあった。とたん、マムシは、Uターン。

 私はクワを手でつかむと、マムシに向って突進。瞬間、マムシのほうは、とぐろを巻いた。攻
撃態勢である。私は、間髪を入れず、そのマムシの中央部分に、一気に、クワを落とした。ズ
シン!

 マムシの感触を通りこして、地面のジャリに、クワが、ズシンと当たったのがわかった。体が、
いくつかにちぎれた。

 マムシは、頭だけを私に向けた。さらに2発目。今度は、頭をねらった。が、そこでクワの柄
が折れた。見ると、頭が半分くだけ、マムシは、片目だけでこちらを見ていた。私は、折れたク
ワの先で、最後のとどめをさした。頭をつぶした。

 ハチにせよ、とくにスズメバチだが、そのハチにせよ、マムシにせよ、情け容赦は無用。中途
半端な退治のし方をしておくと、次回からは、向こうのほうから、人間を襲うようになる。とくにマ
ムシは、そうだ。

 いつだったか、近くの農家の人が、そう教えてくれた。「人間に襲われたことのないマムシは、
人間を見ると逃げる。しかし一度でも、襲われたことのあるマムシは、つぎからは、逆に、人間
に向って攻撃をしかけてくる」と。

 マムシも、頭がよい。だから攻撃するときは、手加減をしてはいけない。殺すときは、徹底的
に殺す。でないと、つぎに、だれかが、その犠牲者になる。

 言い忘れたが、そのとき、つまり私がマムシと戦っているとき、オーストラリア人のMさんが、
それを見ていた。私が、最後の一撃をふりおろしたとき、Mさんが、こう叫んだ。

 「ヒロシ、すばらしい戦いだったわ(Good fighting!)」と。

 そのときはじめて、私は、ハッと我にかえった。

●紫外線

 ……もう一つ気になるのは、温暖化の問題と、紫外線の問題。昨日(6・27)も、紫外線注意
報が出ていた。にもかかわらず、ほとんどの小中学校では、通常どおり(?)、水泳の授業があ
ったという。あのカンカン照りの炎天下で?

 「先生は、何も言わなかったの?」と聞いたら、みな、「別に……」と。

 紫外線というのは、放射線のこと。人間の細胞を、DNAレベル、分子レベルで、破壊する。
その影響が出てくるのは、10年後とか、20年後。

 「UVカットのクリームをつけているの?」と聞くと、「ううん」と。1人、「一応、もっているけど、
使わなかった」と言った子どもがいた。父親が医師をしている。

 これからはUVカットのクリームは、必需品。長ズボンに、長そでのシャツ。それにツバの広い
帽子。できれば、サングラスも。

 それを生徒たちに話すと、「サングラス〜ウ? それじゃ、悪党みたいだよ」と。

 私は、10分ほど、ムキになって、紫外線の恐ろしさを、話してやった。オーストラリアの友人
の息子だが、昨年、顔に皮膚がんができてしまった。まだ22歳だ。場所が場所だけに、切り取
るということもできないそうだ。

 ところでこれはあくまでも、風聞だが、浜名湖周辺の猟師たちの間でも、このところ、皮膚ガ
ンになる人が急速にふえているという。ある母親が、そう話してくれた。「顔中が、ボコボコにな
って、お化けのようになった人もいるんですよ」と。

 こういう問題では、日本政府は、本当に、アテにならない。あの水俣病から始まって、エイズ
問題などなど。具体的に被害が広がってからはじめて、重い腰をあげる。

 私たちの子どもを守るのは、私たちでしかない。

●原油が、60ドル!

 もう一つは、原油の価格が、1バレルあたり、60ドル前後になったこと。原油の価格があがっ
たというより、ドルの価値がさがったということか。ついでに、日本の円の価値も!

 中国政府が備蓄をふやしたのが、今回の価格上昇の原因と言われているが、どうも、それだ
けではなさそうだ。やはり、今、ドルの価値が、さがりはじめている。相対的に、ユーロや金(き
ん)価格などが上昇しているのを見れば、それがわかる。

 少し前までは、50ドルを超えただけで、ビッグニューズになったのに、今は、60ドル! どう
なっているのだろう。原油の価格があがれば、それに連動して、すべての価格が、あがる。

 短絡的な思考方法かもしれないが、みなさん、自転車に乗ろう! 健康にもなるし、資源の保
護にもつながる。

(この間、パソコン相手に、将棋。今朝は、コロリと負けた。)

 もうそろそろワイフが、台所から私を呼ぶはず。「あなた、ごはん、食べるう〜?」と。

 そう言えば、今朝は、あまり食欲がない。昨日は、このあたりでも、気温が、35度前後もあた
っという。もう夏バテ? この先が思いやられる。ホント!

 では、みなさん、おはようございます!


(注※)日王、戦争責任に沈黙…追悼を前面に (韓国・東亜N報から)

明仁日王夫妻が第2次世界大戦当時、日本の植民地であり、連合軍との激戦の末に7万50
00人余りの軍人と民間人が死亡した米国領サイパン島を27日訪問した。

しかし、サイパンで強制労働に苦しんだり、戦乱に巻き込まれて死亡した韓国人犠牲者のため
の「サイパン韓国人慰霊碑」は訪問対象から除外され、「国内向けの行事」という限界を露呈し
た。韓国人慰霊碑は日本政府が自国の死亡者のために立てた戦没者碑から徒歩で5分のと
ころにある。 
このような日程から分かるように、日王の今度の慰霊巡礼は「日本王室(特に昭和日王)の戦
争責任」に関して黙ったまま、戦没者追慕だけの形式を取っている。 

【東亜N報の記者のみなさんへ】

 そう毎日毎日、日本のアラさがしばかりしていないで、少しは、K国のアラさがしもしてはいか
がでしょうか。日本が気になるのはわかりますが、もう日本のことは、ほうっておいて、前向き
に進まれてはどうでしょうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(734)

●アダルトチェルドレン

 世間体を気にする人は多い。まるで、世間体の中で生きているような人をいう。自分の存在
価値を、自分の中で見出すことができず、いつも、他人の目を通して、自分を評価する。

 その根底にあるのは、依存性。他人があっての、「私」と考える。

 そのため、幸福感も、相対的なもの。「隣の人より、いい生活をしているから、自分は、幸福」
「隣の人より、劣った生活をしているから、自分は不幸」と。

 こうしたおとなになりきれない、(おとな)を、「アダルトチェルドレン」と呼ぶ。幼児期から、子ど
も時代にかけて、子どもらしい子ども時代を送ってこなかった子どもほど、そうなる。

 たとえば幼児期においてさえ、ものわかりのよい、よい子であった子どもほど、そうなる。いわ
ば仮面をかぶっていることになる。

 つまり子どもというのは、そのつど、昆虫が脱皮するように、カラをぬぎながら成長する。この
タイプの人は、そのカラを脱がないまま、おとなになったと考えるとわかりやすい。

 こんな会話をしたことがある。相手は、中学生(男子)だった。

私「みなが、まだ掃除をしていた。君の担当か所の掃除は、終わった。そういうとき、君は、どう
するか?」
中「手伝います。みんなが終わるまで、手伝います」
私「ウソをつくな!」
中「……」

私「私は、君のように、いい子ぶる子どもが嫌いだ。そういうふうに言えば、先生(=私)が喜ぶ
とでも思ったのか。もしそうなら、そういう意見は、改めたほうがいい。そういう仮面は脱いだら
いい」
中「じゃあ、どうすればいいのですか?」
私「自分のしたいように、すればいい。もっと、自分の心に、すなおに従ったらいい」と。

 このタイプの子どもは、どうすれば、自分がみなに、よく評価されるか、いつも、別の心で計算
している。そして「優等生ならこう答えるだろう」「こう答えれば、先生も喜ぶだろう」「みなに、す
ばらしいと評価されるだろう」と、考える。

 たいていは無意識のうちに、そう考える。が、そうした行動パターンが、そのうちその子どもの
(生きザマ)として、定着してしまう。仮面をかぶるならかぶるで、その仮面を意識しているなら、
まだ救われる。たとえば入社試験。会社の面接試験がある。そういうところでは、たいていの
人は、仮面を仮面と意識しながら、仮面をかぶる。

 しかし仮面をかぶっていることすら、わからなくなってしまう。こうなると、重症。自分がだれな
のかさえ、わからなくなってしまう。

 こういう人を、昔の人は、「タヌキ」と呼んだ。他人の前では、神様か、仏様のように、振る舞
う。独特の話し方をする。どこか不自然で、演技ぽい。猫なで声の甘ったるい言い方で、「ご家
族のみなさんは、お元気ですか?」などと言ったりする。しかし本人自身も、それに気づいてい
ない。もちろんまわりの人たちも、気づいていない。だまされる。

 が、それは、外ヅラ。心の中では、まったく、別のことを考えている。だから、「タヌキ」と呼ぶ。

 そういう人は、生きザマを見ればわかる。自分がない分だけ、他人に対して依存的になる。
(自分がしっかりしていれば、依存的になることはない。)

 アダルトチェルドレンの、本当に問題は、ここにある。「自分で、何をすべきなのか」「何をした
らいいのか」、それが判断できなくなってしまう。そしてことあるごとに、「世間体が悪い」「世間
が許さない」「世間が笑う」などと言う。

 総じてみれば、派手な冠婚葬祭をしたがる人ほど、それだけ精神の完成度が低いとみてよ
い。自分の中に、「己(おのれ)」がないから、そうする。ある女性(80歳くらい)はいつも、こう言
っている。

 「林さん、私の葬式だけは、来てくださいね。さみしい葬式だけは、しないでくださいね」と。

 世間体を気にする人は、そこまで気にする。

 人は、年齢ともに、成長する。体だけは、大きくなる。しかしだからといって、精神も、同じよう
に成長するとはかぎらない。中には、60歳をすぎても、70歳をすぎても、アダルトチェルドレン
のままの人がいる。そういう人は、多い。

 見分け方は簡単。

 「私は私」という生きザマを貫いている人ほど、精神の完成度は高いとみる。いうまでもなく、
精神の完成度は、自我の同一性(私がどうあるべきかということと、現実の私が一致している)
と、一貫性(いつでも、同じ生きザマを貫く)で決まる。

 そういった生きザマが、感じられない人を、アダルトチェルドレンという。つまりは世間体の中
で、あたかも水面に浮か水草のように、フラフラしている人ということになる。
(はやし浩司 アダルトチェルドレン アダルト・チェルドレン おとなになりきれないおとな 大人
になりきれない大人 大人の幼児性)

【追記】

 アダルトチェルドレンの人の生きザマは、総じて、甘い。ナーナーというか、何でも、ことを丸く
おさめようとする。

 一方で、つまり陰では、相手の悪口を言いながら、その人の前にくると、ニコニコとやさしそう
な笑顔をふりまく。そしてその相手の周囲の不幸話を聞いたりすると、今度は、また陰の世界
にもどって、それを他人に吹聴して歩く。

 「かわいそうなものですよ。あのAさんのダンナさんは、今、大病をわずらって、苦しんでいる
そうですよ。あああ、かわいそうなものです」と。

 本当のところは、何も心配していない。そういう形で、その人の不幸を、喜んでいるだけ。

 ところで私は、いつも、自分にこう言ってきかせている。

(1)悪口を陰で言わねばならないような相手とは、つきあわない。
(2)一度、悪口を口にした相手とは、つきあわない。
(3)つきあっている人の悪口は、言わない。書かない。
(4)その人の悪口を言ったときは、その人との関係は、おしまい。

 が、たいへん困ったことに、私の悪口を陰で言いながら、それでいて、しつこく、私に接近して
くる人がいる。そういう人は、原則的に、無視することにしている。が、そういう人にかぎって、
「あの林から、このところ年賀状がこない。失敬なヤツだ」と騒ぐ。

 「もう、私のことは構わないで、ほっといてほしい」と、私は、思うのだが……。みなさんのまわ
りにも、そういう人がいるのでは……?


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自由業のきびしさ

 私たち自由業は、自分のしている仕事に対して、不平、不満を言うことが許されない。言え
ば、言ったで、「あんたが自分で選んだ道だろ」と言いかえされる。(実際に、私にそう言った人
はいないが……。)

 政治家、作家、画家、俳優……など。そのはしくれに、評論家や、塾講師などがいる。自営業
一般も、それに含まれる。

 一方、その道で、手厚い公的保護を受けて仕事をしている人がいる。そういう人に向かって、
何か、うらやましがるようなことを口にすると、こう言われる。「くやしかったら、あなたも、こうい
う仕事をすれば、よかったではないか」と。(実際に、私にそう言った人もいないが……。)

 自由業というのは、そういう意味で、きびしい。失敗して、あたりまえ。成功すれば、ねたまれ
る。成功したとしても、一時的。長くつづくことはない。

 もうひとつ。自由業をしていて、きびしさを感ずることがある。ほどほどの生活をしていると、
そのまま成功者としてみなされてしまうこと。お金など、いくらでもあるように思われてしまう。一
方、サラリーマンの人はいつも、こう言う。「ぼくらは、サラリーマンですから」と。つまり「余分な
お金は、ない」と。

 「ぼくには、お金がない」を口グセにしている人もいる。

 だからお金を払うという話になると、たいてい自由業の私たちが、それを払う。暗黙のうちに、
そうするように強いられる。

 が、実際には、収入は、不安定。よいときもあれば、そうでないときもある。それに、体だけ
が、資本。病気か事故で倒れれば、それで万事休す。私や家族を保障してくれるものは、何も
ない。

 そこで私たち自由業者には、一方で自由に仕事をしながら、同時に、石橋をたたいて渡るよ
うな慎重さが求められる。『渡る世間は、鬼ばかり』とまでは言わないが、油断大敵。ふとした
油断が、そのまま命取りになることだってある。そのためつねに社会の情勢を、自分で吸収し
ていかねばならない。

 決して甘い世界ではない。

 先日も、新幹線の中で、こんな会話をしている夫婦(60歳前後)がいた。何でも、親から遺産
として受け継いだ土地を、売りに出すという相談をしているようだった。

 その夫らしき男が、妻らしき男にこう言った。「ぼくの知っている人に、建設業をしているのが
いるよ。彼が、代わりに売ってあげてもいいと言ってくれている」と。

 何でもない会話に聞こえるかもしれないが、私は、その話を聞きながら、「そんなことをしては
だめだ」と、思った。世間知らずというか、無知というか。不動産取引業の免許をもたない建設
業者に、売買を依頼し、実印を渡したら、どうなるか?

 私の知ったことではないが、こんな恐ろしい話はない。他人の借金のことで、その人の連帯
保証人になるようなもの。へたをすれば、すべての財産を失う。相手が善良な人ならよいが、
そういう人ほど、連帯保証人になってくれなどとは、言ってこない。一歩、まちがえば、奈落の
底へ、まっしぐら! 連帯保証の恐ろしさを知っているからだ。

 私はその夫婦の会話を聞きながら、「世の中には、甘いというか、無知な人もいるものだな
あ」と、へんに感心してしまった。

 が、自由業では、こうした(甘さ)は、禁物。失敗の責任は、すべて容赦なく、自分にのしかか
ってくる。言いかえると、その(甘さ)がある人には、自由業は、無理。ときには、暴力団事務所
へ、ひとりで怒鳴りこんでいくような度胸さえ求められる。それができなければ、自由業など、選
んではいけない。

 決して、楽な世界ではない。ないが、しかし、悪いばかりではない。

 同じ人生を生きながら、自由業の人には、いつも自分の人生を、自分で生きているという実
感がともなう。そのつど、「これが私の人生」と納得できる。この上もないし、この下もない。先
日もワイフは、私にこう言った。

 「あなたは自分の人生を、自分で生きたのだから、悔いはないわよね」と。

 そう、悔いはない。まだ死にたくはないが、明日、病気か事故で死んだとしても、私は、後悔し
ないだろう。航海にたとえるなら、ひとりで小船を操りながら、大海を渡ってきたような感じすら
する。大型客船に乗って、大海を渡る方法もあるだろうが、人生の醍醐味(だいごみ)という点
では、比較にならない。……と思う。

 たった一度しかない人生だが、どのように生きるか。それは、その人、それぞれ。その人の
勝手。どちらがよいとか、悪いとか。どちらが正しいとか、まちがっているとか、そういうことでは
ない。それぞれに、一長一短がある。

 ただ私はこの歳になってときどき、こう思う。「もう少し要領よく生きれば、もう少し、楽な人生
を歩めたかもしれない」と。実は、ワイフも、そう言っている。

 そうそう、これは重要なことだから、しっかりとここに書いておかねばならない。

 私は、人生は、1度でたくさん。「こりごり」とまでは言わないが、神様か何かが、「林、もう1
度、お前に新しい人生を与えよう」と言ったとしても、私は、こう答えるだろう。「もう、結構です。
少なくとも、また人間に生まれ変わるのは、かんべんしてください。もし、何かに生まれ変わるこ
とができるとするなら、どうか、つぎは、鳥にしてください」と。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●友、去りし

友、去りし、
福岡空港発、午前9時20分の飛行機で。
その旨、電話あり。

「これから、飛行機に乗るよ、ありがとう」
「いいんだよ」と。

ふと、心を横ぎる、さみしさ、
心細さ、そして、言いようのない、切なさ。

「ぼくも、行きたい」と言おうとしたが、
それをさえぎって、Mが、こう言った。
「ヒロシ、アキコを連れてくるんだよ」と。

私は、「わかった(right−oh)」と答えると、
それを聞いて、Mが、
「Not too horrible!(すばらしい)」と。

友、去りし、今日の朝、
心のどこかにポカンと穴があいた。
ふと振りかえると、そこには現実。

私は深呼吸を1、2度すると、私は再び、
パソコンに向かって、原稿を書き始めた。


●むずかしい? わかりやすい?

 マガジンに載せる原稿について、「むずかしすぎて、わからない」という人もいれば、「わかり
やすい」と言う人もいる。

 マガジンといっても、私のマガジンは、一般の人を対象にしたもの。だから、私としては、でき
るだけわかりやすく書いているつもりである。が、それでも、「むずかしい」と。

 が、心のどこかには、こんな対抗意識もある。

 できるだけムダなことは書きたくない。死んだあと、何年も残るような文章を書きたい、と。で
きれば、だれも足を踏み入れたことのない世界について書いてみたい。

 しかしそれはかなわぬ夢。もうあきらめた。

 ただ本のばあいは、育児の本といっても、最初に読者対象を決める。男性なのか、女性なの
か。父親なのか、母親なのか。年齢は、何歳くらいか、など。

 が、マガジンのばあいは、あまりそういうことは考えない。「役にたちそう」と思ってくれるところ
だけ、読んでもらえれば、それでいいというふうに考える。実際、読者の方も、そのような読み
方をしているよう。


●37・8℃

 昨日(05・06・28)、静岡市清水区で、最高気温が、37・8度にもなったという(気象庁)。全
国イチの暑さだった。 

 私が住む浜松市でも、31・8度! 道理で暑いはず。冷蔵庫から、ペットボトル入りの水を、
15〜20分おきに、ガブ飲み。そのせいかどうかは、わからないが、(ワイフは、勝手な理屈を
あれこれ並べて、「そのせいだ」と言っているが……)、おかげで、体がだるくてしかたなかっ
た。

 しかし清水区といえば、少し前までは、清水町。あの「清水の次郎長」の清水である。海岸に
沿った、美しい町だ。そんなところでも、37・8度とは! この先が、思いやられる。

 どうやら地球温暖化現象は、私たちが予想していたよりも、かなり速く、しかも、深刻に進行し
ているようだ。若い人には、想像もつかない話かもしれないが、私たちが子どものころには、夏
場でも、気温が30度を超えただけで、ニュースになった。

 そういう意味でも、夏は短かった。私は、長良川で生まれ育ったが、その川で泳げるのも、7
月の中旬から、8月の中旬まで。8月の盆が過ぎると、冷たい秋風が吹き始めて、川へは、と
ても入れなかった。

 そのころを思うと、6月下旬に、37・8度というのは、もう、メチャメチャな気温。

 ところで一つ、たいへん悲しいニュース。

 昨年、近くで行われた花博覧会に合わせて、片側2車線のバイパスが、建設された。そして
その両側に、約8メートル間隔で、街路樹が植えられた。

 その街路樹。太さが、10センチほどになったのだが、だれかに切られてしまった。ところどこ
ろで、倒れたまま、腐っている。

 切り口が鋭利なところを見ると、ノコギリが使われたらしい。それも、ちょうど切りやすい高さ
で切られているから、意図的にだれかが、悪意をもって切ったとしか思えない。

 私は毎日、その無残な街路樹の横を自転車で通りすぎながら、こう思う。「こういうバカがいる
かぎり、地球温暖化は、止まらないだろうな」と。


●とんでもない大判振る舞い

韓国のC統一相が、K国の金xxと会談した。そして6か国協議について、話をつけてきた。とた
ん、にわかに、(6か国協議、7月中、開催)説が浮上してきた。

 C統一相は、韓国へ帰国後、テレビなどで、その成果を2時間あまりも、誇示したという。しか
し……。その会談で、C統一相が、金xxに示した、「重要提案」なるものの、中身がすごい! 
まさに、大判振る舞い。それらを並べてみる(時事通信)。

(もし、K国が、6か国協議に応ずれば)、核廃棄を前提に大規模なエネルギーや食糧、経済
特区開発の支援を実施する。

 その「重要提案」とは、は協議復帰と核廃棄を前提とし、エネルギー支援では、

(1)中断している重油提供再開
(2)朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を通じた軽水炉建設再開
(3)開城工業団地への韓国の電力提供
(4)ロシアの剰余電力提供−が柱。ロシアの電力提供は昨年9月の韓ロ首脳会談で話し合わ
れ、北朝鮮内の送電線建設には、日中の資本を誘致する案も示した。

 さらに、とりあえず、韓国政府ができることとして、7大事業を提供する、とも(朝鮮N報)。

 中身は、

(1)南北テスト農場
(2)農業用資材工場の建設
(3)ケソン工業団地への電力供給
(4)火力発電所の補修
(5)各地の鉄道の現代化(近代化)
(6)南浦、元山港の荷役施設の拡充など。

 アメリカはかねてから、6か国協議は、前提条件なしで……を主張している。そのアメリカの
意図を、韓国の統一相は、180度ひっくりかえしてしまったことになる。その上で、今回、金xx
と会談したことになる。

 これだけ(おいしい話)を並べれば、金xxが、会談に応じないはずがない。さっそくロシアのイ
ンタファックス通信は、「北朝鮮指導部は協議復帰を決定し、外務省が7月後半の開催を準備
している」と報じた(6・28)。

 つまり、今度は、アメリカが窮地に立たされたことになる。わかりやすく言えば、アメリカは、韓
国に裏切られた。

 そこでC統一相は、急きょ、ワシントンへ……。こうしたいきさつについて、つまり前後関係が
あべこべであることについて、C統一相は、つぎのように説明している。

 「金xxに会えるかどうかも、わからなかった。だから、重要提案や7大事業について、前もっ
て、アメリカに相談する必要はないと思った」と。

 ふつうなら、同盟国に、先に相談してから、こういう話を進める。とくに「北朝鮮内の送電線建
設には、日中の資本を誘致する案」とうのが気になる。日本は、いつから韓国の指導下に入っ
たのか?

 若い政治家が、功名をあせって、とんでもないことをしてくれた!、……というのが、アメリカ
の本音ではないか。

 ブッシュ大統領が、ここで、「そんな約束はできない」などとでも言ったら、6か国協議は、流れ
てしまう。つまりアメリカがその6か国協議を、つぶしてしまうことになる。となると、国連安保理
でのアメリカの立場は、ガタガタになる。

 ところでその韓国。こんなニュースも伝わってきている。

 今度、日本の天皇が、サイパン島を、慰霊訪問した。それについて、つい先日までは、「韓国
兵犠牲者の慰霊碑には、あいさつをしなかった」と、非難。

 が、天皇はした。東亜N報の記事をそのまま紹介する。この記事を読んで、怒らない日本人
は、いないだろう。とくに、「こっそり」という言い方が、許せない。

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天皇、4分だけ、こっそり、追悼

第2次世界大戦の戦没者を追慕するため、サイパンを訪問中の明仁天皇陛下が、28日、当
初の日程には含まれていなかった韓国人の慰霊塔を、突然訪問した。朝日新聞によると同午
前、天皇陛下ご夫妻は、日本人戦没者の慰霊日程を終えた後、車に乗って宿所のホテルへ
向かう途中、「太平洋韓国人慰霊平和塔」と、沖縄出身犠牲者のための「沖縄の搭」に立ち寄
り、追慕の意を示した。

++++++++++++++++

 何をしても、また何もしなくても、すべてを反日意識に結びつけていく、韓国の報道機関。

 「歴史認識問題」も問題だが、合わせて、韓国政府は、「独裁者認識問題」。さらには、「反日
認識問題」も、問題としたら、どうだろうか。


【追記】

 これに対して、アメリカのウォールストリートジャーナル紙は、「6か国協議の開催をじゃまして
いるのは、韓国や中国の援助である」と非難している(28日)。

 つまりそのつど、安易な援助を繰りかえすものだから、K国は、6か国協議を、先延ばしにし
てきたのだ、と。

 私も、そう思う。

 先の韓国の金大中氏と、K国の金xxとの首脳会談でも、その裏では、500億円とも、あるい
はそれ以上とも言われるお金が動いた。つまりは、韓国にしてみれば、「お金で買った会談」だ
った。(金大中氏は、この会談の成功(?)で、ノーベル平和賞まで受賞している。ギョッ!)

 今回のC統一相の会談も、それに近い。

 が、さらにこの会談には、ウラがあった。

 C統一相は、K国の核開発放棄を、「最終目標」と位置づけている。つまりそれまでは、韓国
も、K国も、したい放題のことができる。

 こんな案を、はたしてアメリカがのむだろうか。日本政府がのめるだろうか。もうすぐ、その結
果が出る。

(この原稿は、6月29日(水)に書いたものです。マガジンに載せるころには、国際情勢は、大
きく変わっていることと思います。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●脳梗塞(のうこうそく)

 私の知人(75歳)が、何かの会議をしている最中に、脳梗塞(のうこうそく)を起こした。幸
い、軽い脳梗塞だった。命には、別状がなかった。1か月ほどの入院で、退院できた。

 が、症状は、そのあと、明らかになった。

 方向感覚が、まったくなくなってしまったという。自分の家の近くまでは、何とか歩いて帰ってく
ることができるのだが、その家のまわりをグルグルと回っているだけ。自分の家の玄関先の前
を通り過ぎてしまうこともあるそうだ。

 そういう意味では、脳というのは、複雑怪奇。デリケート。

 ほかにも、たとえば、

 上側頭回などの言語領域が損傷されると、失語症や、失読症、さらには、失書症などになる
そうだ。また辺縁系の中にある海馬(かいば)が損傷を受けると、記憶力そのものが、大きく影
響を受ける。

 いろいろ調べてみたが、その中でも、とくにこわいのが、前頭葉。もちろん脳全体が脳梗塞を
起こすこともあるが、そのときは、オダブツ!

 その前頭葉は、人間の実行、遂行機能をつかさどる。この前頭葉が損傷を受けると、実行機
能が低下するだけでなく、さらに内側面まで梗塞が起きると、行為障害まで現れるという。

 つまりは、人間が、人間でなくなってしまう(?)。理性的な判断や、知性的な判断ができなくな
ってしまう。人格そのものが、崩壊する。その可能性は高い。

 もっとも、こうした脳梗塞は、まだわかりやすい。中には、微細脳梗塞というのもあるそうだ。
脳の中の微細な部分で、脳梗塞が起きるというのが、それ。微細である分だけ、外にはほとん
ど症状は現れない。

 が、脳梗塞は、脳梗塞。わかりやすく言えば、その分だけ、「痴呆」に近づくということ。しかも
除々に、少しずつ、そうなる。

 ゾーッ! 

 私の印象では、こうした脳梗塞には、年齢はないということ。先日は、20代の後半で脳梗塞
になった人の話を聞いた。(20代の後半で、だぞ!)

 それに若い母親たちと話していて、「そうでないかな?」と思うようなケースもある。どこか、反
応が鈍い。反応がおかしい。「私は若いから、だいじょうぶ」などと思うのは、まちがい。

 ……ということで、私が今、一番、警戒しているのは、自分自身の脳梗塞。食べ物や生活管
理。運動などに注意している。それにいつも脳ミソを活性化させておくために、(考える)という
習慣を大切にしている。

 (よく考えるから、脳梗塞にはならないという意見には、根拠がないが……。)

 風聞で不確かな意見だが、慢性的な頭痛は、よくないそうだ。慢性的な頭痛が悪いというより
は、そのつど、何らかの頭痛薬をのむ。その頭痛薬が、脳の血管をボロボロにする。とくに、偏
頭痛もちの人は、気をつけたらよい。

 「頭が痛い……、だから、すぐ頭痛薬」という習慣は、改めたほうがよさそうだ。気をつけよ
う!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【ある母親からの相談】

●子どもどうしのトラブル

 兵庫県にお住まいの、KEさん(母親)から、こんな相談がありました。

 その家には、5歳になる男の子と、4歳になる女の子がいます。その2人の子どもが、隣の同
年齢の子どもに、あれこれ意地悪をしているというのです。

 たとえば、「カードをくれなければ、仲間に入れてあげない」とか、「おもちゃをくれなければ、
遊びにつれていってあげない」とか、など。

 隣のその子どもの母親から、「どうしてそんな意地悪をするのか」と抗議を受けたというので
す。

 相談をしてきた母親は、「どうしてこんなレベルの低い問題で、頭を悩まさねばならないのか」
と書いています。

 で、5歳の兄に、それを問いただすと、「ぼくは知らない」と。4歳の妹に問いただすと、「お兄
ちゃんは、そう言っている」と。

 その母親は、隣の家には、2人の子どもをつれて、あやまりに行ってきたそうですが、どうも、
スッキリしないとのこと。「こういうときは、どう対処したらよいでしょうか」と。

+++++++++++++++++++++

 よくある子どもどうしの、トラブルです。4歳前後になると、ものごとに、条件をつけることを覚
えます。

 しかしその条件を、教えているのは、実は、親なんですね。

「昼ごはんを食べたら、おやつをあげる」
「掃除をしてくれたら、アイスクリームをあげる」
「部屋を片づけてくれたら、お小遣いをあげる」など。

 条件が悪いわけではありません。人間の生活は、すべて、この(条件)と(結果)の関係で動
いているといっても、過言ではありません。

 問題は、その(条件)の中身です。以前、子どもの学習について、こんな原稿を書いたことが
あります(中日新聞掲載済み)。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

動機づけの四悪

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)無理、(2)強制、(3)条件、(4)比較の四つがある。
これを、『動機づけの四悪』という。

 まず(1)無理。その子どもの能力を超えた無理をすれば、子どもでなくても、学習意欲をなく
して当然。よくある例が、子どもに難解なワークブックを押しつけ、それで子どもの学習意欲を
そいでしまうケース。

子どもの勉強は、「量」ではなく「密度」。短時間でパッパッとすますようであれば、それでよし。
……そうであるほうが好ましい。また子どもに自分でさせる勉強は、能力より一ランクさげたレ
ベルでさせるのが、コツ。ワークやドリルなど、半分がお絵描きになってもよい。答が合ってい
るかどうかということよりも、「ワークを一冊、やり終えた」という達成感を大切にする。

 (2)強制。ある程度の強制は勉強につきものだが、程度を超えると、子どもは勉強嫌いにな
る。時間の強制、量の強制など。こんなことを相談してきた母親がいた。

「うちの子は、プリントを二枚なら、何とかやるのですが、三枚目になると、どうしてもしません。
どうしたらいいでしょうか」と。私は「二枚でやめることです」と答えたが、その通り。このタイプの
母親は、仮に子どもが三枚するようになればなったで、「今度は四枚しなさい」と言うに違いな
い。子どももそれを知っている。

 (3)条件。「この勉強が終わったら、△△を買ってあげる」「一〇〇点を取ったら、お小づかい
を一〇〇円あげる」というのが条件。親は励ましのつもりでそうするが、こういう条件は、子ども
から「勉強は自分のためにするもの」という意識を奪う。そればかりではない。

子どもが小さいうちは、一〇〇円、二〇〇円ですむが、やがてエスカレートして、手に負えなく
なる。「(学費の安い)公立高校へ入ってやったから、バイクを買ってくれ」と、親に請求した子ど
も(高一男子)がいた。そうなる。

 最後に(4)比較。「近所のA君は、もうカタカナが書けるのよ」「お兄ちゃんは、算数が得意な
のに、あなたはダメね」など。こういう比較は、一度クセになると、日常的にするようになるか
ら、注意する。子どもは、いつも他人の目を気にするようになり、それが子どもから、「私は私。
人は人」というものの考え方を奪う。

 イギリスでは、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』と言う。
子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、親のできることにも限界があるというこ
と。ではどうするか。

もう一つイギリスには、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』という格言もある。つまり子どもに勉強
をさせたかったら、勉強は楽しいということだけを教えて、あとは子どもに任す。たとえば文字。
いきなり文字を教えるのではなく、いつも子どもをひざに抱いて、本を読んであげるなど。そう
いう経験が、子どもをして、「本は楽しい」「文字はおもしろい」というふうに思わせるようになる。
そしてそういう「思い」が、文字学習の原動力となっていく。子どもの勉強をみるときは、「何をど
の程度できるようになったか」ではなく、「何をどの程度楽しんだか」をみるようにする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

もう一つの原稿は、『負けるが勝ち』です。
これは、近所の親たちとのトラブルで、とても重要な
ことですので、ぜひ、参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。

さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人
はいる。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そうい
うまともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。

しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 この程度のトラブルは、まさに日常茶飯事。これからも、繰りかえし、起きてきます。モグラた
たきのモグラのように、です。

 ですから、ある一定の、(解決パターン)を、頭の中に、あらかじめ、用意しておくとよいでしょ
う。

(1)まず、頭をさげる。相手の話をよく聞いて、「すみませんでした」とあやまる。
(2)子どもに向かっては、言うべきことを言いながらも、あとは許して忘れる。
(3)どちらが正しいとか、まちがっているか、そういう詮索はしない。判断もしない。
(4)つぎにその相手の人に会ったら、「子どもにはよく言って聞かせておきました。これからも
何かお気づきになったら、教えてください」と、また頭をさげる。
(5)『負けるが勝ち』と、心の中で念ずる。

 負けることのすがすがしさを感ずることができるようになったら、あなたも、親として、一人前。
最初は、プライドがじゃまして、なかなかたいへんですが、一度、思い切って、負けてみてくださ
い。あなたにも、そのすがすがしさの意味がわかるはずです。

 そのかわり、私のマガジンでも読んで、子育ての視野を高くします。KEさん自身が、「レベル
が低い」と言っておられること自体、すでにKEさんのレベルは、高いのです。有料マガジンを購
読してくださっているとか、ありがとうございます。

 一部、いただいたメールを、引用しましたが、お許しください。これからもよろしくお願いしま
す。(この原稿は、マガジン7月29日号に掲載予定です。ご了解ください。)
(はやし浩司 子供同士のトラブル 子ども どうし トラブル 負けるが勝ち 親とのトラブル 
育児相談 子育て相談)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(735)

●おおらかな世界

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都会文化が、おかしい?
狂い始めている?
高校生の体をセリにかけて、
落とした高校生と、
セックスをする?

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 今からたった半世紀前のこと。私の住んでいる山荘周辺でも、夜這(ば)いは、ごく日常的な
習慣だったという。男が、若い女性のいる家に、夜中にしのび込んで、セックスを楽しむという、
あれである。

 何も夜這いは、男だけの楽しみではない。若い娘は娘で、窓や、戸をあけて、男たちがしの
び込んでくるのを、待っていたという。きっと、空の星や月をながめながら、そこに男の影がうつ
るのを、胸をときめかして、待っていたのだろう。どこか、のどかで、ロマンチックな話ではない
か。

 が、それから半世紀。日本も、すっかり様(さま)がわりした。今、こんな話をしても、私のワイ
フですら、信じない。

 「夜這いもいいけど、妊娠したら、どうするの?」と。ヤボことを心配している。(しかし、本当の
ところ、妊娠したら、どうしたのだろう?)

私「あのな、昔はな、みんなで野良(のら)仕事をしていてもな、ムラムラと性欲がわいてきた
ら、その場で、したそうだ」
ワ「ウソよ!」
私「ウソじゃない。ぼくはちゃんと、Kさんから聞いた」と。

 Kさんというのは、今年、80歳くらい。山荘の近くに住む老人である。

ワ「奥さんとするの?」
私「いいや、だれでとでもよかったそうだ。そこらにいる女性をつかまえて、『ちょっと、やらせて
くれんかア?』と声をかければ、それでよかったそうだ」
ワ「ウソよ」
私「あのな、ウソじゃない。当時は、そういう時代だった」

ワ「で、どうやってしたの?」
私「Kさんの話では、そこらの草むらの中に入っていって、小便でもするかのようにして、それを
したそうだ。簡単だったそうだよ。たがいに立ったまま、したそうだよ」
ワ「浮気じゃないの?」
私「若いころから、みんな、夜這いをして、顔(=体)見知りだからこそ、できたそうだ」

ワ「そう言えば、戦前までは、このあたりでも、風呂は、混浴だったそうよ」
私「そうだってね」
ワ「混浴なら、隠すところもないし……」
私「そこなんだよ。性の文化というのは……。その時代、時代によって、つくられるものなんだ
よ。フィンランドでは、混浴が当たり前で、サウナに入っているそうだ。おとなも、子どもも、みん
な、いっしょだそうだ」と。

 が、今、その性の文化が、大きく、狂い始めている。

 数日前だが、こんな報道番組があった。

 ある秘密クラブでのこと。そのクラブでは、セリ方式で、その女の子の値段を決めるという。
「2万5000円」「ハイ」「2万8000円」「ハイ」と。女の子の値段は、平均で、3万円前後だとい
う。

 落とされた女の子は、その落とした男と、セックスをする。言い忘れたが、女の子の年齢は、
13、4歳から16、7歳くらいまで。この世界では、18歳以上は、もう、オバサンだそうだ。

 とんでもないクラブだが、東京の渋谷あたりには、そういうクラブが、無数にあるという。

 しかしそんな世界を、だれも、「おおらかな世界」とは、思わない。「ロマンチックな世界」とも、
思わない。それがわからなければ、「もし、その女の子が自分の娘だったら……」と、ほんの少
しだけでもよいから、考えてみたらよい。

 私はその報道番組を見ながら、人間が本来的にもつ愚かさを見せつけられたようで、気分が
悪くなった。何も、私が、聖人というわけではない。私も「男」だから、そういうことに興味がない
わけではない。

 しかし、いくら、クソをするからといって、そのクソを目の前につき出されたら、気分が悪くな
る。私が感じた気分の悪さは、そういった類(たぐい)のものだった。

 夜這いがよいわけではないが、しかし、まだ昔のほうが、よかった。楽しかった。「性」が明る
い太陽のもとで、さんさんと輝いていた。私には、そんな感じがする。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●クソと美談

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だれでも、クソはするものだが……

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 だれでも、食事をする。エネルギーを得るためだ。が、すべてがエネルギーになるわけではな
い。カスが残る。体の老廃物も出る。そういうのが、まとめて、クソになる。

 クソをしない人はいない。……と書きながら、何も、私は、クソの話を書くつもりはない。

 人は、そのクソと同じように、無意識のうちにも、自分の中の邪悪な部分を、隠しながら、生
きている。あえて、その話には、触れないようにする。そうして化粧をし、美しい衣服で身を包
み、文化を説き、芸術を追求する。

 もし、ファッションショーか何かで、美しいモデルが、舞台の上で、クソをもらしたら、どうなる
か? それだけで、そのファッションショーは、流れてしまうだろう。いや、だれでも知っている。

 その美しい体の中には、クソがあり、そんな美しいモデルでも、トイレでは、耐えられないほど
の臭気をともなった、クソを出す。

 つまりこうして、人間は、「文化性」をもつと同時に、2面性をもつようになる。このことは、犬を
見ればわかる。

 あの犬には、そういう文化性はないから、たとえば、犬のファッションショーなどでも、途中で、
クソを出す。観客はそれを見て、苦笑するが、そういう点では、犬は、わかりやすい。オモテも
なければ、ウラもない。

 もっとも、オモテの顔をもつのが悪いというのではない。だれしも、オモテの顔、つまりは仮面
(ペルソナ)をかぶって、生きている。医師の顔、教師の顔、聖職者の顔、僧侶の顔などなど。

 が、同時に、そのウラで、自分の中の邪悪な部分を、どこかに閉じこめてしまう。あたかも、
自分には、クソがないかのように、振る舞ってしまう。クソがあることすら、忘れてしまう。

 そして他人のクソを見て、ことさら、マユをひそめてみたりする。

 この「マユをひそめてみる部分」が、ときにその人を偽善者にしたり、ときには、その人を虚構
の世界に追いやったりする。一般社会から、その人を遊離させてしまうこともある。

 「私はすぐれた人間だ」と思うのは、その人の自尊心だが、その返す刀で、「みなは、私より
劣っている」と思うのは、ウヌボレである。そのウヌボレが、自分のまわりに、虚構の世界をつく
る。

 世の中には、仮面をかぶったまま、その仮面をとりはずすことを忘れてしまう人がいる。仮面
をかぶっていることすら、忘れてしまう。

 ……と書きながら、これは私自身の問題である。とくに「教育」に関わる人たちは、その仮面
をかぶりたがる。かぶったまま、その仮面をかぶっていることすら、わすれてしまう。具体的に
は、自分の身のまわりを、美談で飾る。

 それについては以前、別の原稿に書いたので、それをそのまま、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【教育者が美談を口にするとき】

●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話
がある。

 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやって
きて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。

理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。そ
のタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(2000年夏、M市で
の教育講演)。

しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、
「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充は
どうするのか。「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレ
ントは言いたかったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

●日本の学用品は使えない?

 20年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持
って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテ
レビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。そしてその結果だが、何
とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。

 で、その1年後、その学用品がどう使われているか、2人の教師が現地まで見に行った。が、
大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学校の
倉庫に眠っていたという。

理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の1日の給料よりも高価なノートや鉛筆
を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう
話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおか
しい。貧しい親子が、1杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取り
あげられ、その後、映画にもなった。

しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私はいいから、お前たちだけで食
べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを
捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから50メートル走というときのこと。横に並んだB君(小2)が、A君にこ
う言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこ
でA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならないと思
い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。

ある著名な大学教授が、ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものが
おかしい。その教育者は、2人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたこと
のある人ならすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学2年生には、ない。仮にあっ
たとしても、あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな
話も……。

●子どもたちは何をしていたか?

 ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学1年生の生徒たちが、「先
生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因
は、その前の職員会議だった。

その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。そこでその教師は、30分間ほ
ど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再び授業に臨んだという。

その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは心を整えた」とテレビで
話していたが、この話もおかしい。その30分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというの
だろうか。その教師の話だと、その教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったという
ことになるのだが……?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意した
らよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい
話で自分の説話を飾りたがる。

※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がも
てはやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北
京第33中学校教師談)。

それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、
その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。

あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語
は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。一体その物乞いの子どもは、そのタ
レントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話は、ウソと断言してよい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 クソはする。私も、する。あなたも、する。みんな、する。だからといって、そのクソを人に見せ
ろということではない。大切なことは、「する」という前提で、自分を考え、他人を考えるというこ
と。

 自分を飾ることはない。ありのままの自分をさらけ出して生きる。仮面をかぶることもあるだ
ろうが、その必要がなくなったら、すぐ脱げばよい。脱ぎ忘れると、ここに書いたような、虚構の
世界に住むようになる。そしてとんでもない美談を口にするようになる。
(はやし浩司 一杯のかけそば 美談 教師の落とし穴 仮面 虚構の世界 クソ論)


【補記】

 「一杯のかけそば」について、私は、最初から、(自慢ではないが……)、あの話は、ウソだと
見抜いていた。ずっとあとになって、その物語の作者は、「フィクションだった」と告白したが、そ
んなフィクションにだまされて、日本中が、泣いた(?)。

 しかもその作家という人が、あちこちで詐欺まがいの事件を起こしていることまでわかった。

 私はその話を新聞で読んだとき、「私なら、子どもたちだけ食べさせ、『パパは、おなかがいっ
ぱいだ』とウソを言うだろうな」と思った。仮に貧しくても、親は親として、気高く生きる。私はそ
の物語の中に、親として当然もつべき、その気高さを感じなかった。

 どうしてそんな物語に、日本中が、感動したのだろう。古い原稿だが、その当時、つぎのよう
な原稿を書いた。私自身も、生活が苦しかったときに書いた原稿である。

 すこし文章が荒いが、許してほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●不況時代の、子育て論

 本格的な大不況が、近づいてきた。昨夜(02年7月4日)、書店で3冊の週刊誌を買ってき
た。アメリカにいる二男に送るためである。週刊新潮、週刊文春、週刊朝日の3誌である。そ
の3誌が、まるで呼吸を合わせたかのように、日本経済の破綻(はたん)を予告している。あの
堺屋氏(経済企画庁元長官)まで、悲観的なことを書いている(文春)。大不況がやってくるの
は、もう確実で、しかも秒読み段階に入ったとみてよい。

 が、経済がどうなるかを考えるのは、このコラムの目的ではない。問題は、そういう大不況に
なったら、子育てをどう考えたらよいか、だ。

と、言っても、私たちの世代は、すでに暗くて、貧しい時代をすでに経験している。私は昭和22
年生まれ。堺屋氏がいうところの、まさに「団塊の世代」。子どものころ記憶にあるのは、毎
日、空腹だったこと。みながみな、そうだった。だから私や私の家族が貧乏だったという思い
は、どこにもない。そういう自分を思い出しながら、大不況下の子育てはどうあるべきかを考え
てみる。

(1)子どもは親が気にするほど、貧乏を気にしない…貧乏を気にするのは、親であって、子ど
もではない。子どもはそういう意味で、環境をあるがまま受け入れ、適応する能力をもってい
る。貧乏であることを、子どもに恥じることはない。恥じてはいけない。

(2)親は卑屈にならない……いくら貧乏になっても、親は卑屈になってはいけない。親が卑屈
になると、子どもの心は「貧しく」※なる。一杯のかけそばを、分けあって食べるような、そういう
卑屈なことをしてはいけない。親は親で、前向きに、気高く生きる。

(3)貧乏を楽しむ……貧乏なら貧乏で過ごし方がある。見え、体裁、メンツを捨てる。世間体な
ど、気にしてはいけない。「私は私」という生きザマを大切にする。日本がこの不況から抜け出
る日はやってくる。そのとき同じスタートラインに立ったとき、あなたの生きザマは、子どもを伸
ばす大きな原動力となる。

(4)金銭的価値観とは決別する……「プレゼントは買ったものはダメ」「買う前にリサイクル」
「不便であるのが当たり前」などを、ハウス・ルールにする。今までの金銭的価値観からものの
考え方を転換する。家の中はスッキリ、ムダなくをモットーとする。

(5)家族の意義をたてなおす……家族は励ましあい、助けあい、教えあい、いたわりあい、支
えあう。そういう家族をものの考え方の中心におく。「家族がいちばん大切」ということを、日常
的に子どもに言う。貧乏だからといって、このきずなは壊れない。むしろ貧乏であればあるほ
ど、そしてその貧乏を楽しめば楽しむほど、家族のきずはな深まる。

(6)質素であることを誇りにする……質素であることを恥じることはない。むしろ誇るべきことで
ある。自動車には乗らず、自転車に乗る。バリバリのブランド品で身を包むのではなく、着心地
がよく、気軽な衣服を着る。それこそが人間の気高さの象徴である。

貧乏と、心の貧しさは別なのである。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【ネオトリー進化論について、読んでいただく前に……】

ネオトリー進化論について、原稿を書きましたが、
誤解による、まちがいが発見されました。

マガジンのほうでは、まちがったまま、原稿を
送信しますが、どうか、先に、この原稿を読んで
ください。

その上で、つづくネオトリー進化論についての
原稿を読んでくださると、うれしいです。
本来なら、マガジンそのものを削除したほうが
よいのかもしれませんが、マガジンはマガジンと
して、そのまま送信します。

どうか、当方の早合点をお許しください。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 「ネオトリー進化論」という言葉がある。その世界では、常識的な言葉らしい。しかし私は知ら
なかった。(世の中には、私がまだ知らないことが、山のようにある。ホント!)知らないまま、
1、2冊の本だけを読んで、早合点してしまった。原稿として書く前に、もっとよく調べて書くべき
だった。自分の軽率さを、恥じる。

 ネオトリー進化論は、言うなれば、脳の未熟化に向けた進化をいう。「未熟化」という言葉にこ
だわるなら、「退化」ともとれる。私は、単純に、未熟化イコール、退化と考えてしまった。しかし
これは、明らかに、誤解だった。

 つまり生物は、進化すればするほど、未熟化するのだそうだ。未熟化することによって、多様
性を身につける。その一例として、ウーパールーパーと、サンショウウオがいるという。

 ウーパールーパー(アホロートル)は、サンショウウオの未熟化した形ということになるが、そ
の分、環境の変化に、より対応した形ということにもなる。人間にたとえると、こうなる。

 人間のばあい、乳幼児期がほかの生物にくらべて、格段に長い。満1歳になって、やっとヨチ
ヨチと歩き始める。鳥の仲間の中には、卵から孵化すると同時に、歩き始めるのがいるという
のに、だ。

 しかし人間のばあいは、長い時間をかけて、自分に多様性をさぐっていく。たとえば脳ミソに
は、無数の神経細胞があり、その神経細胞からは、これまた無数のシナプスという繊維状の
神経組織がのびる。

 これらの神経組織が複雑にからみあって、人間の脳ミソを構成する。が、そのとき、人間は、
同時に無数の可能性をさぐりながら、一方で、不必要なものは、どんどんと消していく。泳ぎ方
を見につける子どももいれば、楽器をみごとにひきこなすことができるようになる子どももいる。
つまりこうして長い乳幼児期を通して、無限に近い可能性をさぐりながら、それに適応していく。

 たとえば魚は、泳ぐことしか知らない。虫は、子孫に存続のことしか考えない。大半の動物た
ちもそうだ。しかし人間だけは、この未熟化の部分を長くすることで、より環境に適応した生物
として、生き残ることができる。

 未熟化が長ければ長いほど、その適応期間が長くなることを意味する。

 これをネオトリー進化論という。

 つまりネオトリー進化論イコール、退化ではない。未熟化イコール、退化ということではない。

 だから、アジア人(モンゴロイド)が、よりネオトリー進化論によって、幼稚ポク見えるからとい
って、欧米人より劣っているということにはならない。

 「アジア人は、より幼稚ポイ」と書いた、私が、まちがっていた。この場を借りて、前に書いた
原稿を訂正する。

 そう言えば、幼児教育の場でも、早熟的にしっかりしてしまった子どもよりも、やることなすこ
と天衣無縫で、発想豊かな、どこかチャランポランの子どものほうが、あとあとよく伸びるという
ことは、よくある。

 こうした現象も、ネオトリー進化論で、説明がつくのではないだろうか。

 最後に、一つ、告白する。

 このまちがいに気づかされたのは、UFOに関する本を読んでいたときだ。(くだらない出典で
失礼!)

 ご存知の方も多いと思うが、地球に現れる宇宙人(異性人)の中には、「グレイ」と呼ばれる
宇宙人がいる。目だけが大きく、頭がツルツルの宇宙人である。目撃者の話によると、身長
は、150センチくらいだという。

 そのグレイは、どう見ても、童顔である。一説によると、平均寿命は、1000年。血液型はモ
ンゴロイドの中でも、とくに日本人に多いとされる、「O型」。

 あのグレイは、ネオトリー進化論によって進化した、異性人の進化形だという。道理で、幼稚
ぽい? (同じく、幼稚ポイ宇宙人として描かれていたのが、スピルバーグ監督作品の『未知と
の遭遇』の中に出てくる宇宙人たちである。主人公のロイを宇宙船の中に導く宇宙人たちも、
子どもぽい雰囲気だった。)

 ……という宇宙人に関する話は、先日、書店で立ち読みした、まことにもって、いいかげんな
内容だが、しかしそれで気がついた。つまり私のまちがいに気がついた。それで、改めて、ネ
オトリー進化論について、自分なりに調べなおしてみた。

 その結果が、この原稿ということになる。どうか、私の早合点を許してほしい。
(はやし浩司 ネオトリー進化論 ネオトリー 脳の未熟化)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ネオトニー進化論(2)

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アジア人(モンゴロイド)は、未熟民族か?

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 澤口俊之著の「したたかな脳」(日本文芸社)を、読みなおしている。これで2読目。たいへん
おもしろい。と、同時に、気になる。

 たった今、読みなおしたところは、「未熟化する日本人の脳」(P157)。

 要約すると、こうだ。

 最近話題になっている精神疾患に、「ボーダーライン」というのがあるそうだ。このタイプの患
者は、(人格障害)と(精神病)の中間、あるいは(神経症)と(精神病)の中間に位置するとい
う。(そのボーダーライン上にいるから、「ボーダーライン」という。)

 衝動的で、協調性がなく、気分がクルクルと変わる。

 ニコニコと笑っていたのが、急に怒り出したりする。自殺することもあるという。

 これは本来、欧米人に多い病気とされてきたが、表面的には似ていても、欧米人と日本人と
では、原因が違うという。

 欧米人のばあいは、ボーダーラインだけではなく、精神疾患にいたる原因は、離婚や虐待な
ど、家庭に原因があるばあいが多い。とくに幼児虐待や強姦が多い。アメリカの多重人格者の
80%は、このどちらかか、その両方を経験しているという。

 しかし日本人のばあいは、虐待や強姦が原因になっているのは、10%以下だと言われてい
る。

 日本では、ほとんどが、「自立障害」である。これはボーダーラインにかぎらない。ある精神科
医によると、200人、診察したうちの、ほぼ全員が自立に問題をかかえていたという。

 澤口氏は、これらの事実を総合して、つぎのように書いている。

「日本人に自立障害による精神疾患が多いということは、おそらくネオトニー化で獲得した特徴
が、変な方向に助長されたからでしょう。繰りかえすようですが、日本人はモンゴロイドですか
ら、もともと母と子が、ベッタリとする素地をもっています」(P158)と。

 この部分を読んでいて思い出したのが、(引きこもり)。(引きこもり)という現象は、日本人だ
けに見られる現象で、欧米では、見られないという。(引きこもり)も、考えてみれば、この自立
障害論で説明がつく。同時に、なぜ、日本人だけに(引きこもり)が起きるかも、これで理解でき
る。

 澤口氏の意見は、ショッキングなものである。わかりやすく言えば、日本人の私たちは、民族
的にも、劣等民族ということになる。「劣等」という言葉は、私が要約して感じたものだが、そう
いうことになる。つまり私たち日本人は、進化を完全に遂げないままで終わっている、中途半
端な民族ということになる。少なくとも、欧米人と比較すると、そういうことになる。

 たしかに、同年齢の若者や、おとなを比較してみても、私たち日本人は、幼稚に見える。たと
えばテレビ討論会などで、アメリカ人の政治家が何か意見を言ったあと、日本人の政治家がつ
づいて出てきたりすると、「これが同じ、人間?」と思うほどの、(差)を感じてしまう。

 しかもなお悪いことに、私たち日本人は、その進化を進めるどころか、退化している可能性す
らあるという。澤口氏も、そう書いている。

 幼稚で、未熟。自分で論理的、理性的に考えて行動できない。つまりは私たち、日本人は、
自立できない民族ということか?

 余談だが、オーストラリアの友人たちを、金沢の兼六園に案内したときのこと。たまたまそこ
で、旗を立てたガイドのあとを、ゾロゾロとついていく日本人観光客の一行に出会った。

 それを見て、オーストラリアの友人たちは、ヒャーヒャーと笑っていた。「ヒロシ、君も、旗をも
って歩けよ」と1人が言ったが、それはもちろん、冗談。そういう旅行のし方は、彼らには、考え
もつかないようだ。

 わかりやすく言えば、自立心に欠けた日本人が、たがいに寄り添って、集団で行動する。そ
れが日本人の旅行のし方ということになる。が、それはまさしく、自立できない日本人を象徴し
ているということになる。

 同じ日本人であるにもかかわらず、こうまで日本人の悪口を書いたら、袋叩きにあるかもし
れない。しかしこれだけは言える。

 私たち日本人が、(自ら考える)という習慣を、ここで放棄してしまったら、本当に日本人は、
サルに近い状態にまで、退化してしまうだろうということ。私は澤口氏の本を読みながら、そん
な印象をもった。

(注)ネオトニー進化論

 あらゆる生物は、進化の過程を経て、現在の生物になった。しかし中には、同じ系列でありな
がら、進化の途中で、進化を停止してしまい、つまりは未成熟のまま、その状態で生きている
生物もいる。

 澤口氏は、ウーパールーパーと、サンショウウオの例をあげて、それを説明している。ウーパ
ールーパーは、サンショウウオの未熟形ということになる。

 日本人が、欧米人並に進化するためには、2つの方法しかない。(1)国際結婚を推し進め
て、「血」の交流を進める。(2)より考える人間になって、大脳前頭葉を刺激し、この部分を、よ
り発達させる。

 子どもぽい子どもイコール、いい子、幼稚ぽい子どもイコール、かわいい子という、子ども観
は、まちがっている(?)……ということにもなるのか。いろいろ考えさせられる。
(はやし浩司 未熟な日本人 日本人の自立)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自立できない民族

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日本人は、なぜ自立できないか?

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 日本の子どもたちが、欧米の子どもたちと比較して、全体に、自立心が弱いのは、日本人独
得の子育て法、あるいは子ども観にあると、私は考えてきた。つまりは、それは子育ての問題
であり、教育の問題である、と。

 しかしそういう部分もあるにせよ、もっと、根源的なところに、問題があるとしたら……。つまり
民族的というより、さらにDNAレベルの段階で、問題があるとしたら……。

 そのひとつのヒントが、「ネオトリー進化論」である。

 そのネオトリー進化論によれば、アジア人(モンゴロイド)の脳ミソは、欧米人のそれよりも、
未完成であるという。未熟なまま、おとなになり、子どもをおもうけ、またおとなになる(?)。

 たとえて言うなら、「オタマジャクシのまま、卵を産み、その卵がかえって、またオタマジャクシ
になる。そしてまた、カエルになる前に、卵を産む、つまりはカエルには、なりきれないオタマジ
ャクシ」(澤口氏)ということになる。

 もちろん日本人すべてが、そうであるというのではない。中には、欧米人より、はるかにすぐ
れた知性や理性をもっている人はいる。欧米人より、おとなぽい人は、いくらでもいる。

 しかし全体としてみると、日本人は、やはり、子どもぽい。幼稚さをそのまま残したかのような
おとなとなると、ゴマンといる。

 先週も、あるテレビ番組で、アメリカの俳優と、日本のお笑いタレントたちが、対談するという
番組があった。私たち日本人は、こういう番組を見ると、自分たちが日本人であることを忘れ、
アメリカ人の俳優のほうに、(自分)を、置いて、番組を見る。そして笑う。

 だれも、お笑いタレントのほうが、私たちと同じ日本人だとは、思わない。あまりにも、低劣。
その低劣さが、度を越している。言うこと、なすこと、まったくのノーブレイン。話す言葉にせよ、
日本語になっていない。「ギャー、ハハハ。ウヘー、ドヒャー!」と。

 わざとバカなまねをしながら、それで笑いを誘おうとしているのだろう。その意図は、よくわか
る、しかし見ているだけで、ふと悲しくなる。「これが、同じ、日本人か?」と。

 が、悪口ばかりは、言っておられない。日本人の脳ミソが、未熟化しているもうひとつの理由
として、ベタベタの母子関係があるのではないか? このことは、アメリカ人の家族やオースト
ラリア人の家族とくらべてみると、よくわかる。

 総じて言えば、日本の子どもたちは、男女を問わず、よりマザコン化している。澤口氏は、「こ
れもアジア人(モンゴロイド)の特徴のひとつ」というようなことを書いているが、それゆえに、自
立心が遅れるということも考えられなくはない。

 日本では、元来、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考え
る傾向が強い。そのため、子どもをかわいがるということは、子どもにいよい思いをさせるこ
と、楽をさせることと考えている人もいる。またそすすることが、親の愛の証(あかし)であると考
えている。

 こうした、まちがった子育て観が、日本人を、幼稚ぽくしている。

 ところで、すでに35年前の話になるが、オーストラリアの学生で、親のスネをかじって大学へ
通っているのは、ほとんどいなかった。たいてい、何らかの奨学金を得て、大学へ通っていた。

 奨学金を手にすることができない学生は、働いたり、借金をしながら、大学へ通っていた。し
かし実際には、(学業)と(労働)は、両立できないので、(つまり、それだけ大学での勉強がき
びしいので)、1年働き、つぎの1年、大学へ通うという学生もいた。

 そういう姿を見ただけでも、私にはショックだった。(勉強)に対する気構えそのものが、ちが
っていた。

 少し前、二男がアメリカから帰ってきたとき、そのとき、二男は、まだ大学生だったが、日本
の大学生たちがアルバイトをしているのを見て、こう言った。

 「アメリカでは、大学生がアルバイトをするなんて、考えられない。そんなヒマはないから……」
と。

 「自立」という問題を考えていくと、その奥の深さに驚かされる。

 ほかに、たとえば、老人でも、その年齢になると、子どもの世話になるというよりは、自ら、ひ
とり、(あるいは夫婦で)、隠居生活に入る。大きな家を売り払って、町の中の、アパート(フラッ
ト)に移る。

 「死ぬまで、子どもの世話になる」などという考え方をしている老人は、少ない。……というよ
り、ほとんどいない。

 子どものときから、自立そのものに対する考え方が、ちがう。が、そうしたちがいが、実は、脳
ミソの構造そのもののちがいによるものであるとしたら……。これから先、私のものの考え方
そのものを考えなおさなければならない。
(はやし浩司 自立できない日本人 日本人の自立 日本人の育児 育児観)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(738)

【子育て新格言】

●やればやるほど、空回り

 子どもに何か問題が起きたとする。すると親は、その問題を解決しようと、何かをする。それ
は当然にことだ。しかしそのとき、ときとして、何かをやればやるほど、ものごとが空回りしてし
まうことがある。子どものために何をしているはずなのに、それが子どもの心に響いていかな
い。こういうときの鉄則は、ただひとつ。それ以上、状態を悪化させないことだけを考えて、時
の流れを待つ。

 子育てがカベにぶつかると、たいていの親は、そこが「底」だと思う。だからそこを基準にし
て、子どもを「なおそう」と考える。しかし「底」の下には、さらに「別の底」があり、さらにその下
にも「別の底」がある。たとえば娘が門限を過ぎて帰ってきたとする。すると親は、それをなおそ
うと娘を叱ったり、説教したりする。が、いっこうにそれがなおらない。これがここでいう「空回
り」。

 そこでさらに親が叱ったりすると、今度は、娘は外泊をするようになる。これがここでいう「別
の底」。あるいは家出ということにもなりかねない。集団非行を繰り返すようになるかもしれな
い。これも「別の底」。

 子育てをしていてその空回りを感じたら、こうした「別の底」に落ちる前兆として、警戒する。
子どもというのは、一度その「別の底」に落ちると、あとは、つぎつぎと別の底に落ちていく。そ
こで、ここにも書いたように、一度、その底を感じたら、「なおそう」と思うのではなく、今の状態
を悪化させないことだけを考えて、一年単位で(一年でも短いほうだが……)、時の流れを待
つ。


●「やればできる」は、禁句

 たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」という。しかし、(やる・やらない)も、力の
うち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめる。やればできるは
ずと、子どもを責めたてることほど、子どもを苦しめるものはない。

 子どもの可能性を否定しろと言っているのではない。ともすれば、暴走しやすい親の期待に
ブレーキをかけろと言っている。というのも、親というのは、子どものよい面だけを見て、それを
基準にものを考える傾向が強いからである。いつもは七〇点くらいしか取れない子どもが、た
まに一〇〇点をとってくると、「やっぱり、うちの子はすごい」と思うことはある。しかし「どうして
今回は一〇〇点なのかしら」と疑問に思う親はいない。

 こんなことがあった。

 ある日、一人の中学生(中二・男子)が、父親につれられてやってきた。そして父親はこういっ
た。「うちの子は、中学一年のとき、(二〇〇人中)、三〇番になったことがある。うちの子に
は、そういう力があるはず。どうかそれを伸ばしてほしい」と。

 そこで少し教えてみると、とてもその力がないことがわかった。そこで私は父親に手紙を書い
た。「私のところでは、とてもご期待にそえるような指導はできません。申し訳ありませんが、お
断りします」と。

 こういう手紙を書くと、どういう書き方をしても、親というのは、激怒する。デパートで販売拒否
にでもあったかのような怒り方をする。その父親もそうだった。「偉そうなことを言いて、お前は
何様のつもりか!」と言って、その父親は電話を切った。(この話は、ホントだぞ!)


●ユーモアでしつける

 ユーモアは、子どもの心を開放させる。『笑えば、子どもは伸びる』が、私の持論でもある。子
どもをしつけるときは、このユーモアを大切にする。

 たとえば私のばあい、授業中、なかなか手をあげようとしない子どもには、「パンツにウンチ
がついているなら、手をあげなくていい」と言う。「ママのオッパイを飲んでいるなら、手をあげな
くていい」とも言う。フラフラと歩き回っている子どもには、「おしりにウンチがついているのか?

 おしりがかゆいから、歩いているの?」と言う。あるいは「パンツをかえてあげるから、おいで」
と、やさしく声をかける。

 指しゃぶりをする子どもも多い。そういうときは、「おいしそうな指だね。先生にもなめさせて」
と声をかける。あるいは、「そういう指のしゃぶり方をするから、幼稚、幼稚って、バカにされる
んだよ。いいか、もっとかっこうよくしゃぶりな」と言って、指のしゃぶり方を教える、など。鼻くそ
をほじっている子どもには、「おいしそうな鼻くそだね。先生にも、食べさせて」と声をかける、な
ど。

 いろいろな言い方があるが、こうした言い方をすることによって、トゲトゲしさがなくなる。子ど
もも、聞く耳をもって、こちらの話を聞いてくれる。が、一方、頭ごなしの命令や、禁止命令は、
方法としては手っ取り早いが、ほとんど、効果はない。それだけではない。命令や禁止命令が
多くなると、子どもは、自分では考えることができなくなってしまう。時とばあいには、こうした命
令も必要だが、しかしできるだけ少なくしたほうがよい。


●命令より、理由づけ

 子どもに指示を与えるときは、命令より、理由づけを大切にする。「手を洗いなさい」ではな
く、「手が汚れているね。どうしたらいい?」と。「歯をみがきなさい」ではなく、「歯をみがかない
と、虫歯になるわよ」と言う。

 日本語の特徴というか、日本では、子どもに指示を与えるとき、どうしても命令口調になりや
すい。一方、英語国では、命令口調が少なく、反対に、理由づけが多い。仮に英語国で、子ど
もに何かを命令したりすると、反対に「命令しないで」と言い返されたりする。私も昔、オーストラ
リアにいたころ、ガールフレンドに何かのことで命令したことがある。そのとき、私は「私はあな
たの奴隷ではないから、命令しないで」と言われてしまった。
 
 そこであなたの今日、一日の会話を思い出してみてほしい。あなたは子どもと、どんな会話を
しただろうか。そしてその会話はどんなものだっただろうか。親意識が強く、権威主義的な親ほ
ど、子どもに対して、命令口調が多くなる。さて、あなたは、どうか?


●文字学習の前に、正しい発音

 世界広しといえども、幼児期に発音教育をしない国は、それほどない。が、この日本では、そ
の発音教育を、ほとんどしない。あるいはあなたは保育園や幼稚園で、発音教育をしている先
生の姿を見たことがあるだろうか。

 たまたま先ほども、わらび餅売りの車が家の前を通り過ぎた。隣のT市(愛知県)からやってく
るわらび餅売りだが、T市の人たちは、独特の発音をする。「わらび〜もち、早く来ないと、いっ
ちゃうよ〜」と言うのだが、それが、「ウェラビィー、メォチ〜、ヒェヤクゥ〜、コネエェ〜ト、イッチ
ャウイヨ〜」と聞こえる。

 こういう発音を、一方で野放しにしておいて、子どもに向かって、「正しく書きなさい」はない。
ちなみに、「昨日」を、「きのう」と正しく書ける年長児は、ほとんどいない。たいていは、「きの
お」「きの」「きお」とか書く。そういうときは、一度、一音ずつ音を区切って発音してみせるとよ
い。「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンとたたいてみせるとさらに効果的。

 ただしい発音は、文字学習の基礎である。文字学習に先立って、あるいは、文字学習と平行
してするとよい。口をしっかりと動かしながら、息をしっかり吐き、一音ずつ区切って言うとよ
い。


●文字は使って生きる

文字の目的は、「書くこと」ではない。「自分の意思を伝えること」である。こんなわかりきったこ
とが、この日本では、逆転している。たとえばどうしてこの日本には、いまだに、トメ、ハネ、ハラ
イが、あるのか。その上、書き順まである。ある程度の約束ごとは大切なことだが、しかしそれ
ばかりにこだわっていると、肝心の「自分の意思を伝えること」が、おろそかになってしまう。

 もちろんだからといって、トメ、ハネ、ハライ、それに書き順を無視してよいというのではない。
ただそれにも程度というものがある。それにこうまで情報化時代が進んでくると、「書く」という意
味そのものが変わってくる。たとえば私はこうして文章を書いているが、すべてパソコンを使っ
て書いている。

 こういうことを言うと、「日本語の美しさがそこなわれる」と反論する人が、必ずといってよいほ
どいる。「子どものころ、正しい書き順を教えておかないと、あとがたいへん」と言う人もいる。し
かし三〇年ほど前、こんな議論もあった。

 当時、「今どきの子どもは、ナイフで鉛筆も削れない」と、よく批評された。そのとき私はこう反
論した。「ナイフで削らなくても、鉛筆削りがある。鉛筆削りで削れば、ずっと早く削れるし、時間
も節約できる。鉛筆を削るときは、鉛筆削りを使えばよい」と。

 これはナイフの話だが、その時代ごとに、こうした議論が、打ち寄せる波のように、それぞれ
の分野で起こっては消える。このトメ、ハネ、ハライも、そのひとつかもしれない。(あるいはそう
でないかもしれない?)私は個人的には、もう書き順も、適当でよいのではと思っている。


●もとの木阿弥

 『もとの木阿弥(もくあみ)』という言葉がある。いろいろやってはみたが、結局は、もとに戻っ
てしまうという意味である。苦労や努力が、水のアワになってしまうことをいう。

 子育てをしていると、そういう状況によく陥(おちい)る。私の世界でも、こんなことがあった。

 小学三年生の子どもだったが、まだ掛け算があやしかった。そこで小学二年生のクラスに入
れてみた。その子どもは、それまで「算数は、わからないもの」と思っていたらしい。しかし一年
レベルをさげたことで、むしろ生き生きと勉強し始めた。で、半年もすると、その勢いもあって、
やがて何とか、小三レベルの学習も、こなすようになった。そこで私は小三クラスへ移した。
が、そのとたん、親の無理が始まった。

 親は、「もっと、もっと……」と、子どもに勉強を強いるようになった。ワークブックもどっさりと
買い込んだ。とたん、その子どもは、オーバーヒート。かえって前よりも、勉強嫌いになってしま
った。そして一度、こういうつまづき方をすると、二度目がない。四年生になったとき、親のほう
から、「もう一度、学年をさげて教えてみてほしい」と言ってきたが、子どもがそれを受けつけな
かった。そしてそのまま私の実験教室へこなくなってしまった。

 子どもには子どもの「力」がある。その力を見極め、ほどほどのところであきらめるべきこと
は、あきらめる。この「あきらめ」が、子どもの心に穴をあけ、子どもを伸ばす。子育てをしてい
て、あきらめることを恐れてはいけない。でないと、結局は、『もとの木阿弥』になってしまう。


●子どもは芸術品

 母親にとって、子どもは芸術品。とくに乳幼児期から幼児期にかけての子どもは、そう思うべ
し。こんな投書が載っていた。

 郵便局で並んで待っていたときのこと。前に立っていた母親が、子どもをおんぶしていた。子
どもは母親の背中で、アイスを食べていた。そのアイスで、その人の服を汚してしまった。そこ
でその人が、「アイスで服が汚れましたが……」と母親に注意すると、その母親はこう言ったと
いう。「子どものすることだから、しかたないでしょ!」と。投書したその人は、「何ともやりきれな
い気持ちになった」と書いていた。

 私にも似たような経験がある。

 新幹線の中で走り回っている子どもたちがいたので、注意すると、いっしょにいた母親はわざ
と私に聞こえるような大声で、こう言った。「うるさい、おじさんねエ」と。以後、私はともかくも、
一時間近く、ピリピリとした雰囲気のままだった。さらにレストランで、箸を口に入れたまま、走
っている子どもがいたので、「あぶないよ」と声をかけたことがある。どこかの子どもが、綿菓子
の棒が喉に刺さって死ぬという事件が起きる、少し前のことだった。が、その子どもの母親は、
私にこう言った。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと言わないでくれ」と。すごみのある
声だった。

 こうした母親は、自分の子どもが注意されると、自分の作品をけなされたかのように感ずるら
しい。芸術家が、自分の作品をけなされたような気持ち? つまり親と子の間に、カベがない。
子どもとの間に距離をおいて、子どもを客観的に見ることができない。私自身は母親になった
ことがないので、そういう心理はよくわからないが、そういうことらしい。

 こうした心理がよいとか悪いとか判断する前に、母親にはそういう心理があるという前提でつ
きあうこと。だから、母親の前で、子どもを注意したり、批判したりするときは、じゅうぶん注意
する。そのときはそうでなくても、『江戸の敵(カタキ)を、長崎で討つ』ということも、この世界で
はよくある。クワバラ、クワバラ。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(739)

【近ごろ・あれこれ】

●C社の新型、デジタルカメラ

 今度、C社から、新型のデジタルカメラが発売になった。ビデオカメラとしても、使えるそうだ。
録画時間は、約1時間。スゴイ!

 値段は、今のところ4万7000円前後。2、3か月もすると、3万円台になるはず。それまで
の、がまん。しかし今のカメラも、悪くない。気に入っている。さてさて、どうしようか。


●譲渡

 私がその(譲渡)を意識したのは、息子たちが、その年齢になったときのことだった。

 私は、実は、自動車の運転免許証をもっていない。一度、自動車学校に通って、仮免許まで
は、取ったことがある。が、それからは、留学、就職とつづいた。

 で、「いつか、そのうち……」と思いつつ、今日までになってしまった。

 いや、実は、その間にも、何度か、取ろうとしたことがある。しかし私の仕事では、そういう自
由がきかない。労働時間がしっかりと固定されている。

 が、そのうち、息子たちがその年齢になった。当時も、今も、この日本では、免許証を取るだ
けでも、結構、お金がかかる。

 「私が取るよりも、息子たちに取ってもらったほうがいい」と考えて、息子たちに、それを譲っ
た。3人の息子がいたので、つぎつぎと、それを譲った。

 私が(譲渡)を意識したのは、そのときが、はじめてだった。

 以後、歳を重ねるにつれて、その(譲渡)が多くなった。何かにつけて、「私がするよりは…
…」と考えて、息子たちに、譲った。外国へ旅行したいと思ったときも、「まあ、代わりに、息子
たちがが、ホームステイか何かで、行けばいい」とか、そんなふうに考えるようになった。

 車を買いかえるときも、そうだった。「自分たちは、安い車に乗ればいい」と、そんなふうに考
えるようになった。あまったお金は、そのまま息子たちの学資や生活費に、回した。

 そういう傾向が、50歳を過ぎたとたん、ますます強くなった。

 で、最近は、孫までできて、こう思うようになった。「私たちが住んでいる、この地球号という地
球にも定員があるとするなら、私たちが席を譲って、その孫の席をあけておかねば……」と。

 たとえば60歳の老人が、同じお金をかけて、外国旅行するなら、そのお金は、若い人たちに
譲ったほうがよい。最近では、そこまで考えるようになった。頭が半分ボケかけたような、老人
が、ルーブル博物館で、美術品を鑑賞して、それがどうだというのか? 何の役にたつというの
か? ……というのは、言いすぎだということは、よくわかっている。しかし率直に言えば、そう
いうことになる。

 私とワイフは、よくドライブにでかえる。しかし本当のところ、もう遠くへは行きたくない。近く
で、心の休まるところで、のんびりと、その場所を楽しむ。先日は、山の中の空き地に車を止め
て、そこで弁当を食べた。

 ただ、一つだけ、ワイフに約束していることがある。

 近く、私は、人生の最後のしめくくりのひとつとして、ワイフを、オーストラリアのメルボルンに
連れていく。そしてインターナショナルハウスで、数日をすごす。あのハウスが、私のすべての
原点になっている。

 それをどうしても、ワイフに見せてやりたい。ワイフも、それを楽しみにしている。

 そういうことはあるが、「イギリスへ行こう」とか、「フランスへ行こう」とかいう話は、あまりしな
い。そういう時間とお金があれば、息子たちに譲りたい。そう思っている。

 いや、もう一つ、計画がある。三男が今、九州の宮崎市に住んでいるので、一度、会いに行
こうと考えている。数日前に、ワイフにそれを話すと、「行きたいわ」と言っていた。これで意見、
一致。

 ……言いかえると、若い人たちは、よい刺激を求めて、どんどんと外国へ出かけていくべき
だ。私の経験では、27歳くらいまでが、重要ではないかと思う。それ以後は、感受性が、急速
に衰えてくる。と、同時に、ものの考え方が、かたまり始め、保守的になる。

 そのあとの人生は、いわば、それまでの余韻の中で生きるようなもの。『鉄は熱いうちに打
て』とは、よく言ったもの。私も、そう思う。

 ……ということで、「譲渡」の意味がわかってもらえたと思う。ある程度、年齢がきたら、譲る
べきものは、若い人たちに譲る。ただし一言。譲ったところで、私たちが失うものは、何もない。
「譲渡」イコール、「喪失」ということではない。

 私たちは、その分、今度は、人生のもつ意味を、より深く知ればよい。要するに、エネルギー
を向けるべき方向が、少しだけ変わってくるということ。


●ボケ兄・行状記・その後

 私が3か月、兄を預かった。つぎに姉が、3か月、兄を預かった。

 ともに、当初は、同情とあわれみで始めた介護だが、ともに、3か月で、ギブアップ。同じボケ
でも、兄のボケは、ほかの人のボケとは、かなり性質がちがうようだ。

 ぜいたくで、わがまま。自分勝手で、自己中心的。

 少しでもカタイ食べ物を食事に出すと、突然、「カタイ!」と言って、手でつかんで、それを投げ
捨ててしまう。ふつうの言い方ではない。突発的に、キレた状態になる。

 ステレオにしても、ラジカセにしても、思うように操作できないと、それを壁に投げつけて、こわ
してしまう。こうして私たちの家では、3台のステレオセットと、ラジカセがこわされてしまった。プ
ラス、もろもろの小物。

 姉の家でも、同じような行動が見られたという。

 そのくせ、いっさい、家事を手伝わない。お湯の入ったポットから、ペットボトルに、お湯を注
がせようとしただけでも、パニック状態になってしまう。そのときは、そのポットを、床にわざと落
として、こわしてしまった。

 あとは、見えすいた、言い訳。「手がすべった……」と。

 で、やはり兄を、施設に入れることにした。毎月、x万円弱の費用がかかるが、費用は私が負
担することにした。今、その手続きを、姉がしてくれている。

 そういう兄を観察してみると、これはあくまでも、私の推測だが、兄は、前頭葉のどこかに損
傷を受けているのではないかと思う。自己管理能力が、ほとんど、ない。してよいことと、悪いこ
との区別が、まったくつかない。あれこれ説明したときは、「OK!」とか何とか、調子のよい返
事をするが、しかしそれはその瞬間だけ。

私「ぼくのところでも、廊下にウンチが落ちていたこともあるけどね、ほら、犬を飼っているか
ら、犬のウンチだと思って、始末したよ。それほど、気にならなかった」
姉「犬のほうが、まだ気が楽よ。人間だと、犬のようにはいかないし」
私「怒りたくなるときもあったけど、怒ってもしかたないしね」
姉「四六時中、いっしょにいるわけにはいかないし……。そこが一番、つらいところよね」と。

 施設へ入れるという方向性が決まってからは、姉の声が見ちがえるほど、明るくなった。兄の
悪口を言いあいながら、たがいにゲラゲラと笑った。

 その兄のことでは、近所や親戚の人には、大きな迷惑をかけた。心配もかけた。それについ
ては、深く反省している。しかし私も、ここ1、2年で、こうまで兄の症状が急速に悪化するとは、
思ってもいなかった。姉も、そう言っていた。

 ボケるということは、おそろしいことだ。ホント!

 不愉快な運命は、笑って、やり過ごす。それが人生を楽しく生きるコツのように思う。


●6か国協議

 韓国のC統一相の、大判振る舞いには、驚いた。C統一相は、それをエサにK国を、6か国
協議に引き出そうとした。

 しかし手順が、逆だった。

 アメリカや日本の意向を無視した。完全に無視した。しかも、C統一相は、「核開発放棄」を、
勝手に、「最終目標」と位置づけてしまった。これは「核開発放棄が先決」と主張する、アメリカ
や日本の意向とは、まっこうから相反するものである。

 そのせいか、アメリカは、この1週間のうちに、K国の核開発に関連した企業の資産を、矢つ
ぎ早に凍結。さらにアメリカの下院は、拉致行為を糾弾する決議案まで可決してしまった(6・3
0日)。

 「拉致問題は解決した」「6か国協議では、日本の拉致問題は協議しない」と主張してきた、K
国が、その決議案をどのように感じ取ったか。それについては、改めてここに書くまでもない。

 表面的には静かでも、これで米韓関係は、完全に、崩壊したと見てよい。しかしその責任は、
すべて韓国側にある。もともと反米を旗印に政権についたN大統領。あとは、ことごとく、アメリ
カの意向を無視。

 今回も、「6か国協議の可能性が出てきた」というだけで、韓国は、肥料の追加支援を決定し
ている。先の20万トンに合わせて、さらに15万トン。計35万トン。

 一方、日本に対しては、反日運動や反日教育を増幅。今ごろになって、N大統領は、「もっ
と、戦後補償をしろ」「今日洗練後者や、従軍慰安婦の責任をとれ」とまで言い出した。

 で、肝心のK国は、(1)「圧制国家という発言をとりさげろ。(でなければ、協議には参加しな
い)」などと、ささいな言葉の問題にこだわる一方、(2)今まで凍結していた、原子炉の建設工
事を再開してしまった(6・30、日経新聞)。

 この原子炉は、1994年に、米朝枠組み合意の中で、K国が、建設を凍結していたものであ
る。つまり米朝枠組み合意を、K国は、行動でもって、破棄して見せた。

 つまり、K国は、さらに、強引に、対米対決姿勢を鮮明にしたといえる。

 これで7月中の、6か国協議は、かなりむずかしくなった。……というより、もう無理。あとは中
国の出方一つ。

 中国がどのような圧力を、K国に加えるのか。加えないのか。6か国協議の行方(ゆくえ)は、
それで決まる。

++++++++++++++++++

 このところ、6か国協議を包む、国際情勢が、ますます混沌(こんとん)としてきている。ロシア
は、イランの核開発を支持。そのイランの新しい大統領は、元テロリスト。アメリカ大使館を襲
撃した張本人(?)。

 中国と、ロシアは、台湾と、チェチェンで、バーター取り引き。反米色をますます濃くしつつあ
る。

 韓国は、親北政策を推し進め、将来的には、中国の経済圏に入ることをもくろんでいる。

 こういう情勢の中で、どうやって6か国協議を開くのだろう。開いたところで、どうやって、話し
あいを進めていくのだろう。

 日本としは、アメリカと歩調を合わせ、K国の各開発問題は、国連安保理に付託するのが、
一番、よい。国際社会全体で、K国に圧力を加える。韓国はいやがるだろうが、もう、韓国に、
気がねする必要は、ない。日本は、日本の国益を、最優先に考えればよい。

 日本も、そろそろ腹を決める時期に来ているのではないだろうか。
(この原稿は、7月2日に書いたものです。発表時には、国際情勢は、大きく変わっている可能
性があります。)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●浜松市北部・天竜(旧天竜市)に行く

 朝、ワイフが、「どこかへ行こう」と言った。「いいよ」と答えて、そのまま、市内へ。教室の駐車
場へ車を置いて、そのまま、浜松駅へ。

 今度、浜松市が、周辺の市町村と合併して、巨大都市になった。人口が81万人になった。面
積規模では、全国第2位。その祭りのイベントが、駅前で行われていた。

 私たちは、遠鉄電車に乗った。

 電車の中で流れた、コマーシャルがおもしろかった。

 「○○病院 …… 人間ドック、がん科、歯科……」と。

 私には、それが、「○○病院 …… 人間ドック、がんか? 死か?」と聞こえた。それをワイ
フに話すと、ワイアは、大笑い。幸いなことに、電車は、下り電車。乗客は、ほとんど、いなかっ
た。

 途中、「助信(すけのぶ)という駅がある。その駅名を読んで、びっくり。

 ひらがなで「すけのぶ」と、柱に書いてあるのだが、ちょうど、「ぶ」のところに電車の窓ワクが
かかり、それが「心」という字に読めた。

「ねえ、ここ、『すけの心』という駅だよと話してやると、またまた、ワイフは、爆笑。たわいもな
い、会話ばかりがつづく。

こうして遠鉄の西鹿島駅に着くが、それがから、大ドジ。そこから私たちは、バスに乗り換え、
浜名湖鉄道の二俣(ふたまた)駅に向う。

 しかしそのバスの中で、私は居眠り。ワイフは、ああいう性格だから、その駅を通りすぎて、ど
んどんと山奥へ。そして終点。

 バスの運転手に、「二俣駅はどう行けばいいですか」と聞くと、「とっくの昔に通りすぎました」
と。

 しかたないので、ゲラゲラと笑いながら、またバスに乗って、天竜市にもどる。その天竜市か
ら、歩いて、二俣駅へ。1キロくらい、歩いた。

 トロッコ列車に乗りたかったのだが、時、すでに遅し。遅れること、約50分。しかたないので、
つぎの電車を待つ。

 駅の構内で弁当を食べたり、写真をとったり。何しろ、1時間に1本くらいしか、電車がない。

 で、やっときた電車に乗って、愛知県の新所原(しんじょはら)市に向う。が、その途中で、び
っくり仰天。無知というのは、恐ろしい。

 ナ、何と、その浜名湖鉄道は、遠鉄西鹿島駅の西側で並んで停止したのだ!

 わかりやすく言うと、私たちは、とんでもない大回りをしたことになる。もう少しわかりやすく書
くとこうなる。

 私たちは、つぎのコースで、トロッコ列車に乗ろうとした。

 (浜松市)++++電車+++++(遠鉄・西鹿島)====バス===(浜名湖鉄道・二
俣駅++++++++トロッコ列車+++++++(新所原駅)*****(浜松市)

 しかしこんな大回りなどしなくても、(遠鉄・西鹿島)で、そのまま(浜名湖鉄道)に乗りかえれ
ばよかったのだ! (遠鉄・西鹿島駅)に隣接して、(浜名湖鉄道・西鹿島駅)があったのだ! 
このあたりに住んで、36年になるのに、そんなことも知らなかった!

 バカだった。

 で、私は、それから約1時間。電車の中でウトウト。さらに新所原から浜松市に向う電車の中
でも、ウトウト。結局、ずっと、ウトウトと居眠りをしていたことになる。

 「あなたは、眠っていただけよ」と、ワイフは、どこか不満そうだった。

 ……ということで、今日の小旅行は、何とも、サエない旅行だった。
(050702)


●Matthew (11−28)

 聖書、Matthew(マタイ)の11−28には、こうある。

 Come to me,all you who are weary and burdened, and I will give you
 a rsst.

 Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and hu
mble in heart, and you will find rest for your souls. For my yoke is e
asy and my burden is light.

(Ryrie版・新約聖書)

あなたがた、すべて、疲れしもの、重荷を背負うたもの、私のところに来なさい。
そうすれば、私があなたに、やすらぎを与えるであろう。

私のくびき(yoke)をとり、私から学びなさい。
なぜなら、私はやさしく、心は質素だからです。
そうすればあなたは、あなたの魂の中に、やすらぎを見つけるでしょう。
なぜなら、私のくびきは、簡単なもので、私の重荷は、軽いからです。

(yoke……馬などの首と首をつなぐ、道具。くびき。)

+++++++++++++++++

 今、不幸のクサリでがんじがらめになっている人は、なおさらのこと。しかしそうでない人で
も、そのすぐそこでは、そのクサリが、腕を広げて、あなたが落ちてくるのを待っている。

 人生というより、生きることが、(楽)か、(苦)かと聞かれれば、私は、ためらわず、(苦)と答
える。太古の昔のことはわからないが、現代社会は、その(苦)に満ち満ちている。(楽)などと
いうのは、雨雲の間にかいま見る、太陽の光線のようなもの。なくてあたりまえ。

 私たちは、その(苦)がそこにあることを知りつつ、あるいはそれに包まれながら、わずかな
夢や希望に自分を託し、その日、その日を、懸命に生きている。

 そんな私たちに、だれでもよい。もし自信ありげに、私にこう言ってくれる人がいたら、私は、
涙を浮かべ、その人に、感謝するだろう。

「あなたがた、すべて、疲れしもの、重荷を背負うたもの、私のところに来なさい。そうすれば、
私があなたに、やすらぎを与えるであろう」と。

 イエス・キリストが残したという、有名な言葉だが、最後の最後で、私たちを救うものは、信仰
かもしれない。私たちは、つかの間のやすらぎを求めて、その日を生きる。5分でもよい。10
分でもよい。もし生活の中に、そういう時間を見いだすことができるとするなら、私たちは、それ
に感謝しなければならない。

 求めるものをすべて捨て、今、あるものの中に、その価値を認める。それができる人を賢者
といい、それができず、あくせくする人を、愚者という。

 今日、ワイフのひざに頭をすえながら、ふと、Matthewの中の一節を思い出した。それを改
めて、聖書を調べて、ここに書いてみた。イエス・キリストは、「私のところに来なさい」と説く。

 もし私たち1人ひとりの中に、イエス・キリストが説くところの神性が宿っているとするなら、イ
エス・キリストが言う、「私のところ」というのは、「私の魂」ということになる。

 私たちが求めるやすらぎは、そんな遠くにあるのではない。私たちのすぐそばにあって、私た
ち自身の力によって、見つけてもらうのを、静かに、そこで待っている。それを自ら見つけた人
を、「幸福な人」というのではないだろうか。
(050702)

【補記】

 こうした私自身の中に潜む(依存性)の正体は、いったい、何ものなのか? 私の心の中で
は、いつも、「ひとりで生きたい」という願望と、「誰かに頼りたい」という依存性が、交互に、交
錯している。

 それは思春期の青年の心理に、よく似ている。「おとなになりたい」という願望と、「おとなにな
ることへの不安と恐怖」。それがやはり交互に、交錯している。

 今、私の心の中では、(本当にしたいこと)と、(現実にしていること)が、不一致を起こしてい
るようだ。何をしても、(している)という実感がともなわない。そこに、(自分のしたいこと)があ
るのは、わかるのだが、それが何だか、よくわからない。

 こういうときは、何か、気分転換をはかるのがよい。こういう世界で悶々としていると、そのま
ま時間をダラダラとムダにすることになる。それに気も滅入ってくる。気をつけよう。

 たしかに私は疲れている。が、イエス・キリストには悪いが、もう少し、私はひとりでがんばっ
てみる。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●父親の影響vs母親の影響

 当然のことながら、現在の(あなた)は、あなたの親の影響を、モロに受けている。あなた自
身が、親の産物といってもよい。

 最近聞いた話で興味深いと思ったのは、あのアザラシは、親に教えられてはじめて、泳ぎ方
を覚えるということ。たとえば人工飼育されたようなアザラシは、水の中にさえ、入らないそう
だ。アザラシだから、放っておいても、水の中にもぐり、魚をとるようになると考えるのは、どう
やらまちがいということになる。

 「なるほどな」と思ってみたり、「そういうものだろうな」と思ってみたりする。

 そこで(あなた)を知る、もっとも手っ取り早い方法は、まず、あなたの親が、どうであったかを
知ること。あなた自身の思い出をたどりながら、あなたの親がどのようであったか。さらには、
そのとき、あなたは、あなたの親にどのような印象をもっていたか。それを知る。

 こうしてあなたの親を知ることによって、(あなた)を知ることができる。が、その中で、とくに重
要なのが、あなたと、あなたの親との交流度(関係)である。

(交流度)

(1)父親との交流度

 父親がやさしかったとか、厳格であったとか、そういうことは関係ない。あなたは日々の生活
の中で、どの程度、親密に、父親と接していただろうか。その親密度が高かければ、高いほ
ど、あなたは、当然のことながら、あなたの父親の影響を、大きく受けていることになる。

(2)母親との交流度

 同じように、母親がやさしかったとか、厳格であったとか、そういうことは関係ない。あなたは
日々の生活の中で、どの程度、親密に、母親と接していただろうか。その親密度が高かけれ
ば、高いほど、あなたは、当然のことながら、あなたの母親の影響を、大きく受けていることに
なる。

(3)父親と母親(夫婦)の交流度

 三つ目に、あなたの父親と、母親の交流度は、どうであったか。つまり夫婦としての交流度
を、さぐってみる。あなたの両親は、たがいに、よく相談しあい、話しあい、協力しあっていただ
ろうか。とくに(あなた)という子どもを育てるときに、どうであっただろうか。

 ただし、よく誤解されるが、父子関係と、母子関係は、決して、平等ではない。同じでもない。
子どもは、母親の胎内から生まれる。そして乳をもらい、命をもらう。一方、父子関係は、あくま
でも、(精液一しずく)の関係でしかない。

 だからといって、父親の子どもに対する愛情を否定しているのではない。妻に対する夫の愛
情が、そのまま生まれてきた子どもに転移するということは、よくある。またそれゆえに、ときに
は、母親以上に、子どもへの愛情が濃密になることも、よくある。

 これら3つの交流度を、10点満点で評価してみる。程度に応じて、0〜10点の範囲で、自己
採点してみてほしい。

(1)あなたと父親との交流度

ほとんど毎日、父親との会話もあり、親密であった……10点
    ほとんど毎日、父親との会話もなく、疎遠であった…… 0点
 
(2)あなたと母親との交流度

ほとんど毎日、母親との会話もあり、親密であった……10点
    ほとんど毎日、母親との会話もなく、疎遠であった…… 0点

(3)両親のたがいの交流度(あなたを育てる過程において……)

ほとんど毎日、両親の会話があり、たがいに親密であった……10点
    ほとんど毎日、両親の会話はなく、たがいに疎遠であった…… 0点

 もちろん年齢的な問題もある。あなたが幼児期のとき、あなたが少年少女期のとき、さらに思
春期のとき、それぞれの点数は、ちがう。幼児期は、仲がよかったが、小学生になるころから
急に、親との会話が少なくなったというような例は、珍しくない。

 しかし重要なのは、今の(あなた)ができあがるまでの、幼児期から、少年少女期である。

 この時期、たとえば(1)〜(3)の交流度が、ほぼ平均化していれば、あなたは、今、落ちつい
た状態で、子育てができているはず。あなたの子どもとの関係も、良好なはず。しかし(1)〜
(3)のどこかに、大きなかたよりがあれば、あなたは、今、どこかぎこちない子育てをしている
はず。いろいろな例で考えてみよう。

(1)父親不在家庭

 父親が不在化すると、子どもは、総じて、マザコン化する。母子関係を調整するのが父親の
役目。その調整役がいないということになる。濃密な母子関係だけが残り、その弊害が、さまざ
まな分野に現れる。

 母親への依存性が強いあまり、自立した行動ができない、など。またよく誤解されるが、マザ
コンというと、男性ばかりを想像しやすいが、女性でも、マザコンの人はいくらでもいる。むしろ
女性のマザコンのほうが、男性のマザコンより、症状が深刻になりやすい。母親を絶対化(偶
像化)し、母親に尽くすのが、娘の義務というような考え方をする。

(2)母親不在家庭

 母子関係は、子どもの心の基盤をつくる。基本的信頼関係も、そこから生まれる。この信頼
関係が基本となって、子どもは、それを友人との関係、先生との関係、異性との関係へと発展
させることができる。

 が、それがないと、子どもは、いわゆる(心の開けない子ども)になる。自分をさらけ出すこと
ができず、いい子ぶったり、反対に、社会と同化できなくなったりする。

(3)父母対立家庭

 父母の対立を見て育った子どもは、心のよりどころを失い、つねに心の状態は、不安定にな
る。そしてそれが心のキズとなったようなばあいには、そのキズは、生涯にわたってつづく。「い
つ、どこで、何をしていても、不安」と。こうした心の不安定状態を、「基底不安」という。

 さらに父母の対立は、子どもをはさんで、いわゆる(三角関係)をつくりやすい。こうなると、子
どもは、糸の切れた凧のような状態になり、家庭教育は、崩壊する。親の軽視、おとなの世界
の軽視、反抗、反発、さらには、非行という形で、症状が外に現れやすくなる。

 おおまかに言えば、こうした図式にそって、子どもはさまざまな問題をかかえることになる。言
いかえると、今、(あなた)が、何らかの心の問題をかかえている可能性は、たいへん高い。

 しかしここで重要なことは、ほとんどの人が、こうした問題をかかえているということ。問題の
ない人はいない。したがって、こうした問題があることが問題ではなく、こうした問題があること
に気づかないまま、その問題に振り回されることが問題。

 もしあなたが今、いつも同じようなパターンで、同じような失敗を繰りかえしているようであるな
なら、一度、あなたの心の中をさぐってみるとよい。

 こうした問題は、それに気づくだけでよい。それに気づけば、あとは、時間が解決してくれる。
一度、あなた自身の幼児期、少年少女期の家庭環境はどうであったか、それを静かに思い出
してみるとよい。そこに、あなたは、おぼろげながら、あなた自身の現在の輪郭(りんかく)を、
見いだすはずである。

 たしかにあなたは、(あなた)だが、その(あなた)の大部分は、あなた自身によってつくったも
のというより、環境の中でつくられたものであるということ。とくにあなたの両親からの影響は大
きい。それを知ることは、あなたが(あなた)を知る第一歩にもなる。
(はやし浩司 父親の影響 母親の影響 母子関係 父子関係 心への影響)

【付記】

 親子であるがゆえの関係から生まれる、いわゆる(家族自我群=束縛力)には、ものすごい
ものがある。そのパワーは、いわば本能に近い状態で、子どもの脳に、強烈に、刻まれる。

 そういう意味で、親子関係は、ほかの人間関係とはまったく異質の、特殊な関係と考えてよ
い。

 で、その親子関係。たがいに良好な状態であれば、すばらしい人間関係を築く基礎となる。
が、その親子関係に、ひとたびヒビが入ると、とたんに、今度は、猛烈な苦悩となって、その人
を襲う。

 それを心理学の世界でも、「幻惑」と呼ぶ。親子であるという幻惑に支配され、その人は、こ
れまたほかの人間関係では経験することのない苦しみを、味わう。

 たとえばA氏(40歳)がいる。地方出身だが、その地方では、昔からの名家。その名家の二
男である。

 そのA氏の兄が、3年ほど前、近くの神社に放火して、逮捕、投獄された。つい最近、刑も確
定した。

 本来なら、この事件は、A氏には関係のない事件。また遠くはなれて住んでいるA氏と、その
事件を結びつける人は、だれもいない。しかしA氏は、その事件以来、郷里の両親とは会って
いない。

 A氏は、こう言う。「兄を、放火事件まで追いこんだのは、実は、父なんです。人前では善人ぶ
っていますが、家の中では、兄を虐待していました。『お前はバカだ』とか、『お前のおかげで、
わしのA家は落ちぶれてしまった』とか、など。

 親戚もたくさん住んでいますが、その事件以来、私の家をのけものにしています。が、それだ
けではありません。父は、『恥をかかされた』と、兄のところへ、一度も、面会に行っていませ
ん。そして息子の私や、結婚して嫁いでいった妹のところへ電話してきて、金を出すように迫っ
ています。

 「ご先祖様を守るのは、お前たちの義務だ」とか、何とか言うのです。

 こうして私の実家は、めちゃめちゃになってしまいました。私は兄をうらんでいません。父をう
らんでいます。以来、毎日、一日とて、心の晴れる日がありません」と。
(はやし浩司 良好な親子関係 家族自我群 幻惑)

【参考】

 交流分析理論(エゴグラム)というのがある。J・M・デュセイという人が考えた理論だが、それ
が最近、あちこちの心療内科をはじめ、職業適性検査などでも、利用されるようになってきてい
る。

 日本でよく知られているのは、東大式エゴグラム(TEG)である。

 興味のある方は、(↓)をクリックして、自己分析をしてみるとよい。東大式エゴグラムとは、
ややちがうが、内容は、ほぼ、同じ。無料である。

http://www.egogram-f.jp/seikaku/index.htm

 私も自己採点してみたが、タイプは、xxxxxx。今の仕事は自分に向いていないのではないか
と、少し不安になった。気の小さい人は、やめたほうがよいかも……。
(はやし浩司 自己分析理論 エゴグラム  デュセイ 交流分析理論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(740)

●交流分析理論

 とくに対人関係において、どのような心理状態を形成するか。それを分析する理論のことを、
「交流分析理論」という。「エゴグラム」を訳して、「交流分析理論」という。

 この交流分析理論では、まずその人のパーソナリティを、つぎの5つに分ける(繁田千恵氏
「臨床心理学」より)。

(1)支配的で厳格な「親」
(2)養育的で、子どもを包み育てる保護的な「親」
(3)客観的な立場から情報を収集し、論理的、知性的に状況を判断する「成人」
(4)わがままで自由奔放な、快楽追求型の「自由な子ども」
(5)おとなの言うことをよく聞く、従順な「適応した子ども」

 そしてこれら5つの要素を、どの程度、もっているかで、その人の、対人的なパーソナリティを
客観的に判断する。

 この理論は、「エゴグラム」として、パーソナリティ診断法として、現在、さまざまな分野におい
て、応用されている。

 そこで私も、「親像」を、この方法によって、分析することを考えてみた。

(1)あなたは、子どもに対して、権威主義的かつ支配的な親であるか。
(2)あなたは、子どもに対して、やさしく、保護的な親であるか。
(3)あなたはいつも子どもの成長を、客観的に、かつ冷静に見守る親であるか。
(4)あなたの人格は未成熟で、おとなになりきれない、どこか幼稚ぽい親であるか。
(5)あなたは子育てに消極的で、いつも他人随行型かつ無難を重んじる親であるか。

 日本では、育児姿勢をみながら、過保護、過干渉、でき愛、過関心などという言葉を使って、
その親を判断することが多い。

 ここに例としてあげた5つの「親像」も、そうした親の見方の一つと考えてよい。そしてこうした
育児姿勢は、当然のことながら、子どもの成育に、さまざまな影響を与える。

 要するに、「ほどよい親」がもっとも、ふさわしいということになるが、教育ママよりは、放任マ
マ。権威主義ママよりは、友だちママ。頼りがいのあるママよりは、どこかあぶなげなママのほ
うが、子どもを伸ばす。

 親も、子どもがある年齢にきたら、「こんな親などアテにならないぞ」と思わせながら、子ども
の自立をうながす。いつまでも親風を吹かせ、「親に向かって、何てことを言う!」と叱るような
親は、親として、決して好ましい親とはいえない。

 ここに書いた(1)〜(5)を参考に、あなた自身は、子どもに対してどのような親であるかを、
一度判断してみると、おもしろいのではないかと思う。
(はやし浩司 エゴグラム 交流分析理論 親像 親の分析 ほどよい親論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(741)

++++++++++++++++++++++++

今までに無数の子どもたちが私の前を通り過ぎて
いきました。

そういう子どものことを思い出しながら、あれこれ
書いてみます。

ただしこれらの子どもは、実在した子どもではありま
せん。いろいろな子どもの話をまぜたり、聞いたりした
話をもとに、書いてみました。

どうか、誤解のないようにお願いします。

++++++++++++++++++++++++

●美徳の陰に欠点あり

 『美徳の陰に欠点あり』。これはイギリスの格言。美徳とまでは言わなくても、こうした例は、
子どもの世界ではよくある。たとえば「字のきれいな子どもは、書くのが遅い」など。こんなこと
があった。

 E君(小三)という子どもがいた。習字の教室で書くようなきれいな字で、いつも書いていた。
それはそれでよいことかもしれないが、その速度が遅い。みなが書き終わって、一服している
ようなときでも、まだ半分も書いていない。ノロノロといったふうではないが、遅い。そこで何度も
はやく書くように言うのだが、それでも、それが精一杯。

 が、とうとう私のほうが、先に限界にきてしまった。そこでこう言った。「ていねいに書かねばな
らないときもある。そうでないときもある。ケースバイケースで、考えて書きなさい」と。とたん、E
君ははやく書くようになった。が、その字を見て、私は驚いた。まったく別人の字というか、かろ
うじて読めるという程度の悪筆だった。しかしそれがE君の「地」だった。

 ほかにも「よくしゃべる子どもは、内容が浅い」など。ペラペラとよくしゃべる子どもは、一見、
利発に見えるが、その実、しゃべっている内容が浅い。脳に飛来する情報を、そのつど加工し
て適当にしゃべっているだけといったふうになる。子どもの世界には、『軽いひとりごとは、抑え
ろ』という格言もある。子どもがペラペラと意味のないことを言いつづけたら、「口を閉じなさい」
といって、それをたしなめる。

 言葉というのは、それを積み重ねると、論理にもなるが、反対に軽い言葉は、その子ども
(人)の思考を停止させる。まさに両刃の剣。たとえば、「ほら、花」「きれい」「あそこにも花」「こ
こにも花」「これもきれい」式の言葉は、その言葉の範囲に、子ども(人)の思考を限定してしま
う。人間の思考は、もっと複雑で深い。それにはやい。が、こうした軽い言葉を口にすることで、
その言葉にとらわれ、それ以上、子ども(人)はものを考えなくなってしまう。

 その状態が進むと、いわゆる多弁性が出てくる。「多弁児」という言葉は、私が考えたが、こ
のタイプの子どもは多い。概して女の子(女性)に多い。

 これについて、こんな興味ある研究結果が報告されている。ついでにここに書いておく。

 言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)は左脳にあるが、女性のばあい、機能的MRIを使って
脳を調べると、右脳、つまり右半球のだいたい同じような場所(対照的な位置)にも、同じような
反応が現れるという。また言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)の神経細胞の密度も、女性の
ほうが高いということもわかっている。このことから、男性よりも女性のほうが、言葉を理解する
のに、有利な立場にあるとされる。つまり女性のほうが、相手の言葉をよく理解できると同時
に、おしゃべりということ(「脳のしくみ」新井康允氏)。ナルホド!

 
●『人、その子の悪、知ることなし』

出典はわからないが、昔から、『人、その子の悪、知ることなし』という。つまり、親バカは、人の
常ということ。

私の印象に残っている事件に、こんなのがあった。それを話す前に、子どもの虚言(いわゆる
ウソ)と、空想的虚言(妄想)は分けて考える。空想的虚言というのは。言うなれば病的なウソ
で、子ども自身がウソをつきながら、自分でウソをついているという自覚がない。Tさん(小三)
という女の子がそうだった。

 もっともそういう症状があるからといって、すぐ親に報告するということはしない。へたな言い
方をすると、それこそ大騒動になってしまう。また教育の世界では、「診断」はタブー。何か具体
的に問題が起き、親のほうから相談があったとき、それとなく話すという方法をとる。

 が、そのTさんが、こんな事件を起こした。ある日、私のところへやってきて、「バスの中で、教
材用の費用(本代)を落とした」と言うのだ。そこでそのときの様子を聞くと、ことこまかに説明し
始めた。「バスが急にとまった。それで体が前にフラついた。そのときカバンが半分、さかさま
になって、それで落とした」と。落とした様子を覚えているというのも、おかしい。そこで「どうして
拾わなかったの」と聞くと、「混んでいた」「前に大きなおばさんがいて、取れなかった」と。

 しかしその費用が入った袋の中にあった、アンケート用紙は、カバンの中に残っていたとい
う。これもおかしな話だ。中身のお金と封筒だけを落として、その封筒の中のアンケート用紙だ
け残った? それ以前からTさんには、理解しがたいウソが多かったので、私は思いきって事
情を、父親に説明することにした。が、父親は私の話を半分も聞かないうちに、怒りだしてしま
い、こう怒鳴った。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。父親は、警察署で、刑事をしていた。

 そこで私は謝罪するため、翌日の午後、Tさんの家に向かった。Tさんの祖母が玄関で私に
応対した。私は疑って、失礼なことを言ったことをわびた。が、そのときこのこと。私は玄関の
右奥の壁のところに、Tさんが立っているのに気づいた。私たちの会話をずっと聞いていたの
だ。私はTさんの顔を見て、ぞっとした。Tさんが、視線をそらしたまま、ニンマリと、笑ってい
た。

 そのあとしばらくして、Tさんの妹(小一)から、Tさんが、高価な人形を買って、隠しもっている
話を聞いた。値段を聞くと、そのときの費用と、一致した。が、私はそれ以上、何も言えなかっ
た。

 子どもを信ずることは、家庭教育の要(かなめ)だが、親バカになってはいけない。とくに子ど
もを指導する園や学校の先生と、子どもの話をするときは、わが子でも他人と思うこと。そうい
う姿勢が、先生の口を開く。先生にしても、一番話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリと神経質になる親。つぎに「うちではふつうです」とか、「うちでは問題ありませ
ん」と反論してくる親。そういう親に出会うと、「どうぞ、ご勝手に」という心境になる。


●『火の中に、鉄を入れすぎるな』 

 『火の中に鉄を入れすぎるな』は、イギリスの教育格言。詰め込みすぎても、かえって逆効果
ということ。子どものやる気(火)は、消えてしまう。が、親にはそれがわからない。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と考える。また多少できるようになると、「もっと」とか言
い出す。そういう親の心理が理解できないわけではないが、子どもはロボットではない。あなた
と同じ人間だ。そういう視点をふみはずすと、子どもの姿を見失う。

 やはり印象に残っている子どもに、S君(小二)がいる。S君は、能力的にはそれほど恵まれ
ていなかったが、たいへん生まじめな子どもで、学校の宿題でも何でも、言われたことをきちん
とやりこなす子どもだった。

 しかし実際のところ、このタイプの子どもほど、何か心の問題をもっていることが多い。たいて
いの親は、そういう状態をみると、「まじめないい子」と誤解するが、誤解は誤解。S君は毎日
学校から帰ってくると、一時間は書き取りの勉強をした。ときには、それが二時間にもなること
があったという。しかし、動きざかりの子どもが、二時間も机の前にすわって、黙々と書き取り
の練習をすることのほうが、おかしい。そこで私は、何度も、「そういう勉強はやめたほうがよ
い」と忠告した。

 しかし家族、とくに祖母はその言葉に耳を貸さなかった。まったく耳に入らないというよりは、
むしろ、そういう子ども(孫)を喜んでいた。「先生の指導のおかげで、ああいうう子どもになりま
した」と。「きのうは三時間も勉強してくれました」と言ったこともある。(三時間!)

 やがて小学三年になるころには、漢字練習だけではなく、算数のワークブックも、それなりの
量をこなすようになった。そうしたワークブックは、励ます意味もこめて、私が一応目を通すこと
にしている。が、そのワークブックを見て、私はさらに驚いた。たとえば計算問題なども、まちが
えたところには、別の紙がはりつけてあり、きちんとやり直してあったのだ。

 こうした家庭学習では、ほぼあっていれば、大きな丸をつけてあげるのがよい。いいかげんと
言えば、いいかげんだが、子どもはその「いいかげんな部分」で、息を抜く。羽をのばす。とくに
計算練習などは、一〇問やって、七〜八問できればよしとする。あとは大きな丸を描いて、ほ
めてしあげる。が、その祖母にはそれがわからなかった……らしい。私がそういった丸をつけ
ると、そのつどやってきて、「こういういいかげんな丸をつけてもらっては困ります」と。

 こうなるとS君が、プツンするのは時間の問題だった。S君はやがて慢性的なものもらいにな
り、はげしいチック(筋肉の不規則なけいれん)が起こすようになった。眼科でみてもらうと、塾
が原因と言われた。そこで祖母は、それまで行っていた、おけいこ塾すべて(スイミング、英会
話、算数教室)を、やめた。

 こういうケースでは、一挙にすべてやめるのは、たいへんまずい。やめるとしても、少しずつ
やめるのがよい。あとあとの立ち直りができなくなってしまう。が、S君の祖母は、そういう私の
アドバイスも無視した。私としては、もうなずべきことは何もない。

 で、S君はその直後から、はげしい無気力症状ができてきた。学校から帰ってきても、ただぼ
んやりと空を見ているだけ。反応そのものまでなくなってしまった。好きだったゲームを与えて
も、上の空。もちろん漢字の学習も、計算練習もしなくなってしまった。

 S君はいわゆる、バーントアウト(燃え尽き)してしまったわけだが、そのS君がなぜ、こうまで
私の印象に残っているかといえば、それには理由がある。そういう症状が出てからしばらくした
あと、父親と母親が私のところに相談にやってきた。そしてこう言った。

 「先生、わかっていたら、どうして前もって、それを言ってくれなかったのですか!」と。私が
「こうなることは予想していました」と話したときのことだ。何ともやりきれない思いだけが、あと
に残った。「どうしてこの私が叱られなければならないのか」という思いだけが、強く残った。と、
同時に、S君のことは忘れられない子どもになった。

 S君がそういう子どもになったのは、要するに『火の中に鉄を入れすぎた』からにほかならな
い。しかし親は、「まだだいじょうぶ」「まだいける」と、どんどんと鉄を入れる。そして火が消えて
はじめて、それが失敗だと気づく。これも家庭教育のもつ、大きな落とし穴ということになる。
(02−10−18)


●子どもの会話

 ある日幼稚園の庭のすみに座っていると、横の子どもたち(年長児)が、こんな会話を始め
た。

A男「おまえ、赤ん坊はどこから生まれてくるか、知っているか?」
B男「知らないよ」
A男「だからお前は、バカだ。赤ん坊はな、ママのお尻の穴から生まれてくるんだぞ」
B男「ふうん」
A男「いいか、うんちがかたまって赤ん坊になるんだぞ」
B男「ふうん、じゃあさあ、どうして男からは赤ん坊が生まれないんだよ?」
A男「バカだなあ。男はなあ、うんちがかたまって、金玉になるんだぞ。金玉はうんちがかたまっ
たもんなんだぞ」と。

 また別の日。母親とこんな会話をした子ども(年長児)がいた。

C女「お母さん、お肉を食べると、どうなるの?」
母親「やっぱり、お肉になるんじゃ、ないかしら」
C女「野菜は、どう?」
母親「血になるのよ」
C女「でも、野菜は赤くないわ」
母親「でも、トマトは赤いでしょ」
C女「ふうん、わかった。サツマイモを食べると、そのままうんちになるのね」と。

 こんなことを話してくれた子ども(年長児)もいた。「どうしてうんちは茶色になるか、わかった」
というのだ。「どうして?」と私が聞くと、「絵の具をいろいろ混ぜると、茶色になる。うんちも、そ
れと同じだ」と。

 さらにこんなことも。ある男の子(小学三年生)が、トイレから戻ってきて、こう言った。「先生、
青と黄色を混ぜると、緑になるね」と。何のことかと思って、「どうして?」と聞くとこう言った。「ト
イレの水(消臭剤の入った青の水)と、黄色いおしっこがまざったら、緑になった!」と。

 子どもの考えることは、おもしろい。あなたも子どもたちの会話に、一度耳を傾けてみてはど
うだろうか。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(742)

●先進国主要国サミット
 
7月6〜8日に、先進国主要国会議(G8)、通称「サミット」が、イギリスのグレニーグルズで開
かれる。そのサミットに、今回は、中国は、招待されなかった。理由は、先の反日暴動。イタリ
アなどは、「中国を加えるべき」と主張したらしいが、ほかの国々は、「NO!」。

 これが世界である。

 日本は、冷静に、すべきことはする。あとの判断は、世界に任せればよい。世界の良識を信
ずればよい。

 これだけ情報網が発達してくると、世界で起きているできごとは、瞬時に、世界をかけめぐ
る。あの反日暴動を見ながら、世界の人は、こう判断した。「やはり、中国は、おかしい」「ワレ
ワレとは、体制がちがう」と。その判断が、今回の、「招待せず」に、つながった。

 ところで、隣の韓国が、そのサミット入りをねらっている。「経済力が、世界で11番目になっ
た」というのが、その理由。

 最近の韓国は、どこか妄想にとりつかれているよう。「グレイト・コリア」思想をもつのは、韓国
の勝手だが、やることなすこと、現実離れしている。国営化された一部のH自動車、S電子外
車は別として、ほとんどの会社が、外資系に支配されている。青息吐息。国内経済は、ガタガ
タ。

 反日、反米を唱えて、どうしてサミットなのか?

 もしつぎにサミットに加えるべき国があるとしたら、インドであり、ブラジルである。

 さて、その中国だが、一時は、100万近い外国企業が進出したが、大半は、赤字で、すでに
撤退。残るは30万企業になってしまった。日本企業についても、すでに、約3分の1が、撤退、
もしくは撤退中。

 日本では、いまだに中国株に浮かれている人も多いが、はたしてこうした事実を知っている
のだろうか?

 韓国も、そうだ。一時は、日本企業が、こぞって韓国に進出した。しかし韓国には、特異な労
使関係がある。何かあると、ちょっとしたことで、日本人経営者たちが、つるしあげをくらった。

 それが日本企業の撤退へと導き、やがて韓国経済はそのため、崩壊した。1997年のデフ
ォルト(国家破綻)が、それである。(実際には、97年はじめから、旧財閥系の企業が、韓宝鉄
鋼を筆頭に、三美グループなどなど、つぎつぎと倒産。そこへアジアの通貨危機が追いうちを
かけた。)

 中国経済は、今、巨大な、恐らくもう中国政府ですらどうすることもできないほど巨大な、大ジ
レンマに陥ってしまっている。

 成長率を、1〜2%さげただけで、失業者は街にあふれかえる。これらの失業者が、いつな
んどき暴徒化するか、わかったものではない。だから中国政府は、中国元を、切りあげること
もできない。すでに上海の株価は、3分に1程度までに暴落。反対に地価が、急激に上昇して
いる。まさにバブル経済!

 私の知ったことではないが、欲をかきすぎて、中国政府は、自ら墓穴を掘ったことになる。一
方で自由主義経済を遂行しながら、それを社会主義体制で統制しようとするほうが、おかし
い。無理がある。中国政府が、かつての東ドイツのように、崩壊するのは、もう時間の問題かも
しれない。

 日本の経済も、あぶないが、ここは、冷静になったほうが、勝ち。ただひたすら冷静に、中
国、韓国の行く末を見守る。言うべきことは、言うが、ただし事務的に。あとの判断は、世界に
任せればよい。世界がもつ、良識に任せればよい。

 その一つが、今回のサミットでの、「中国、お断り」ということになる。


●ウソの自分

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本物の詐欺師は、まず自分をだます。
でないと、他人をだますことはできないそうだ……
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 「私は、悪いことをしている」と自覚している詐欺師は、本物の詐欺師ではないそうだ。本物の
詐欺師は、そういう自覚すらない。「自分は、善人である」と信じきって、相手をだますそうだ。
またそうであるから、みな、だまされる。

 昨夜、M県に住む、Aさん(女性、60歳くらい)と、1時間ほど、電話で話をした。その電話の
中で、Aさんは、自分の母親について、話してくれた。

 Aさんの母親は、今年、85歳になるという。頭はまだしっかりしているほうだが、現実の世界
と、ウソの世界の区別がつかなくなってきたらしい。自分にとって、つごうの悪い話になると、
「覚えていないなあ」「私も、年だからなあ」と。

 加えて、平気でウソをつくらしい。

 先日も、Aさんが、母の住む実家へ帰ったとき、サイフを居間のテーブルの上に置いておい
たそうだ。あとで見ると、1万円札がなくなっていた。そこでAさんが、母親に、「お金をどこへや
ったの?」と聞くと、「私は、知らない」「そう言えば、さきほど、だれか来たみたいだ」とか言う。

 が、母親がそう言い張るのだから、それ以上のことのことは追及できない。明らかに母が盗
んだとわかっていても、母を盗人(ぬすっと)にするのは、娘として、つらい。

 それについて、Aさんは、こう言う。

 「母は、ウソをついているというよりは、自分が盗んでいないと、本気で、信じているみたいで
す」「そういうウソを言いながら、相手は、それで自分を信じたと、本気で思っているみたいで
す」「そういうウソは、いったい、どういうウソなのでしょうか?」と。

 自分を善人と思いこんでいる人は、自分の中のつごうのよい部分だけを、自分と思う。そして
つごうの悪い部分については、あれこれ言い訳をしたり、他人のせいにしたりする。子どもの世
界でも、よく見られる現象である。

 こうして10年たち、20年たつうちに、その人の人格(?)ができる。

 何か、悪いことをしても、それを自分の仕業(しわざ)とは、思わない。あるいは、すぐ、それを
忘れてしまう。脳の中に、便利な思考回路ができる。あとは、その思考回路にそって、自分を、
つくりあげていく。

 で、どうも腑(ふ)に落ちないAさんは、母親が席を離れたときに、仏壇の横の引き出しをあけ
てみた。1万円札は、そこに、あった。小さく、折りたたんであったという。

 Aさんは、その1万円札を、自分のサイフにもどすと、そのまま買い物に出た。「毎度のことで
すから、いちいち怒ってもしかたありませんから……」と。

 「母は、1万円札がなくなっているのに気がついているはずです。しかし私には、何も言いま
せん。とぼけるというか、何ごともなかったかのような顔をして、平然としています」と。

 恐らくその母親は、「私はすばらしい女性である」という自己概念を、つくりあげてしまっている
のだろう。だから自分にとって、耳ざわりのよい部分だけを、(自分)と信じている。自分にとっ
て、つごうの悪い部分については、(自分)と信じていない。

 たとえば何かよいことをしたとすると、その部分については、しっかりと記憶に残す。そうでな
い部分については、すぐ忘れる。そして、あとは、お決まりの演技。

 Aさんが、母の住む実家へ帰ると、実に演技ぽく、あれこれと、Aさんの周囲や、Aさんの家族
のことを心配してくれるという。「ダンナは元気かね?」「(孫の)○○は、どうかね?」と。猫なで
声の、やさしい言い方をするという。

 Aさんは、こう言う。「その言い方が、どこか不自然なのですね。自分をよい人間に見せるた
めに、演技をしているとしか思えません」「ほかの人たちは、それでだまされるかもしれません
が、私は、だまされません。子どものときから、母のそういう姿を見て育ちましたから」と。

 よく「人をだますときは、まず自分(身内)をだませ」と言う。詐欺師の鉄則にもなっている。私
はAさんの話を聞きながら、そんなことを、頭の中で、思い出していた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己愛

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他人に批判されると、極端に、不機嫌になったり、
怒ったりする。あるいは他人の批判を許さない。
あるいは批判した人を、生涯にわたって、嫌ったり、
避けたりする。
自己愛者の、最大の特徴は、極端な自己中心性に
加えて、他人の批判を許さないこと。
若い女性、そして若い母親に、このタイプの人は
たいへん多い。

++++++++++++++++++++++++

 自分の子どもが、何かのことで、批評されたり、批判されたりすると、カッとなる母親は多い。
それだけ母子の分離が、うまくできていない母親とみるが、それだけではない。

 自己愛者の特徴は、三つある。

(1)自己中心性
(2)他人の批判を許さない
(3)完ぺき主義

 幼児期からの自己中心性が残り、それが年齢とともに肥大化すると、自己愛者になる。自分
が世界の中心にいるかのような、錯覚にとららわれることも多い。「自分のすることは、すべて
正しく、他人のすることは、すべてまちがっている」というような考え方をする。

 その自己愛性が、そっくりそのまま、自分の子どもに転移することがある。母子間の一体性
が強い母親ほど、そうなる。

 「自分の子どもさえよければいい」
 「自分の子どもが世界で最高」(そうでなければ、自分の子どもに、それを求める。)
 「自分の子どもの悪口を言う人を許さない」
 「自分の子どもは、完ぺきでなければならない」など。

 しかしこういう母親をもつと、子どもは、不幸である。母親自身が、子どもの心に耳を傾けな
い。独善的で、ものごとを、すべて母親が決めてしまう。完ぺき主義も、子どもを苦しめる原因
となる。子どもの側からすると、気が休まらない。

 一般論として、自己中心性が強いということは、それだけその人の人格の完成度は低いとみ
る。つまり自己愛者は、それだけ人格が未熟。未完成。

 そこであなたという母親はどうであろうか。

 あなたは、他人から批判されたとき、「そうです」と、いつも、それをすなおに聞いているだろう
か。反省しているだろうか。

 そうではなく、すぐ、カッとなって反論したり、あるいは無言になったりするようであれば、それ
だけ、人格の完成度は低いということになる。自己愛者であることで、ほめられることは、何も
ない。

 そこで、子育てに関して言えば、『聞きじょうずな母親ほど、子育てがうまい』ということにな
る。子どものことになると、すぐカリカリする親というのは、話す側としても、話しにくい。

私「あのう、このところ、元気がありませんが……」
母「うちでは、いつもと変わりません」
私「どこかで、無理をしていませんか?」
母「ふつうです」

私「何かあると思いますが……」
母「何もありません」
私「過負担になっているように思うのですが……」
母「塾では、ふつうです」と。

 若い母親は、そのほとんどが、多かれ少なかれ、自己愛的であるとみてよい。それが年齢と
ともに、つまりは子育てで苦労を重ねるうちに、角が取れ、その人間性に丸みができてくる。

 そこで重要なことは、自己愛者であることが問題ではなく、自分自身の中の自己愛性に気づ
くこと。気づかないまま、自己中心性に振りまわされてはいけない。ただし、この自己愛は、そ
れに気づくだけでも、あとは、時間が解決してくれる。

 しかも、その時期は、若ければ若いほどよい。若いうちに、自分の中の自己愛性に気づいた
人ほど、はやく、その自己愛から自分を解放させることができる。
(はやし浩司 自己愛 母親の自己愛 自己中心性 完璧主義 完ぺき主義)

(追記)

 ところで最近、こんなことに気がついた、「教育アレルギー」の人が、結構、多いということ。
「教育」という言葉を耳にしただけで、異常なまでに、拒否反応を示す。
 
 とくに「教育評論家」への風当たりは、強い。

 かわいそうな人たちだ。子ども時代、そほど、その「教育」で苦しめられたのだろう。教師への
反発もある。よき教師にも恵まれなかった。そういう思いが積もりつもって、「教育アレルギー」
となる。

 こういう人たちは、生涯にわたって、「師」をもつことができなくなる。しかし「師」をもたない人
も、これまたあわれである。すべてがゼロからの出発。懸命に行きながらも、袋小路に入って、
同じところを、堂々巡りしているだけ。

 それはそれでかまわないが、人生も、そろそろ短くなったとき、その「愚かさ」を、改めて、思
い知らされる。(今の私がそうかもしれないが……。)

 人は、生涯、前に向って進んでいく。その灯台となってくれるのが、師である。決して「教育」
を、自ら、否定してはいけない。


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【無意識の中の「私」】

●女性の化粧

 電車に乗る。電車が走り出す。すると、若い女性たちは、いっせいに、化粧を始める。バッグ
から小さな道具を取り出し、それをつかって、顔の手入れをする。

 しかし、見渡したところ、男性で、化粧するものはいない。ぼんやりと立っているか、携帯電話
をいじっている。

 化粧する女性。化粧しない男性。

 ところで、日本以外の国では、女性でも、ほとんど、化粧しない。……と書くと、「エッ!」と思う
人も多いかもしれない。実は、それを知ったとき、私も、驚いた。

 二男の嫁がアメリカ人なので、ある日、聞いてみた。すると、彼女は、こう言った。「するとして
も、口紅くらいです」と。

 今に見る「化粧文化」は、最初は、欧米から入ってきたものかもしれないが、多分に、日本と
いう風土の中で、はぐくまれ、育ったものと考えてよい。それがつぎに、ほかのアジアの国々の
人たちが、まねをし始めた。

 とはいっても、身を飾るということは、何も、化粧だけにかぎらない。服装、髪型、匂いなどな
ど。体型や、スタイルも、それに含まれる。

 こうした(身を飾る)という行為は、すべての動物に、共通して見られる行為である。で、ここで
は、もう一歩、なぜそうするかを、踏みこんで考えてみたい。

●動物の世界では……

 身を飾る目的は、はっきりしている。相手、とくに、異性をひきつけるためである。そこでこの
身を飾るという行為を、別の見方で考えると、こうなる。

 (身を飾る側)イコール、(選ばれる側)、(身を飾らない側)イコール、(選ぶ側)、と。

 もう少しわかりやすく書くと、こうなる。

 男が、女を選ぶ。だから選ばれる側の女は、身を飾り、男を、自分にひきつけようとする。つ
まり(選ばれる側)が、身を飾るということになる。

 ……もっとも、この図式は、すべての人に当てはままらない。今では、ご存知のように、男性
だって化粧をする。男性専用のエステもある。男性も心のどこかで、女性に選ばれることを、意
識している。今はまだ、電車の中などで、おおぴらに化粧をしないというだけで、そのうち、女性
たちと並んで、男性も、電車の中で、化粧をするようになるかもしれない。

 一方、動物の世界では、オスのほうが、派手で、美しい。たとえば鳥の世界でも、カラフルで
美しいのは、オス。鳴き声も、オスのほうが、変化に富んでいる。その(差)が、顕著なのが、キ
ジである。

 キジのオスの美しさを見たら、メスのほうは、とても、見られたものではない。もともと、動物の
世界では、オスのほうが、美しい。つまり動物の世界では、選ぶのは、あくまでも、メス。選ばれ
るのは、オス。だからオスは、ことさら自分を美しく見せようとする。が、メスのほうは、自分で
は、化粧をする必要はない(?)。

 が、人間だけは、とくに日本人は、今のところ、女性のほうが、化粧に熱心である。

(しかしこれとて、今だけの現象かもしれないが……。あと100年とか、200年もすると、逆転
する可能性がないとは、だれにも言い切れない。つまり化粧するのは、女性。選ばれるのは女
性と、決めてかかってはいけない。現に、ジャングルの中などに住む原住民の中には、男性の
ほうが、より身を飾るというケースも、少なくない。)

●種族保存

 選ぶ側は、よりよい種族を後世に残そうとして、相手を選ぶ。男性が女性を選ぶときは、より
よい母体を求めて、そこに精子を植えつけようとする。

 一方、女性が男性を選ぶときは、よりよい精子を求めて、そうする。

 人間のばあいは、ほかの動物たちとちがい、「頭で考えて選ぶ」という要素がある。そのた
め、相互に選ぶという習慣が定着してしまったとも考えられる。肉体的な魅力も大切だが、そ
れ以上に、人間的な魅力、精神的な魅力を、重要視する人も多い。

 そしてほかの動物たちとちがい、人間のばあい、子育てに、長期の時間がかかる。子どもが
生まれてからも、男性は、妻である女性と、子どもの世話をしなければならない。そのため、自
然発生的に、一夫一妻制が生まれた。一説によれば、人間の一夫一妻制が始まったのは、す
でに100〜150万年ほど前のことだという。

 ……と、考えると、ここで大きな疑問にぶつかる。

 では、なぜ、女性は、(男性もそうだが……)、結婚してからも、化粧をするかという疑問であ
る。

 すでに選択の時期は、終わり、子どもも産んだ。(選ばれる側が、化粧をして、異性をひきつ
けようとする)という図式で考えるなら、結婚したあとは、化粧をしたり、身を飾るする必要はな
いはず。

 そこで考えられる答は、3つ。

(1)飾るという行為が、文化になっていること。つまりは、そのまま習慣が継続する。
(2)元来、男性も、女性も、1人の相手では満足できないということ。つまりは浮気性。
(3)セックスによる快楽を、種族保存という目的から切り離して楽しむようになった。

●日本の化粧文化

 話をもどすが、ある程度の身だしなみということは別として、この日本ほど、化粧文化が特異
に発達した国は、ないのではないか。

 たとえばファンデーションという化粧道具がある。女性たちは、あのファンデーションで、肌の
下地をつくる。もともと黄色人種だから、肌は、黄色い。日焼けしやすく、日焼けすれば、すぐ茶
褐色になる。

 そこでファンデーションを肌の下地に塗り、肌を白くする。

 しかしなぜ、白くするのか?

 一時期前には、ガングロ(顔黒)という化粧法もあったから、必ずしも、「白」ばかりではない。
が、あのガングロという化粧法は、一時的なもので終わってしまった。また男性がよく黒く日焼
けしてみせるのは、女性に対して、たくましさをアピールするためと考えられる。

 しかしほとんどの女性は、まず、肌を白く見せる。そしてプチ整形の例を見るまでもなく、日本
人は、(1)より大きな目、(2)より高い鼻ほど、理想形と考える。

 つまりは、日本の女性たちは、心のどこかで、西洋人の顔を一つの基準においているのがわ
かる。

 とくに私たち日本人は、極東の島国という閉鎖された世界で、少なくとも、ここ数千年は、「血
の交流」をほとんどしてこなかった。(数千年程度という時間は、たいした時間ではないと説く人
もいるが……。)

 しかし骨相学的には、日本人は、悲しいかな、もっとも貧弱な民族ということになっている。そ
ういう根深い、民族的コンプレックスがあるのかもしれない。それが転じて、日本独特の、化粧
文化につながったと考えられなくはない。

●よりよい種族を、後世に残す

 よりよい種族を後世に残す……ということが、相手を選ぶ原点になっている。より肉体的にす
ぐれ、より知的にすぐれた人間を、である。

 これはあらゆる動物の基本的な本能の一つになっている。もしそうでないなら、その種族は、
やがて滅亡することになる。

 しかしこういうことは言える。

 人間も、私のように50歳をすぎると、性欲から解放されるようになる。それまでは、それがわ
からない。しかし今の状態で、自分自身の20代、30代をふりかえってみると、自分がいかに
性欲に支配されていたかがよくわかる。

 それがムダだったというわけではない。映画『タイタニック』を例に出すまでもなく、その性欲
が、無数のドラマを生み出す原動力にもなっている。

 が、性欲から解放されてはじめて、自分が何であったかがわかる。またそこに、本当の自分
の姿が見えてくる。

 ただ、「よりよい種族を後世に残したい」という意欲までは消えるわけではない。つまり性欲を
さらにその下から支えていた、無意識の意識まで、消えるわけではない。

 それがたとえば人によっては、「これからの人たちのために、何かを残しておきたい」という意
欲に変わることもある。それほど大げさなものではないかもしれないが、今、私がこうして自分
の経験や考え方を文章に書いて残しているのも、その一つかもしれない。

●無意識の中の私

 私たちは、何かの行動をするとき、「自分の意思でそうしている」と考えがちである。しかしそ
の実、私たちは、自分の意思というよりは、もう一つ、その底にある意識によって、動かされて
いるだけということも多い。

 最近では機能MRIやPETなどによる機器によって、脳ミソの働きが、電子レベルでわかるよ
うになった。

 それによると、人間が何かの意識的行動に出る前に、脳ミソの別の部分で、それを命令する
別の信号が発せられることもわかってきたという。つまり自分の意思すらも、別の脳ミソが勝手
につくり、それを「私」に命令しているだけということになる。

 よい例が、先にあげた性欲である。

 若い女性が、短いスカートをはきたいと思ったとする。そして店に行って、短いスカートを選
ぶ。色は、赤がいい……。

 その女性は自分の意思で、そうしていると思っているかもしれないが、その意思そのものが、
すでに、脳ミソのどこかでつくられたものであるということになる。その女性は、その私であって
私でない脳みそに、操られているだけということになる。

 そういう女性に、こう質問してみるとよい。「あなたは、自分の意思で、その赤いミニスカートを
買ったの?」と。するとその女性は、自信たっぷりに、こう答えるであろう。「そうよ!」と。

 電車の中で化粧をする女性も、そうである。自分の意思でそうしているつもりかもしれない
が、その姿は、木々の枝の上にとまって、毛づくろいをしている鳥の姿と、どこもちがわない。
(はやし浩司 意識 意識論 無意識の意識)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●意識論(2)

 私は、数日前、こんな夢を見た。

 あるところでバスが来るのをまっていた。私は時間があったので、近くの売店で、みやげもの
を買っていた。

 するとそこへワイフがやってきた。そのワイフが、こう言った。「私は、もう少しここにいたいか
ら、帰らない」と。

 そこで私が「今、帰らないと、夜になってしまうよ」と。ワイフは、「いいの」と言いながら、その
まま、バス停の中にある、待合室に入っていってしまった……。

+++++++++++++++++++

 ただの夢と思う人も多いかもしれない。しかし私は、今、その夢を思い出しながら、「そのとき
のワイフの意思は、だれが決めたものか?」と考えている。

 私が見た夢だから、当然、ワイフの意思も、私の意思ということになる。しかしもし私の意思
なら、そんなことは言わなかったはず。

 「私は、もう少しここにいたいから、帰らない」と言ったワイフ。その意思は、だれが決めたの
か? どこでどうやって決めたのか?

 ……ということを考えていくと、私の脳ミソの中には、「私」である部分のほかに、その「私」と
は別の、私の意思を勝手に決めていく私がいることになる。これは、夢の中で経験したこととは
いえ、たいへんおもしろい現象だと思う。
(はやし浩司 夢の中の意識 私論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自己愛者

 先日、こんなことがあった。

 私は、HPに、「子ども診断」を公開している。多分、その女性(アドレスから、兵庫県の方と判
明)は、「子ども診断」を、自分でテストし、採点したのだろう。その結果が、その母親には、た
いへん不満だったらしい。

 しかしその「子ども診断」で私が数字として出しているのは、あくまでも平均値でしかない。平
均値より高いから、たとえば問題のある子どもということには、ならない。平均値より低いから、
問題がないともいえない。

 あとの判断は、それぞれの母親がすればよい。

 が、多分、そこでその母親は、自分の妄想をふくらませてしまったらしい。つまり、自分のこと
を批判されたように思ってしまった。

 そのあと、猛烈な、罵声とも言えるような電話が、教室のほうへかかってきた。「あんなテスト
を、HPに公開するのは、やめろ!」「他人の子どもを、ドラ息子とは何だ!」と。

 私は、その電話の内容よりも、その母親の自己中心性に驚いた。自己愛的な人は、男性よ
り、女性のほうに多い。が、そこまで強烈な人は、少ない。自己愛者の特徴は、(1)極端なまで
の自己中心性と、(2)他人の批判を許さない、それに(3)完ぺき主義。

 その第1。

 HPを公開するのは、私の勝手。それを読むのは、読者の勝手。自分に気に入らないことが
書いてあるからといって、いちいち腹を立てる必要はない。読みたくなかったら、そのHPは、読
まなければよい。

 簡単なことではないか。

 しかし自己中心性の強い人には、それがわからない。すべてのHPが、自分のために書かれ
ていると錯覚する。地球全体が、自分を中心にして回っていると思いこんでいる。

 こうした自己中心性を、自分で気づくことは、まず、ない。脳のCPUの問題だからである。自
分がその自己中心性から脱け出たとき、それまでの自分が、自己中心的であったことに気づ
く。あるいは、自分より、より自己中心的な人に出会ってはじめて、それがどういうものである
かがわかる。

 自己中心的な人に向かって、「あなたは自己中心的ですね」と話しても、意味がない。かえっ
て猛烈な反発をくらう。「あなたこそ、何よ!」と。

 電話での会話は、こうだった。

私「私が示したのは、平均値です。その平均値より高いからといって、あなたの子どもがたとえ
ば、ドラ息子ということには、なりません。あくまでも、数値は、参考にしていただくのがよいかと
思います」
女「だいたい、あなたのような他人に、なぜ私の息子ことを判断されなければならないのよ!」
私「だから、あなたを判断してわけではありません。そうした調査をしてみたということだけの話
です。不愉快だったら、そういうテストを、受けなければよいのです」
女「だったら、こんなHPを、公開するな! 子ども診断テストを公開するな!」と。

 その女性の言っていることは、メチャメチャ。

 しかし私のHPの読者の中には、そういう女性が、何%かはいる。たいはんは、よき理解者
で、暖かく励ましてくれる。そういう善意の読者を、100人とするなら、最初から悪意をもって読
む人は、1人くらいはいる。

 最初のころは、いろいろ気になったがら、そういう人がいることもわかり、今は、何とやりすご
すことができるようになった。電話を切ったとたん、忘れる。

【反論・異論のある方へ】

●反論、異論は、ご自由にどうぞ。ただし私の原稿をほとんど読まないまま、つまり私の原稿
の一部だけ、それも表面的な部分だけを読んで、あれこれ批判的なことを言われても、私とし
ては、たいへん困ります。

●もうひとつは、知人や親類の方、近所の方へのお願いです。ときには、(その人)を、思わせ
るような原稿を書くこともあります。で、そういう原稿を読んで、「これは君のことではないか?」
「あなたのことではないか?」と、そのつど、その相手の人に告げ口をする人がいます。どう
か、そういうことは、やめてください。そんなことをすれば、その人を不愉快にするのは、当然で
す。できれば、そういう形での、マガジンの利用は、やめていただきたいと思っています。

●私は自分の書いていることに責任をもつという意味でも、本名と、メールアドレス、それに電
話番号を公開しています。特定の個人に的(まと)をしぼって、その方を文章を使って攻撃した
りするということは、私の本意に反することです。たまたま部分的に、どなたかに当てはまるか
らといって、その人のことを書いたわけではありません。どうか、よろしくご理解ください。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


【近況・あれこれ】

●『宇宙戦争』を』見るぞ!

 今日、映画『宇宙戦争』のチケットを、2枚、買った。7月x日、ワイフと見に行く。ワイフは、楽
しみにしているよう。

 ワイフは、若いころは、そういうSF的な話を、まったく、受けつけなかった。しかしある夜、二
人で、巨大なUFOを見た。その夜から、ワイフは変った。UFOに興味をもつようになったという
よりは、あの夜、私たちが見たものが何であったか、その結論を出したがるようになった。

 私たちが見たものは、何だったのか?

 ところで今朝(7・4)の新聞によれば、アメリカの宇宙探査機が、見事、彗星(すいせい)に、
爆発物を命中させ、それから発生した成分の観測に成功したという。おどろくべき、技術力! 
アメリカのNASAは、もう、そんなことまでできる! 同じ人間なのに、私の想像力をはるかに
超えたところに、彼らの知性がある。そんな感じさえする。

 どこに、そんな力があるのだろう?

 アメリカの大学を訪問したりすると、廊下や実験室の展示室には、ロケットの模型や、宇宙船
の模型、さらにはその詳細な設計図が、無造作に並べられている。何でもない、ごく当たり前
のこととして、だ。

 そういうのを見せつけられると、私は、「人知の差」を感じてしまう。

 で、ひとつ、安心したこと。

 将来、地球めがけて、大きな隕石が飛んでくるようなことがあっても、多分、アメリカのNASA
は、それを食いとめてくれるだろうということ。映画『ハルマゲドン(アルマゲドン)』のようなこと
があっても、だ。あの映画の中では、主演のブルース・ウイリスが、英雄的な活躍をして、その
隕石を、最後には爆発させる。地球を救う。

 しかし、それにしても、すごいことができるようになったものだ。


●恩師 

 数日前、ふとんに入ってから、ワイフとこんな話をする。

 「ぼくたちを生涯にわたって、支えてくれた人に、3人、いるね」と。

TK先生……若いときから、いつも、私の灯台になってくれた。恩師中の恩師。
TK先生……この20年間、財政的な援助を惜しみなく、与えてくれた。
MN先生……私を幼児教育の世界に、導いてくれた。きびしい先生だった。

 ほかにも、短期ではあるが、いろいろな方の世話になった。しかしこれら3人の恩師がいなけ
れば、今の私は、決して、今の私ではなかっただろう。私の人生において、これらの恩師にめ
ぐりあえたのは、本当にラッキーだった。

 そのことをワイフに話すと、ワイフも、すなおに同意してくれた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(743)

●フリップ・フロップ理論

 箱がある。どちらか一方に倒れているときは、安定している。しかし中途ハンパな姿勢になる
と、フラフラとして、たいへん不安定になる。これを心理学の世界では、『フリップ・フロップ理
論』という。

もともとは、有神論の人が無神論に、反対に無神論の人が有神論になるときの様子を説明し
たもの。有神論の人であるにせよ、無神論の人であるにせよ、どちらか一方に倒れているとき
は、そういう人は、たいへん静かに落ちついている。が、有神論の人が無神論になるとき、ある
いはその反対のときは、心理状態がたいへん不安定になる。ワーワー泣き叫んで、それ抵抗
したり、猛烈にどちらか一方を攻撃したりする。

 学歴信仰も、それに似たところがある。学歴信仰にこりかたまっている人や、反対に、まった
くそれがない人というのは、静かに落ちついている。しかしそれが移行期に入ると、たいへん不
安定になる。人間の心理というのは、そうい不安定状態には弱い。自らどちらか一方に倒れ
て、自分の心理を安定させようとする。

言いかえると、不安定になったときというのは、どちらか一方に倒れるその前兆と考えるとよ
い。しかもそれが短期間で、コロリと倒れる。そのため私は、このフリップ・フロップ理論を、勝
手に「コロリ理論」と呼んでいる。

 この理論は、子育ての場でも、広く応用できる。もしあなたの子どもが何かのことで、大声で
それに抵抗したり、あるいは反対にぐずぐずしているようであれば、どちらか一方に倒れる前
兆と考えてよい。そういう子どもほど、コロリと倒れると、突然、ものわかりがよくなる。昔から
「今鳴いたカラスが、もう笑った」というが、そういう現象が起きる。

が、反対に、よい意味につけ、悪い意味につけ、どっしりと静かに落ちついている子どもは、そ
れだけ自分をもっていることになる。何かを説得しようとしても、なかなかうまくいかない。とくに
がんこで、自分のカラにこもってしまったような子どもは、指導がむずかしい。


●子どもの心理

 子どもの心理を考えるとき、現象面だけを見て判断すると、その心理がつかめなくなる。よく
ある例が、引きこもり。

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安という。そういう心理状態のところに、不安や心配
が入り込むと、それを解消しようと、心理状態は一挙に不安定になる。そのひとつが、引きこも
り。

 自分の子どもが部屋に引きこもったりすると、よく親は、「気のせいだ」とか、「心はもちよう
だ」とか言って、それを安易に考える。しかし引きこもりは、あくまでも現象。無理をして、その
状態から子どもを外に出しても、元となる、情緒不安はなおらない。もう少し具体的に考えてみ
よう。

 私も精神状態が不安定になると、人に会うのがおっくうになる。人ごみへ入るのが、いやにな
る。そういうときの自分の心理を観察してみると、こうだ。

 まず人の言動が気になる。しかもささいなことが気になる。タバコを平気で道路へ捨てる人。
道路にツバを吐く人。大声であたりかまわず話す人。体臭のある人。平気で道路に駐車する
人。工事の騒音など。ふだんなら気にならないようなことが、そういうときは、やたらと気にな
る。そしてそういうことがいくつか重なると、頭の中はパニック状態になる。

 この段階で、まず自分の中のセルフコントロール機能が働きだす。どうすれば、そのパニック
を収めることができるか、それを考える。私のばあいは、外出を避けるとか、何かの気分転換
をするとかいう方法で対処する。カルシウム剤が有効なことも多い。こういうことができるのは、
それだけ経験もあるということだが、子どもはそれができない。症状は、一挙に悪化する。

 ある子ども(高三)はこう言った。「外に出ると、人に会うのがこわい」と。ここでいう「こわい」と
いうのは、それだけ心の緊張感が取れないことをいう。相手の言動のすべてが、自分の心を
突き刺すように感ずるらしい。だから引きこもる。心理学の世界では、これを防衛機制という。
自分を守るための心理反応と考えるとわかりやすい。

 要するにこうした現象は、風邪にたとえて言うなら、「熱」のようなもの。その熱をさまそうとし
て、子どもを水風呂につける人はいない。同じように、引きこもりだけを見て、子どもを外の世
界に引きずり出しても意味はない。あるいはそんなことをすれば、かえって逆効果。中には、そ
ういう乱暴な方法で、子どもをなおす(?)人もいるそうだが、私に言わせれば、とんでもない方
法ということになる。

昔、Tヨットスクールというのがあったが、あれもそうだ。生徒の死亡事件がつづいて、当時の
寮長は刑事訴追まで受けたというが、当然のことだ。が、この種の乱暴な治療法(?)は、今で
もあとをたたない。最近でも、子どもや親を、大声で罵倒(ばとう)しながら
なおす(?)人もいる。素人(失礼!)にはわかりやすい方法なので、そのときどきの親には受
けるが、こうした方法には、じゅうぶん警戒したほうがよい。


●はじめの一歩

 幼児教育の世界で、『はじめの一歩』というときには、つぎの二つの意味がある。ひとつは、
何でも最初に経験させることは、慎重に選べということ。もうひとつは、そのときの方向づけが、
その後の子どもの方向性に大きな影響を与えるから注意しろという意味。

 体操教室を例にとって考えてみる。

 体操教室に入れたから、体操が好きになるとはかぎらない。恐らく何割かの子どもは、かえっ
て体操を嫌いになってしまう。(そういう事実は、教室側としても隠すが……。)マット運動にして
も、鉄棒にしても、あるいは跳び箱にしても、それができたからといって、どういうこともない。で
きないからといって、これまたどういうこともない。

しかしそういうところでは、それがあたかも人間の成長には必要不可欠な要素でもあるかのよ
うに教える。親もそう錯覚する。私も中学の授業でマット運動をさせられたが、あのマット運動
ほどいやなものはなかった。そういう子どもの「思い」は、外には出てこない。

 こうした「おけいこごと」を子どもにさせるときには、子どもの方向性をじゅうぶん、見きわめる
こと。だいたいにおいて、「できないからさせる」「苦手だからさせる」という発想はまちがってい
る。子どもに何かをさせるときは、「得意な分野をさらに伸ばす」という発想で、考える。要する
に、オールマイティの子どもは求めないこと。また求めても意味はない。

 つぎにこの時期できた方向性は、当然のことながら、その子どもの一生に大きな影響を与え
るから注意する。私にも、いろいろなことがあった。たとえば私は小学三年のときに、バイオリ
ン教室へ通わされた。「通わされた」というのは、それだけいやだったということ。今でもレッス
ンの日が、毎週水曜日の午後四時一五分覚えているほどだから、それがいかにいやなもので
あったかは、わかってもらえると思う。ただ私のばあい、バイオリンがいやだったわけではな
い。あの棒がいやだった。何かをまちがえると、講師の先生は、容赦なく私の頭や手を叩い
た。それがいやだった。

一年かかって、やっとやめさせてもらったが、その結果、私は大の音楽嫌いになってしまってい
た。小学六年の終わりまで、「オ・ン・ガ・ク」という言葉を聞いただけで、背筋がゾーッとしたの
を、今でもはっきりと覚えている。幼児教育では、こういうことは、絶対にあってはならない。

 で、子どもの方向性をつけるコツは、子どもをほめること。最初はウソでもよいから、ほめる。
「この前よりじょうずになったわね」「せんせいがほめていたよ」とか。父親や母親の前でほめる
のも効果的。この時期の子どもは、自分を客観的に評価できないから、周囲の人にほめられ
ると、その気になってしまう。そしてそれが原動力となって、子どもを前向きに伸ばす。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(744)

● おなら(腸内ガス)

 幼児を教えるようになって、36年目に入る。その36年間、私は、参観授業をずっとつらぬい
てきた。

 いつも、3〜7人の母親や父親たちが、そこにいる。そういうレッスンである。

 しかし6月x日。私は、生涯において、はじめて、親たちの前で、アレを出してしまった。腸内
ガスである。ややかがんだ状態で、ふと腰をあげたとたん、ブリッと!

 大きな音だったと思う。親たちのほうは見なかったが、瞬間、小刻みな緊張感が走ったの
が、私にもわかった。「しまった!」と思ったが、こういうときは、とぼけるのが、一番? 何ごと
もなかったかのような顔をして、その場をやりすごした。しかしいやな気分だった。

 20代の若い母親もいる。みんな、美しい人たちばかりだ。

 で、まあ、何とか、本当に何とかごまかして、終わった。まさか、「出しました、すみませんでし
た」とも言えない。腸内ガスということになれば、だれだって、出す。人前で出すか出さないかの
ちがいはある。しかし出す。

 それがわかっていても、照れくさい。恥ずかしい。この年齢になっても、穴があったら、穴に入
りたい。隠れてしまいたい。そういう思いをもった。

 ……で、一週間がすぎた。今日、再び、同じ、父母たちと顔を合わせねばならない。昼食をと
りながら、そのことをワイフに話す。

私「ぼくねえ、授業中に出してしまったんだよ」
ワ「バカねえ……。あなたね、いつも、家の中で平気でしているから、きっとしまりがなくなってき
たのよ」
私「でね、今日、教室に行くのがつらいよ」
ワ「知らん顔していればいいのよ」

私「だって、さあ……」
ワ「だから、知らん顔して、いつもどおりにしていればいいのよ」
私「あやまろうかア?」
ワ「何て?」

私「先週、私は、みなさんの前で、おならを出してしまいました。ごめんなさいと」
ワ「そんなこと言う必要はないわよ」
私「しかし、だまっているわけにも、いかないし……」
ワ「だまっていればいいのよ、そんなこと。いちいち告白する人なんか、いないわよ」

 さあ、どうしようか?

 ……と考えていたら、おかしな助っ人が現れた。まさに助っ人(?)

 電話がかかってきた。新しく入会をしたいという母親からのものだった。「うちの娘をBWへ通
わせたいので、今日、見学をさせてください。よろしく」と。

 これで結論が出た。

 まさか初対面の人の前で、「おならを出しました。ごめんなさい」と言うわけにはいかない。そ
んなことを言えば、私の脳ミソの中身が疑われる。

 「よかった」と思うと同時に、ほっとした。

 ハハハ、この世界、いろいろあります。しかし私も、いよいよジイ様の仲間入り? そんなヘマ
など、この35年間したことないのに……。

 これからは、同じようなヘマが多くなるかも……。このところ、ますますしまりがなくなってきて
いるように思う。とくに、トイレを、シャワートイレにしてからそうなった? ワイフは「関係ないわ
よ」と言うが、私には、あるように思う。シャワーで刺激しているうちに、肛門周辺の神経が鈍く
なってしまった(?)。

 ワイフにそのことを話すと、つまり、「見学の人がいるから、告白しなくてすみそうだ」と話す
と、ワイフは、ケタケタと笑った。

 笑いながら、「そういう話は、2、3日で消えるものよ。だれも、覚えていないわよ」と。

 しかし私は、忘れない。死ぬまで、忘れない。何とも、ドジな話ではないか!


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●スピルバーグの『宇宙戦争』を見る

 昨夜、仕事が終わってから、町の中の映画館で、スピルバーグの『宇宙戦争』を見る。ある日
突然、宇宙人たちが、人間に向って、攻撃をしかけてくるという、あの映画である。

 全体としてみれば、ただそれだけの映画。

 三本足の攻撃戦車(トライポッド型戦車)が、レーザー光線銃で、つぎからつぎへと、人間を
殺していく。逃げ惑う人間。攻撃をしかける人間。

 私は、その映画を見ながら、いろいろ考える。

(1)高度な知的能力をもっている宇宙人が、そんな稚拙(ちせつ)な、攻撃のしかたを、するだ
ろうか。

 人間だけを抹殺するなら、たとえば化学兵器や、生物兵器がある。遺伝子兵器だって考えら
れる。人間の脳ミソを、100年単位で、空洞化するという兵器である。映画の中で、宇宙人た
ちがしていることは、まるで、ゴキブリを、火炎放射器か何かのような武器を使って、殺している
ようなもの。

(2)宇宙人が、わざわざ地上におりてきて、人間を攻撃するだろうか。

 この疑問は、映画『インディペンデンス・デイ』を見たときも感じた。人間を攻撃するなら、人間
のもつ兵器が届かない、高々度から、人間を攻撃する。たとえば高度、数万メートルの上空か
らでもよい。

(3)意味のない地上戦をしかけて、どうするのか。

 三本足の攻撃戦車は、地上を、ノシノシと動き回りながら、人間を殺していく。いくら破壊力が
あるといっても、一つの攻撃戦車で攻撃できる範囲には、かぎりがある。映画の中では、トム・
クルーズ親子が隠れた民家にまで、それはやってきて、地下室のすみずみまで捜索する。

 観客を、ハラハラ・ドキドキさせようとしたのだろうが、その意図が丸見え。かえって興ざめし
てしまった。

 実にめんどうな作業である。もし同じことを地球上、すべての家庭でしようとしたら、50億人
の人間を殺すのに、仮に1つの攻撃戦車が、1万人を殺すとしても、50万台の攻撃戦車が必
要である。

 しかしそんな非能率、非効率な攻撃方法はない。

 で、映画は、ある日突然、攻撃戦車を操縦する宇宙人たちが、地球上の細菌(微生物)によ
って汚染され、死滅するシーンで終わる。つまり宇宙人たちは、自滅する。

 が、何よりも、最大の疑問は、人間を攻撃する、その理由が、わからない。なぜ、宇宙人たち
は、人間を殺さねばならないのか。殺して、どうするのか。一つのシーンの中では、人間の
「血」を、パイプのようなもので、吸いあげるところがあった。宇宙人の目的の一つは、人間の
血を採取することのようだった。

 しかもその三本足の攻撃戦車は、宇宙からやってきたのではない。地球上のあらゆる場所
に、100万年以上も埋められたままになっていたという。それに空からやってきた宇宙人たち
が乗りこんで、人間を攻撃し始める。

 私は、映画を見ながら、あちこちに、「無理」を感じた。「100万年ねエ〜?」と。

 見終わったあと、ワイフも、私も、期待が大きかっただけに、がっかり。★は、2つ。「やっぱ
り、スターウォーズにすればよかった」と私が言うと、「あっちのほうには、ストーリーがあるから
ね」とワイフ。その『スターウォーズ』は、もうすぐ劇場公開される。

【補足】

 仮にこれほどまでに好戦性の強い宇宙人だったら、宇宙では、(もちろん地球上でも)、生存
していくことはできない。破壊兵器が巨大化すればするほど、その宇宙人は、自滅する危険性
が高くなる。あるいは、他の宇宙人たちと、最終戦争を繰りかえすことになる。

 たとえばある宇宙人が、太陽系全体を、一瞬にしてこなごなにする兵器を手にしたとしよう。
そういう兵器を手にもちながら、たとえば1万年もの間、平和を保つことは、むずかしい。かりに
10万年に1回、戦争しただけでも、1億年の間に、100回も、彼らは惑星ごと、こなごなにして
しまうことになる。

 核兵器に例を見るまでもなく、兵器が巨大化すればするほど、人間(=知的生物)は、平和
主義者でなければならない。言いかえると、この宇宙に、知的宇宙人がいるとするなら、彼ら
は、それこそ「神」のような平和主義者であるはずである。

 だからこそ、宇宙人は、宇宙人でいられる。

 人間のように、ちょっとしたことで、戦争を起こしてばかりいたとしたら、この宇宙は、あっとい
う間に、メチャメチャになってしまう。そういう意味では、人間は、攻撃的すぎる。どん欲で、ごう
慢。

 本来なら兵器の巨大化に合わせて、人間の知的レベルも、同時進行の形で、進化しなけれ
ばならない。そうでなければ、それこそ、サルに核兵器をもたせるようなことになってしまう。

 サルには、サルにふさわしい武器がある。人間には人間にふさわしい武器がある。限度と言
ってもよい。そういう視点で考えても、人間には、核兵器は、必要ない。それをもつ資格もな
い。これから先、K国のような、わけのわからない独裁国家でさえ、つぎつぎと核兵器をもち始
めたら、世界は、いったい、どうなるのか?

 映画『世界戦争』の中では、宇宙人たちは、まるでゲームでもするかのように、つぎつぎと人
間を殺していく。そこには、一片の知性も、理性も、思いやりもない。

 そんな宇宙人だったら、とっくの昔に、自滅していたはずである。そうした考証も、映画の中
で、まったくなされていなかった。娯楽映画といえば、娯楽映画ということになるのだろうが、今
は、もうオーソンウェールズの生きていた時代とは、ちがう。

 最後のナレーションで、「地球人たちを守ったのは、武器ではなかった。人間と共存してき
た、目に見えない微生物たちであった」と、もっともらしいコメントが、述べられている。しかし、
である。

 あれこどまでの攻撃兵器をもつ知的生物にとっては、そんなことは、常識中の常識。私も若
いころ、それぞれの国へ行くときは、それぞれの国の風土病についてのガイダンスを受けてか
ら、その国へ行った。何らかの予防接種を受けたこともある。

 ほかに、「その国の水は飲まないように」「歯をみがくときも、コーラを使うように」などという指
示を受けたこともある。地球へ、人間を抹殺にやってくる宇宙人たちが、そういうことさえ、知ら
なかったとは? 

 いろいろ考えさせられた。

【補足2】

●知的レベルと平和主義

 その生物の知的レベルが高くなればなるほど、当然のことながら、その兵器水準も高くなる。

 原始民族の時代には、こん棒や、弓、ヤリが武器だった。刀が武器だった。しかし今は、核
兵器の時代である。

 そこで改めて私たちは、考えなおさねばならない。

 こん棒とくらべると、核兵器の破壊力は、格段どころか、数百万倍以上。しかしそれをコントロ
ールする人間の知力は、それに応じて、同じように、進化したのだろうか。

 もし相応に進化していないとなると、武器だけが特異に進歩して、私がここに書いたように、
それこそ、サルに核兵器をもたせるようなことに、なってしまう。

 で、ここで兵器の進歩が止まれば、まだ問題は、ない。

 これから先、人間は、確実に宇宙へ飛びだしていく。そういうとき、さらに強力な兵器を手にす
ることも考えられる。もしそうなった、人間というよりは、この地球は、どうなるのか?

 すでに、(あくまでも、今は、SFの段階だが)、反重力爆弾というのも、考えられているそう
だ。それを使えば、あの太陽ですら、一瞬にして、こなごなにしてしまうこともできるそうだ。

 ……と考えていくと、人間が宇宙へ飛びだしていくのは、必然の結果であるとしても、はたして
それが正しいことなのかどうかとなると、私にはわからない。

 もしこの太陽系に、「地球を監視している宇宙人」(「世界戦争」)がいるとするなら、今ごろ
は、こんな会話をしているにちがいない。

 「人間どもを、私たちの宇宙へ迎え入れることは、まずいのではないですかねえ」
 「そうだなあ。あいつら好戦的だからなあ」
 「宇宙へ出てきてからも、また戦争をするのではないでしょうか」
 「ありえるね。それは、ありえる」
「やはり、地球人どもは、地球にとじこめておくのが、一番、いいのではないでしょうか」と。


●なぜ宇宙人は、人間を滅ぼすのか?

 逆説的な言い方で、人間は、どうあるべきかを考えてみたい。つまり「なぜ宇宙人は、人間を
滅ぼさなければならなかったのか」。それを考えていくと、反対に、人間はどうあるべきかが、
わかってくる。

 S・スピルバーグの『宇宙戦争』を見た感想と言ってもよい。あの映画の中では、宇宙人たち
は、情け容赦なく、人間を、殺す。こなごなにして、殺す。なぜ、か? 

 映画の中での、宇宙人たちの、あの殺し方を見ていると、何か、人間に、ものすごいうらみで
もあるかのように思えてくる。憎しみ、憎悪、嫌悪……。まるで家庭の主婦が、台所でゴキブリ
を見つけたような感じ。ギャーッと興奮して、殺虫剤をかけまくるような雰囲気で、人間を殺す。

 人間を殺す前に、宇宙人と人間の間で、何か、話しあいのようなものは、できなかったのだろ
うか。そういう話しあいが決裂した結果として、戦争が始まったのなら、まだわかる。しかし映画
の中では、そういった話しあいらしきものをした形跡は、まったくない。ある日突然、トライポッド
(三脚型)の戦車に乗った宇宙人たちが、稲妻とともに現れ、地球上の人間たちを、殺し始め
る。

 言うなれば、意味のない恐怖映画。殺戮(さつりく)映画。

 が、批判ばかりしていてはいけない。入場料まで出して、映画館で見たのだから、それなりに
何か得るものは、得たい。

 そこで最初の話。

 なぜ、宇宙人は、人間を殺さねばならなかったのか?

 理由は、いくつか考えられる。

(1)人間を邪悪な生物と判断した。(しかし宇宙人のしたことも、邪悪だぞ! 罪もない人たち
を、片っ端から殺した。)

(2)人間を危険な生物と判断した。(しかし宇宙人たちも、危険だぞ。ものすごい武器をもって
いる。青いレザー光線を浴びただけで、ビルは、まるごと、すべてふっとんでしまう。)


(3)人間だけが支配する、この地球のあり方に、がまんできなくなった。(地球上のほかの動物
や、生物たちを守るために、人間を殺した。そういう話なら、私にも理解できる。)

(4)人間を殺して、自分たちがかわりに地球に住む。(だったら、建物や、橋などは、こわさな
い方がよいのでは……。途中、数匹の宇宙人たちが出てくるが、歩き方などは、それほど、人
間とちがわない。)


(5)宇宙人には、そうした感情そのものがない。知能だけが発達した、虫のような生物。(つま
りゲーム感覚で、人間を殺した。しかしたしか映画の中では、宇宙人たちは、人間が残した写
真を興味深そうに見ていたぞ。感情がまったくないわけでも、なさそう。)

(6)地球環境をこれ以上、人間に破壊させないために、人間を殺した。(このままでは、地球
は、火星のようになってしまう。それに宇宙人たちは、危機感をもった。それで人間を絶滅させ
ようとした。しかしそれなら、レザー光線で焼き払うというのは、矛盾していると思うのだが…
…。かえって環境を破壊してしまう。)


(7)人間が宇宙へ進出してくるのを、まえもって、つまり予防的に、阻止しようとした。人間がど
こかで、彼らの怒りをかってしまったのかもしれない。(しかしもしそうなら、宇宙で決着をつけ
ればよい。宇宙を自由に飛び回る宇宙人にしてみれば、人間など、敵ではないはず。)

 こうして考えてみると、一番、妥当性があるのが、(3)と(6)ということになる。地球や、地球
の人間以外の生物を守るために、宇宙人がやってきて、地球人を滅ぼそうとした。ほかにあれ
これ理由を考えてみたが、どうも、このあたりが、一番、妥当な解釈のようである。

 しかしよくよく考えてみると、それについても、矛盾だらけ。映画『インディペンデンス・デイ』の
ときも、そう感じたが、彼らは、いったい、人間のどこが気に入らないのだろう。

 どん欲で、ごう慢なところか? 野蛮で、邪悪なところか?

 そこでもしあなたが、宇宙を支配する宇宙人だったら、人間をどうするか、考えてみよう。あな
たは、きわめて平和的な人だ。右の頬を打たれたら、「左の頬もどうぞ」と、さしだすような人
だ。

 もちろんきわめて高い、知性や理性もある。そういうあなたから見ると、私たち地球人は、い
ったい、どのように見えるだろうか。

 心理学の世界には、「自己概念」という言葉と、「現実自己」という言葉がある。「私はこういう
人間であると、自分で描く概念」を、自己概念という。それに対して、「現実の自己」がいる。現
実の自己というのは、多分に、他人から評価された自分とということになる。

 同じように、人間自身の「自己概念」がある。「人間というのは、こういう生物だ」という、人間
自身が思い描く概念である。しかしその自己概念は、はたして正しいものだろうか。現実の人
間は、もう少し、醜く、邪悪なものではないだろうか。

 『世界戦争』は、あまりおもしろくない映画だったが(失礼!)、人間全体について考えるに
は、よい機会になった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●悪質リフォーム

 私の家にも、やってきた!

 もう1年近くも前のこと。一人の女性がやってきて、「お宅の家は、耐震構造になっていませ
ん。今なら、市から補助金が出ますから、工事をしませんか」と。

 私の家の古いほうは、築30年になる。当時は、建築基準法も、甘かった。そういう時代の家
だから、多分、地震がきたら、まっさきに倒壊する。それはよくわかっている。

 その女性は、あれこれ書類を並べて、私に、説明し始めた。おだやかなやさしい語り口調だ
った。

私「いくらくらいかかりますか?」
女「26坪ですから、800万円ほどです。でも、市のほうから、200万円ほど、補助金が出ます
から、600万円程度ですみます」
私「600万円も、ですか」
女「今なら、200万円、安くなるということです」と。

 で、そのときは、「また考えておきます」と言って、話を断った。

 というのも、その少し前、山荘のほうにも、そういう業者が来たが、その業者は、すべて無料
でしてくれた。やはり「市からの補助金で、耐震補修工事をしています」と言っていた。

 しかし今度は、有料。私は「?」と思った。思ったから、同じころ家を建てた、近所のR氏に聞
いてみた。

 「お宅へは、そういう業者は来ましたか?」と聞くと、「いえ、うちへは来ませんでした」と。

 ますます「?」。

 それからほぼ1週間後、その女性がまたやってきた。「いかがなさいますか?」と。私は、「も
う、地震でこわれても、しかたない家ですから、結構です」と。

 こういうケースでは、きっぱりと断るのがよい。あいまいな返事をすると、また何度でもやって
くる。

 で、今、そのインチキ業者たちが、問題になっている。「悪質リフォーム業者」と呼ばれてい
る。主に老人をねらった、ワルたちである。一台、数万円程度の床下ファンを、一台50万円前
後で取りつけるという。しかも、1軒につき、10〜50台も!

 そう言えば、床下ファンの業者も、よく来る。「このままでは、お宅は、シロアリにやられてしま
いますよ」とか、何とか……。

 少し前には、温水器の点検検査で、私も、詐欺にひかかった。「点検に来ました」と言うから、
見てもらったら、数万円も請求された。あとで、温水器の会社に電話をかけて確かめてみた
ら、「うちでは、そういう点検はしていません」とのこと。

 この世界、本当に、油断できない。

(浜松市役所の建設資材課に問い合わせたところ、そうした補助金は、出るとしても、30万円
まで。身体障害者や高齢者がいる家庭でも、最高で50万円までとのこと。「200万円などとい
うのは、ありえません」とのこと。)

(補足)

 以上の記事を、R天のBLOGに掲載したところ、「(私たちのように)、善良なリフォーム会社
もあります。こういう記事は、つらいです」というコメントが届いた。

 実際には、そうだろう。ここに書いたような(悪質リフォーム会社)は、ほんの一部。ほとんど
のリフォーム会社は、まったく、問題はない。善良な人たちによって、経営されている。一部の
悪質業者をみて、すべてのリフォーム会社がそうであるとみてはいけない。

 大切なことは、その判断力を、失ってはいけないということ。そのために、(自分で考える力)
だけは、いつも養っておく。


【ワルの心理的構造】

 欲望と理性。この両者は、いつも対立関係にある。

 欲望があるから、ワルになるとはかぎらない。欲望が理性の管理下にある間は、欲望は、む
しろその人を生かす、原動力となる。

 しかしその理性にすき間ができるときがある。

 嫉妬(しっと)、ねたみ、不満など。困窮や貧困が、理性に、穴をあけることも多い。そのすき
間から、欲望が飛びだし、ひとり歩きをする。それが得てして、ワルさを引き起こす。

 私もいろいろな詐欺師にあったことがあるが、(あとで詐欺師とわかるケースがほとんどだ
が)、そういう人たちが、それらしい顔をしているかというと、そうではない。ふだんは、むしろ、
人当たりのよい、常識豊かな人に見える。

 ワルといっても、その人の一部分が、そうであるにすぎない。だから私は、ここに書いたよう
に、「すき間」という言葉を使う。そのすき間から、欲望がこぼれ出たとき、その人は、ワルにな
る。

 が、残念ながら、大小のちがいはあるのだろうが、だれにも、そのすき間はある。上は、総理
大臣から、下は、悪質リフォーム業者まで。だれにでもある。

 そこで大切なことは、まず、そのすき間に、自分で気がつくこと。そのすき間をふさぐことは簡
単なことではない。しかしそれに気がつけば、気がついたときから、今度は、理性が、それをカ
バーしてくれる。

 あとは、その理性にしたがって、行動すればよい。

 善人も悪人も、大きくちがうようで、それほど、ちがわない。ほんの少しだけ、進むべき道がち
がっただけ。が、あえて言うなら、善人は、欲望を、理性でコントロールできる人ということにな
る。悪人は、心のすき間からこぼれ出る欲望を、理性でコントロールできない人ということにな
る。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【善人論vs悪人論】

●(思い)と(行動)

 (思い)と(行動)の間には、距離がある。

 たとえば「銀行強盗をしてみたい」と思う人がいる。しかしそう(思う)のと、実際の(行動)に出
るのとは、大きく、ちがう。その間には、距離がある。

 その距離を遠くするのが、倫理であり、道徳であり、さらには哲学である。知性や理性も、そ
れにからんでくる。

 が、何らかの原因で、心がゆがんでくると、そうした倫理や道徳などが、破壊されることがあ
る。そうなると、その(距離)は、一気に、縮まる。(思い)と(行動)が、隣りあわせになる。

 私たちは悪人を見ると、そういう人たちを、「悪人」と片づけて、自分たちとは関係のない世界
に置いてしまう。しかし、この世の中に、「私は悪人ではない」と言い切れる人など、いったい、
どれほどいるだろうか。

 それについて書いた原稿が、つぎの原稿である。少し視点が違うが、参考にしてほしい。

++++++++++++++++++++++++++

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。

同じように、よい子もそうでない子も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ
育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。

またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。たとえば息子が同性愛者になったこと
を悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思えるもの。

(だからといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)それだけではない。ど
んな子どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もある。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出され
ていた。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。

で、相談があったので、私は月に1,2回程度、彼の勉強をみることにした。で、そうして一年ぐ
らいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあうことになった。が、私はK
君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの生命力をもっ
ていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうか
ら、がまんしなさい」と話した。で、それから1週間後のこと。私が1人で教室にいると、いつもよ
り30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をもん
でやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。

まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そしてその
像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。要は子ども自身が
どう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性をもっていればよい子であり、
そうでなければそうでないということになる。

たいへんわかりにくい言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらい
わかりにくいということ。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい
子も悪い子も存在しないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。

+++++++++++++++++++++

もう一作、似たような原稿です。

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●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。

そういう意味で善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼
稚園で講師になったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつか
れるしまつ。

私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばな
らなかった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き
方をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分
自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運
命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自
分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。
自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねてい
るに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命を、自分
で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私なのか、
と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は
偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれ
ば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、その
ままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に
吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦ってい
る。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。

今、善人ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなた
もその悪人になっているかもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのは
ある。何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。
このつづきは、別のところで考えてみることにする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(745)

【かんしゃく発作】

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私のHPの掲示板の相談コーナーに、つぎのような相談がありました。
かんしゃく発作が、あまりにもはげしいので、どうしたらよいかというご質問です。
今回は、これについて、考えてみたいと思います。

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生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝る環境
作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩きまわらない
と、グズってばかりの娘でした。

寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、至っ
て健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。

好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、怒ると
手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかりますが、幼い
頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。

でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいいか分から
なくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反抗期+何でも自
分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長に接していました。

赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシップは
たっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わがまま」と「頑固」
の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのかなぁと思い、相談させ
ていただこうと思いました。

2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと手を出す
と気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱いでしまいます。

もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合ってあ
げて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だからどうがん
ばっても無理なこともいっぱいあります・・・。

三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげるように
なり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏ん張って動
かなくなってしまいます。

また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し借り
のルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どう
ぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられ
ないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。

以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃくを起こし
たときの激しさが、ほんとにすごいんです。

今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分のおもち
ゃは貸さない!と言ってすぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり眠たそうで機
嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が狂ったように泣き出
しました。

「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとするから、阻
止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激しく暴れるので
何度も道路や壁に頭を打って大変でした。

パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまいます。室
内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせてあげて、落ち着
き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれて、笑顔を見せてくれ
るます。

が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつまで
たっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘しなきゃいけな
いことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るというのを通り越して、ど
こか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配されたりします。

1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる子だっ
たので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激しいと私まで泣
きたくなります。

「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪いと思って
しまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いので、自分が今遊
びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないものをきっちり選んで貸して
あげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。

こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたいな笑顔
を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き〜」と言ってくれます。「イヤ
イヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、反抗期が激しいの
はいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばしてあげるにはどう接し
ていけばいいのでしょうか?

うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろしくお願
いします。

++++++++++++++++++++++++++++++

【YK様へ】

 かんしゃく発作にしては、かなりはげしいようですね。2歳前後であれば、ダダをこねる、がん
こになる、泣き叫ぶ程度で、しばらくすると、静かになるはずですが……。

 私の印象では、脳内で、何らかの仰天現象が起きているように思います。突発的な興奮性
と、その持続性が気になります。こういうケースで最近、よく話題になるのが、セロトニン悪玉説
です。

 脳内伝達物質にセロトニンがあり、それが過剰に分泌されると、子どもは、興奮状態になり、
過剰行動に出ることが知られれています(アメリカのミラー博士ほか)。

 その過剰分泌を引き起こすのが、たとえば、インシュリンの過剰分泌と言われています。つま
りたとえば一時的に、甘味の強い食品(精製された白砂糖の多い食品)を多量に接種すると、
インシュリンが、ドッと、分泌されます。

 血糖値はそれでさがるのですが、そのあともインシュリンが血中に残り、さらに血糖をさげま
す。こうしていわば、子どもが、低血糖の状態になるわけです。少し話がそれるかもしれません
が、少し前に書いた原稿を、参考までに、添付します。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう二〇年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこう
だ。たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に
分泌され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大
学の大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カル
シウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消
えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足して
くると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさ
せたりする。

 ここに書いたのはあくまでも一つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を一本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重一五キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重六〇キロのおとなが、同じ
缶ジュースを四本飲むのに等しい。おとなでも四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない
黒砂糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいう
ような弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。その地方では
どこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水代わりに牛乳を
飲んでいた。
(はやし浩司 切れる子供 キレる子供 突発的過剰行動 過剰な行動)

++++++++++++++++++++

もう1作、似たような原稿ですが
参考までに……

++++++++++++++++++++

●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重一五キロの子どもが、缶ジュースを一本飲むということは、体重六〇キロのおとなが、四
本飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中
がガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリ
ームを一個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。

一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようと
インスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、
必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、二〇年ほど前に
話題になったことがある。日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほ
か)。そこでもしあなたの子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。
効果がなくて、ダメもと。一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

  話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約五〇%が、この問題で悩んでい
る。で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨
てる。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食
事の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意
識のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。

++++++++++++++++++++++++

以前、同じような相談を受けたことがあります。
もっと年齢の大きなお子さんについてのものでしたが……。
それについて、書いた原稿を添付します。
あくまでも参考資料の一つとして、考えてください。

++++++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。
 
娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は五歳半になる年中児で、下に三歳半の妹がいます。
小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。
それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。
走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。
そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。
 
私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。
できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。
 
そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。
心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。
また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。
泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。
その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。
自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難し
い。こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ
た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな
い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあっ
たし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」
ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

++++++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学三、四年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満五歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃ
んがえり、欲求不満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメール
によると、かなり神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配
先行型の子育てなども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎり
なく、話が出てきてしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。むしろ問題は、そのことで
はなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視することによって、子どものほかの
よい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」という指導が日常化します
と、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナス型になることもありま
す。

 私も幼児を35年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。UYさんのお子
さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学三、四年生を境に、症状は急速に収ま
ってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするようになるからで
す。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは「もっとかっ
こよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学一年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まってい
きます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。それを感じると、今度
は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら……。私のばあいは、
教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱ったり、威圧感を与えたり、
あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導します。それだけを忘れ
なければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学三、四年生になるころには、消えています。
ウソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そし
て、四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださ
ると確信しています。もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしん
ちゃんの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一
度、読まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【YK様へ(2)】

 食生活がどうなっているのか、私にはわかりませんが、まず試してみるべきことは、(1)食生
活の改善、です。

 ここにも書いたように、MG、CA、Kの多い食生活(自然海産物中心の献立)に切りかえてみ
てください。

 精製された白砂糖を多く含む食品は、避けます。(与えると意識しなくても、今では、ありとあ
らゆる食品に含まれています。幼児のばあい、2歳児でしたら、1日、10グラム前後でじゅうぶ
んです。)

 感情の起伏がはげしく、手にあまるようなら、一度、小児科を訪れてみられてはいかがでしょ
うか。以前とちがい、最近では、すぐれた薬も開発されています。(薬を使うときは、慎重にしま
すが、そのあたりのことは、よくドクターと相談して決めてください。)

 食生活の改善……徹底してするのが、コツです。アイス、ソフト、乳酸飲料などは、避けま
す。徹底してすれば、1、2週間ほどで、効果が現われてきます。

 同じようなケースを、もう一つ、思い出しました。その原稿を添付します。少し古い原稿なの
で、先に書いたことと、内容が少し異なるかもしれませんが、異なっている部分については、先
に書いたほうを、優先してください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷
事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたこと
がある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、こ
の分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱してい
て、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意する
と、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動
性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興
奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなっ
た。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、D頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・1
2)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそ
ういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低
血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切る
ような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝
手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコン
トロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それ
がキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。体内のカ
ルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の発育が不
良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた回復が遅く
なるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく言えば、カ
ルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こしやすいとい
うのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年(7)号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている
白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。
が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビス
ケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状の
ようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態
になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまる
で別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で
見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与
するだけでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そ
うでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体
重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲
む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガ
ボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●多動児(ADHD児)との違い

 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがいる。
前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)の診断基
準は、二〇〇一年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏ら委託し
て、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準はないという
のが正しい。

つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しないということになる。一般に多動
児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性のある子どもをいうことになる。そういう意
味では、活発型の自閉症児なども多動児ということになるが、ここでは区別して考える。

 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリスト」)
は、次のようになっている。

(チェック項目)
1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

 この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動児
が多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。

教師による抑えがきけば、多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動
が突発的に過剰になるというだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別さ
れる。また活発型の自閉症児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主
症状ではないという点で、この多動児とは区別される。

またチェック項目の中の(1)行動が幼い(退行性)は、過保護児、溺愛児にも共通して見られ
る症状であり、(7)神経質は、敏感児、過敏児にも共通して見られる症状である。さらに(9)成
績が悪い、および(10)不器用については、多動児の症状というよりは、それから派生する随
伴症状であって、多動児の症状とするには、常識的に考えてもおかしい。

ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。

(チェック項目)
1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い

 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある……
という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡県のK
市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合でも、あくまで
も「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●環境ホルモンの分野からの考察

●シシリー宣言

 一九九五年一一月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)な
ものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではな
く、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応
性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。つまり環
境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。

が、これで驚いていてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の
発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を
引き起こす。

多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の
生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具
体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーン
ピース・JAPAN)のだそうだ。
 
この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホル
モンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳に
侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷する」
(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

●教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、

(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応する子どもの過負担。(2)学歴社会、そしてそれに呼応
する受験競争から生まれる子ども側の過負担などが、考えられる。こうした過負担がストレッ
サーとなって、子どもの心を圧迫する。ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性であ
る。最近の子どもは、飽食とぜいたくの中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わず
かな負担だけで、それを過負担と感じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させて
しまう。親の期待にせよ、学歴社会にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度
は容認されるべきものであり、こうした環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできな
い。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 長い返事になってしまいましたが、あくまでも「参考」として、ご利用ください。私自身は、お子
さんを見ていませんし、また立場上、診断をくだすことはできません。あとの判断は、YK様のほ
うでしてください。

 メールありがとうございました。また相談内容の転載許可、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(746)

【近況・あれこれ】

●不愉快メール

ごく最近まで、HPを公開していた、BSさん(HP:○○家庭の事件簿(仮名))が、突然、HPを
閉鎖してしまった。しばらくぶりに訪問してみると、「しばらく、静かにしています」とのこと。

さっそく、メールを出す。

で、その理由の第一は、(いやがらせ)。「ときどき、ささいな言葉じりをつかまえて、攻撃してく
る人がいます。読みたくなかったら、読まなければいいと思うのですが、そういう人にかぎって、
気になるものなのでしょうか。あれこれ、非難めいたようなことを書いてきます。もちろん、アド
レスは、使い捨ての無料アドレス。名前は匿名。林先生は、そういうとき、どう対処しています
か?」

 私のところにも、ときどき、くる。最初のころは、気になったが、いちいちそんなことを気にして
いたら、HPなど、公開できない。

 同じようにHPを公開している、X氏(この世界のプロ)に聞いてみたところ、X氏のところにも、
そのようなメールがときどきくるとのこと。「文面からして、頭の中身がまともでないことがわかり
ます。だからそういう人は、本気で、相手にしてはいけません。

 一度、そういうメールに、『ごちそうさま』と、少しからかった返事を書いたら、そのあと、10通
ほど、いやがらせメールが届きました。相手にしないで、ていねいな礼状を書くのが一番です」
とのこと。

 私も、この数年、そうしている。

 相手にしない。あとは、ブラックリストにアドレスと名前を記入。メールも、フィルターをかけて、
着信と同時に削除する。脅迫めいたメールについては、そのプロバイダーに、メールを転送す
る。いやがらせがつづいたときも、同じように、対処する。

 こうした問題も、やがて何らかの方法で解決されるだろう。今はまだ、インターネット全体が、
試行錯誤の段階。いろいろな問題が起きては、それを乗りこえていく。そういう段階。一部の不
完全さをおおげさにとらえて、インターネット全体を、判断してはいけない。

 しかし……。

 使い捨ての、無料アドレスを使って、匿名で、相手に、中傷、非難のメールを出すのは、やめ
ましょう。そういうのを、一般社会では、「卑怯(ひきょう)」といいます。ハイ。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(747)

●「恥」の文化

+++++++++++++++++++

電車の前の座席に座った、二人の男女が、
あたりかまわず、抱きあい、たがいに
チューチューしあい始めた。音がすごい。
これには、私も、参った。
目のやり場がなかった。

この日本では、「恥ずかしい」というとき、
「恥」という言葉をつかう。

笑いながら、男のほうのひざをたたいて、
私は、それをたしなめてやった。

顔つきからして、インド人かと思ったが、
ブラジル人だった。英語で話しかけたら、
「日本語で、わかる」と。

「日本では、あまり、人前では、そういうこ
とはしない」と話してやった。

2人とも、すなおに、それに従ってくれた。

で、改めて、考えた。「恥」とは何か、と。

++++++++++++++++++++++

 極東のアジアの小国には、世界の人が見ても、理解しがたい民族性がある。そのひとつが、
「恥」。たいていの日本人は、奈良時代の昔から、日本は文明国だと思っている。しかし日本程
度の歴史なら、アフリカの各部族ならみんな、もっている。(だからといって、日本の歴史を否定
しているのではない。ごう慢になってはいけないと言っている。)

 この「恥」には、二種類ある。他人に向かう恥と、自分に向かう恥である。他人に向かう恥とい
うのは、世間を気にした生き方そのものということなる。他人の目の中で生きる人ほど、この恥
を気にする。

 もうひとつは自分に向かう恥。自分の生きザマにきびしい人。あるいは自分にきびしく生きて
いる人ほど、この恥を気にする。人が見ているとか見ていないとか、あるいは人が知っていると
か知らないとか、そういうことは関係ない。あくまでもその恥は自分に向かう。

 この二種類の恥は、たがいに対立関係にある。他人に向かう恥を意識する人ほど、自分へ
の恥に甘い。「人にバレなければよい」とか、「自分さえよければよい」とか考える。あるいは自
分をごまかしてでも、体裁をとりつくろう。

 一方、自分に向かう恥を意識する人ほど、他人を気にしない。「他人がどう思おうが、知った
ことではない。私は私だ」というような考え方をする。これらをまとめると、他人に向かう恥と、自
分に向かう恥は、いわば反比例の関係にあるということもできるのでは? 同時に両方の恥を
もっている人は、まずいない。(両方ともない人というのは、いるかもしれないが……。)

 ある母親はこう言った。「私の家は、昔からの養鰻業の本家です。息子にはそれなりの大学
へ入ってもらわねば、恥ずかしいです」と。幼稚園を選ぶときにも、それがある。「B幼稚園では
恥ずかしい。S幼稚園でなければ」と。

 こうした傾向は都会より、当然のことながら、農村地域のほうが強い。今でも身なりや、成
績、進学校などなど。家柄や格式、評判や財産にこだわる人は、少なくない。子どもでもいる。

ある中学生(二年男子)は、ことあるごとに自分の家をいうのに、「D家は……」と、「家(け)」を
つけていた。そこで私が「そんな言い方、よせ」と言うと、こう言った。「うちの先祖は、昔は○○
藩の家老だった」と。(私はこういうところが、「理解しがたい民族性」と言っているのだ。)

 さらにこんなことを言った高校生もいた。ある夏の日に私の家に遊びにきて、「先生、D大学
と、M大学は、どちらがかっこういいですかね。結婚式の披露宴でのこともありますから」と。ま
だ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを気にしていた!

 他人に向かう恥を気にし始めると、生きザマそのものが卑屈になる。へんな小細工をしたり、
見栄をはったり。さらには体裁だけを整えたりする。しかしそういう生き方をすればするほど、
結局は自分の人生をムダにすることになる。

もちろん「恥」がすべて悪いわけではない。自分に向かう恥は、むしろ大切にしたい。しかしこ
れには大きな前提がある。それを恥じるだけの、哲学なり生きザマ、さらには確固たる信念が
必要だということ。それがないと、恥じるべき対象そのものがないということになる。

言いかえると、哲学や生きザマ、確固たる信念のない人は、自分に恥じることはない。さらに言
いかえると、自分に恥じる人は、哲学や生きザマ、確固たる信念がある人ということになる。
「自分に恥じる」と言っても、そうは簡単なことではない。


●バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決めておく。頭
は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。で、こうした体罰
は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねないので、気をつける。

そのためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているなら、「バツはお尻」と、何度
も復唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。37人の子どもたち(小
学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。

圧倒的に多いのが、「親に叩かれる」(20人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほ
か、「チビクル」「殴る」「パンチ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れ
られる」「家からの追い出し」という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行くと言っ
て出て行くと、たいて親がさがしにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみに、「出て行け」と言
われたことがある子どもは、一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしているもの
を、親が取りあげるという。一人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。さらに「しば
られる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。その話を聞いた別の
子どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、みな、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせられる」「頭
の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというのもあった」と私が言
うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてきぼり」「ものを投げつけられる」
など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろしいことだ
そうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその話を聞いて、し
んみりとしてしまった。


●子どもの健康は鼻先見る(あくまでも参考に)
 
 子どもの健康状態を簡単に知りたければ、鼻スジを見ればよい。鼻スジがツヤツヤと輝いて
いれば、体力もあり、健康とみる。反対に、鼻スジから鼻先にかけて、どんよりとしてくれば、体
力が落ち、風邪など、何かの病気の前ぶれとみる。

 ほかにも顔だけを見て診断する方法がある。

(1)額(ひたい)の横に青筋がある子ども……神経質な子ども。かんしゃく発作のある子ども。
キレやすい子どもとみる。
 
(2)両ほほの下が、青白い子ども……貧血を疑うが、そうでないときはお腹(なか)の虫を疑
う。私はそれを言い当てるのが得意で、顔を見ただけで、それがわかる。

(3)顔の色が、あちこち赤白、まばらな子ども……発熱直前の状態とみる。たとえばほおの一
部だけが赤いとか、額の右だけが赤いなど。今はそうでなくても、やがて発熱するとみる。

(4)鼻先など、先端だけが赤い……虚弱体質など。生まれつき体が弱い子どもは、体の先端
部が赤くなったりする。

(5)顔の色がくすんでいる子ども……子どもの顔色は、大勢の中で比較して見ると、判断しや
すい。気うつ症的な子どもは、生彩が消え、粉をまぶしたような感じになる。大声で笑えない、
大声を出せないなど。親の威圧的な過干渉が日常的につづくと、子どもはそうなる。黒ずん
で、生彩がないときは、慢性病を疑ってみる。

(6)くちびるの色が淡い子ども……栄養不足、好き嫌いのはげしい子どもを疑ってみる。胃腸
の弱い子どもも、くちびるの色が淡くなる。あわせて顔全体が青白いようであれば、貧血も疑っ
てみる。

 以上は、あくまでも経験的にみた健康診断法で、必ずしも正しくない。(しかし運勢占いや星
占いよりは、ずっと正確!)一度、ここに書いたことを参考にして、そういう目で、あなたの子ど
もを診断してみたら、どうだろうか。

(追記)漢方では、望診論といって、顔色や外の現れた症状をみて、その人の病状を診断する
方法があります。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●成熟した社会

 年長児でみても、上位一〇%の子どもと、下位一〇%の子どもとでは、約一年近い能力の差
がある。さらに四月生まれの子どもと、三月生まれの子どもとでは、約一年近い能力の差があ
る。そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約二年近い能力の差が生まれ
ることがある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰なま
でに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで大騒ぎす
る。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう
怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だけ集め
て、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえないのです
か」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその内容を説明したの
だが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、私はそのとき、ふとこ
う考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことではない
か。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に六〇〇以上もの大学が
ひしめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列がある。もともとで
きる子と、できない子を、同じように教えろというほうが無理なのだ。……と思ったが、やはりこ
の考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認めあ
い、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるものがいい生
活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」というのは、一見正論
に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの子どもが、今はでき
がよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……ということを考えていくと、
自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活動に
は競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会はおしまい。
そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能力によって、差別
してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けてはいけない。子どもたち
を温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこで思いやりや同情、やさしさや
協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵というのは、あくまでもその副産物に過
ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、組織
的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の欠陥が隠
されている。冒頭に、私は「上位一〇%」とか、「下位一〇%」とか書いたが、こうした考え方そ
のものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何でもないよ
うなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満五歳児)で、約二〇%はい
る。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。この時
期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」という言い方
は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私も幼児を教えて三〇
年以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえると、「大声で……」ができる
子どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味で、私は、『のどは、心のバロメー
ター』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそうにクッ
クッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思うのだが、大声で笑
わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神経質な子育て、暴力、
暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、萎縮する。意味のないこと
をボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、自分のことがわからない。
「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえってそういう静かな(?)子どもを、で
きのよい子と思い込んでいるケースもある。こうした誤解が、ますます教育をむずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子どもは、そ
れだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はと
りあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていた
が、まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では
開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、
何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをす
れば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするな
ど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう
言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわ
ねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてし
まうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからと
いって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。
それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K
君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失
敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと
家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるよ
うになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが
起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は
不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(748)

●生理学と心理学

 このところの雨つづきで、やや運動不足。そのせいか、体重が、1・5キロほども、ふえてしま
った。

 しかたないので、ヒマをみつけては、近くまで、自転車で、買い物に行く。しかしこの程度の運
動では、「運動」にならない。

 そこでふと、考える。「どうして体は、先にたまった、皮下脂肪のほうを消耗しないのか」と。つ
まり、軽い運動をしたりすると、かえって、おなかがすいてしまう。腹の下には、皮下脂肪がた
まっているはず。合理的に考えるなら、体はまず、皮下脂肪のほうを先に消耗すべき。空腹感
は、そのあとでよい。

 ……これは体の話だが、心理的に、同じようにように考えるときがある。

 貯金が、300万円、あったとする。しばらくの生活費としては、困らない。しかし人は、その3
00万円は、アテにせず、働きつづける。さらに、世の中には、億万長者と呼ばれる人たちがい
る。一生どころから、これから先、3代先まででも、遊んで暮らせる人たちである。

 しかしそういう人でも、さらにお金に執着する人は少なくない。

 言うなれれば、皮下脂肪が、腹の下にパンパンにたまっているのに、さらに、食べつづけるよ
うなもの。

 ……そういう意味で、人間の生理と、心理は、どこか似ている。つまり人間が、生理の一つと
してする行動と、心理の一つとしてする行動は、どこか似ている。その底辺には、「欲望」があ
る。この欲望が転じて、一方で、肥満になり、一方で、そしてケチになる。

 ……と考えるのは、少し考えすぎだろうか。しかしまったく、関係ないかといえば、そうでもな
いような気がする。反対に、人間の心理が、生理に影響を与えるということは、よくあること。ご
く自然なことである。

 たとえば心配ごとが重なると、食欲が減り、体重が減少する……。

 しかしお金とちがって、皮下脂肪など、体の中にためておいて、よいことは何もない。言うなれ
ば、ムダな荷物を毎日腹にかかえながら生活するようなものだ。(皮下脂肪がたまる)→(運動
不足になる)→(ますます皮下脂肪がたまる)の悪循環の中で、健康が害されることもある。

 そんなわけで、今日は、これから山荘へ行き、草刈り機で、草を刈る。そのとき私には、一つ
のコツがある。腹にサランラップを巻いてする。腹だけに巻く。で、30分も草を刈っていると、
サランラップの下が、汗でビショビショになる。効果のほどは、よくわからないが、そのあと、腹
の下がいつも、スッキリした気分になる。


●考える人vs考えない人

 やたらと反応ばかりはやくて、何も考えない人がいる。他人の話をほとんど聞かない。何か話
しかけると、すぐ会話をさえぎってきて、自分の意見をペラペラと言う。

 数日前に会った、女性がそうだ。近くに住む人で、同居している義母の相談にのってほしいと
いうから、会った。

 しかしその女性。1時間ほど会ったが、そのうちの50分は、しゃべりつづけていた。一方的
に、しゃべるだけ。しかもときどき、同じ話を繰りかえす。

 人の話を聞かないというのは、それだけ、思考力が低下しているということを意味する。だか
ら相手をする私のほうも、不安になる。こちらの話していることが、相手の心の中にしみこんで
いかない。その実感がない。

 たとえて言うなら、脳ミソ全体が、ポリ袋か何かで、シールドされているよう。だから相手に合
わせて、こちらも、同じ話を繰りかえしてしまう。

 で、結果的にみると、「相談」ということだったが、私は、相手のグチを聞いただけ。私は、そ
の女性の話を聞きながら、その女性の脳ミソはいったい、どうなっているのか、そちらのほうに
興味をもつようになった。

 言い忘れたが、年齢は、65歳くらい。私より、7、8歳、年上だと思う。

 ここにも書いたように、その女性は、よくしゃべる。間断なくしゃべる。しかし言っている内容
が、浅い。

 たとえばこうだ。

 私は「(義母の方も)、それほど長生きはできないでしょう。あと4、5年もすれば、事情も変わ
ってきますよ」と言いたくて、そう言おうとする。すると、こんな会話になってしまう。

私「それほど長生きはできないでしょう……」
女「そんなこと、ありません。ピンピンしています。近所の仲間と、毎週のようにゲートボールを
したり、買い物にでかけたりしています」と。

 脳ミソの表面に飛来する情報を、そのつど、ペラペラと音声にかえているだけといったふう。
私は、しばらくすると、これも、ボケ症状の一つではないかと気がついた。

 よくしゃべるから、ボケていないということはない。別の老人だが、頭はすっかりボケてしまっ
ているが、よくしゃべる。本当に、よくしゃべる。

 が、言っている内容が、浅い。浅いというよりは、考えてからものをしゃべるという雰囲気その
ものがない。要するに、何も考えていない。

 つまり、理解力がない。もっと言えば、話し方そのものが、きわめて自己中心的。自分の言い
たいことだけを一方的に、話しつづけるだけ。もちろんその女性は、自分が、ボケているなどと
は思っていない。むしろ、自分は、しっかりとした女性だと思っているらしい。

 ……ということで、その女性とは別れたが、あと味の悪さだけが残った。

 これはこのタイプの人と会ったあとによく感ずる、あと味の悪さである。

 たとえば知的な人と、高度に専門的な話をして、たがいにわかりあえたときの快感には、格
別なものがある。しかしその反対に、自分自身のレベルを、はるかにさげて、その人と話すとき
には、自分自身が、愚かな人間になったように感ずる。

 使う言葉も、それなりにレベルが低くなる。

 が、それでも、自分の言いたいことが相手に伝われば、まだ救われる。しかしそこまで自分
のレベルをさげたにもかかわらず、相手に自分の言いたいことが伝わらない……。そのもどか
しさ。いや、もどかしいなどというものではない。ときに、イライラする。

 そのイライラがつのったまま、別れる。それがあと味の悪さの原因となる。

 あとでワイフに、「あの人は、何が言いたかったのかねえ?」と聞くと、ワイフも、「私にもよく
わからない。グチを聞いてもらいたかっただけじゃな〜い」と。

 ナルホド! そういうことか!

 どこかの哲学者も、こう言っている。

 『沈黙の価値のわからないものは、しゃべるな』と。

【補記】

 意味のない多弁性は、ボケ症状のひとつと考えてよいのでは?

 その女性と話していて気がついたことだが、その女性は、(考えてからしゃべる)というより
は、(思いついたことを、ペラペラとしゃべっているだけ)と言った感じ。

 それはここに書いたとおりだが、同時に、こちらの言ったことを考えようともしない。「〜〜で
はないですか?」と話しかけても、即座に、本当に即座に、それに反論したり、それを否定した
りする。だから会話にならない。

  思考力の深度ということになると、その「深さ」そのものがない。つまり、ひごろから、「考え
る」という習慣そのものがない。私は、そんな印象をもった。

 そこで一言だけ、こんな質問をしてみた。会話の間で、「最近、読んだ本でおもしろいと思った
本はありますか?」と。すると、その女性は、「忙しくて、本など、読むヒマはありません」と。

 5年や10年では、わからないかもしれない。しかし20年、30年とたつと、(考える人)と、(考
えない人)の差は、歴然としてくる。それは健康論にも似ている。

 そこで大切なことは、(考えること)が大切なのではなく、(考えるという習慣)を、どう身につけ
るかが大切だということ。とくに重要なのは、論理的にものを考える習慣である。

 それをしないと、脳ミソの中でも、とくに前頭連合野が、スカスカになる。つまりボケるのも、は
やくなる?
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(749)

●ネオトリー進化の誤解(原稿、訂正)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【ネオトリー進化論について、読んでいただく前に……】

ネオトリー進化論について、原稿を書きましたが、
誤解による、まちがいが発見されました。

マガジンのほうでは、まちがったまま、原稿を
送信しますが、どうか、先に、この原稿を読んで
ください。

その上で、つづくネオトリー進化論についての
原稿を読んでくださると、うれしいです。
本来なら、マガジンそのものを削除したほうが
よいのかもしれませんが、マガジンはマガジンと
して、そのまま送信します。

どうか、当方の早合点をお許しください。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 「ネオトリー進化論」という言葉がある。その世界では、常識的な言葉らしい。しかし私は知ら
なかった。(世の中には、私がまだ知らないことが、山のようにある。ホント!)知らないまま、
1、2冊の本だけを読んで、早合点してしまった。原稿として書く前に、もっとよく調べて書くべき
だった。自分の軽率さを、恥じる。

 ネオトリー進化論は、言うなれば、脳の未熟化に向けた進化をいう。「未熟化」という言葉にこ
だわるなら、「退化」ともとれる。私は、単純に、未熟化イコール、退化と考えてしまった。しかし
これは、明らかに、誤解だった。

 つまり生物は、進化すればするほど、未熟化するのだそうだ。未熟化することによって、多様
性を身につける。その一例として、ウーパールーパーと、サンショウウオがいるという。

 ウーパールーパー(アホロートル)は、サンショウウオの未熟化した形ということになるが、そ
の分、環境の変化に、より対応した形ということにもなる。人間にたとえると、こうなる。

 人間のばあい、乳幼児期がほかの生物にくらべて、格段に長い。満1歳になって、やっとヨチ
ヨチと歩き始める。鳥の仲間の中には、卵から孵化すると同時に、歩き始めるのがいるという
のに、だ。

 しかし人間のばあいは、長い時間をかけて、自分に多様性をさぐっていく。たとえば脳ミソに
は、無数の神経細胞があり、その神経細胞からは、これまた無数のシナプスという繊維状の
神経組織がのびる。

 これらの神経組織が複雑にからみあって、人間の脳ミソを構成する。が、そのとき、人間は、
同時に無数の可能性をさぐりながら、一方で、不必要なものは、どんどんと消していく。泳ぎ方
を見につける子どももいれば、楽器をみごとにひきこなすことができるようになる子どももいる。
つまりこうして長い乳幼児期を通して、無限に近い可能性をさぐりながら、それに適応していく。

 たとえば魚は、泳ぐことしか知らない。虫は、子孫に存続のことしか考えない。大半の動物た
ちもそうだ。しかし人間だけは、この未熟化の部分を長くすることで、より環境に適応した生物
として、生き残ることができる。

 未熟化が長ければ長いほど、その適応期間が長くなることを意味する。

 これをネオトリー進化論という。

 つまりネオトリー進化論イコール、退化ではない。未熟化イコール、退化ということではない。

 だから、アジア人(モンゴロイド)が、よりネオトリー進化論によって、幼稚ポク見えるからとい
って、欧米人より劣っているということにはならない。

 「アジア人は、より幼稚ポイ」と書いた、私が、まちがっていた。この場を借りて、前に書いた
原稿を訂正する。

 そう言えば、幼児教育の場でも、早熟的にしっかりしてしまった子どもよりも、やることなすこ
と天衣無縫で、発想豊かな、どこかチャランポランの子どものほうが、あとあとよく伸びるという
ことは、よくある。

 こうした現象も、ネオトリー進化論で、説明がつくのではないだろうか。

 最後に、一つ、告白する。

 このまちがいに気づかされたのは、UFOに関する本を読んでいたときだ。(くだらない出典で
失礼!)

 ご存知の方も多いと思うが、地球に現れる宇宙人(異性人)の中には、「グレイ」と呼ばれる
宇宙人がいる。目だけが大きく、頭がツルツルの宇宙人である。目撃者の話によると、身長
は、150センチくらいだという。

 そのグレイは、どう見ても、童顔である。一説によると、平均寿命は、1000年。血液型はモ
ンゴロイドの中でも、とくに日本人に多いとされる、「O型」。

 あのグレイは、ネオトリー進化論によって進化した、異性人の進化形だという。道理で、幼稚
ぽい? (同じく、幼稚ポイ宇宙人として描かれていたのが、スピルバーグ監督作品の『未知と
の遭遇』の中に出てくる宇宙人たちである。主人公のロイを宇宙船の中に導く宇宙人たちも、
子どもぽい雰囲気だった。)

 ……という宇宙人に関する話は、先日、書店で立ち読みした、まことにもって、いいかげんな
内容だが、しかしそれで気がついた。つまり私のまちがいに気がついた。それで、改めて、ネ
オトリー進化論について、自分なりに調べなおしてみた。

 その結果が、この原稿ということになる。どうか、私の早合点を許してほしい。
(はやし浩司 ネオトリー進化論 ネオトリー 脳の未熟化)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(750)

●バランス感覚

 調和のとれた思想、ものの考え方、倫理、道徳は、まともな人生を歩むための大原則と考え
てよい。興味をもつ対象にしても、一つや二つのことに限定されるよりは、広く、浅く、全般に…
…というほうが、好ましい。とくに、子どもの世界では、そうである。

 こうした調和のとれた生きザマは、愛情があふれ、心豊かな世界で、はぐくまれる。で、最近
の研究によっても、こうした生きザマは、脳全体の活動と深く関係していることが、わかってき
た。子どもについていうなら、あるべき環境の中で、あるべき方法で育てれば、自然と、調和の
とれた生きザマを身につけるようになる。

 その調和が乱れてくると……。その症状は顔に現われてくると説く学者がいる。詳しく書きす
ぎると、偏見と誤解を生みやすいので、ここではこの程度のことしか書けない。要するに、調和
のとれた生きザマをもっている人は、顔の表情もまた、調和がとれているという。

 もっとわかりやすく言えば、顔の表情の調和の崩れた人は、ものの考え方も、崩れていると
いうこと。……らしい。

 そのことは、たとえば笑ったときの表情を見ればわかるそうだ。笑ったとき、顔つきが、左右
のどちらか一方に大きくゆがんだり、左右どちらかの唇が、極端に上下したりする人は、もの
の考え方も、崩れていると考えてよい。……ということらしい。

 脳ミソの状態は、自然な形で、顔の表情にも現れるということか。

 そこである学者が調べたら、(顔の問題は、たいへんデリケートな問題なので、詳しくは書け
ないが)、顔の正中線を対象にして、左右、きちんとバランスのとれた男女ほど、異性にもてる
そうである。

 実は。東洋医学でも、同じようなことを教える。

 黄帝内経(こうていだいけい)霊枢(れいすう)「五色篇」には、こうある。「顔全体のバランスが
崩れ、顔面に現われた発色部位が、異常な人は、五臓の働きが悪いとみる」と。東洋医学で
は、健康な人は、その「形」も端正であると考える。

 言うまでもなく、東洋医学では、肉体の病気と、精神の病気を、総合一体して考える。

 さらに子ども時代に、こうした調和が崩れると、年齢とともに、さらにそれがはっきりしてくる。
顔の表情だけではなく、体つき、歩き方、様子まで。学校などで暴力ザタ事件を起こす子どもな
どが、よく独特の歩き方をするのも、こうした方面からも、説明がつくのかもしれない。

 言いかえると、前をしっかりと向いて、スタスタと軽快に歩く子どもは、それだけでも、心がまっ
すぐ伸びているという証拠になる。もしあなたの子どもが、頭をさげたり、どちらか一方に体を
傾けて歩いたり、あるいは歩き方全体が、どこか不自然であれば、心のどこかに、何か問題が
ないかを疑ってみたらよい。

 たとえばものの考え方が暗い子どもは、実に、それらしい様子をして歩く。心の中にたまった
憂うつ感が、無意識のうちにも、子どもをして、そういう歩き方をさせるとも考えられる。

 で、私たちは、異性を選ぶとき、無意識のうちにも、心身ともに健康な人を選ぶ。それは人間
が何十万年もかけて見につけた、種族保存の本能によるものである。より優秀な種族を、後世
に残したいという本能が、無意識のうちにも、そうさせる。

 が、中には、そうでないケースも、ある。

 もう40年ほども前のことだが、1人、若者たちの間で、絶大な人気を得た女性タレントがい
た。簡単な歌も歌った。いつも口を半開きにして、うつろな目つきをしていた。

 しかしその女性は、しばらくしてから、脳ミソの働きがほとんどない女性だとわかった。当時
は、『ハxx美人』(当時の言葉)と呼ばれた。つまり、見るからに脳ミソがからっぽそうで、ボーッ
とした顔つきが、世の若者たちの心をとらえたというわけである。

 つまり、そういう女性に魅力を感ずるのは、その女性に責任があるというよりは、そういう美
的意識をつくった、社会世相のほうに問題があったことになる。当時の日本は、60年安保闘
争を経験したあと、社会的にも、たいへん不安定な時代を迎えつつあった。

 で、私もこのことを知ってから、改めて、カガミをみた。顔だけではない。大きなカガミに自分
の姿や歩き方を映してみた。

 結果、わかったこと……。

 私の顔は、左右がかなり崩れている。歩き方も、どちらか一方にかたより、どこかヨタヨタして
いる。表情も、決して明るくない。

 ハハハ。実は、これが私が、女性にもてなかった理由だったということになる。……ということ
で、この話は、おしまい。おとなにせよ、子どもにせよ、その容姿について書くのは、教育の世
界では、タブーということになっている。
(はやし浩司 容姿 顔つき 表情 バランスのとれた考え方 調和のとれた思想)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●2005年7月11日・月曜日の雑談

 今朝は、よく眠った。昨日、山荘周辺の草刈りをして、それでかなり体力を消耗したらしい。

 それに心地よい、冷気。先月末の、あの暑さは、どこへ行ってしまったのか。このままの状態
で夏が終わればいいが、そういうわけには、いかないだろう。

 先ほど、パソコンをたちあげてすぐ、パソコンを相手に将棋をした。いろいろな戦法をためし
てみるが、どうも、勝てない。今朝は、中飛車戦法(銀を先頭にして、飛車で中央突破をはかる
という戦法)をためしてみたが、50手くらいで、ほとんどの駒(こま)をとられてしまった。途中
で、あえなくギブアップ。

 中飛車戦法は、むずかしい。

 それから水を飲んで、ワープロを開く。今回で、第750作。700〜750作で、670ページ(A
4サイズ)もあるから、単行本にすれば、6冊分前後。書くほうは、自分の書きたいことを書いて
いるだけだから、苦にならない。しかし読んでくれる人は、たいへんだろうと思う。(ありがと
う!)

 ときどき、「毎回、読んでいます」というメールをもらう。数日前には、私の大ファンのNMさん
から、あった。ありがとう! 元気、100倍! 

 ところが問題が起きた。

 現在、メインのHPを、F社系列のW社で開いているが、そろそろ容量が限界になってきた。
恐らく、今度の原稿、670ページも載せたら、それで満杯になってしまうだろう。

 W社では、最初の30MBまでは無料だが、つぎの30MBからは、年間、プラス1万円の費用
がかかる。そこでC社のHPに申しこんだ。こちらは、100MBまで、1万円(年間)。

 ワイフも、息子も、W社でアドレスをもっているから、今さら、C社に乗りかえることもできな
い。HPのあちこちの不要なページを削りながら、何とか、載せるしかない。

 ところで、私のばあい、朝起きたとき、キーボードのたたきぐあいで、そのときの頭の調子が
よくわかる。頭の調子が悪いときは、打ちミスが多くなる。そうでないときは、まるで、ショパンの
曲をピアノでひくように、快適に打てる。本当だぞ!

 が、ここでも、最近、新しい問題が起きてきた。

 老眼が進んだのか、それとも乱視がひどくなったのか、モニターの文字が、よく見えないとき
がある。17インチワイド画面を使っているが、それでも、よく見えないときがある。そのため、
誤字、脱字が、どうしても多くなった。

 今度パソコンを買うときは、19インチとか、それ以上のサイズにしよう。

 今日は、月曜日。だれでもそうかもしれないが、「月曜日」と聞くと、ツンとした、緊張感が走
る。ときに、憂うつになることもある。まあ、動き出せば、忘れてしまうのだが、土日で、ダラけて
しまう。調子を、遊びモードから、仕事モードに切りかえるのも、昔ほど、楽ではない。

 それにしても、心地よい朝だ。ひんやりとした、冷たい風。クーラーの風とちがって、トゲトゲし
さが、ない。やわらかく、体を包んでくれる。このまま、またふとんにもぐりたい気分。

 今日の予定は、とくになし。いつもの月曜日。昼ごろ、ワイフと、買い物に行く。二男の誕生日
が近い。そのプレゼントを、何か、さがさねばならない。

 そうそう、目下、ダイエット中! 現在、64キロ。今週中に、62キロまで減量する。でないと、
今年の夏を乗り切ることができない。……と思う。昨年の夏は、68〜9キロもあった。夏風邪も
ひいた。おまけに記録破りの猛暑。毎日、生きているだけで、精一杯。……という感じだった。

 体が弱くなった、もう一つの理由は、毎晩、クーラーをかけて寝るようになったこともあるので
は……? それでますます体が、弱くなってしまった。だから、今年は、再び、クーラーなしの生
活に挑戦してみるつもり。自信はないが、がんばれるだけ、がんばってみる。

 さてさて、750号。そのしめくくり。つまらないことばかり書いたような感じ。何か、ためになる
ことも書いてみたい。

 今、考えていることは、「幼稚性」と「幼児性」。これら二つは、区別して考えたほうがよいとい
うこと。

 「幼稚性」というのは、未熟な愚かさをいう。「幼児性」というのは、純粋で、清らかな心の状態
をいう。子どものもつ「幼稚性」は、否定されるべきものだが、「幼児性」については、むしろ大
切に育てていかねばならないもの。

 人はおとなになるにつれて、経験と知識を身につける。しかし同時に、大切なものを、なくす。
心の美しさだ。その美しさの原点になっているのが、「幼児性」ということになる。

 イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、つぎのように歌っている。

  空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
  私が子どものころも、そうだった。
  人となった今も、そうだ。
  願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
  子どもは人の父。
  自然の恵みを受けて、それぞれの日々が、
  そうであることを、私は願う。

 私が言う「美しさ」は、それを言う。

 先日も、孫の誠司(アメリカ在住)が、虹を見たとき、二男(息子)にこう言ったそうだ。

 「あそこまで、散歩に行こう」と。つまり虹のつけねのところまで、散歩に行こう、と。誠司は、
そこまで行けば、虹を自分の手でつかまえることができるとでも思ったのか。

 そこに私は、人間が本来的にもつ、心の純粋さを感ずる。

 この美しさを再確認しながら、今週も、がんばるぞ。
 800号〜からも、がんばるぞ!

**************以上750作**************


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大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法
文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家
 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi
Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林
こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よ
くできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし
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